「は? パンがない?」
眼前の巨躯の逞しいのどから発された低音は、まるでうなり声のようだった。それに相対するどこか人の良さそうな人相の男は肩を跳ねさせ、勢いよく頭を下げる。
「も、申し訳ない! 機材トラブルによるものでパンが焼けず、修理には六日かかると」
「六日」
おうむ返しの声色は低空飛行のまま、無味無臭であった。研究所内であっても厚着をしているというのに寒気が駆け上がった。体は冷えているのに背中に汗が滲み、コートの下のシャツがぺたりと張り付く感覚が気力を削いでいく。
所長は下げた頭を傾け、おそるおそる目の前の男の表情を窺った。自分なぞ簡単に縊り殺せるだろう太い巨木のような腕、鉄板が入っているように厚い胸板、人の手ではとうてい掴みきれないほどの首、その下で爛々と輝く双眸。視線が衝突する。瞬間、鼓動が一際強く跳ね、思考の全てが吹っ飛んだ。いま、アンドレア・デ=ルーハという怪物が、全身全霊でこちらを見据えていた。
この世をあっという間に征服してしまった異形の巨大生物・イペリット。
訓練を受けた軍人ですら戦車や地雷といった兵器を用いて死闘を繰り広げていたそれに生身で対峙することを可能とした、怪力かつ不死身である今世の可憐な最終兵器・ハントレス。
そのハントレスを率い、操り、そして躊躇いなく屠ることができるデルウハ――という諸刃の剣をこの極東の雪深い山奥に繋ぎ止めているのは、ただ一点、『食事』という頼りないが替えの効かないアンカーただひとつである。「毎日パンとサラミを食える立場を守れるなら」戦えると豪語する男に、その片方が欠けると報告せねばならなかった所長の心臓の負担たるや。
しかし、課題の前には対策である。所長は考え抜いた良案を口にすべく、ぱっと背中を伸ばした。
「で、ですので! デルウハ殿には復旧までご協力していただきたい案件がありまして」
「キョウリョク」
感情を宥めようとしてくれているのだろう、片言喋りになっているデルウハの瞳を覗き込みながら、所長はこれがよい提案に見えるよう穏やかな笑顔を浮かべた。
これは決して悪くない提案だ。どちらに対しても。そう唱えながら。
所長に連れられたデルウハがたどり着いたのは、地下研究所の研究区画でも端の端だった。ここの景色はどこも見栄えしないので、ここに住む人々ですら気を抜けばどの区画に居るかわからなくなるものだが、デルウハはこのルートに覚えがあった。もともと地図を読む技能に長けているのもあったが、そこが食料班の担当区画であるからというほうがより重要だった。
パンがないならケーキを食えばいいじゃない理論? デルウハはふと脳裏に浮かんだカロリーの高いあれこれをアルファベット順に並び替えながら、覚えのあるルート、しかし見覚えのない扉が開かれるのを眺めていた。
扉の先には黒髪の男が立っていた。長身だが痩せぎすで、はためく白衣の下の身体はずいぶんと貧相に感じた。寝不足を捏ねて人にしたような不健康な顔色の上に分厚い眼鏡をかけているせいでずいぶん年嵩に見えたが、所長の話によるとまだ若い男らしかった。室内にはデルウハがちょっと期待した甘い匂いはなく、代わりにすこし香ばしい匂いがこもっていた。
そして彼はくるりと振り返り、色の悪い唇を歪めて笑うと、脈絡のない爆弾発言をした。
「先の大戦では飢えた軍人が人を食ったそうです」
それが彼の開口一番だった。
「痩せ衰えた屍のようだった男は血色を取り戻し、頬に一抹の艶を得た。鉄と脂を取り込み、屍は人に戻ったのです。しかし、ほかの屍から見ればそれは人ではなかったのでしょうな」
まるで聖書を諳んじているような、朗々とした声だった。
男はデルウハを正面に捉え、瞬きもせずに続けた。
「この人喰い鬼の話を聞いて私が思ったことは、ああ、人も醤油と酒とみりんで煮付ければ十分にうまそうだなということでしたよ」
デルウハの斜め下で所長の気配が身じろぎ、フォローのために慌てて何かを言おうとしたようだったが、黒髪の男が言葉を継ぐほうが一瞬だけ早かった。
「この話で笑ったのはあなたが初めてです」
愉快そうに目を細めた長身痩躯は三歩こちらに寄ってきて、ずいと片手を差し出した。印象通りの骨張った手だった。
「青柳と申します。お噂はかねがね、デルウハ殿」
「いつも美味い食事をありがとうございます」
「我々の中から鬼を出すわけにはいきませんのでね」
「ぞっとしない話ですな」
はは、と二人が声をあげて笑いあう。和やかな雰囲気だ。あの入りでなぜ、と所長がひとり愕然としているほうがおかしいのだと突きつけられているようだった。
青柳と名乗った男は筋の浮いた首を揺らし、唇で弧を描いた。
「所長からお話は伺いました。こちらの研究にお付き合いくださると」
「なんでも改良中の試作品のテスターだとか」
「ええ。戦闘糧食とは異なり、どちらかといえば日々の糧を豊かにする試みですな」
「そ、そう。彼の研究はより幅広い意見こそ重要なのですよ」
邪魔にならないタイミングで会話に合流した所長は、素早くデルウハの、そして青柳の顔色を見た。
この計画の唯一かつ最大の懸念はこの研究員にこそある。
