ポケットモンスター剣盾 外伝 祈望のアカシア 作:甘井モナカ
アラームが鳴る前に僕は目覚まし時計のスイッチを切った。
いつもならたっぷり後2時間は寝るのだが、今日は違う。
体の奥から湧き出る期待と興奮を抑えながら、僕は布団から起き上がり、テレビをつけた。
『……今年も恒例のジムチャレンジの季節がやってきましたね!現チャンピオンが誕生してから今年で10年目!今年こそは伝説が破られるのでしょうか!?』
早朝のニュース番組での特集が組まれているようだ。
僕は、部屋のカーテンを開けながら横目で再びテレビに目を向ける。
『……現チャンピオンといえば強さだけでなく、いつまでも変わらない可憐な姿、天真爛漫なメディア対応が全国のファンを熱狂させていますよね!ぶっちゃけ私もその中の一人です!そういえば、この前も彼女のコーデがSNSで大きな話題になったのは記憶に新しいですね!握手会・サイン会が長蛇の列になるのは当たり前、あのお姿を生で見られるのなら私は5時間でも6時間でも待てますよ!まぁチケットいつも当たらないので高額値で買って……』
だいぶ冷静さを欠いた解説だった。
暴走しているコメンテーターの周囲の人の顔がかなり引いている。
あそこの空気はきっと《ぜったいれいど》だ。
「朝から飛ばしてるなぁ……」
僕はくすっと笑いながら、周囲に目をやった。
窓から光が差し込み、部屋の輪郭が明るく照らし出される。
自室の壁に貼られている数々のポスターは話題のチャンピオンのものだった。隅にある棚には彼女が写っている写真立て、彼女のグッズ・フィギュアが大量に飾られている。
俗にいうオタク部屋と分類される部屋の主は自分も同じなのではと気づき、数秒固まった。
「ま、まぁこれからは気をつけます……」
画面で熱弁を続ける偉大な先人の姿を心に刻み、しばし胸の前で手を合わせ合掌。
ドンドン、と。
不意に部屋の扉の方から何かがぶつかる音が聞こえてきた。
おっと。こっちが起きたのに気づいたみたいだな。
僕はベットから立ち上がり、首筋をさすりながら部屋のドアを開ける。
『イヌヌワン!』
直後、僕の足元に白と黄色の毛玉が飛びついてきた。
モフモフした感触を足を通して伝えてくる毛玉は、動く気配のない僕に痺れを切らしたのか顔を上げる。
愛らしい目に、綺麗な舌を見せてくる口元。首元には触らずともわかるモフモフとしたマフラー状の毛束が生え揃う。
僕の家で預かってるポケモン、ワンパチは足元を何度も駆け回っていた。
「……分かったよワンパチ。すぐ朝ご飯にするから待ってね?」
足元から伝わるくすぐったさに観念して、僕はワンパチの主張に従うことを伝えた。
黄色い子犬は満足したのか、しっぽを振りながらキッチンの有る一階へ駆けていく。
僕もその後に続いて階段を下りて1階のキッチンへ。
両親が共働きのため、家にいるのは僕とワンパチな事が多い。
ワンパチのおねだりに屈する場面が増えてきたので一人と一匹しかいないこの家のヒエラルキーで僕がワンパチの下になる日も近いのかも知れない。まあ、あんなに愛らしい主人なら問題ないか。
途中で洗面室に通りかかり、鏡に僕の姿が写り込む。
寝ぐせで所々クセが強調されてしまっている薄水色の髪。両親譲りの鮮やかな碧眼。それを台無しかけている目の下の隈。
相変わらずの自分の顔に衝撃を受けた鏡の奥の僕は口元が引きつっていた。
「取り合えず、ご飯食べたら顔を洗うか……」
思考が唐突に固まってから数刻。
これからの行動計画を無理矢理ひねり出して僕はショックから意識を戻した。
『ワンパ!イヌヌワン!』
廊下から聞こえてくる鳴き声。
振り返るとキッチンの入り口からワンパチが抗議するかのような声を張り上げていた。
「『早く!朝飯!』って感じっすかね。ごめんよ。すぐ用意するから」
ポケモンのセリフを想像して僕は再びキッチンへ向かいながら、思わず苦笑した。
やはり興奮が抑えきれていないのだろう、普段は口にしない言葉が出てくる。
それもそうか。
僕は今日がどういった日か改めて思い出した。
そう。今日は僕、マーチがトレーナーとしてポケモンと人々が暮らすガラル地方を冒険する旅立ちの日。
そして願わくば、ポケモンリーグで勝ち上がり、チャンピオンのお姿を生で拝見しにいくのだ。
僕の脳裏で神々しい彼女の姿を映し出され、想像の膨張が加速する。
あ、握手とかもできるのかなぁ。近づくって事は匂いとか香っちゃったり!?
