勇者に許された業   作:赤穂あに

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最良を求める勇者の話です。


さかまきの勇者

 

 僕の人生は、誰と比べるまでもなく満ち足りていたように思う。愛してくれる人がいて、愛している人がいて、守ってくれる人がいて、守りたい人がいて、守るために力を尽くせて、おこがましくも守れたと思えるだけの未来を得た。順風満帆ではなかったのかもしれないけれど、僕の人生は疑う余地もなく幸せだった。ほんの少しだけならば、ほかの少しの人だけを、幸せにしてあげられたという自負もある。僕の穏やかではない人生は、誇りと愛で満ちていた。

 僕は人より頑丈で、健康で長生きだった。一般的に女性の方が長生きだと言われているけれど、同い年の生涯の伴侶は僕より早く大樹に還ってしまったし、同じく歳の近い生涯の仲間も性別を問わず僕より先に導かれた。僕は不思議なくらい長生きで、そして見た目も若かった。

 その事実を強くぶつけられたのは、相棒を見送る日だったのでよく覚えている。大人を通り越して老人にほど近くなっていたというのに、言葉を交わす僕らの見た目は恐ろしくなるほど若々しかった。僕らの共通点を、僕だけがはっきり言語化することができる。向こうはどうにも、なんでも勇者の奇跡で済ませてしまう兄の思考に染まってしまっていたようなので、そこまで深く考えていなかったようだけど。

「俺はともかく、勇者じゃなくなったってのに、あんたは大変だな」

 そうして、僕は気付く。そうか、彼らは知らないのか。勇者の力に印は関係ないのだけど、僕に永劫眠るこの本質を、僕以外もう誰も知らない。

 仲間と呼べる人を全て見送って、巣立った子供も親になって、僕はようやく人生の中に後悔というものを見出した。他でもない、生きる時間が狂ってしまったマヤちゃんのことだった。

 彼女はこの先、どう生きていくのだろうか。魔物になった事実は消えているが、魔の力に侵された事実は変わらない。その影響で、通常では考えられないほど老化のスピードが遅い。精神面は相応に成長しているのは見て取れるが、肉体に起きるべき劣化が起きないのは彼女にとって望ましいのだろうか。判断がつかないことがもどかしく、踏み込むべきではない事実が歯痒かった。

 僕にできることはないだろうか。そんなことを考えたのがきっと最初の間違いだったのだろう。厚かましい話だが、僕にはできることがあったのだ。僕だけができる、僕だけの特権。

 僕はそのエゴをもって、最後のしこりを取り除くことを決めた。頭の中では、かつて旅の最中に相棒がもらしたささやかな可能性が鮮やかに思い出されている。もしも、ここで人生が始まったのなら。そんな未来を約束できるわけではないが、それでもよりよい人生を。夢を見るような気分に、頬が少しだけ緩んだ。

 同時に、僕は忘れていた。それでもと可能性を否定した言葉を。カミュの優しさと、僕への信頼を。彼は確かに言ったのに。そんな人生では、僕とは出会えないのだから、自分はこれでよかったのだと。穏やかで平和な人生より、苦節と歩む山道の方がいいのだと、僕の目を見てそう伝えてくれた相棒を、僕は都合よく忘れた。

 疑いようもなく満ち足りた僕の人生は、僕を優しく狂わせた。足りないことを忘れさせた。失敗は取り戻せるのだと錯覚させた。自覚のないまま、僕はこの世の誰よりも強欲になっていたのだ。そして皮肉なことに、それを咎めてくれるような近しい人は、もういなかった。

 

 過去を変えること。その行為に対して、僕はもう抵抗も葛藤も抱くことはない。なんなら恐怖も覚えなかった。時空の狭間を彷徨うかもしれないという唯一の懸念も、僕の足を止めるにいたらない。楽観視していたというのが真実だが、最後の最後、誰に聞くこともできない問いかけを結果に聞くことにしたという部分も大きかった。失敗するのならやはりこのエゴは認められないのだろうと、再び時代を一つ捨てる僕の断罪を天に委ねた。

 そして僕は、僕が悪魔の子と呼ばれる時代に戻ってきた。

 まず目に映ったのは岩に切り取られた空。どうやら、どこかの洞窟にたどり着いたようだったが、そのどこかはすぐにわかった。穴からかすかに身を乗り出せば、眼下に広がるのは緑豊かな村。愛着のあるその風景は自分の知るその姿とほとんど差がなく、それだけでは今がどの時代なのかを判別することはできなかった。

 知っている人が一人でもいれば、年齢から今がいつごろなのか推測できるかもしれない。年齢のズレがあっても把握できるような誰かを見つけられればいいのだが。そんな杞憂は、ものの数秒で取り払われることとなる。

「エマ!」

 少年の声が、はっきりと鼓膜に突き刺さる。こちらに背を向け顔を見ることは叶わなかったが、薄茶色の髪に、昔よく着たお気に入りの服。あれは僕だ。幼い頃の自分。テオじいちゃんがまだ生きている頃の──もしかしたら、テオじいちゃんが未来からやってきた僕と出会う頃かもしれない頃の、自分。瞬間的に理解して、それ以上思考を深めることはしなかった。

 ありえないことではないだろう。旅を始めて間もない頃、まだカミュと二人旅だったあの日、僕は過去のテオじいちゃんと出会い、過去のテオじいちゃんはその僕の言葉を受けて手紙と魔法の石を残してくれた。僕自身、覚えてはいなかっただけで未来の自分と顔を合わせていた。だから、今の状況もなんらおかしいことではない。

 少し不思議な気分になるだけだ。それだけ。僕は、洞窟からそのままルーラで村を去った。今は、ここに来た目的を果たそう。

 

 初夏の爽やかな風が吹いていたイシの村とはうってかわって、クレイモランは当然のように雪に埋れていた。ここでは季節の移ろいなど存在しないのだと改めて思い知った。親のいない子供が二人で生きていける環境ではない。だからこそ、カミュは虐げられようともバイキングの手下であることを選んだのだろう。他でもないマヤちゃんのために。

 バイキングの住処には、ちょうど船が停留していた。どうやら今は荷下ろしの最中のようで、大の男たちが手際よく木箱や布袋を運び出しているのが見てわかった。その迅速な動きの中、ゆっくりと動く小さな背丈はとてつもなく目立っていた。

 逆立つ青い髪がふらふらと揺れている。体躯に合わないサイズか重量かを無理に抱えているからだろう。時折頭が下がったかと思うと、数秒立ち止まってまた動き出す。そんなカミュを心配する人は誰もおらず、むしろ邪魔だと言わんばかりに蹴る始末だ。

 僕は一度深呼吸をして、腹の虫をおさめた。見た目はともかく、もう若造ではないのだ。飛び出して文句を言って。そんな短絡的な行動ではダメなのだ。力で解決することは容易いけれど、例えばそんなことをしてもカミュの環境がよくなるわけではないし、じゃあ連れ出してしまったとしても今の僕にはそのあとに続く何かがない。

 カミュを、マヤちゃんを、穏やかで幸福な人生の中に置くにはどうすればいいのか。またしても、思い浮かぶのは思い出の中の言葉だった。

 

 一番最初の記憶は、白だ。真っ白で、右も左もわからない心細さがオレのスタート地点だった。

 塗り潰されそうな不安に怯えるオレを、背中のあたたかさだけが支えてくれた。おにいちゃんと小さくオレを呼ぶ声だけが、オレにとっての全てだった。マヤがいたから、オレはあの吹雪の中を抜け出して、ほんの少しだけまともな場所にたどり着くことができた。