世界中が荒廃しているさなか長野の山頂が現状問題のないアーコロジーとして成り立っているのは食料班の血の滲むような努力の賜物に他ならない。その中でも甘味や贅沢品といった特定分野においての貢献度としてはこの男、青柳の右に並ぶものはなかった。しかし人を食ったような態度が災いしてか、至極優秀な人間ながらもチーム内外の人間と打ち解けるということの少ない男でもあった。
所長はごくりとのどを鳴らした。
無理に贅沢をせずにパンとサラミを求める、ある種清貧なデルウハの気を逸らすために考えた案だった。嗜好品方面で独自研究をしている青柳の試作品で、どうにか六日間のフラストレーションを発散できないか。六日間。
この二人、合うのか? いや、頼む、どうか。
「私は」
そのときの青柳に、所長の祈りが伝わったのかはわからない。
もしかしたら隣の世界線では別のタイミングで邂逅し、「俺だけが最後の晩餐を楽しませてもらう」などと嘯いたせいで背後から頭を割られていたのかもしれない。砦が破られ、静まり返った研究所にしんしんと雪が降り積もる中、この頼りない身体から抜け落ちていく生気で暖を取る軍人の姿があったのかもしれない。
しかし、これがたぶん、最良のルートだった。
「毎日三食食べられるというのが、人生の最重要事項だと思っています」
「いやあ話がわかる!」
デルウハは目にも止まらぬ勢いで青柳の手を取り、堅い握手を交わした。こいつを利用すれば、少なくともここが機能している間は食いっぱぐれることはない。それを理解した色素の薄い瞳は、ひとまずこの痩せた男を受け入れたようだった。
所長はどっと力が抜けて、もう笑うことしかできなかった。
これが、欠けたアンカーを補強する六日間の始まりであった。
**
翌日、迷うことなく例の扉を叩いたデルウハを迎えた男は相変わらず顔色が悪かった。
「いらっしゃいませ、デルウハ殿」
パンの配給が途切れたと聞いて大騒ぎしたのはハントレスも同様だった。彼女たちも怪力で不死身であるとはいえ、素体と人格はただの少女である。毎食の糧が減ると聞いて不満を叫び、そしてそれを聞いたあのデルウハが表面上落ち着いているのを大いに気味悪がりながら、代用品のかさ増しとうもろこし粥を啜っていた。
「お熱いのでお気をつけて」
今日の訓練の途中でいちこの首を割いて殺したデルウハの前へ差し出されたのは、じゅうと音を立てながら鉄板の上で油を跳ねさせる分厚い肉塊だった。表面の焼き目は美しく、断面のピンクは眩しいミディアムレア。備え付けられたソースは添え物のマッシュポテトにもよく合うだろう。間違いなく上級軍人ですらなかなかお目にかかれない、もはや御伽噺にしか出てこないのではあるまいかという現実離れした眼下のジューシーさ。思わずためつすがめつ。そして最後にテーブルの隣で立ったままの青柳へと流し目を送った。
「これは?」
「牛です。まあ、肉牛から採取した細胞を培養して作ったものではありますが。いわゆる試験管ビーフというやつです」
「はあ。これを作るのにどれくらいかかる」
「そこまで育てるには三年かかりますな」
「さ……」
デルウハはカトラリーを掴み、躊躇いなく刃を突き立てた。ナイフを引けば肉の繊維が解けるように切れ、その手応えのなさはいっそ不安になるほど。いまだ湯気を上げる肉を持ち上げると、肉汁と脂とソースが鉄板に滴って弾けた。
口に運ぶ。咀嚼。
次いで運ぶ。さらに運ぶ。もはや頬張る。
「お気に召しましたか」
青柳はまるで細胞の分化を眺めるような目をしながら言ったが、とくに返答は求めていないようだった。デルウハの手の進み具合こそが何よりも雄弁であった。
「これは、数は作れないのか」
「予算やスペース、なにせ時間がかかる。たまの嗜好品が精々でしょう」
テーブルについて肉を無心に味わうデルウハの様子を見て、あるいはたまに質問をして、青柳は手元のボードに何かを書きつけていた。そういえば表向きには研究協力の一環なのだった。デルウハはマッシュポテトを舌で上顎に塗り付けながら、ボードの裏を支える筋張った手を眺めていた。
「これをどう思います?」
青柳はふと目をすがめて、ぽつりと言った。
「というと?」
「培養というフィールドにおいてハントレス研究の一部を流用しています」
「ああ、だろうな」
「ふむ。とくに問題なさそうですな」
お互い、なんともないような声色だった。アレルギーの有無くらいの事前確認はすでに済ませていたものの、こういう具体的に踏み込んだ確認は初めてだった。この問答は例のおぞましい実験と地続きの技術を利用した食品を用いることへの忌避感の確認である。おぞましいとは研究に関わった過去の研究員たちの手記からの引用表現だったが、デルウハにはそれが適用されないことを青柳はいま知った。
鉄板がすっかり熱を失った頃。すべてがきっちりと完食されたテーブルを見て、口の端を持ち上げた青柳はボールペンの頭をノックしてペン先をしまった。
「今日のところは以上です。質問や要望は?」
「明日もこれが出るのか?」
「いいえ。せっかく私のところへいらっしゃるのですから、六日間違うものをご覧に入れますとも」
「そりゃ贅沢なことだ」
「普段は人に振る舞うことなどありませんからな。こちらも気合いが入るというものです」
「楽しみにさせてもらう」
一日目の成果を聞いて、所長は諸手をあげて喜んだ。しかし報告されたメニューを聞いた瞬間、大盤振る舞いで消費されたソレがこれからずっと未来まで育てていくべき最上級培養ブロック肉であったことを悟って顔を青ざめさせることとなるが、デルウハは知る由もない。
