ポケットモンスター剣盾 外伝 祈望のアカシア 作:甘井モナカ
《シュートタワー》の最上階。
巨大な文字盤の裏側に限りなく広がる空間の中で、僕は彼女と対峙した。
文字盤の裏に単独で存在する装飾が施された椅子。
その前に立たずむ彼女は喪服を連想させる漆黒を身に着けている。
世界を拒絶するかのような深い闇を纏う彼女の目はどこまでも深く、暗く、冷たかった。
「……ここまで来たんだね」
一切の抑揚が感じられない声。それはいつも聞いていたはずの声とは似ても似つかないもの。
「もうすぐ幸せな世界ができるんだよ。誰も傷つかない、悲しまない夢の世界が」
『総帥』と呼ばれていた彼女が歩を進める。
「君もあるでしょ?現実では手が届かなかった夢。叶えられなかった約束とか」
階段を一段一段降りて僕のほうへ。
「私はそれらを叶えられる世界を作るの」
彼女の身体から発するプレッシャーが大きくなっていくのが分かる。
視界が霞む。
手足に微かな震えが走る。
頬を伝う汗は妙に冷たい。
「だから、邪魔しないでほしいな。君には見ていて欲しいんだよ。……私の晴れ姿」
呟かれた言葉が反響しながら虚空へと溶けていく。
頭を包み隠していたフードをおもむろに取った彼女は口元を緩めた。
それはいつもの笑顔ではなく、どこか諦め、寂しさを滲ませていたもの。
胸の奥を鈍い痛みが走り抜けた。
そんな顔は、見たくなかった。
僕の知る彼女はこんな悲しい笑い方をしない。
眼前に浮かぶ笑顔から逃れるように僕は視線を落とした。
地面に転がっていた石ころが、視界の端に映り込む。
呼吸が上手くできない。
狭窄した視界が不自然に揺らぐ。打ち捨てられた小石の陰影が蠢く。
自身の心臓の鼓動が血肉を伝って、鼓膜を震わせる。一定の律動が徐々に全身を包み込んでいく。
あの人は強い。きっとこの世界の誰よりも。
でも、僕たちだって一人じゃない。思いを、願いを託されてここに来たんだ。
いつの間にか伸びていた指先がベルトのホルダーに付いているボールへ触れる。
そうだろ?相棒。
『イヌヌワン!』
指先にほんの僅かな電撃が走った。
ボールから、確かに聞こえた相棒の返答で僕の体の中に熱が戻る。
止めるべき相手を見据えるために、僕は再び顔を上げた。
「……断ります。僕は、あなたを止めるためにここへ来たんだ」
挑むように、祈るように、僕は右手でつかんだボールを彼女に向けて突き出す。
突き出したボールの先に佇む彼女の動きが止まった。
僅かな沈黙の後。
「……そっか。やっぱりこうなるんだね」
ふと、彼女の顔から笑顔が消えた。
明確に膨れあがる彼女からの敵意。
先程とは比べ物にならないほどの重圧が薄れかけたいた恐怖心を呼び起こす。
自身の身体に這い寄る震えを、歯を食いしばって必死に抑えこむ。
空間を自身の情調で満たした彼女が動き出す。
手を後ろに回して、前に力なく出された掌には1つのボールが握られている。
「じゅあ力づくだ。少し、動けないようにするから」
自分の敗北を知らない『総帥』の絶対的な勝利宣言。
場の緊張が最大に高まる中、脳裏に浮かび上がるのは追憶の情景。
それは違う。
あなたが言ったんだ。教えてくれたんだ。
いつか聞いた彼女の言葉が僕の内側で反芻する。
『俯いてるだけじゃゴールは見えないよ』
本当に忘れようとしているのか。
あの時の旅路を、言葉を無かったことにするのか。
ゆらり、と。
体の奥底で揺らいでいた熱が胎動した。
視界に灼熱が灯る。
ボールを握る手に力が籠る。
身体の内側で広がる想いが僕を突き動かす。
「それでも、僕は……あなたを止めたいっ。止めなきゃならないんだっ!」
あなた一人で、その先へは行かせない。
だって。そんなの、苦しくて辛いだけだから。
身体から溢れ出る熱の本流に身を任せて、僕は叫んだ。
「ワンパチ!僕に力を貸せ!」
「……レジエレキ」
僕と彼女が投げたボールの分割面から閃光が溢れ出し、雷光を纏う体躯が現れる。
闘いの合図を刻むかの様に文字盤の長針が動く。
体の芯まで揺さぶられるほどの重厚な鐘の音に周囲は包まれた。
言葉で伝わらないのなら、力づくで思い出させてやる。
今までのあなたが僕にくれたものを。
この世界が眠りにつき、新たな世界が目覚めるまで、残りわずか。
始まる。世界を賭けたポケモンバトルが。