妄想の色が桃色、肌色に変わっていくのが分かる。でも僕も男なんだし仕方ないのでは?……ぐへへ。
頭の中が煩悩で満たされるその時、僕は自身を貫く目線に気づいた。
顔を向けると、足元のワンパチから猛烈に発せられる冷ややかの眼差し。
目を器用に逆三角形の形にしていて端からみたらイタくて、かわいそうな者を見るそれだった。
「か、畏まりました!非礼のお詫びにとびっきりの品をご用意いたします!」
≪ぜったいれいど≫のような視線から逃れるべく、僕は急いで朝食の支度にかかる。先人の偉大な教えを無下にした事を、僕は同じ傷を負ってから気づいた。
ワンパチと二人で朝食を取った後、僕は身支度を済ませるべく部屋を駆けまわっていた。
『……続いてのニュースです。一部地方で見受けられたポケモンが突如長時間眠ってしまう症例ですが、研究委員会はこれを《眠り病》と名付け、現地調査を開始しました』
バックの中へ度に必要なものを詰めていると不意に速報が流れた。
聞きなれない単語が気になり、テレビに目を向ける。
『……ポケモンが2~3日深い眠りにつく症状が多く。眠った後も特に目立った問題が起こらないため、活性化したエスパータイプポケモンのさいみんじゅつが原因なのではないかという意見もあり……』
テレビからはニュースキャスターの説明が続く。
へぇ。3日も眠っていてお腹とか空かないのかなぁ?……おっと。見入ってる場合じゃない。
僕は手にしたリモコンを操作して、テレビを消した。
手元に散乱した服の数々へ視線を戻し、一心不乱に畳み込んでいく。
視界の端からちょっかいを仕掛けてくるワンパチを躱して、僕は服装を整理した。
そして、ふと手が止まる。
眼前に広がるのは赤一色。シャツからズボンに下着まで、全てが赤色だった。
「あちゃあ……」
僕は額に滲む汗を拭いながらため息をついた。
脳裏に浮かび上がるのは、過去の情景の一幕。
『勝負時の服装の色?……赤色に決まっている。なぜならポテンシャルが3倍になるからな』
『……息子に嘘を刷り込むのは止めてもらいたいな。第一、あれは推力が1.3倍になっただけだろう?』
『ええい……!男同士の間に入るな……!』
『マーチ。こんなホラ吹きの事は気にせず、お前の好きな色を選ぶといいさ。……この黒色とかはどうだ?』
『……そのファッションセンスは地球の重力に縛られてないか?』
何かと言い合うことが多かった僕の両親。食べ物や音楽も好みが分かれていたらしく、色に関してもご覧の通り。
昨日久しぶりに電話で声を聴いたせいだろうか。
唐突に蘇った幼い頃の記憶に、僕は吹き出すように頬を緩めた。僕の好きな色は青だから、実はどちらも関心がなかったのはここだけの話だ。
服装は準備しなおすとして、赤と黒か。……帽子と靴の色って事で勘弁してもらうか。
腕を組んで意識を思考の海へと飛ばしていた僕の視界に時計が映り込む。
長針と短針が約束の時間の6分前を示していた。
僕は二度見した。
それと同時にカチッと、長針が動く。
5分前。……ヤバい。遅刻する!