「じゃあひとつだけ注文を」
「はい、何でしょう」
「熱いコーヒーを一杯くれ」
**
あれば食べるが通常運転のデルウハも、さすがに熱く溶ける脂の痺れるようなうまみを数時間で忘れきることは難しかった。夕食として受け取ったサラミとかさ増しミルク粥を食べる表情に覇気がなかったのだろう、同席したハントレスたちから変だ変だと総ツッコミを受けることとなったが、得意の口八丁で「いつものパンがないせいだ」と誤魔化したところ、彼女たちもまたパン恋しさにあれこれ夢想しはじめ、話題はゆるやかにどこかへと流されていった。
雪原での訓練帰りにイペリットと遭遇し、にこを巻き込むのを承知で二匹を仕留めたデルウハの前に現れたのは肉だった。ただ、前回とは明らかに異なるものが。
「生肉か」
「ええ。馬です」
「うま」
サラミを分厚くしたくらいに切られた赤身が、まるでトランプを扇状に広げたように重なり合いながら横たわっている。見た目からして牛ではない、豚でも鳥でもなさそうだとは思ったが、馬とは。
「長野は馬肉が有名でしたので、その名残が。もちろん培養肉ですが」
デルウハの視線は皿の横に添えられた真っ黒い液と肉と青柳とを二往復して、ふむと頷いた。
「国でも馬は食べたが、生は初めてだな」
「そうですか。日本は生食文化が根強いですからな」
「聞いたことはある。卵も生で食うんだろう」
「興味がおありで? 擬似卵をバイオ米にかけてお出ししましょうか」
「そのうちな」
青柳の気遣いか、箸とフォークの両方が用意されていた。デルウハは使い慣れたフォークを手に、生々しい肉を拾い上げた。その仕草ははるか昔に食べたローストビーフを思い起こさせた。
そばの小皿で調味料に浸し、ひと口。ひと噛み。
昨日の牛肉はよく脂が乗っていて溶けるような食感だったが、こちらにはしっかりとした筋の噛みごたえがある。噛みごたえ、つまり咀嚼とは脳の満腹中枢への刺激に繋がる行為であるため、食糧が限られている状況下では意識せざるを得ない部分でもある。いつも合間にかじっているジャーキーよりずっと柔らかいが、いま肉を食べているのだという実感を十分に与えてくれる味わい。
「ステーキの脂は暴力的だったが、こっちは滋味だな」
「その通り。馬のいいところはそこです」
「歯応えもいい。こういうものか」
空になった口へ今度は二枚同時に放り込む。筋肉をすり潰すように噛み締め、しみじみ味わう。人を含め、イペリット以外の動物の数は激減した。野を駆ける四つ足の美しい草食獣は雪の中では生きられない。もはやこういう形でしか馬を見ることは叶わないだろう、と、デルウハはしつこくない脂の風味に感動しながら考えていた。
青柳はあっという間に皿を空にしたデルウハを観察して、無感動な声で問うた。
「生食も平気で?」
「ああ、問題ない」
「なるほど。あなたは優秀な協力者だ」
青柳は平坦にそう言って、今度は湯気をあげるマグカップをデルウハへずいと寄越した。ひょいと拾い上げ、中身も見ずに啜ると、熱い液体が胃の奥まで滑り落ちていくのがわかった。口に入れてからそれがコーヒーでないことに気づいたデルウハは、思い切り顔をしかめて青柳の横顔にガンを飛ばした。確かに香ばしいが。
「生肉のあとにコーヒーはどうかと思いまして」
「これはなんだ」
「ほうじ茶ですよ」
「なぜほうじ茶」
「趣味です」
青柳の手にあるマグカップは内容量重視の重量型で、彼が煽ると眉間まですっぽりと隠れてしまう。数秒後に息継ぎの気配があって、マグカップの向こうから隈の濃い目元が出てきた。
「明日はまた趣向を変えたものをお出ししますよ」
壁を見たまま、茫洋とした目の青柳はそう呟いた。まるで変わらずに明日が来るのだと信じ切っている口振りに何かを言いたくなったが、まだほうじ茶が熱いまま残っていたので、デルウハは黙ってマグカップを傾けた。
**
どうにも口寂しい。
デルウハは音を立ててジャーキーを引きちぎり、口の中でふやかす。乾いた肉の粗い味を感じていると、はて、これはいったいどういう生き物だったのだろうと干し肉になる前の姿を考えたりもした。いつもは決してそんなことはしない。昨夜、もはや覚えてもいないが、緑の草原を駆けるしなやかな動物の夢を見たような気がしたからだった。
そろそろハントレスの間でもパンが出ないことへの諦めがついてきて、カレンダーを眺めながらまだ折り返さないのかと悲嘆にくれた声があちこちから上がっていた。今日は山盛りのマッシュポテトが主食だった。粥と比べれば食べがいもあるし、皿の重みがまったく異なる。ジャガイモの固まりを見ていると、いつか昔に軍で食べたレシュティのことがふと思い出されたりもした。ハントレスたちはこの山をどう味付けしようかと、限られた調味料を前にああだこうだとかしましかった。
三十分前の作戦行動中の言動に疑問がある、と迂闊にも一人で男を睨め付けたみちの後頭部を陥没させ、それを資材の落下事故として処理したデルウハは、室内に青柳の姿がないことに首を傾げた。
「青柳殿?」
「ああ、デルウハ殿。いらっしゃいましたか」
声をかければ、遠くからいらえがあった。二秒遅れて、奥の部屋からのそりと不健康そうな長身が現れる。なぜかエプロン姿で。