 俺たちは親のことを覚えていなかった。そんな曖昧なものに頭の容量を割くほど、心にゆとりなんてなかった。小さすぎるマヤの分も、せめておまえが働くんだとバイキングたちは言っていた。それはまさしくその通りで、オレは歯向かう気も起きず、なんとか手伝えるレベルの荷物運びを毎日していた。

 機嫌が悪い日は蹴られるようなこともあったが、反対に、気が乗ってしまえば肉を食わせてもらったりと、良くも悪くも気分屋のバイキングに振り回された。不満はあったし、とても幸福な暮らしとは言い難かったが、我慢できる範疇だった。口が達者なマヤは、生意気だと怒られる日ももちろんあったが、気の強い女バイキングたちからはむしろ気に入られているくらいだった。

 ついてないなと思った日は数え切れないほどあるが、不幸だと思ったことはほとんどなかった。あの日までは。

 いつも通りの、どちらかと言えば機嫌が悪い日だった。甲板で滑ってコブができ、船長に気を抜くからだと叱られ、当たるようにオレはほおを引っ張られた。痛くはあったが、手加減を忘れるほどの不愉快ではなかったらしく、あえて大袈裟に痛がって気分を晴らすのに付き合った。

 痛いとわめくオレを見て満足したのか、そいつは少しだけ鼻を鳴らして、オレの頬から手を離し、そのまま倒れてしまった。何が起きたのか理解できずに、慌てて声をかけるとどうやら眠っているようだった。意味がわからない。とにかくこいつを運ばなくてはと、誰かに助けを求めたが返事がない。周りはみんな、眠っていた。

 不可解な現実を受け止めきれず、オレはとにかくマヤが待つ小屋に走った。留守番だったバイキングたちも、さっきまで飯の用意をしていた今日の当番も、みんなみんな倒れていた。眠っているのだろうと無理やり自分を納得させて、マヤのもとへ急いだ。

「マヤ!」

 床に倒れていたマヤに駆け寄って、眠っていることを確認する。大丈夫だ、死んでなんかいない。周りのみんなも眠ってるだけなんだ。なんでこんなことになったのかはわからないけれど、きっと平気だ。とりあえず、クレイモランの教会の神父に助けを求めよう。

「──」

 背中から何かの音がして、オレの記憶は途切れた。たぶん、眠ってしまったのだろう。覚えていない。ただ、初めて感じた湿り気のある空気の気持ち悪さに目を覚ましたことは覚えている。

「ねえ、大丈夫?」

 薄茶色の髪の若い男が、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。この日から、オレは幸福と不幸の意味を知ることになる。

 

 ナギムナー村で生活環境を整えるのに、少しだけ時間がかかってしまった。家と、自分の立ち位置と、仕事。手先が器用でよかったと、このときほど培ってきた鍛治能力に感謝したことはない。新しい環境で、自分の腕を確かめるためにやってきたと、そういうことにしておいた。田舎特有の緩さは、新しい若人もどきを快く歓迎してくれた。

 生活や漁で使う道具の製作や修理で生計を立てて、足りないならどこかで魔物を倒して素材やお金を手に入れて。豪勢にはしなかったが、充分すぎるほどの生活を用意して、カミュたちを連れてきた。正しく表現するなら誘拐だけど、僕の頭では最大限気負わせずに実行できる手段がこれだったのだ。

 カミュは自分の身に起きたことを、正しく理解していた。周りの人が急に眠ってしまったこと、自分と妹もたぶん眠ってしまったのだろうということ。気が付いたらここにいて、声をかけてきたのが僕だった。以上のことを、順に話してくれた。

 せいぜい七か八歳のはずなのだけど、すでにカミュがカミュらしくしっかりしていることに驚きながらも、大変だったねと返事をしておく。ちなみにこの間、マヤちゃんはカミュの背中に隠れながら僕を睨んでいた。仕方がないことなのだけど、まるで信用されていない。

「おまえ、だれ」

「こら、マヤ」

「僕? 名前はイレブン、しがない道具屋だよ。あ、作る方ね。で、君はマヤちゃん」

「……オレはカミュ」

「そう、カミュくん」

 くん付けする違和感にも、マヤちゃんよりはわかりにくいだけでそれでも間違いなく僕を疑うカミュにも、さして深く触れることはせずに、僕は冷たい水の入った水筒を差し出した。ここでそんな格好じゃ茹でダコになってしまうよと笑って、二人を僕の家に連れて行った。

 汗を拭くための手拭いと、喉を潤すための追加の水を差し出して、僕は知っていることを教えてもらったていにしなくてはならないなと口を開いた。この辺りでは見ない厚着であることを聞いて、年中冬の雪国にいたことを知ったことにした。地名や具体的な場所を尋ねても、カミュは淀みなくクレイモランの国と少しの海を隔てた場所にあるバイキングのアジトを答えた。賢さに感心しながら、ここからでは遠い海の向こうの国であることを僕も答えた。

 ナギムナー村とクレイモランはとんでもなく遠い。世界地図の端と端に位置している。地図を見せながら説明して、陸路はなく、外界の長距離移動に対応できる船がないため海路も無理であることを伝える。カミュは顔を白くして、マヤちゃんは口をぽかりと開けた。寝て起きたら世界の反対側に来ていたのだから当然だ。

「申し訳ないけど、僕には君たちをお家に帰してあげる手段がないんだ」

 これはもちろん嘘だったが、嘘も方便ということで。

「だから代わりと言ってはなんだけど、ここで一緒に暮らさない? 子育ても孫の顔も見終わって、第二の人生真っ盛りなんだけど一人だとけっこう寂しいんだ」

 それに対するカミュの返事はなかったが、代弁するようにマヤちゃんが頭おかしいんじゃねーのと呟いた。

 

 オレとマヤの養父は色々と規格外な人だった。見ず知らずの子供を躊躇いなく二人も面倒みたり、村で爪弾きにされている一家にやたら構いたがったり、見境なく人に手を貸そうとする人だった。そんなお節介を通り越した善人で、それも特に嫌味もなくこなすものなので、気が付けばオレもマヤもその一家も、すっかり村に馴染んでいた。

 生業にしている道具屋には経営なんていう概念はなくて、作ったものに対して金なんてほとんど受け取らず、家にはほとんど貨幣はなかった。その代わりに、村の誰もがいつかの礼だと言って毎日のように何かしらの品が届いた。おかげで食いっぱぐれるということはなく、売り物を作り出す資材に困るということもなかった。

 親切とか、善性とか。そういう言葉を人間にするとイレブンさんのような人が生まれるのだろう。そう言ったのは、すっかり家族ぐるみで付き合うようになったキナイだった。最近ようやく船にも慣れて、仕事が丁寧だと褒められたのだと嬉しそうに話してくれた日を思い出す。あわせてキナイはこうも言った。おまえらの親父さんのおかげだと。そう昔ではないいつかのように、否定したのはマヤだった。

「どこがだよ、あんなくそじじい」

「マヤ」

「くそじいさん」

「そっちじゃない」

 すっかりマヤの暴言に慣れてしまったキナイはこの程度の悪口では少しも気に留めず、しかしその分上乗せしたようにマヤの態度にはっきりと不愉快さを示した。何度も見たやりとりで、思った通り言い分はいつもと同じだった。少しは育ててもらった恩義を感じたらどうだ。続くマヤの言い分もいつも同じだ。

「頼んでないね」

 昔はここから先も続きがあったのだが、平行線だと諦めたのか、いつしかキナイはため息で話を終わらせることを覚えた。マヤもマヤで、自身と同じように家庭の事情で少なからず苦労しているキナイを口撃し続けることに思うところがあるのか、今以上に話が掘り下げられたことはない。

