ポケットモンスター剣盾 外伝 祈望のアカシア 作:甘井モナカ
区画内に響き渡る衝撃が大気を揺らす。
眼前に瞬く閃光を潜り抜けて戦場に立っていた二人は、それを耳にしていた。
遥か上空から聞こえる甲高い共鳴音。
直後。
天井から溢れ出した赤く輝く粒子が区画内を埋め尽くしていく。
「!」
「どうやら始まったようですね」
顔を持ち上げて薄い笑みを浮かべた男の姿が光の中へと消えていく。
眼前に迫る煌めきの奔流。
黒衣の女性は天を仰いで立ち尽くしていた。
「マーチ……!ユウリ……!」
塔の頂点で対決したであろう二人の名を呼んだ彼女の意識はそこで途切れた。
激闘の跡が残る通路の脇。
壁に寄りかかり、床に座り込む1つの人影。
空間を侵食する燐光が傷と汚れで色褪せたタンクトップの生地を照らし出す。
力なく下げられた顔は前髪に覆われていて表情が見えない。
沈黙を続ける少年を包み込むように赤い燐光は静かに瞬いていた。
タワー入り口付近。
周囲には倒れ込む複数の黒いローブを纏う人影達。
その先で断続的に起こる残響。
大地と空を駆けて激突する雌雄。
飛来する岩石を避け、紅炎を吐き出す翼竜の傍らに立つ男の耳に共鳴音が響く。
直後に状況が一転した。
相対していた黒衣を纏う者たちが動きを止め、一斉に天を仰いだ。
彼らの視線の先にあるのは闇夜を黄昏へと描き替えるほどに輝く光。
突如として訪れた静寂の中、男は短く息を吐きながら塔を見上げた。
脳裏に過るのは、勇敢な二人の背中。
「……俺は、最後まで信じるぜ」
男の視界はやがて眩い光に包まれた。
夜空を照らし出す鮮やかな閃光。
シュートタワー上空で爆ぜた光の奔流は、闇をかき消して瞬く間に各地へと広がっていった。
闇夜に覆われる森を駆けていた青年が弾かれたように立ち止まる。
影により陰影が深まった顔の表情は驚愕に包まれていた。
「この、予知は……!」
右手で額を覆い、その場で立ち尽くした青年。
次の瞬間。
上空から広がった燐光の濁流が彼の姿を飲み込んだ。
デバイスの駆動音が響く一室。
白衣を纏う一人の青年が懸命な眼差しをモニタに向けていた。
「もう少しで、解析が終わる……!」
額に滲む汗を拭う暇すら惜しんで、手元のコンソールを弾くように操る。
画面に映るウインドウの情報欄が流れては消えていく。
後方の扉が弾かれるように開かれた。
部屋へ勢いよく飛び込んだのは同じく白衣を纏う女性。
「もう始まったみたい!結果はまだ!?」
「後……ちょっと!」
窓の外が明るくなっていく。
深夜にも関わらず差し込む光が、現在起こっている事象の異常さを際立たせていた。
駆け寄った女性の傍らでモニタから目を離すことなく解析を推し進めていた青年の指が唐突に止まる。
「解析、完了……!」
「ちょっと、この結果って……!」
部屋に木霊した声はやがて虚空へと消えていく。
二人の意識はそこで光の奥へと溶けていった。
少年の意識が醒める。
気が付くと彼は立っていた。
視界に映り込むのは色鮮やかな空とその下で湧く観衆。
視線を落とすと、吹き抜ける風に揺れる芝が目に入る。
心の奥底で生じる微かな違和感。
息苦しさにも似た何かから逃れよう身を捩ったマーチは、ゆっくりと目を見開いた。
自身が纏っているのは黒いユニフォームと巨大なマント。
スタジアム内のフィールドの中央に彼は立っていた。
この服装でこの場所に立つ意味。
その答えが脳裏に浮かび上がる直前、沸き起こる歓声がフィールドを包み込んだ。
『さぁ!始まりました!チャンピオン、マーチによるエキシビジョンマッチ!今回の挑戦者はさすらいの筋肉トレーナー。ニック選手!』
「……ニック!?」
自身の周囲で起こる事象に混乱する中、唯一聞き覚えのある名前がマーチの鼓膜を震わせる。
脳裏にタンクトップが過る中、フィールドに入場する一人の人影。
日に焼けた肌。盛り上がった大胸筋。黒い海パンから伸びる太ももは鋼のように固くそびえ立っていた。
サングラスを額に掛け、『今から海水浴です』と言えば誰もが頷くファッションをした少年はフィールド中央で立ち止まる。
口を開けたまま固まるマーチの前で彼は叫んだ。
「うおおお!俺の筋肉が真っ赤に燃える!ついでに魂も燃え盛る!さぁチャンピオン!その座は今日から俺のものだぜぇ!」
