澄んだ空気が辺り一帯を満たす。
田舎の山奥というものは、得てして空気が綺麗だ。
その空気をいっぱいに胸の中に吸い込む、一人の男がいた。
綺麗に星が光る、澄んだ空気ゆえの特権。
男はそれを満足に味わいながら、ごろんと山の奥にある野原に寝っ転がっていた。
たまの休みにここに来た……という割には若い風体で、恐らくは学生なのだろう。
試験疲れか何かを癒すために来たのかは分からないが、慣れ親しんだ様子からしてきっとここはいつも来る場所であるように思える。
この野原は、青年の癒しの場所なのだ。
すぅ、と息を吸う。ふぅ、と吐く。
それの、繰り返し。
ただ、深呼吸をして空を見ている。
人の声や機械、おおよそ自然の物の音が何も感じられない静寂。
風と、虫の声。木が擦れる音。
ここは現世において何にも代えがたい現実逃避の一つのスポットである。
少なくとも、彼にとってはそうなのだろう。
現に、もう2時間もここに居る。
何をするわけでもなかった彼だが、ふと一つの物に目が動いた。
それは、漆黒に浮かぶ無数の煌めき。
星空の中に浮かぶ、さして明るいわけでもない光。
それがどことなく目についた。
視界の先にある星が何という名前なのか、星座の一部なのか、どのくらい遠いのか。
全くもって分からなかったが、それでよかった。
少し、綺麗だと思った。それで、良かった。
誰かがこの星を見ているだろうか。
なら、きっとそれだけで、とても美しいことなのだろう。
青年はただ、星を見ていた。
ガラリ。
騒音がする隣室から逃げるように、テラス戸を開けて縁台に出る。
サンダルを履き、庭に置いてある椅子に座りこんだ。
もうじき彼は50才になる。
娘も出来た。妻と二人で暮らし、愛だけを考えていればいい頃とは変わった。
反抗期を迎えた娘は、目に入れても痛くない程だけれど、彼女はそれを嫌がるだろう。
だから、彼は外に出て週に一回の楽しみのビールを啜る。
それしか楽しみが無いわけではないが、どうにも、家の中にいるよりも外にいた方が彼女らも気分がすぐれるだろう、と。
不器用な彼なりの気遣いであった。
歳を重ねて、また、見えてくるものがある。
それは良いものなのかは知らないが、彼にとっては何も変わったように思えなかった。
いつもと同じく、変わらない空。
家族で山にハイキングに行ったときに買ったものだったか、寝っ転がれる椅子のドリンクホルダーに缶ビールを差し込む。
もうそんなことは出来ないのだろうと思うと、いやになるようであるが、それが親となるという事なのだろう。
つう、と涙が頬を伝う感覚を感じて、幻だったと気付く。
もうずっと、涙を流したことは無かった。
歳を重ねるという事は、辛い事だ。
もう一口、酒を胃へと流し込んで、ぼうっとする。
酒を楽しんで飲むことも、少なくなった。
昔を思いながら、空を見る。
あの山で見た景色を求めるように、目を動かす。
八月だ。あの時も、八月だった。
蒸し暑さが、流れる風で飛んでいく。
飛行機のちかちかと光る信号が、何故かとても悲しく見えた。
そんな時、一つの星に目が引っかかった。
あぁ、あの星は。
山の中腹で、小屋に泊まって娘と一緒に見た星だ。
どれだい? なんて何回も聞いてしまったね。
白色に光るその星はたしか、何かの星座の一部だったはずだ。
それが何かは、忘れてしまったけれど。
たしか、右足の部分。
はしゃぐ娘の顔は、今でも網膜に焼き付いているようで。
今度は本当に、少し涙が零れた。
一滴だけ垂れた水滴が、あの日、娘と見ていた星のように。
白く煌めくその星を、ただ、見ていた。
みゃおん。
ある田舎の家の屋根。
灰色の猫が一鳴きした。
猫を月明かりが照らし、同性すらも魅了するほどの毛並みが艶やかに光を反射する。