 そのあと、いくつかの他愛ない話と、今日の釣果の一部を置いていってキナイは帰った。イレブンさんによろしくな。伝えておくよと返事をすると、常に仏頂面の顔がわかりにくく緩んだ。それだけで、彼がいかに養父に深く感謝しているかが理解できる。きっと直接養われているオレやマヤの数十倍、彼の気持ちは大きいのだろう。

「なあ、マヤ」

「なんだよ」

「……もうすぐ、おまえも成人だな」

「酒おごってもらう約束忘れてないからな」

「吐いたらチャラだからな」

「吐くもんかよ! なんとなくそれくらいわかるんだぜ」

 そうだな、わかるかもしれない。気分がいいまま煽るように酒を飲む、おかしくなって自分のグラスもわからなくなる、それでも渡されるたび喉を通す、どんどん一人二人と静かになっていく。毎日のように見た光景が鮮やかに瞼の裏に蘇る。マヤは、覚えているのだろうか。

 

 カミュとマヤちゃんを連れてきてから、十年が経っていた。『僕』はもう成人したであろうというのに、どうにも世間は静かだった。理由はわからないが、旅には出ていないらしい。そうなると、ウルノーガとニズゼルファは僕がどうにかしなくてはいけないことになるわけで、一度しばらく家をあけようかと、そんなことを考えていた矢先だった。話があるのだと、村のほとんどが寝静まっているような夜にカミュが部屋にやってきた。

 正直言って、怖気付いた。悲しいことに今の僕は、それほどカミュに信頼されていないのだ。不自由させたことはないが、裕福というわけでもない。それに文句を言われたことはないし、性格上そこに不満を覚えるとは考えにくいが、言い表せない複雑なものがあるということは大いにありえる。その内、自然と。そんなふうにあまり深く考えなかった僕も悪いのだが、僕と二人は生計を共にする同居人以上のものにはならなかったのだ。

 そんな間柄であるがゆえに、改まって話を持ちかけられるなど恐ろしいことこの上ない。しかし当然、聞かないという選択肢はない。努めてなんでもないように、どうしたのと口火を切るのが僕の精一杯だった。

「マヤが、もうじき成人するだろ? そうしたらオレたち、ここを出て行こうと思う」

 長い間世話になった身のくせに、一方的に決めて申し訳ないとは思っている。すまなそうに俯きかける顔を見ながら、僕が抱いたのは諦観だった。仕方がないことだと思う。これが僕が築いてきた十年の結果なのだと言われれば、納得するしかない。

「そんなこと、気にしなくていいんだよ。君たちは充分、僕の道楽人生に付き合ってくれたじゃないか」

 いつも声にするよう心がけてきた言葉を今日も言う。僕が頼んだから一緒に住んだ、それだけだと。僕が連れてきたのだからそれしか選べなかったのだと、僕がエゴを貫いたゆえにここにいるだけなんだと。言えない思いも全て込めて、僕はカミュの謝罪を否定した。

 するとカミュは、ますます深く下を向き、振り絞るように声を出した。行きたい場所がある、マヤと二人で必ずそこに行かなきゃならない。義理もないのに僕に話してくれるということが、ただただ不吉だった。

 整備された船着場があるわけではないが、ホムラの里かサマディー地方の海岸沿いに上陸できそうな場所がある。もちろん、ナギムナー村の漁船でも充分たどり着ける距離に。そこから陸路で、ダーハルーネの町まで歩く。世界でもっとも栄えた港町で、世界のありとあらゆるところと船で結ばれている。

「ダーハルーネまで行けば、帰れるんだ、クレイモランに」

「……そっか、帰りたかったんだね」

 履き違えていたのだ、僕は。そもそもを間違えた。エゴの自覚はあったけど、自己満足であるのは理解していたけれど、思い上がりだとわかったつもりでいただけで、僕は何一つ満たせていなかったのだ。

 優しすぎるカミュは、本当のことが知りたいんだと真っ直ぐにこちらを見ている。この時代で、誰にも魔法を見せてこなかったことにどうしようもなく安心した。せいぜい彼が思いつくのは、不可能ではなかった道のりをなぜ教えてくれなかったのかということくらいだろう。ここまできて、まだ僕はせめていい人ぶりたがった。

「お詫びじゃないけど、少しだけ路銀を出すよ。ああそうだ、財布はいくつかに分けるんだよ」

「受け取れねえよ」

「そう。じゃあ、マヤちゃんに渡そうかな」

「……ありがとう、甘えるよ」

 暫くして、マヤちゃんの成人のお祝いの日が来た。カミュが成人した日に負けないほど、豪勢な食事とたっぷりのお酒を用意したが、残った酔いが二人の足止めをしてくれることはなかった。どうやら不思議なことに、マヤちゃんはすでに酒量というものを理解できているらしい。

「じゃあな、じじい。もう会わねえかもしんねえけど」

「ははは、だろうねえ。もう僕も百歳だもの」

「……あと百年は死にそうにないくせに」

「じいさん、本当に世話になった。ありがとう。言わないけど、マヤも感謝してるんだぜ?」

「それくらい知ってるよ。じゃあ、カミュくん、マヤちゃん。元気でね」

「バイバーイ」

「……元気で。本当に、感謝してる」

 見慣れた、漁船が遠ざかっていく光景。ここに来てから繰り返し見た、代わり映えのしないはずのその光景に、普段は乗らない彼女ともう帰っては来ない彼。悲しむことは許されないし、後悔することも意味がない。僕に残されたのは、違和感を取り払わずに呼び続けた名前に笑顔を送ることだけだ。

 

 久しぶりに踏んだ故郷の地は、記憶のままに白かった。十年忘れていた肌を刺すような寒気に、少しだけ心が躍ったし、同じだけ不安も湧いてきた。オレの背中に、鼓舞してくれる温度はない。その代わりに、隣をしっかりと歩く妹が嬉しかった。いつもなら意味もなく振り返るオレに、罵声の一つくらい飛ばすのに。お互いに、今だけは何より優先するものがあった。

 白い雪面にぽっかり穴を開けた武骨な洞窟。おまけ程度に蝋燭が灯されて、いつもそこで来ない誰かを待っている女神像。飲み干されて追い出されるように積まれた酒樽に、汗と酒の匂いが絶えない薄暗がり。

「カミュ! カミュじゃねえか!? マヤもいるぞ、おい!」

 最後に見た、たくましく気丈な男は記憶の中より老けていて、背中を叩く手は昔ほど力がないように思えた。アジトの奥からは記憶に名残のある顔がいくつも出てきて、中には知らない顔も混じっていたりして。過ぎ去った多くの時間を感じながら、ようやく実感が湧いてくる。帰ってきた。あの、満たされないと思い続けた場所に、帰ってきたのだ。

 勝手にいなくなりやがってと、誰かがオレの脚を蹴った。もうそれくらいのことでよろけるほどチビじゃなく、いくらか近くなった背丈になった今ではなんとも思わないほどに弱い力だ。マヤは少しだけ離れた場所で、長く伸びた三つ編みをぐしゃぐしゃにされていた。

「やめろよな」

 痛いとか、髪が乱れるとか。毛ほども気にならないことを建前に、オレたちは荒々しいスキンシップをやめさせる。あの日、拾われた絶望と共に諦めた幸福に、オレたちは今、帰ってきた。

 夜には成人の日を思い起こさせるほどに豪勢な宴会が開かれた。飲む口実に使われただけだが、少なからず本心も混じっているのをわかっていれば、ダシにされたことくらいなんでもない。つまみとして今までどうしていたのかを話しながら、ついでとばかりにあの日のことを聞いた。