「外見はだいぶ変わってるけど……中身は変わってないのか」
想定通りの暑苦しさに、マーチは僅かに安堵した。
張り詰めた緊張が解けるのもつかの間、周囲に鳴り響く笛の音。
幾度となく聞いてきた開戦の音色。
相対するニックは、迷うことなくボールを放り投げる。
戦場に現れるのは、桃色の毛皮を纏う巨大な体躯。
キテルグマは後ろ脚で大きく大地を踏みしめた。
マーチはふと、自身の右手に視線を落とす。
無意識の内に掴み取っていた黒いボール。
見慣れないそのボールからは僅かな重圧が漂っていた。
再び沸き起こる歓声。
目線を上げるとキテルグマが鍛え上げられた背筋を披露していた。
ポージングを取る桃色の熊の後ろで同じぐ背筋を強調している少年が目を光らせる。
「どうした?チャンピオン!手持ちを出さないのか?もう負けを認めるのかー!?」
「……!」
眼前の挑戦者から投げかけられた言葉にマーチは声を詰まらせた。
訳が分からない状況に、見覚えのないボール。
こんな時に、戦えっていうのか。
身体の奥底では、不快な緊張が胎動し続けている。
そんな彼の心境を考慮することなく、事態は進んでいく。
「……そっちから来ないなら、こっちから行かせてもらうぜ!」
『ああっと!先に動いたのはニック選手だぁー!キテルグマが走り出した!』
痺れを切らしたように声を張り上げたニックは、腕を振り上げた。
前に佇んでいたキテルグマが地面を蹴り上げた。
フィールド内を横切り、突進する桃色の体躯。
やがてキテルグマは跳躍して、ボールを握ったまま立ち尽くす少年の前に躍り出た。
「かますぜ!アームハンマー!」
主の声を背に剛腕が振り上げられる。
もう迷ってる場合じゃない。
やるしかないのか。
心の中で毒づきながら、マーチは右手のボールを虚空へ解放した。
桃色の剛腕と少年の間を舞う、黒いボール。
その分割面から閃光が漏れ出し、周囲へ発散する。
現れたのは、黒い骨格が集約した体躯。
赤い燐光が外殻より滲み出て、周囲に歪な重圧を巻き起こした。
『出ましたぁー!チャンピオンの相棒!ムゲンダイナ!無敗を誇るチャンピオンの分身ともいえる強大なポケモン!』
ムゲンダイナと呼ばれた、影のような闇を纏う龍は巨大な外殻を前面に押し出した。
鳴り響く衝撃音。
キテルグマの剛腕が弾かれる。
虚空へ体勢を崩した桃色の体躯がマーチの視界に入る。
絶好のチャンス。
彼は迷うことなく右手で指し示した。
傍らで佇み影を纏う龍の攻撃対象を。
「……ムゲン、ダイナ!」
少年の声に呼応するように、ムゲンダイナが赤く発光する口元を持ち上げた。
集約した赤い燐光は巨大な球体となり、放出された。
フィールドに直撃する真紅の閃光。
桃色の体躯の姿が溶け込むように消えていく。
瞬く間に光の渦に飲み込まれたキテルグマを場外へと弾き飛ばした。
『決まりました!ムゲンダイナから放たれた光線がキテルグマを場外へホームラン!』
「いきなりかよ!……でもまだだぜ!」
熱狂する観衆とアナウンスの解説。
その熱の中で、再び顔を上げたニックは不敵な笑みを浮かべ続けた。
繰り出される、次のポケモン。
数分後、それはムゲンダイナの砲撃で壊滅した。
また繰り出される、次のポケモン。
数十秒後、ムゲンダイナの剛腕で壊滅した。
また、繰り出されるポケモン。
壊滅させるムゲンダイナ。
幾度となく、繰り返される一方的な蹂躙。
しかし、周囲の熱狂はとどまる事を知らない。
その熱に突き動かされるように、相対する挑戦者もボールを繰り出し続ける。
周囲に影を落とす龍を共に戦う少年は次第に眉を顰めていった。
彼の中で次第に広がる違和感。
何かが可笑しい。
でも、具体的な言葉が出てこない。
喉の奥まで出かかっている答えが吐き出せないもどかしさを痛感しながら、マーチは腕を振り下ろした。
フィールド中央に真紅の爆発が巻き起こる。
大気がうねり、突風が周囲に飛散していく。
歓声が再び熱を上げる中、彼は眼前で広がる赤い燐光の束を眺め続けた。
脳裏を過る1つの映像。
それは、暗闇の中で爆ぜる赤い燐光の渦。
自身の眼前で起こるそれは、命を刈り取る凶刃そのもの。
極限まで高まる緊張感の中で、視界を動かした先にそれは映った。
影の奥に佇む、一人の少女。