何個かの家をめぐって、今日分の食料を確保できたのはいいが、少し疲れた。
渦を巻くようにくるりと寝転がり、あくびをする。
もう4歳になる彼は、いつも通りの日常をただ送っているだけ。
ただ、それだけでここ一帯の野良猫たちから尊敬されるような猫になっていた。
正式にボスなどと周りから言われるわけでもなく、集会にも参加しないような一匹狼だったが、それでも彼は一目置かれていた。
何故なのか。様々な要因がある。
毛並みがいい。色が美しい。狩りも上手い。何しろ彼は、まるで英雄のようだった。
しかし、彼は物語の英雄のように一つの悩みを抱えている。
それが、彼が幾多の美猫から言い寄られていても一顧だにしない理由だった。
彼がまだ若いころ、ある家の屋根から、隣の家の窓を覗いていた。
異種族に恋をするというのは、よくある英雄譚だろう。
つまるところ、彼は猫でありながら叙事詩に語られるようなコテコテさを兼ね備えているということだ。
思いを抱くこと三年。
彼は未だに見ているだけ。それでよかった。
彼女は、猫が好きだった。
ある日偶然、彼が彼女にばったりと出くわしたことがあった。
その時ばかりは、彼も彼女にすり寄り甘えるように声を上げた。
「わぁ、かわいい!」
腹を見せて柔らかく撫でられる。
ごろんと無防備に身体を投げ出して、彼はされるがままになっていた。
数分、彼女が猫を撫でていると、突然くしゃみをし始めた。
くしゅん、くしゅん。
彼はすくりと態勢を立て直して、困惑の眼を向ける。
あぁ、びっくりさせちゃったね、ごめんね……
優しい彼女は、彼を気遣ってくれていたが、灰猫はそれどころではなかった。
どうして彼女は突然くしゃみをしたのだろう?
ごめん、ごめんね……私、猫アレルギーで……
彼はその言葉こそ理解していなかったが、なんとなく、自分が彼女とは一緒に居られないのだと気づいた。
最後に一つみゃおんと鳴いて、悲しそうな顔から眼を背けて立ち去った。
それしかないのだと、英雄は気づいていた。
今日もまた、屋根の上からその部屋の窓を覗く。
丸くなったその姿は、どうにもやるせない感情の表れなのだろうか。
じぃと見つめるけれど、部屋の明かりは点いていない。
どうにも、月が高くなってしまった。
ぐるると唸って、恨めし気に空を見る。
来るのが、今日は遅かった。
見上げた空から降り下る光が、灰の毛に反射する。
空など普段見ることはなかったと、彼はふと気づいた。
綺麗なものだ、思いの外。
不思議と、彼は一つの星に目を奪われていた。
それは大きく輝く丸い月ではなく、眩く光る星でもなかった。
だが、そのさして目立たない光が、彼にはどうにも魅力的に見えた。
細い眼を真っ直ぐに捉え、首を軽く傾げる。
暫しの時を経て、彼はようやく合点がいったようで、より深く渦を巻いた。
その心の内を推し量ることはできないが、きっと彼はこう思ったのだろう。
あぁ、彼女に似ている。
灰猫は心の奥に彼女を思い、叶わぬ恋を抱き。
ずっと、そのまま。ただ、星を見ていた。
誰かを罵る声が響く。
田園の隙間を抜けて、それは溶けるように消えた。
がんがんと金属を蹴る音がする。
それも、流れる水の音に消えた。
声は誰かに恨み言を流し続ける。
鼻を啜る音が混じるそれは、高い声でわめきながら、プラスチックの板を叩いて受け取り口の下を蹴る。
もうずいぶん前から泣き続けているのだろう。目に見えて力が弱くなってきていた。
最後の一発と言わんばかりに渾身の力を込めた蹴りは、当たり所が悪かったのだろう。
ガツンと音を鳴らして、それきり叩く音は聞こえなくなった。
代わりに、呻き声がすすり泣く声に混じる。
少し時間が経って、彼女は飲み物を購入していた。
缶の炭酸飲料を開け、無心で胃に注ぐ。