 誰も彼もが眠りについて、半日以上も眠りこけて、起きた頃には日を跨いだ上にオレとマヤだけが消えていた、ということらしい。金目のものは盗まれていなくて、一人も死んでるやついなくて、盗賊でも魔物でもないだろうと考えたはいいが、オレたちを探すあても無く。

「神隠しにあったんだろうって、俺たちは無理やり納得した」

「まあ、神なんぞ信じてねえんだけどな!」

「ガハハハ! いいじゃねえか、無事だったし帰ってきたんだ!」

 何度目かわからない乾杯を謳い、バイキングたちは飲み続けた。隣に座る──あの日オレの目の前で眠り込んだバイキングだけが神妙にうなずく。どうやら、少しだけ涙ぐんでいるらしい。それが最後にオレを見たことに起因するとしたら、なんともむず痒い気分だ。悪くない。

「神さまの仕業なら、どうしようもねえと思ったんだよ、きっとご加護ゆえなんだろうってな」

「まあ、間違ってねえかもな」

「ん?」

「神さまとやら、親切だったぜ。人間らしくはなかったけど」

 なるほどな、神さまか。そう言われるとしっくりくる。老いず、持たず、生み出しては施す。人ならざる所業に触れていたのか、オレたちは。だとすれば、やはりあれは戯れであって優しさなどではなかったのだろう。

 神の試練だったのだろう。満たされない中でも、確かにあった幸福に気付かず、奪われ戻れないという不幸により、ようやくその答えにたどり着く。そうして、自ら選び掴み取る。オレとマヤが自分で選び、自分の足でたどり着かなければならない答えを、あの養父は与えてくれたのだ。そう思うことにする。

 彼はそういう存在なのだと、思うことにした。だから仕方がないのだ、ああいう生き方しかできないのだろう。オレが口出しすることではない。いつだって人のことを優先して、自分のためを思ってくれない。そんな踏み込んだ思いは、どこから湧いてくるかもわからない感傷は、もう、捨てよう。

 

 カミュとマヤちゃんは、バイキングとして生きることを決めたようだった。二人が帰ってきて嬉しそうに晩餐を囲む彼らを見て、僕は自分のエゴを改めて認識した。最初から、大人しく呪いのネックレスだけ探して処分しておけばよかった、なんて。もう遅い。悔やんだって、もう遅いのだ。

 どんな形であれ、僕はここにきた目的を達成した。マヤちゃんは、もう時間を歪めて生きることにはならないだろう。それだけで、もう充分だ。

 あとは、いろいろな弊害を処理しなければならない。相変わらず『僕』は旅に出ないし、お陰でデルカダールは大人しいかと思えば、むしろ反対で血眼になって悪魔の子を探している。おそらく、邪神、ニズゼルファの復活が迫っているから必死なのだろう。ウルノーガだけの力では、封印されているとはいえ、邪神を消すことはできない。それもそのはずだ、力の源がそもそも邪神なのだから、たぶん全然効かないのだろう。

 そんなウルノーガの焦りを全く知らず、『僕』は呑気に生きているのだろう。想像がつく。なんと言っても昔の自分なのだ、勇者の話をされなければ、成人したことに対してもお酒が飲めるようになったくらいにしか思っていない。カミュによくお坊ちゃんと揶揄されたもんだ。

 と、いうか、そうか、カミュか。

 よくよく考えなくても、『僕』が旅に出てたとしても、牢屋に投獄されたらそこで全て終わってしまうのか。助け出してくれるカミュはいないのだから、むしろイシの村に引っ込んでいた方がいい。なんとも頼りない勇者ではあるが、むざむざ力と世界を失くすよりは遥かにマシだ。

 マシだが、これは偶然なのだろうか。

 そんな疑問は、十年ぶりに覗いた故郷でこの時には死んでいるはずの祖父を見た瞬間に吹き飛んだ。村の一番奥の川で、浮きにまっすぐ向かう背中。見間違えようがない、テオじいちゃんだ。今では、僕の方が実年齢が上のような気もするけど。

 おまけ程度の変装として被ったフードを整えながら、じいちゃんの背中を見つめていると、人の気配を感じたのか、こちらに振り返る。隠れた方がよかったのかもしれない。でも、『僕』が旅に出ていない原因を探るにはじいちゃんから聞き出すしかない。

「イレブン? どうしたんじゃ、そんなフードを、かぶって……」

「あの、じいちゃん」

「ふむ、イレブンなんじゃが、なかなかどうしておかしな気分じゃのう……」

「あ、やっぱりわかるんだ」

「お前のじいちゃんじゃからのう」

 つるつるの頭を撫でながらじいちゃんはなんでもないように言う。ニコニコと笑う顔は記憶の通りで、僕に対して嫌な感情はないように思えた。それがある意味、答えだった。

「僕ね、遠い未来から来たんだよ」

「そうなのか? あまり見た目は変わらんが」

 時間の流れを無視した代償なんだとはもちろん答えず、僕はどうして『僕』に本当のことを言っていないのか問いかける。答えはシンプルで、じいちゃんは悪魔の子の噂を知っていたのだ。だから、安易にデルカダールに向かわせることはしなかったし、下手に知るよりはと勇者のことも話していない。

 これはきっと、じいちゃんが前より長く生きた結果なのだろう。死んでしまう以上伝えるしか選択肢がなかったのはあくまで過去の話。話すチャンスがまだいくらでもある上に、間違いなく危険である道のりを示すほどじいちゃんは鬼ではなかったのだ。

 ただ、その結果として『僕』は旅に出なかったし、旅に出ていないから捕まらないし、村は焼かれないし、大樹の根を通してじいちゃんに会いに行く『僕』もいない。僕を見た時に不思議そうな顔をするだけで済んだのは、未来から凶報を伝えにくる『僕』と会ったことがないからだった。

「じいちゃん、たぶんその内、デルカダール王は正気に戻るよ。それまで、『僕』を外に出さない方がいい」

「……そうか、おまえが言うなら、そうした方がいいんじゃろうな」

「うん。よろしくね、僕はもう帰るよ。……長生きしてね、じいちゃん」

「イレブン」

「バイバイ」

 そうか、『僕』はもう、勇者にはならないのか。

 それじゃあ、ここにいる僕はなんなのだろうか。

 

 世界中に兵士を送っては悪魔の子を探し回るデルカダール王改めウルノーガは随分と焦っているようだった。とうとう写真もついていない手配書が出回り始めて、全然関係ない誰かが突き出されては間違いだったと突き返されて、懸賞金だなんだと揉める騒ぎが続いているらしく、国全体の治安も最悪だ。

 理由は明確だ。邪神の復活が近い、これに尽きる。勇者の星と呼ばれる厄災の肉体は日に日にその赤さを増している。あれをこの世から完全に葬り去るには勇者の剣の力が不可欠だから、死刑宣告を受けているような気持ちなのかもしれない。死ぬか殺すか。まあ前者になるわけだが。

「ぐふ……!」

「さようなら、ウルノーガ」

「なぜ……勇者はまだ……!」

「関係ないよ、あなたはもう死ぬんだから」

 眠った無抵抗の相手に手を出すことには、特に抵抗を覚えなかった。十年前に拉致誘拐で使った手段は、暗殺にも非常に有効だったのだ。

 新しく作った、──三本目の──僕の剣。ありがたいことに、魔物に憑依されている状態も悪いものとして扱ってくれるらしい。ベッドで眠るデルカダール王に使ってみれば、幽体離脱のようにすうっと別の体が浮き出てきた。あとは胸ぐら掴み上げてそのまま突き刺せば終わり。残りは、この国が自分で解決することだ。