僕は飛び上がって、部屋中を駆け回った。
着替えと道具を片っ端からバックに詰め込んでいく。足元では、黄色い子犬が僕の動きを真似するかのように駆けまわっている。
普通の人では見逃しちゃう速度で準備を終えた僕は、そのまま玄関へと飛び込む。
手元に顔を突っ込んでくるワンパチを避けながら靴を履く。
靴紐を結び終えておもむろに顔を上げると、視界の端にあるものが映り込んだ。
それは、数年前に撮った家族の写真。
優しい眼差しを向ける両親に挟まれて、過去の自分がこちらに笑顔を向けていた。
だからなんだという感じだけれど。
僕は短く息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。一歩踏み出し、扉の前に立ってドアノブに手をかける。
掌から伝わるひんやりとした感触を知覚しながら、僕は振り向いた。
視界の奥で笑う過去の僕に対して、負けじと満面の笑みをお見舞いするために。
「今日が夢の第一歩だよ。行ってきます……!」
雲1つない快晴の下、僕とワンパチは猛ダッシュしていた。
「あぁぁぁぁぁっ……!」
苦しすぎて声にならない悲鳴を上げながら、目的地へ駆けていく。
「ワンパ!ワンパ!」
ワンパチは楽しそうに鳴き声を上げ左右に蛇行しながら走っていた。
段々と黄色い背中が小さくなっていく。
ちくしょう!この毛玉、ずいぶんと余裕そうだな。……こっちはもう膝にきてるよぉ。
朝早くからの思わぬ有酸素運動に心が折れそうになるが、今日は仕方ない。
今から向かう先は《ブラッシータウン》にある《ポケモン研究所》。
僕はこれから、かのチャンピオンも受けたとされる旅立ちの儀式をうけるのだ。
これから始まる旅の最初のお供となるポケモンの譲渡。
限られた人しか身に着ける事が出来るダイマックスバンドの贈呈。
偉大なるジムチャレンジへの推薦状の授与。
この後待ち受ける儀式に心臓が早鐘を打つのを感じながら、僕は研究所へ駆ける足を速めた。
不意に左わき腹に激痛が走り、足が止まる。
どうやら心臓が早鐘を打っていたのは別の理由のようだった。
遥か先から聞こえてくるワンパチの声を耳にしながら、僕は適度に休憩しながら研究所へ向かった。
研究所の門をくぐり抜け、ラストスパートをかける。
扉を開けて研究所に到着。
息を切らしながら、僕はスマホを取り出し、時刻を確認した。
「3分遅刻……!でも四捨五入すれば実質0。問題ナシ、ヨシ!」
「んな訳ないでしょ。遅刻は遅刻よ」
僕が現実逃避の呪文を唱えていると、異議を唱える声が聞こえた。
反響するかのように響いた声に、僕は弾かれたように顔を上げて周囲を見渡す。
研究所は吹き抜け構造になっていて一階と二階が大きな階段でつながっている。壁には大きな本棚がいくつもあり、難しい論文や研究資料の本が収まっていた。
ずっと見ていると目が回りそうになる部屋の中でその主が二階の手すりから顔を出していた。
「まぁ、別に遅れても問題なかったけど遅刻を認識しているのはいい事じゃん。その後の対応がまだまだだけどね」
額に乗せた眼鏡が日の光を反射させて瞬いた。
左手に紙の資料、右手にマグカップ。彼女は白衣を揺らしながら階段を下りてくる。
「模範解答は、『ごっめーん!こっちの時計3分遅れてた☆(てへぺろ)』だゾ♪」
最後の段差を飛び越えて、僕の前に勢いよく着地した。
良く分からないテンションで登場したが、彼女がこの研究所の長、ソニア博士だ。
「ソニアさん朝からキツいっす。……あんまり寝られてないんですか?」
遅刻した立場であまり強くは言えない。しかし、これをスルーして発生する地獄のような空気感に突入する度胸はなかったので、僕は慌てて口を開いた。
「なによぉー?深夜テンションで舞い上がってるのはそっちも同じじゃん。相変わらず立派な隈してるわよぉ?」
こちらの対応に不服なのか、ソニアさんが腰を折り僕の顔を覗き込むように近づけてくる。
白衣の下はゆったりとしたパジャマな様で、重力に負けて胸元が露わになっていく。
まずい。何がとは言わないけど。これ以上はいけない気がする……!