「ちょうど焼き立てを準備しようと思いまして、よいタイミングでしたな」
「焼き立て。今日はそういうものか」
「メインはそうなりますが、もう少々お待ちを。それまでは……」
青柳は足音を立てずにデルウハの腰掛けたテーブルまでやってきて、一枚の皿をごとりと置いた。それから醤油と小皿。馬肉を出されたときと同じような調味料だ。
「……こちらを試していただきたい。そういうのも平気とのことでしたので」
それだけ言って、青柳はさっさと奥に引っ込んでいってしまった。おそらく、これまでも向こうで調理を済ませてデルウハを迎えていたのだろう。あの扉一枚隔てた向こう側に、得体がしれないがなにか食えるものが山ほどある。そう思うとそそられないでもないが、ひとまずは目の前に出されたものからである、とデルウハは目を細めた。
どうやらデルウハの指二本分ほどもない太さのなにか長いものを輪切りにしたものらしい。断面は白いが、側面はまるでアルペンローゼを思わせるような赤。そして何か気味の悪いクレーターのようなものが赤い表面にずらりと列を成してくっ付いていた。こんな色をしていて長さのある生き物に心当たりがなく、デルウハは首を傾げながらもぶつ切りの何かを口に放り込んだ。
弾力のある噛みごこち。馬肉とはまた異なる、むっちりと身が締まって張りのあるタイプの肉質。そして塩気のあとに染み出してくる旨み。これはおそらく海のものだろうと思った。謎の物体を無心に噛みしだいていると、戦闘糧食に必ず入っていたガムのことが思い出された。
「お待たせいたしました」
皿の上の謎の物体が残り少なくなったところで、エプロンを取り払った白衣姿の青柳がなにか『焼き立て』を引っ提げてやってきた。
デルウハは振り返り、それから思わずぎゅうと眉根を寄せた。
「青柳殿、なんだその黒いのは」
「中濃ソースです。果物や野菜とスパイス他調味料を私が適当に合わせて再現したものなので、戦前のものと比べればかなりアバウトな味でしょうが」
「匂いが強いな」
「お嫌いですか」
「いや、いい。すごくな」
スパイス。人類の食卓に欠かせない調味料。
山盛りのジャガイモも、そのままであれば苦痛になるが塩胡椒があれば十分に食える。ステーキソース、醤油、それらのどれとも異なるこのどろっとした黒い液体はどんな味がするのか? スパイスの心地よい刺激臭は、いちおう食事を済ませてきている腹ですら誘惑に負けさせる魔力を持つ。
いや、そもそもそれは何にかかっているのだ?
「そうですな、これはまずひと口で食べないほうが……と」
「……! …………!! ……………………ッ!!!」
デルウハは悶絶した。
横の青柳が図ったようなタイミングで差し出した氷水を勢いよく煽り、それをひと息で飲み干したデルウハはあまりのことに混乱して瞬き三回の間、声を失っていた。「無事ですかな」声をかけてきた青柳はしれっとした顔をして、茫然自失の軍人を見下ろしていた。
「――ぶ、じ、じゃねえ、口の粘膜がベロベロだぞッ! 注意が遅いだろうが!」
「それもまた風情かと」
「お前そういうところだぞ!」
すました顔の青柳はデルウハの前にアンプルを滑らせた。滔々と語られた長ったらしい説明を要約すると、爛れた口内粘膜を保護して再生を急速促進させるための薬剤らしい。用意周到なことだ。デルウハはとぷりと揺れる液体を口いっぱいに含み、薬剤が粘膜に定着するまでの間、しばらく青柳をじっとりと睨め付けていた。
「申し訳ない。焼き立てがおすすめなのは本当ですが、今ならより食べどきでしょうな」
「……本当だろうな」
「なんなら冷めやすくするため割り開くのをおすすめしますよ」
割る。デルウハは眼下の謎の物体群を見下ろした。
その表現から想像できる通り、それは球体であった。人差し指と親指をくっつけたハンドサインでできる空間と同じくらいの大きさ。整った球面の表面に施された焦げ目はなんとも食欲をそそるが、上にかけられたソースやのたうち回る古紙のような薄くて頼りないトッピングなどはまるで見慣れない。
遅すぎた助言に従ってボール状の食べ物を割って開くと、中から半生のドーナツのように粘度の高い生地が顔をのぞかせた。これが一瞬で口内を焼き尽くす兵器か。先ほどの薬剤のおかげか、すでに痛みが引き始めた口内がじわりと疼いた。
謎の球体の腹からあがる湯気が控えめであることを確認して、意を決したデルウハは果敢にリベンジした。
口の感覚がまだ鈍い気がしたが、それすら突き抜けてくるスパイスの香り。それにちょうどよい温度のとろける生地が舌先から喉へやわらかく落ちていく。表面の歯触りと中身の舌触り、異なる食感が口の中で渾然一体となり、ひとつの調和を生み出している。熱をそのまま体に取り込んでいるような奇妙な興奮さえ湧いてきた。適正温度であれば確かに、これは焼き立てが一番うまいだろう。
そして先ほどは口の中を急に地獄にされていたので気づかなかったが、この謎の球体はどうやら腹の中に大きなかたまりをごろりと抱え込んでいるようだった。
「ん、具が。さっきのぶつ切りか」
「ご明察。こいつです」
そう言って、青柳は手元のバインダーから一枚の紙を差し出した。写真だ。デルウハは反射的に視線を落として、思わず目を疑った。