 正気に戻ったデルカダール王は、二日と経たず自身の置かれた状況を把握したようだった。派兵をやめ、手配書を取り下げ、魔物に操られていたであろうことを公表した。自らが世界の希望を滅ぼす存在になっていたかもしれない事実を謝罪した。よくできた人だと思う。僕は、そういうことは隠してしまうから。

 程なくして、行方不明だったデルカダールの王女が国に帰ったという話を聞いた。十数年前に滅びたユグノア王国の先王とその孫が再会したことも聞いた。ユグノア王家の生き残りは、国の復興を目指すのだという。そしてデルカダール王女は現王の跡を継ぐために国政に参加し、同時にユグノア復興への助力を約束し、恒久の平和に尽くす宣言をした。

「平和になったんだなあ」

 ケトスの背に乗り、空にキラキラと降り注ぐ赤い粒子を見送りながら一人呟く。緩やかに地に向かって落ちていく、大きいだけの星の破壊は思っていたよりも簡単だった。もしかすると、明日には勇者の星が消えてしまったと騒ぎになるかもしれないが。

 そんなことも考えたけど、なんてことのない杞憂に終わった。

 勇者の星が空から消えた。これはきっと、勇者が見守る必要が無くなったということなのだ。今の時代に生まれた勇者から、印のあざが消えたように。この平和が未来永劫続くよう努めることが、生きる我らの義務である。

 歴史に残りそうな大宣説を伴って、勇者が勇者でなくなったことも、勇者の象徴が失われたことも、世界は受け入れた。海は危険が一つ減り、山は狩場が増え、大地は人のものになったのだから当然だった。脅威となるような魔物は姿を消し、人に害のないそれは獣と同じ程度の扱いになった。

 世界は平和になった。多くの人が喜び、前を向くことを決めた。そんな傍ら、双鷲と呼ばれた将軍二人が死んだ。衆目の中での出来事だったらしい。一人が相手の命を奪い、そのまま自らの命を絶ち、後者の遺体は大気に溶けてなくなったと聞く。まるで魔物のような散り際に、かつてのデルカダール王のように操られていたのだと、多くの人が嘆いた。

 ようやく本当に平和が訪れたのだと、僕だけが知っている。僕だけが知ることができる。知るべきだったのだ、もっと早くに。望みの在り方なんて、その人次第なのだと。僕は何も学んでいない。

 

 常冬の土地に、世界で一番と称される図書館がある。学問を重んじる国にふさわしい荘厳さを持ちながら、知性を疑いたくなるほど不便な造りをした、矛盾を体現したような構造物だ。おかげで中は魔物の住処と化し、おいそれと立ち入ることはできなくなっていると聞いた時には目眩がした。知の財産に対する配慮があまりにも欠けている。

 しかし、一介の留学生に過ぎない自分は、声を大にして不満をあげることは叶わない。当然である。一時的にこの地を踏む程度の人間に、国の方針に口を出す権利などないのだ。個人でどうにかできる技量もない。諦めるしかないかと肩を落とした時に、彼がやってきたのはまさしく僥倖と言う他なかった。

 彼の本職は商人だった。自由気ままなバイキングに海産品や嗜好品の入荷を安定しておこなうよう勧め、上質な献上品を定期的に買い求める王室には安定した販路としてバイキングを斡旋した。当初はお互い取引には疑心暗鬼だったようだが、結果としてそれぞれ望み以上の金品を手に入れたため、今では恒久的な取引を約束している。

 結果として、クレイモランは一人の商人の口利きによって少し豊かになった。バイキングは彼を大層気に入り、自分たちの船に乗るよう誘った。同じ頃、王室も彼を信用し、専属の商人としてクレイモランに根を下ろさないかと提案した。それに対する彼の回答は以下の通りである。

 行商ではもう充分稼いだので、その蓄えで自分は勉学に励みたい。

 要するに、船には乗らないし王室のために買い付けもしない。クレイモランには残るが勉学のためであって商いもしないと断ったのだ。ついでに、気性が荒めのバイキングの一人が彼に掴みかかった結果そいつは宙に舞うことになったため、異論を唱える者もいなかったことを付け加えておく。

 そう、彼は勉学に熱心で、しかもとんでもなく強かった。僥倖と言わずしてなんとするのか。城に直接保管されている書物だけでは満足できなくなった彼は、意気揚々と国王に頼みごとをしにきた。人里離れた図書館の鍵を渡してほしい。必要ならば、魔物も追い出しておくので、と。

「私も連れて行っていただけませんか!?」

 雪原に向かう後ろ姿に声をかける。振り向いた彼は青年と呼ばれるような年の頃で、とても大きな商談を一人でまとめてしまったようには見えない。さらさらと風に流れる薄茶色の髪は細く、太陽と照り返しの光に当たり淡く輝いている。

「きみ、は?」

「デルカダール王のご命令により、この国に留学生として来ております。名前はホメロスといいます。あなたは商人のイレブン様ですよね? 古代図書館に向かわれると聞きました。お供させてはいただけませんか?」

「そう、ホメロスくん」

 彼は考え込むように手で口元を覆ったが、ほんの一瞬のことだった。何やら意味が不明瞭な言葉を少しだけ呟いたが、結論だけいうならば同行に許可をくれた。

「そっか、だから今なんだなあ」

 何に納得したのかはわからないが、彼が笑ったことは覚えている。もっとも、彼は大抵の場合笑顔なので、真意は結局分からないままなのだが。

 

 イレブンは──様をつけるのはやめてほしいと言われ、つけていたさんも程なく勝手に取った──あまり名誉や名声といったものが好きではないようだった。自分が取りまとめた商談に関しても、お互い相性がよかっただけだといって、自分の功績として口にすることはなかった。

 港に行けばバイキングにもてはやされ、国に入れば国民に持ち上げられ、王城によればまだ子供の王女の婿にならないかと誘われる。誉れ高いことではあったが、それらは全てイレブンにとっては負担だった。曰く、自分には相応しくない。その言葉を吐く彼は、どこか負い目を感じていたように見えた。何に対するそれなのかは、今でも分からない。

 クレイモランは、イレブンにとって住みづらい国になった。それでも彼は、この土地を離れようとはしなかった。勉学への熱意は確かなもののようで、図書館で寝泊りしようとするほどだった。さすがに止めたが、その結果図書館のすぐ近くに小屋が建った。衣食住の最低限を確保するだけの粗末な家だったが、魔物に襲われることも吹雪に潰されることもなかった。イレブンには、不思議な力があった。

 最初に古代図書館の中に踏み入ったとき、住み着いていた魔物が逃げるように散っていった。魔除けのまじないだと、外壁を囲うように撒かれた聖水は地に落ちる前に光の粒となって空気に溶けた。ほんの一日で図書館からは魔物が消え、一週間もすると毒気のない魔物が住み始めた。

 雪原の片隅、よじ登るには少し厳しい小さな崖の上、足を踏み入れた静寂の中に人間は自分だけ。悪意のないとはいえ魔物が悠々と散歩している合間を、警戒心なしに歩ける人間が一体何人いるのだろうか。人の立ち寄れない図書館は、人を選ぶ図書館へと変化した。そこに、彼は変わらず今日もいる。

「イレブン」

「あれ、ホメロスくん? 久しぶりだねどうしたの?」

 梯子の上からこちらを見下ろす彼は、出会った頃と何も変わらない。優しげな笑みを常に携えていて、動きに合わせて揺れる髪は肩で切り揃えられている。人好きのしそうな二十そこそこの好青年。幼い頃に見たそれと少しの違いもない。