暫く微かに泣き声を上げていたが、一時間ほどでようやく落ち着いた。
彼女は、今日彼氏と別れていた。
原因は全くもって彼の方にあるのであるが、彼女は彼に惚れ切っていたのが運が悪い。
彼は誠実な付き合いをしていた訳ではなかったという、単純なことが彼女にとっては酷く理解しがたいことだった。
あるいは、この悲しみ様を見る限り理解していたのかもしれないけれど。
目元を赤く腫らしながら、電灯の下にある自販機にもたれかかる。
今日一日は、実にハードだった。
久しぶりの彼とのデートの最中に二股が発覚したことも、自分を本命と言ってくれなかったことも。
実に、ハードだった。
「馬鹿ぁ……」
ただの葡萄の炭酸を、アルコールが入っているかのように飲む。
酔わなくては、どうにもならぬのだろうと。
良くないと分かっているけれど、遣る瀬無さが強く心をはためかせる。
最後の一滴まで、とはいかず。
飲み切ったと思って缶を放り投げて、中の水滴が顔に飛ぶ。
ぐい、と手でそれを拭きとって。ごつんと頭を自販機にぶつけた。
足の先から手の甲まで脱力させ切ってアスファルトに投げ出す。
何処から間違えてしまったのだろう。
それを考えて、ぼうと上を向き瞳を細める。
思ったより、電灯が眩しい。
また、じわりと涙が溢れてきた。
どうして、なんで、ねぇ。
言葉の端から、諦観が匂う。
もう叶わないと、とっくに分かってなどいるのだ。
それでも、諦められないと言葉だけは零す。
人間は、泥臭いものだ。
電灯に虫がまとわりつく。
光の隙間を抜けて、一つの星が目に入った。
それはそんなに綺麗なわけでもなく、むしろくすんで見えるようで。
全く、自分のようだと思った。
ふ、と自嘲の笑いが漏れる。
それきり、彼女はじぃ、と。そのままの姿勢で動かず。
何かに救いを求めるように、ただ、星を見ていた。
二階建ての家。ガレージも二つあり、裏には畑もある。
そんな田舎では平均ぐらいの家の庭に、天体望遠鏡があった。
それを操作しているのは、十数歳くらいの少年だった。
数分前からじっと変わらず、眺めている星は、クサイ・カニス マーイョリスという。
おおいぬ座ξ星。だから彼はクサイと名を冠している。
何か引っかかるものがあるのか、ずっと彼はそれを見ていた。
「優しく穏やかな純朴さ、か」
それはその星の星言葉。
どの星にも、とはいかないけれど。有名な星にはそれが付いている。
脳の中でその言葉を反響させて、また覗く。
もっと幼い子供の頃から、彼は星が好きだった。
昔に父が買ってくれた大きい望遠鏡。それが何というかも知らずに、彼は宇宙を覗いていた。
火星は、これ。水星は、これ。
星をただ眺めているだけでは飽き足らず、彼は一か月も経てば星の動きをノートに取り始めた。
火星は昨日からここに動いた。
水星は、月は。
そのうちに、彼のノートは一枚に小宇宙を形作っていた。
規則正しい動きの星が反対に動くということも、彼は知った。
最初こそ理解に苦しんだが、直ぐに理解した。
過去の人間が作り上げた、地動説を知っていたからだ。
自分たちは、動く。星は、動く。
過去の偉人たちが作り上げた、何よりも熱い、真理への思いを、情熱を。
言葉として、意志として。彼は理解していた。
文字は、奇蹟。彼はどこかで聞いたその言葉を考えていた。
時間も、空間も超えて意思を伝えることが出来る。
思いを継承することが出来る。
しかし、全くそれは、星も同じような気がしていた。
星は、遥か彼方から光を自分たちに伝えてくる。
既に存在していないかもしれないそれが、神秘を与えてくれる。
場所を超えて、時間を超えて。
一つの星をじっと見つめる。
過去の誰かと、未来の誰かと、同じ星を見つめる。
ただそれだけのことが、きっと何より美しい。
人は、ただ、星を見ていた。