風景は日暮どきの物寂しい岸壁近く。打ち寄せる波の泡の向こう側、ど真ん中に捉えられていたのは人目を憚るように海中に蠢く多足生物であった。薄暗い水底で僅かな光を反射してぬめる体。映し出されたのはこの世のものではないようなぬらぬらとしたシルエット。大きく膨らんだ頭から直接触手だけが生えたような姿。判然としない水中にチカリと輝くものが目だと気づいた瞬間には、不覚にも初めてイペリットを直視したときと似たようなものを覚えた。
「画像は参考元の生物であって、これを細胞レベルで忠実に再現したものというのがより正確な表現ではありますが」
「……お前、……よくこれを食おうと思ったな!」
「海のものはなんでも食えますよ」
まるでこの世の常識を説くようにけろりと言ってのけやがる。
デルウハは口の中の余韻を噛み締めながら、不鮮明な画像の中でこちらを見ている多足生物を観察する。そうか、先ほどの謎の細切れはこの足を切ったものだったのか。
色が違うなとぼんやり呟いたところ、彼は色素がどうアルカリ性がどうと懇切丁寧に喋っていたが、最後に「つまりエビと同じです」と呟いて講義を締めくくった。それだけ言えばいいのに、と思いながら程よく冷めてきた球体を口に入れれば、隣で青柳が低くのどを鳴らした。
「画像を見てなお食べる。非常に結構」
飲み干されたコップの中で、溶けた氷が音を立てた。
**
祖国は内陸国だったが、例の写真のせいか、海の夢を見たような気がした。
海といえば大陸から日本を目指す道中に眼下に広がっていた地中海や黒海にカスピ海などであったが、そのどれもがまるでピンとこなかった。そもそも数日に及ぶ超長距離飛行中の景色といえばどこもかしこもガスに満たされ、地上や海の様子を窺うたび、もはや眉唾ものの噂話に縋るしかないのだと突きつけられるばかりの惨状であった。味気ない空路のささやかな彩りといえば、たまに顔を覗かせる純白の頂のみ。
「アイハブ」
「ユーハブ」
そしてもはや誰に知らせるでもないやり取りだけが、あの空にはあった。
「主曰く、人はパンのみにて生くるものにあらずです!」
この状況下でも張り切っている吉永が分厚い聖書を片手に熱弁を振るう中、パンを失ったハントレスたちは二日連続のマッシュポテトの山にわかりやすく不貞腐れていた。中には食べられるだけありがたいと健気な意見を言う者も居たが、手持ちの調味料でどれだけ芋をおいしく頂けるかという議題は昨日のうちに研究しつくしてしまっていたので、その鬱憤は隣で割れたクラッカーにペーストを塗り込んでいた所長にぶつけられることとなった。
デルウハは縋るような視線に気付いていたが助け舟を出さず、適当にハントレスたちを焚き付ける。ちょうどよいスケープゴートであったので。
周囲も見えぬほどの吹雪の中、巨大イペリットの攻撃で片足をはね飛ばされた瀕死のよみを担いで移動するのは無理だった。命からがら死闘を制したものの半身を潰されて痛みに喘ぐ彼女の胸をひと突きして一人とひとつで拠点に帰還したデルウハは、絶句していた。
「本日は」
「ちょっと待て」
青柳は律儀に口を閉じ、男の二の句を待った。ぐしゃりと前髪を崩して深いため息をついたデルウハは、皿の上に盛られた物体をちらりと見下ろす。ああ、照明ですこし艶めいているが、割と
「ジョークで?」
「いいえ、いたって真面目ですとも」
青柳は笑いもせずに言い切った。そう、この男はいつだって真面目で本気だ。この数日間で彼の(引いては日本人の)食への熱量ははっきりと伝わっていた。しかし、こういう方向性で来るのは想定外だった。そも、そういう文化があることすら知らなかったのである。
「佃煮です」
「ツク……なに?」
「エスペラントではうまく伝えきれませんが、甘辛く煮たもの」
青柳は手にしたペンで空中に何か文字を書いたが、デルウハには理解できなかった。一文字目がえらく四角く、二文字目に四つ足が生えていたことだけ読み取れた。
「あまり驚きませんな」
「極限状況下での貴重なタンパク源であることは確かだからな」
「試したことがおありで」
「いや、これ以下の味わいのレーションを舐めて数日過ごした程度」
デルウハは小皿に盛られたそれの一番上をつまみ、ひょいと口に放り込んだ。噛み締めると、軽快な音と似合いの歯触り。なるほど、『甘辛く煮たもの』としか言いようがない。最初に口に当たった細かい足なんかは噛み砕いてしまえばあまり気にならなくなってきて、飲み込むころになると後を引く味つけのおかげでもうひとつと手が伸びるくらいだった。
口の中に残った余韻を舌で剥がしながら、ところで、とデルウハが呟く。
「日本ではメジャーなのか、これ」
「いや、極マイナーですな」
「そんなものをわざわざ? 限られたリソースで?」
「この地に縁がある食文化なので。郷土意識というものなのでしょう、たまに出すと居住区の老人たちが喜んだりもします」
ああ、だか、へえ、だか、よくわからない音が返事だった。
青柳は何事かを走り書いて、バインダーを閉じた。デルウハには読めない異国の文字。あれにはなにが書かれているのだろう。
「まあ、ハントレスたちにはかなり不評でしたが」
「出したのか……?」
「よかれと思ったのですがね。毒もありませんし、十分食えますよ」
この研究室の周辺にハントレスが寄り付かない理由がなんとなく察された。