 理屈はわからないが、彼は外見的な歳を取らないようだった。初めてその疑問をぶつけたとき、彼はすでに百歳は超えていると答えた。目眩がしたが、信じてくれなくてもいいと笑うので、以降その点に関して考えることはやめた。不可解な薄気味悪さを帳消しにする程度には、彼は善良だったからだ。

 彼は自分の勉学を優先すると言いはしたものの、自分のためだけに生きるということはなかった。有益な書物が見つかればクレイモランに送り、目立たぬように自ら足を運んでは王に、バイキングに顔を見せ、様子を伺った。最近は教会にも出入りし、孤児たちの相手をしているとも聞く。

 あれから十年が経っていた。クレイモランが随分と様変わりしたのは、イレブンの助力あってのものだろう。変わりようのない寒さはあるものの、国全体でそれを乗り越える余裕が生まれていた。バイキングは今ではすっかり王室の信頼を得た栄誉職にすらなっている。孤児を抱える教会ですら食うに事欠くことはない。

「無事に成人を迎えたからな。恩人に挨拶くらいはしに来る」

「大げさだなあ」

 大したことはしていないとのたまうことにも、もう慣れた。世界や歴史に深い造詣を持ち、それを他者へ簡潔に伝える能力。卓越した剣技を持ち、加えて魔法への適性とそれを戦闘へと活かす能力。自然と身についただけだという謙遜に、いちいち訂正を入れるのも面倒だった。

 彼の考えを差し引いて、自分が得たものだけを考えることにした。留学として得難いほどの見識を彼によって授かり、その圧倒的なまでの剣技の一部も共にこの身に宿った。得た力が身を守り、経験としての知見も手に入れた。あまりにも過ぎたるものを、この一人の人間から受け取った。それを恩人と呼ばずして、なんと表現すればいいのだろうか。

 何より、人として重んじなければならないことも、この人から学んだのだ。

「人を恨んじゃいけない」

 もとは彼の祖父の言葉だそうで、今でも大事にしていると語ってくれた夜を、変わらず鮮やかに思い出すことができる。

 

 吹雪の夜だった。雪と風が激しく外壁を叩く音に、スライムが泣いて肩に飛び乗ってきた。月明かりもなく、ランタンの灯りはいつも以上に心許なかったのだろう。肩で震える小さい生き物は、夜中に眠れないのだと枕を持ってくる友人にどこか似ていた。

 小屋にも城にも当然帰ることは叶わなくて、イレブンと共に図書館で一晩過ごすことを余儀なくされた。特に不安はなかったが、石畳が寝るに適しているとは言えなかったため、寝付きは悪かった。あたたかな毛布に包まれながら、冷え切っているだろう石畳を感じた。冴えた頭と落ちないまぶたに気を使ったのか、イレブンは勉学以外のたわいない話をしてくれた。

 生まれ育った村のこと、実の子供同然に育ててもらったこと、成人してから旅に出て世界中を回ったこと、共に歩いてくれる仲間のこと。彼は繰り返し、あらゆることに恵まれていたのだと目を細めた。その幸運に感謝していると噛み締めながら、彼は思い出に浸っていた。

 それは、あなたがそういう人だからじゃないのか。あなたが優しいから、あなたに優しくしたくなるのだ。そう言ってしまってもよかったのだが、この時すでに、そういう類の進言を聞き入れないことを知っていたので、伝えることはしなかった。返事としてやってくるであろう台詞を聞きたくなかったが故の防衛でもあったのだが、こちらの気持ちをまるで知らない彼は話の流れに乗って結局その台詞を吐き出した。

「僕なんかには、もったいない」

 彼はよく、自分を卑下した。見た目には信じがたいほどに長命らしいので、理解しがたい苦難があったのかもしれないが、それを差し引いても、自己を否定する気持ちが根底にあって拭い去れないことは容易に察することができた。

 彼は人を褒めそやし、そして自分を貶した。言葉にはっきりと出したことはないが、見ていて気分のいいものではなかった。これで卑屈さとは無縁なのだから、たちの悪さに苛立ちさえ覚えたこともある。過剰な自信も鬱陶しいが、それを上回る腹立たしさがイレブンの慎ましさのはあった。明らかに美徳などではなかった。

「色んな人のおかげで、僕の今があるんだ」

 それでも、彼は救いようがないほどに善人で、憎たらしいほどに善良だった。大切な人がたくさんいたのだろう。愛のある人生を歩んできたのだろう。分け隔てなく分かち合うほど満たされているのだろう。それを理解し、噛み締め、痛感するほどに彼の存在を痛々しく思った。

「ホメロスくんも、そういう人に恵まれるよ。君の大事な人は、きっと君が大事だから。だから、君も自分とその人を大切にしてね」

 本心から語られた慈愛に満ちた言葉は、紛れもなく嘘だった。彼は、彼自身を大切になど思っていないのだから。

 

 自分自身の尊厳を守ること。生きていく上で尊重しなければならないのは、何よりまず自己なのだと私は結論づけた。恩義ある彼を非難するわけではないが、肯定するには彼にあまりにも自己愛と呼ぶような、己を許容する精神が欠けている。人はよくて、自分はだめ。その在り方は、とても健全とはいえないだろう。

 何よりよろしくないのは、健全でなくても問題なく生きていけることだ。なんなら他者への奉公により、社会的な評価は高くなってしまうことが非常にまずい。他でもない全体が、自己を殺す生き方を肯定してしまうのだ。大多数の意見により、望ましくない在り方が賛辞を受ける。私はそれを、どうにも受け入れられなかった。

「グレイグ、少しいいか?」

「どうした、ホメロス」

「この間のことで、話がある」

 微かに顔を歪めた友人の感傷を無視して、話を続ける。イレブンの歪な生き方を思い出したのは、ここ最近の王に通ずるものがあったからだ。

 ユグノア王国に王子が生まれ、王がその生誕を祝いに行ったその日、ユグノア王国は滅びた。空を覆うほどの魔物の大群が押し寄せ、瞬く間に多くを葬り去ったのだ。王は駆けつけたグレイグ隊により救われたが、共に赴いた王女は行方知れず。あの日から、王はおかしくなったように思う。

「ユグノア王子が悪魔の子というのは本当なのか?」

 グレイグは小さく首を振り、わからんと答えた。さしものこいつも困惑しているようで、王の話を全て鵜呑みにしているわけではないらしい。それだけは安心した。王が狂乱の中にいるのなら、我々で国を支えなければならない。

 滅亡したユグノアから生き延びた王は、帰国するなり御触れを出した。ユグノア王国に生まれ落ちた王子が、悪魔の子であったと。魔物を呼び寄せ、国を落とした。魔に心を奪われた国王夫妻は、片やデルカダール王を亡き者にしようと剣を向け、片やデルカダール王女を連れ去りそのまま消えた。王女はおそらく、すでにこの世にいないであろう。デルカダールはこの仕打ちを決して許さない、諸悪の根源である王子を必ず見つけ出し、世界に平和を取り戻す。そんな声明だった。

 王女の死に報いると、立ち上がるデルカダール王を民衆は支持した。国が強くあらねばならないと、市井に金を流したのだ、支持しない理由がない。おかげで、気丈にも国を思ってくれる王として今まで以上の人気がある。それら全てが、腑に落ちない。