「ち、違います!僕のこれは日頃からですぅ!一過性のものじゃないんですぅ!」
「少年、顔が赤いぞぉー。図星でしょ?」
脳内で鳴り響いた警報に突き動かされるように、自分でも訳が分からない隈の肩を持つ反論をしながら、僕は急いで後ずさった。
僕の反応に満足したのか、ソニアさんはいたずらに成功した子供の様な笑みを浮かべる。
もういい年した大人なのに、この人は……。
頬に滲んだ冷や汗を拭いながら、僕は小さく息を吐いた。
「そーいう事でいいですよ。……それより、忘れてませんよね?今日は研究所のお手伝いじゃないですからね?」
今日必死になってここまで来た目的のため、僕は問いかけた。できる大人風にあえて大事なところは伏せて。
眼前に佇んだ彼女は、ゆっくりと姿勢を正すと静かにこちらに顔を向けた。
そして。
「へ?」
彼女の口から出て来たのは間の抜けた返事。
目を丸くしたソニアさんの表情に嫌な予感が脳裏をよぎった。
「いやだから、約束しましたよね?今日!」
「んー?」
「ほら、僕13歳になりました!」
「そーだね。この前3人でケーキ食べたね」
僕の誕生日に食べた、ソニアさんお手製のイチゴのシュートケーキだ。
スポンジがふわふわで絶妙な甘さのホイップとマッチしていた甘美な記憶が蘇る。
が。違う、流されるな。今はそんな場合じゃない。
「えっと。じゃあ、この季節といえば!」
「イチゴ狩り。あぁ桃狩りもいいかも」
甘い果実を頬張る想像しているのか、頬を膨らませて笑顔になるソニアさん。
……おいおい。まさか。
僕は眉を下げながら、食い気味にヒントを繰り出す。
「もうー。ジムチャレンジですよ!今日ポケモンとか推薦状とかくれるって話したじゃないですか」
「あ」
ソニアさんの表情が硬直する。
先程から嫌な予感が脳裏を離れないが今更どうしようも出来ない。
僕は縋るように目の前の白衣の女性を見つめた。
目をそらされた。
「まさか……」
「ちーがうって。ちょっと抜けてただけだよ。そう、そう……」
ソニアさんが手に持っていた資料とマグカップを置いて、広間を離れる。
3分後。
「ほ、ほーら、持ってきたよ。今日、からあんたのパートナーになる、ポケモン……!」
息を切らしながら戻ってきたソニアさんの手にはモンスターボールが握られていた。
どこかを全力疾走したのか、彼女は頭や白衣に葉っぱをくっつけて、かなり疲れ切った様子。
恐る恐るボールを受け取ったが、嫌な予感はいまだ止まらない。
「わ、わーい。僕のパートナーだ。ちなみに何タイプのポケモンですか?」
「……でんきだよ」
僕の口元がひきつった。
大丈夫。まだ決まった訳じゃない。ソニアさんを信じるんだ。
根拠のないソニア博士への熱い信頼感を頼りに僕はさらに踏み込んだ。
「ソニア博士、僕に預けてたあのポケモンって何タイプでしたっけ?」
「……でんきだね」
彼女は顔をそらした。
「ソニア博士がさっき走って捕まえてきた、このポケモンのタイプは?」
「……でんきだね」
僕は床に視線を落とした。心臓の鼓動が早まる。
僕の本能が『この先へは進むな。地獄だぞ』と警告しているのが分かる。
それでも。
最後の信頼感を絞り出すように、僕は彼女に向き直った。
「もうひとつ質問いいですか。……僕より先にここへ来たワンパチどこ行った?」
「……君のような勘のいい少年は嫌いだよ」
ソニア博士の横顔が怪しく光る。
僕はその場でスイッチを入れ、ボールの中に隠された秘密を解き明かす。
閃光を纏い、その場に現れたのは。
『イヌヌワン!』
黄色の毛玉だった。
僕らの間の空気を気にせず、ワンパチは嬉々として広間を走り回っていった。
背後で信頼感という文字が音を立てて崩れ落ちるのを感じながら、僕も膝から崩れ落ちた。
「……ソニアさぁん。推薦状とダイマックスバンドは……?」
僕は考える事を放棄し、縋るようにソニアさんを見上げる。
彼女は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
「ごっめーん!こっちの時計24時間遅れてたみたい☆(てへぺろ)」
え。研究所の時計が、1日遅れってこと?……それ遅れていても気づけない奴じゃん。
口を動かす気力が足りず、僕のツッコミは音もなく胸の奥底へと消えていった。
「いやぁーごめんね?少年。研究に追われていてすっかり忘れていたよ」
研究所の一階の応接室。
装飾された椅子に座りながらソニアさんは申し訳なさそうに答えた。
文字通り口から魂が抜けかけていた僕を引っ張って客室まで連れてきた彼女は、僕を椅子に座らせ、紅茶の準備をしている。