「しかし、ふむ。デルウハ殿は甘いものはお好みで?」
「好き嫌いはない。近年は縁がなかったが」
ずず、とほうじ茶を啜る音。死んだ目の男が飲みかけのカップの中に声を溶かすように「そうですか」と呟いた。デルウハはここ数日で自分用かと錯覚しそうになるほど見慣れたマグカップを手にして、ふと、いまこの口でコーヒーなんぞ飲んだらどういう後味になるだろうかと逡巡した。
結論。これはこれで、あり。
**
復旧見込みが立った、と所長越しに正式な発表があって、ハントレスたちは色めきたってきゃあきゃあと喜んだ。気づけばパンなしの粥と芋とクラッカー生活もいつの間にか折り返しを迎えていて、もうすぐあの味気ないパンが戻ってくると思えば代わり映えのない雪景色もより眩しく見えるというものだ。
日々対峙することで対処法についての経験値が上がってきた対イペリット戦闘であっても、一度に双方向から襲い掛かられてはひとたまりもない。デルウハはいつかが前方にしか意識が向いていないことを知りながら自らを狙うイペリットの注意を逸らし、彼女が挟撃されているのに背を向けて大砲へと走った。ぐちゃぐちゃになったイペリットと混ざり合っていた遺体を引きずり出したその手で、デルウハはそっとそれをつまんだ。
「たしかに、趣向が変わった」
「そろそろこういうのも召し上がってもらおうかと」
ほう、とデルウハは手元の物体を四方から観察した。
木でできたバーベキュー串に白くて丸いものが三つ並んで刺さっている。見た目はやわらかそうだが粘着質にも感じられる。大きさからしてマシュマロだろうか、それにしては表面がやけにつるりとしているようだ。その球体の上に塗りたくられている白や緑のペーストの正体も検討がつかない。
「上のペーストは何だ」
「原材料は豆です」
「豆」
「本体はよく噛んでください。過去には毎年死人が出た食べ物ですので」
「……毒か?」
「ある意味そうかもしれませんがね」
青柳に促されるまま串の根元を摘まむ。ずっしりとした重み。おもむろに小さな球に囓り付くと、途端に粘度の高い甘みが上顎に張り付いた。見た目からワカモレを想定していたデルウハにとってこれは未知の味、そして未知の食感だった。この柔らかいようで噛みきれない球はなんだ? 本体は噛み締めるほどに甘みを増し、どこか青いペーストの後味と混じってあっという間に消えていった。
「甘い」
「ええ、しかも高カロリー。この二本でパンを超えます」
「なるほど。カロリーが高いものはいい。が、腹は膨らまんな」
「量を食べる想定ではないですからな」
続いて白いペーストのものにも口を付ける。緑同様のねっとりとした食感、緑以上のいっそ凶暴なほどざらついた甘さ。聞けば苦い茶と合わせて食べることを前提に作られた由緒正しい甘味特化のデザートらしい。これも居住区の老人趣味か、とその時のデルウハはとくに言及しなかったが、これに関しては青柳個人の趣味による面も大きいとは後で知ったことだった。
デルウハが口の中にへばりついた風味をコーヒーで洗い流していると、青柳がマグカップを傾けながら「これは余談ですが」と口を開いた。
「先ほど『毒か』と問われましたが。白い方は毒です」
「…………」
「具合は如何ですか?」
「…………お前」
デルウハは半目のまま、バインダーを小脇に抱えた青柳を見上げた。
「冗談が下手か?」
「そのようですな。慣れないことはしないほうがいいらしい」
「どこまで本当だ」
「正確には原材料を生で食うと毒です」
「はあ」
「毒があるというとふぐ刺しなんてのも有名ですが、私は長野県の免許を持ってないもので」
ふうん、と生返事をしながらデルウハは串を持ち上げて振る。
「お前らは何でも食うな」
「毒があっても調理でなんとかなるなら食えますよ」
「いいことだ」
「毒性の強い芋も、乾燥させて粉にしたあと水で練ってから石灰水と炭酸水を混ぜたもので煮固めたら食えますからね」
「なんて?」
冗談かと思って表情を窺ったが、こちらを見下ろす青柳は至っていつも通りの真顔だった。こいつはどんな顔であの呪文を、と先ほどの早口言葉をもう一度聞きたいような気持ちになったが、賢明なデルウハは黙って頷くに留めた。
彼が皿を下げるために盆を用意するのを眺めていると、ふと奥の扉に視線が行き着く。
「青柳殿はいつも自分で調理を?」
「ええ、研究も培養も調理も向こうの部屋です」
「そりゃあ、扉の先は黄金の国もかくやというわけだ」
「あなたのような奇特な人にとってはそうかもしれませんな」
青柳はまるで冗談を聞いたような反応をしたが、デルウハにとっては違った。あの扉の先、男が管理している閉ざされた世界にはしばらく飢えずに済むくらいの研究資産が眠っている。それは今は大人しくしている男の獣性を大いに刺激する事実である。
「……そうか」
「青柳殿?」
「……毒のないふぐを作れば免許がなくとも捌ける……?」
そして、ぶつぶつと何事かを呟いて手元のバインダーをメモだらけにし始めた男もまた、ある種の狂気を秘めた人間なのかもしれなかった。
**
故障していた箇所を含めた結合試験が終わり、沈黙を貫いていた機材は明日から無事に稼働する見込みだという嬉しいニュースが長野山中の秘密研究所を駆け巡った。研究者や技術者、吉永に所長も皆が素直に喜びの声を上げたが、しかし、その中にハントレスたちの姿はひとつもなかった。