「王女が……姿を消してしまったのだ。気も乱れるさ」

「そうか、お前にも気落ちしているようには見えんか」

「それは……」

 亡き王妃の忘れ形見であるマルティナ姫。王は目に入れても痛くないほどに溺愛していた。それを失ったとあれば、間違いなく正気ではいられないだろう。しかし、それを他者の責任だと声高に語るほど、無責任な方ではない。どうして守ってやれなかったと悔いることはあるだろう。必ず見つけてやると世界中を駆けずり回ることもあるだろう。しかし現実は生まれたばかりの赤子に責があるのだと、そんな飛躍を世界に晒している。

 何より恐ろしいことが、多くの人間がそれに疑問を持たないこと。民衆を味方につけた王は、世界に混乱と混沌をもたらす悪魔の子を討ち滅ぼすために御触れを出したのだと、誰も彼もが疑わない。優しい人のやることが正しいのだと、善し悪しもわからぬまま肯定される。その薄ら寒さを、私はどうしようもないほど知っていた。

「王のことを疑うわけではないのだが、どうしても納得できんのだ。あんなにも、姫様を大切に想っていらしたのに……」

「グレイグ。その気持ちは、隠しておけ。今の王に必要なのは、落ち着くための時間やもしれぬ。我々にできるのは、忠義を持ってお仕えすることだけだ。私も、少ないが伝手を頼ってマルティナ姫のことを探してみる」

「……俺に隠し事をしろというのか」

 竹馬の友があまりにも大人として情けないことを言うものだから、ほんの少しだけ頭痛がした。なぜこうも精神的に成長しないのだろうか。そして常に私に解決策を求めるのもやめた方がいい。私が常に正しいわけではないのだ。それを言ったところで、馬鹿正直で素直なこいつは何も理解できないのだろうが。

「隠せるわけないだろ、お前が。下手につつかれないよう常に任務と命令に忠実でいればいいだけだ。それなら得意だろう」

「いつも通りということか?」

「そうだ」

「……いつも通りか。いつも、いつも……」

「考え込む時点でおかしいわこのたわけ!」

 不安しかないが、最悪、事前に王に釘を打っておけばいいだろう。グレイグが先日の任で、お守りできなかったことを悔いているようです。様子がおかしいかもしれませんが、寛大な心でお許しください。そんなところか。

 ちょうどいい、それで反応を見ることもできるわけだ。伝手を頼る前に、王に謁見しておこう。

 

 久しぶりに訪ねた図書館には、住人が増えていた。スライムやマジカルハットのような小型の魔物しかいなかったのに、ドラゴン種のような大型の魔物が悠々と飛んでいるようになっていた。正気か。そしてイレブンは眠りこけるドラゴンのとぐろの中で座って本を読んでいた。正気じゃない。

 図書館に足を踏み入れると、人間の女の形をした何かが行く手を遮るように上から降りてきた。薄紫色の肌を持ったそれはおそらく人ではないのだろうが、ここに入れるならそう警戒する必要もない。いちおう女性のように見えるそれを雑に扱う気にもなれず、かと言ってさすがに一見して魔物とわかるそれに声をかける気もなれず。無言のまま佇んでいると、女が口を開いた。

「いい男だけど、反応がないのはつまらないわね」

「……イレブンに用がある、退いてくれ」

 イレブンの名前を出すと、女は僅かにだが顔が強張ったようだった。とうとう人だけでは飽き足らず、魔物まで誑かすようになったらしい。頭を抱えたくなり反射的に持ち上げた腕は、目的地に達する前にかかった荷重により宙で止まった。

 腕に飛び乗ってきたのは、ここに一番長く住みついているだろうスライムだった。昔よりも随分と軽くなったように感じるのは、私がそれだけ肉体的に成長したということなのだろう。両手からもこぼれ落ちそうだったそいつは、今では片手に収まる。

「あら、知り合いだったのね。ごめんなさい、失礼をしたわ」

「構わない。それくらい警戒心がある者が近くにいた方がいいだろう」

 道を開けた女は微かに微笑んで、上方へ飛んでいった。飛行や浮遊能力がある魔物が羨ましい。利便性しかない。あれが魔法やなにかで実現できたりしないだろうか。そんな我欲は今は横に置いておこう。

「久しぶり、ホメロスくん。また大きくなったねえ」

「久しぶりだな。単刀直入に聞くが、失せ物を見つける力や千里眼のような能力を持つ者に心当たりはないか? 探してほしい人がいる」

「うーん……。リーズレット! できる?」

 姿は見えないが、声だけが返ってくる。先ほどの女の声だった。どうやら彼女はリーズレットというらしい。

「その人の持ち物とかあれば、可能性はあるわよ」

「持ち物か……持ち出せるか?」

「誰を探してるの?」

「我が国の王女だ。ユグノア王国が滅亡して以降、行方知れずとなっている」

 瞬間、ごとりと床を叩く音が響いた。イレブンが手にしていた本を落とした音だった。珍しいこともあるのだなと、転がった本を拾い上げ差し出す。イレブンはこちらのことも、本のことも見ていなかった。両の手のひらで目を覆い隠し、歯を食いしばっていた。初めて見る様相に戸惑い、声がうまく出なかった。

「まただ……僕はまた」

 ぐしゃりと握り潰された前髪が、指の隙間からおこぼれ落ち、彼の左手の甲の特徴的な痣を覆った。尋常ではない様子はそのまま続き、彼は中身のない──おそらくは悪態であろう──言葉を次々と吐いた。

「くそ、くそ! なんで気付かなかったんだ。もっと気を配るべきだった。また自分のことしか考えてなかったんだ、これで何回目なんだ!」

「い、イレブン、落ち着け。どうしたんだ」

「……ごめん、ホメロスくん。ホメロスさん、ごめんなさい」

「おい、本当にどうしたんだ? 大丈夫か?」

「けじめだけは、つけるから」

 その言葉だけを残して、イレブンは消えた。リーズレットが魔法で探したが、この世のどこにもいないか、彼女では干渉できないところにいるという結果に終わった。私が訪ねたことがきっかけになったことは疑いようもなかったが、誰に責められることもなかった。彼のことを常に気にかけているものは、あの図書館の中にしかいなかったのだ。魔物たちはイレブンが自分で決めたことだと結論付け、私にとやかく言わなかった。彼に恩のあるクレイモランの人たちは、きっと気付いてもいないのだろう。

 イレブンが消えてしまったが、悪いことばかりでもなかった。正気とは思えなかった王が以前の精彩さを取り戻したのだ。悪い夢を見せられていたようだったと、王は記憶すらも朧げではあったがそれでも気丈に振る舞った。御触れは撤回され、王子と王女の消息を求める声が広められた。そうしてしばらく後、ユグノア前王であられたロウ様と、ロウ様に救い出されたマルティナ姫がデルカダールを訪ねてきた。王子は未だ見つかっていないが、物事は良い方へと向かっている。

 誰にも知られず人が消えて、世界が上手く回り始めたような錯覚を覚える。あまりにも無慈悲な仮定であり、お伽話にもならない幼稚さだ。自己を殺して人のためにしかいられなかった善人が、まるでこの世の癌だったような。そんな残酷すぎる話を、この世で私だけが知っている。

 

 足元に転がる邪神をいったい何度見たのだろう。そんなことを思うが、それはもちろん間違いだ。僕が邪神をそれとして討ち倒すのはせいぜい二回目。もう遠い遠い昔のことになってしまった初めてを、思い出せなくなったとき、僕はどうなってしまうのだろう。