「2つともこれから書類を申請するよ。大丈夫!ジムチャレンジにはギリギリだけど間に合うはず。たぶん。……心配しなくていいよ!」
紅茶が入ったのか、トレーを持ってソニアさんがこちらにやってきた。
ゆっくりと机に置かれた紅茶は、柑橘系のさわやかな香りがする。
「……最近またはまり出したんだよね。新しいアクセント入れてみたの。飲んでみてよ」
僕の前でソニアさんが、照れるように笑みを浮かべた。
彼女の言葉に従って、一口飲んでみる。
喉を通る温かい感触。正直、味の好し悪しはよく分からないが、落ち着く雰囲気の味がする。
「……おいしいです」
「良かったぁ。やっと顔色戻ってきたじゃん。さっきは酷かったよぉ、生気がなかったもん」
そうさせたのはどこの誰ですかね。
僕はもう一度カップを持ち、心の不満を紅茶と一緒に飲みこんだ。
先程の光景が脳裏を蘇る中で僕は1つの引っかかっていた事を思い出した。
「そういえば、さっきは茶番でしたけど、ワンパチを僕に譲る気なんですか?」
「茶番言うなし」
僕の問いにソニアさんはバツの悪そうな顔をした。
「でも、譲るのはほんと。最近あんたにべったりだし、いい機会だと思ってたのよ?」
彼女は紅茶に口をつけながら目を細めた。
僕の隣ではワンパチが座ってくつろいでいる。
感触のいい毛並みを持つ背中を撫でると、顔を上げて澄んだ眼差しをこちらに向けてきた。
「それと、実はもう少ししたらここを離れる事になってるんだよね」
彼女の告白に思わず顔を上げる。
僕の表情を察したのか、彼女は苦笑いを浮かべた。
「……大丈夫だよ。研究の一環で少し現地調査するだけだから」
研究所閉鎖などの不穏な事情ではない事に僕は胸を撫で下ろした。
《現地調査》。
その単語を聞いて僕の脳裏にはある人物が浮かびあがる。
「ホップさんの所に行くんですか?」
「ピンポン!せ~い~か~い」
ここの研究所にはソニアさんと手伝いの僕以外にもう一人出入りする人がいた。
ソニア博士の助手兼、恋人のホップ博士だ。
確か二月ほど前に現地調査という事でガラル各地へ旅立っていった。
明るくて、真面目で研究熱心でいつもソニアさんや僕を良くサポートしてくれていた。
彼が旅立ってから、彼のいない寂しさからか、しばらくソニアさんの泣き上戸に付き合わされたのも今となっては懐かしい。
「元気にしてるといいですね」
「研究バカだかんね。あたしが面倒みてやらないと」
彼の姿を思い浮かべたのかソニアさんは再び苦笑し、僕に向き直った。
「ここ最近研究に追われてた理由がこれ。もぉ本当に色々準備あって大変なのよぉ」
「優秀なお手伝いもしばらくいなくなりますからね」
「なーに言ってんの。あたしから見たら、ホップも、あんたも、まだまだよ」
僕の冗談を笑い飛ばすソニアさん。
笑い声が薄れ、会話が唐突に途切れる。
軽く咳払いをした白衣を纏う彼女は、おもむろに口を開いた。
「よく聞いてマーチ。……これから、あんたとワンパチはガラル各地を旅する事になる」
「……」
いつもと違う落ち着いた口調に、僕は思わず息を飲んだ。
「ジムチャレンジャーって言っても、まだ子供なんだから絶対に無茶はしない事。困った事があったら、すぐあたしやホップに連絡しなさい?もう半分家族みたいなものなんだから」
窓から差し込む光が白衣を鮮やかに照らし出す。
白衣の端をなびかせながら彼女は僕の傍へ歩み寄り、僕とワンパチの頭を撫でた。
「あと、最後までワンパチを信じてあげて。この子は絶対あんたを一人にはしないわ。育て親の私が保証する、最高の相棒よ?」
「!」
掌の熱が頭を通して僕の身体へと伝播する。
彼女の普段見せない、まっすぐな眼差しに僕は驚きを隠せなかった。
思わぬ激励に胸の奥から熱いものがこみ上げてきそうになる。慌てて深呼吸して、零れそうになる何かを全力で抑え込む。
いつまでも震える唇に力を籠めて、僕は前を見据えた。
こういう時に言う言葉は、きっと決まってるはずだ。
「……ありがとうございます。今までお世話になりました」
僕の精一杯の返事にソニアさんは再び、苦笑いを浮かべた。
「ぶー。不正解。こういう時は『ありがと、行ってきます。』だゾ♪」
最後まで締まらなかったが、これで良いと僕は思った。
だって、この旅が終われば、またこの日常が続くはずなのだから。
僕の旅立ちの日は、必要なアイテムが揃わない最悪なスタートだったけど。
絶対に忘れちゃいけない僕の居場所を改めて知った、最高のスタートになった。