誰もが予期せぬ不運な事故はある。誰かがコツンと蹴り上げた石ころによって作動した偶発的で無慈悲なルーブ・ゴールドバーグ・マシンの凶刃がむつを物言わぬ肉塊に変えてしまった。よりによってデルウハと二人きりのときに。現場だけ見れば誰もが
「おお」
その日、青柳が差し出した皿を見てデルウハはここ一番の反応を見せた。
「白いパン!」
「小麦由来でないので期待した味ではないかもしれませんがね」
「いや、だとしてもありがたい」
小ぶりな皿にひとつ、丸くて白いパンが載せられている。まだほのかに湯気を上げているところから新しいものだということがわかって、デルウハは思わず口元が綻ぶのを自覚した。温かい食事。柔らかいパン。素材が違うとはいえ、日々焦がれてやまないものとの再会は思った以上に男の胸を熱くさせた。
「こいつは色んな意味で試作品でして」
「ほう」
「手持ちの材料で初めて作りました」
「その心は?」
「小麦不足の中でパンを食いたい人間が居るようだったので」
そりゃあ、難儀な人間も居るものだ。静かに喉を鳴らして笑って、デルウハは割り開いたパンの横腹に大口を開けて食らいついた。
確かに食べ慣れた味とは違う。むっちりとした食感はベーグルに似たものを感じたし、ふかふかとしているわけでもなければ香ばしさがあるわけでもない。おそらくサラミとのコンビネーションもそう良くはないだろう。だとしても、これは間違いなくパンだった。
「昨日のと似た味がするな」
「ご明察。原料が同じです」
「悪くない」
「何よりですな」
青柳はいつも通りにバインダーに何かを書き付けたが、ここ数日間で一番の文字数を付けていた気がする。間に挟む講釈もまた三割増しといったところ。作ったものに反応が返ってきたことに、案外わかりやすくテンションが上がっているようだった。初めて顔を合わせた日よりずっと年相応の目をしている、と思った。
青柳は隈の浮いた目元を擦りながらガチャガチャと手元で大きな錠を外し、奥の部屋に引っ込んで、二人分のマグカップを手に出てきた。心なしか濃く淹れられたコーヒーを啜りながらデルウハはちらりと扉に視線を投げる。通常の部屋に設えられた鍵とは別に、追加のダイヤル式錠。
「前から気になってたんだが、ここは随分と厳重に鍵を掛けるんだな」
「食用の嗜好品には長期間の培養が必須となる貴重な食材を使っているもので」
確かにそうだろう。盗難被害などが出たら事だ。閉鎖空間での疑心暗鬼によって世界最後の砦が崩れれば笑い話にもなりはしない。
「技術班の特注品で、壊すにも随分と手間ですがね」
「五桁のアルファベット式ダイヤル錠とは珍しい」
「ワードも定期更新が義務付けられています」
「まめだな。忘れたらどうする」
「忘れないよう覚えやすいものに」
「ほお、たとえば」
「例としては……好物とかですな」
「へえ」
きれいに空になった皿を満足そうに見下ろしながら、眠たげに瞬いた青柳はいま思い出したように「そういえば」と呟いた。
「明日には本物が食えるそうですよ」
「らしいな。短いようで長い六日間だった」
「おっしゃる通り」
きちんとパンが配給される生活に戻れば、この奇妙な間食の時間も終わりだ。そもそもこの陰気な男が研究している食用嗜好品は手間が掛かるが高品質ということで、青柳主催の試食会は本地下施設においてそれなりに人気のあるイベントらしい。そんなレアカードをデルウハのためだけに切った所長がどれほどこの事態を重く見ていたかは、推して知るべしというところであろう。
「気は紛らわされましたかな」
「まあ、いい経験にはなったな……」
「そうですか。では、明日はとっておきをお出ししましょうか」
デルウハはコーヒーを啜るのを止め、ゆっくりと青柳を見た。不健康そうな男は見慣れた真面目な顔をしたまま立っている。
「……とっておき? 明日? そりゃまたどうしてだ」
「どうしてでしょうね」
質問に質問で返され、行きすぎた合理主義の男は片眉を動かした。だが、相対するマッド寄り研究者もなぜかふしぎそうな顔をしていたので、すぐに毒気が抜かれてしまった。
この男のとっておきは想像が付かない。デルウハは逡巡の後、爽やかな笑顔を浮かべた。
**
平和な日だった。
神は六日で世界を想像し、七日目にやっと休んだという。六日で限られた資材を駆使して最善を尽くした技術者たちによってようやくパンを取り戻した人々を祝福したのか、その日はイペリットでさえ束の間の惰眠を貪っていたようだった。
差し出されたのは色の薄い腸詰めだった。白い皿にごろりと身を横たえる腸詰めは、まるで静物画の一部であるかのような妙な存在感を放っていた。
添えられたナイフとフォークを手に指定席に座るデルウハの表情はいつも通り。青柳は何も言わずにその様子を見ている。この状況そのものが実験のひとつだと言わんばかりの凪いだ目だった。
太い指で掴んだナイフがおもむろに突き入れられ、刃が筒を切り分ける。断面は想像したとおりあっさりした色をしていた。脂が多そうにも見えないので肉ではないのかもしれない。
口に入れると、見た目通りの淡泊な味がした。だからこそ噛んだ瞬間に感じる脂の風味がよく思えるのかもしれない。悪くはない。しかし、これが『とっておき』?