 こんなことを考えられるうちはまだ大丈夫だろうと、背後に立つ今の仲間を斬り捨てる。修行の果てに共に最終奥義を編み出した彼は、強い憎しみを込めて僕の名前を呼びながら力尽きた。耳の奥に焼き付きそうな怨嗟の念を振り払うように、地面の代わりを果たしている巨体に勇者の剣を突き立てる。深く、刀身が半分ほど埋まった辺りで、物言わぬ肉塊と成り果てていたそれは、砂粒となり風に吹かれて大地に消えた。

 そこでようやく、後ろを見た。大量の血を流してうつ伏せに倒れる彼は、とっくに事切れているようだった。共に旅をし、共に修行を重ね、共にこの剣を作ってきたけれど、結局のところ彼がどうしてここまでの衝動に駆られたのかはわからなかった。力を高めることに貪欲で、才能にも自信がある魔法使いは、僕の記憶の中にも一人いる。似ているようでいて、彼らの取る行動はまるで対極だ。勇者を殺してでも力を欲した彼、自分を殺してでも勇者を守った彼女。いったいなんの違いが、彼らを彼らたらしめたのだろう。考えても、僕には終ぞわからなかった。

 彼の遺体を抱え上げようとしていると、邪神の力で吹き飛ばされてしまった二人が戻ってきた。二人は仲間の死を悼みながらも、過ぎ去った脅威と訪れた平和に歓喜しているようだった。

「よくやったな、イレブン!」

「ええ! あなたがいたから邪神を倒せた。世界が平和になったのは、あなたのおかげよ」

 ここに、ローシュはいない。今の初代勇者は僕で、剣を作ったのもドゥルダの最終奥義を編み出したのも僕だ。ローシュという英雄は、僕のウルノーガさえ生まれなければというエゴのために、どこかに消えてしまった。

「どうした? あまり嬉しそうではないな」

「疲れたのよ、偉業を成し遂げたんだもの」

 嬉しくないし、疲れてもいた。こんな過ちしか繰り返せない自分に、辟易もしている。友愛を込めてこちらを慮ってくれる彼女が、無意識に僕を責め立てていた。彼女の愛する人は、この世に生を受けることすら無くなってしまったのだ。

 間違っていると、そう思う。でも、もう、間違えすぎていて、どうすれば取り戻せるのか、そんなことができるのか、僕にはわからなかった。

「さあ、帰ろう。今日は宴会だ! 酒を飲むぞ!」

「ほどほどにしてよね。私もイレブンも、そんなに飲めないのよ」

 大樹の導きの中で見たかつての英雄たちが、僕の名前を仲間として呼ぶ。彼らは、ローシュという名前すら知らない。疑いもせずに、僕を勇者だと呼ぶのだ。そんなのどうしたって、正しいはずはなかった。

 僕は間違えていた。ずっとずっと昔から。もしかすると、最初ですら間違いだったのかもしれない。死んだ人は生き返らない。なくしたものは返ってこない。犯した罪は、償うしかない。やり直してはいけないのだ。

 でも、そんなことに今更気付いたって、僕にはもう、この方法しか残っていない。

 

 長い旅をしてきたのですねと、彼女が僕に向けたのは怒りだろうか、侮蔑だろうか。どっちだってよかった。初めての旅の本当の終わりを感じた日と、変わらぬ姿で彼女はそこにいて、はるか昔に託された願いを思い出す。彼女はそんなことを知るはずはないのだが、全てを見透かすような邪気のない目が真実を携えているようにも見えた。落ちたのは、僕だった。

 あたりは一面の闇に覆われていて、まだ何もない世界がただ広がっている。いや、形が伴わないだけで、確かにあるのだろう。一切の光を許さないような果てのない暗がりが、今の全てというだけなのだ。そこにたった一人、唯一の存在として彼女はいる。

 唯一だったその在り方に、僕は数えきれないほど繰り返してきた過ちと共に介入した。

 ここは、神話の世界だった。お伽話の、絵本の中の、夢物語の中。現実にはほど遠く、多くの人が夢想に過ぎないと存在をあやふやにする、概念の時代。あったかもしれないだけの、けど確かに、根底としてあった世界。

 神と神が、世界の行く末を決めるその前に、僕という人間はたどり着いた。やることはたった一つ、この世から闇を消す。それだけだった。そうすれば、理不尽な運命や抗えない不幸は減るのだと──そんなことはあり得ないのだと知りつつも──信じて。

「あなたは、それでいいのですか?」

「そうするしか、もう方法がないんだ」

「……わかりました」

 闇の中で、何かが蠢いた。少しの恐怖も抱かなかった。手をかざせば、闇を滅ぼす雷光がこの身からほとばしることを知っている。聖なる加護が、強大な力をも防ぐことを知っている。何度も作り上げたこの剣が、進むべき道を示すのだと知っている。

 手の甲が熱い。網膜が焼き切れそうなほどに眩しい。鼓膜が張り裂けそうなほどの轟音が、ひっきりなしに脳を揺らす。目も耳もまともに機能していない中、それでも僕は戦うことができた。力を振るえばいいだけだった。守らなければならない人たちは、ここには一人もいない。

 

 凄まじい気迫と剣技で邪神を討った人の子は、糸が切れたように立ち竦んでいた。身体中が傷だらけで、命に別状がないだけで到底無事とは言えない有様だ。それでも、ふらつくことすらなく、しっかりと己の足で立っている。前にも進まず、後ろによろけることもなく、ただそこにいた。

 およそ人の一生でたどり着いていい境地ではなかった。それだけで、彼が歩んできた道が容易に読み取れる。ただ一人、自分にだけ与えられてしまった特権をもってして、繰り返す。気が狂いそうなほどの道のりを、一人で。

「これでもう、勇者は生まれない」

 自分の人生の全てを否定して、選んでしまった。自分が存在し得ない未来を。他の全ての人間だけが手に入れられる幸福を。終わりも分からぬほどの長い旅路の果てに、彼はもう人ではなくなっていた。

「それでも、あなたは勇者です」

「うん」

「そしてもう、人でもない」

「知ってる」

「選びなさい。永遠に人ならざるものとして生き永らえるか、眠り続けるか」

「……眠る?」

「体に満ちた力全てを閉じ込め、封印するのです。あなたの力を誰かが悪用しないように」

 力の抜けた手の中から、カランと剣が地に落ちた。力を使い果たしたのだろう。落ちた拍子に、からりと小さな音を立てて折れてしまった。堰を切ったように、人の子の両の目から涙が溢れ出た。ぱきりと、音が聞こえた気がした。

 嗚咽をこぼしながら、膝が折れた。上体が倒れ込み、四つん這いになって彼は叫ぶように泣き出した。誰にも届くことのない咆哮だった。この最果ての時代には、人という命すらまだ生まれていない。ここにはまだ、何もない。彼は誰に認められることすらなく、全てを守ったのだ。そして、認められる日も永劫こない。

 この世界は救われた。誰にも救われないただ一人の犠牲を礎にして、永い繁栄を築くことだろう。

 

 むかしむかし、はるかなむかし。ロトゼタシアがまだ、不毛の大地だった頃のお話です。

 世界に太陽はありませんでした。世界に光はありませんでした。世界を支配していたのは、静かな静かな闇だけです。

 闇は邪神の配下でした。命が生まれることを否定する存在でした。世界はずっと、命の温もりを知りませんでした。

 そこに生まれたのが、命の大樹でした。大樹はその輝きと、自身の力を分け与えた勇者と共に、闇と邪神を倒しました。

 ようやく、世界に命が生まれました。

 ようやく、世界は光に満ちました。

 そうして今日も、新しい葉が芽吹き、散り、世界は循環していくのです。

 大樹は、私たちを今日も大空から見守っています。勇者の魂と共に、私たちにご加護を授けてくださっているのです。

 

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