「これは?」
きちんと飲み込む前に問いかけると、青柳は薄く笑った。
「――日本人というのは食にこだわりがありまして。毒があろうが見た目が多少グロかろうが、煮て焼いて克服してどうにでもしてきました」
蕩々と滑り落ちてくる青柳の演説に、デルウハは異議を唱えない。毒を克服するために多種多様な調理法を試し、見た目がどうであれ可食部があると踏めば果敢に挑戦する。極東の島国に独自の食文化を根付かせた民族性はここ数日で十分実感している。
「食は心の拠り所ですからな」
「それには同感する」
「そして、私はひとつの可能性に希望を見ている」
やけに仰々しい言葉に、デルウハはふやけた腸詰めのかけらを飲み込んだ。
「食用転換できたら劇的に環境が変わるものがあるのです」
「興味深い話だ」
「いま間違いなく地上で一番多く、食べ応えがありそうに巨大で、我々の人知を超えたもの」
ナイフを引いていた手が、止まる。
まさか。こいつ。そんな。ばかな。
――――正気か?
咄嗟に顔を上げると、青柳の黒い目と視線がぶつかった。常人の発想とは思えず、過去の戦場で見てきた恐怖や抑圧から齎された狂気の類いがありやしないかと目の奥を探ってみても、そこにはただ何もありはしなかった。ただ、純粋な、興味。『
「マスタードでも塗れば案外イケるかもしれませんからな」
言葉を失っていたデルウハを横目に、青柳は白衣のポケットからマスタードの瓶をドンと机に置いた。急な手品めいたパフォーマンスに困惑した次の瞬間、猛烈な嫌な予感がデルウハの背筋を撫でた。
「……ところで青柳殿。
「ご安心を。ただの肉風大豆の腸詰めです」
悪趣味なやつ!!
デルウハは乱暴にマスタードをひったくり、薄味の代用肉ソーセージにめちゃくちゃに塗りたくってやった。そんな子ども染みた仕草を見ながら、青柳は愉快そうに口角を上げた声を出して続けた。
「この話を笑わなかったのはあなたが初めてです」
ツンとする辛みを口いっぱい鼻いっぱいで味わっているデルウハが目だけで返事をすると、青柳は青年らしい笑い方をして首を傾げた。
「試すようなことをして申し訳ない。外から来た軍人というのがどういう人なのか知りたくなりまして」
「へえ、どう思った」
「少なくとも私はあなたのことが嫌いではありませんな」
べろりと口の中を舐めながらナイフを置くと、青柳は事前に用意しておいたのだろう湯気を上げるマグカップを差し出して言った。
「いざとなればあなたと私で、最後の晩餐をしましょうか」
「それは光栄なことだな」
啜ったコーヒーは熱く、目の前の男は笑っていた。
それは、もしかしたら実現するかもしれない可能性の内のひとつだった。
「ああっ、デルウハ殿! 聞いて下さい、朗報です! 今回の改修で技術班が手を加えたことでパンの風味がより味わい深くなったそうです!」
青柳の研究室から部屋に戻る途中、声色の明るい所長が手を振りながら寄ってきた。この研究所の人々は妙に緊張感がない。それがいいところでも悪いところでもあるとは軍人の視点によるものだろうか。
にこにこした所長はデルウハの隣に並び、遠慮がちに問いかける。
「ところで……あの……青柳の研究はお気に召しましたか……?」
「ああ、なかなかよかった」
好感触の返答に、所長の表情がぱっと華やぐ。
「そうですか! よかった! いや、青柳の報告書でも多種多様なものをお出しして拒否反応もなく良い意見を頂けたとあったのですが、双方向の視点からお伺いできればと思いまして」
ああ、杞憂だった。本心からの安堵が所長の唇をにこにこさせてしまう。
デルウハと青柳、ベクトルは違うが振り切れている二人のウマが合うか、またこの火を失ったような六日間を無事に終えられるかということに随分と気を揉まされたから、今夜こそ安心した気持ちでゆったりと眠りに就くことができそうだと心が浮き足立っていた。
「――ああ、そうだ。知っていたら教えてほしいんだが」
「ええ、はい。私でわかれば」
だから、所長はまだ気づかない。質問の意図に気づかない。
デルウハがこういう笑顔を浮かべるのはどういうときかというのを、まだ知らずにいられたからだった。
「青柳の好物に心当たりはあるか?」