暗闇に溶け込むような黒衣が揺れる。
そしてその傍らには、現在少年の隣に佇んでいる影を纏う龍そのものが存在していた。
心の奥底で胎動していた違和感が形となり、感覚のズレを鮮明に映し出す。
チャンピオンは、僕じゃない。
ユウリさんだ。そして、僕はあの人と戦っていて。
その後は。
『……《ムゲンダイマックス》』
マーチの耳に残響する終焉の言葉。
彼は、弾かれたように顔を上げた。
瞬間。
周囲の景色に亀裂が走った。
響いた音は硝子細工で出来たオブジェクトを叩きつけたような衝撃音に酷似していた。
零れ落ちた景色の端から滲む暗闇。
この不思議な情景の裂け目を少年は以前にも目にしていた。
「あの時と同じだ。……心象風景が実体となって象られる。これが」
夢幻世界。
力なく呟かれた言葉は静かに虚空へ消えていった。
ひび割れた世界は静止していて、少年の独り言に反応を示さない。
沈黙が続く空間の中で、少年はおもむろに顔を上げた。
「あの人はこの世界を作り出すって言ってた……」
作り出した理由はたぶん、現実の苦難と不条理から逃れるため。
マーチは短く息を吸い込んで吐き出した。
それなら。
きっとこの空間のどこかにあの人がいるはず。
自身の胸の鼓動が鼓膜を叩く。
じんわりと広がった熱に促され、少年は視線を上げて前を見据えた。
「まだ終わってない……!必ず見つけ出す!」
周囲には響き渡る、自身の気炎を耳にしながらマーチは大地を蹴り上げた。
虚空を舞う手足。
ひび割れた風景を突き破り、彼は世界を踏み越えた。
移り変わる世界。
様々な世界の端々を少年は駆け抜け続けた。
「おーっほっほっほ!こんなにイケメンがいっぱい!……こんなの日替わりごとに選り取り見取り!なんて幸せなの!?」
例えば、一人の女王に仕えるべく美男子が集まった世界。
「今日はどこのお店に行こうかなぁ。……今日はカレー♪明日はパスタ♪明後日はお肉~♪」
例えば、住人全てが料理人で食欲を常に刺激する世界。
「おお!ついに見つけた!太古のポケモンの化石!やはり私の理論は正しかったのだ。ガハハハ!」
例えば、一人の考古学者が偉大な発見をした世界。
視界の端々で変わる風景の中で、マーチは多くの人々とすれ違った。
過去に別れた恋人とやり直す人。
巨額の富を得た商人。
名声を得た田舎出身のトレーナー。
過去に失った友人を取り戻した人。
時の流れが止まったかのような穏やかな空間の中で多くの人々が笑顔に包まれていた。
温かな雰囲気。
色鮮やかに輝く世界。
幻想郷と呼ぶにふさわしい光景がそこには広がっていた。
眼前を通り過ぎる幸福の数々。
幾度となく立ち止まりそうになる足を動かし、少年は走り続けた。
どのくらい走ったのだろうか。
やがて少年はその足を止めて、立ち止まった。
鮮やかに彩られた世界とは異なり、辺り一面に立ち込める闇。
無限に続くと思われた世界の果てで、彼の視界にそれは映り込む。
グレーのニットパーカーに、ピンクのリボンワンピース。
いつか見た彼女の服装。
光を拒絶するかのように広がる暗黒の中で、少女は一人蹲っていた。
「ユウリさん!」
奥に居る彼女の返事を待たずにマーチは駆けた。
肌を突き刺す冷気を振り払い、少女の眼前へと迫る。
次の瞬間、彼の視界が暗転した。
前方から響き渡った鈍い衝撃音。
顔面を起点に身体の奥へと痛覚が走り抜けた。
微かな浮遊感に全身が包まれる中で、少年は自身が何かに激突したことに気づいた。
「……っ!」
背中を突き抜ける衝撃。
地面へと落下した彼の口から声にならない悲鳴が零れ落ちる。
激痛から逃れるべく身を捩る彼の視界にふと影が差し込んだ。
少年がおもむろに顔を上げるのと同時に、周囲の空間が動き出す。
地に伏せる彼の目の前で、少女の姿が暗黒に溶け込んでいく。
徐々に小さくなる彼女の背中。
その前に立ち塞がるように黒い影は堅牢な壁となったそびえ立った。
「まって……!ユウリさんっ!」
遠くなる後ろ姿に、マーチは懸命に手を伸ばした。
決して届くことのない指先が宙を彷徨う。
苦痛に顔を歪めた少年の悲痛な叫びは、静かに反響を重ねながら虚空へと吸い込まれた。
鈍い衝撃音が僕の鼓膜に反響した。
「……っ!」
いつからか数えるのを止めた、身体を突き抜ける衝撃。
僕の口の中に血の味が広がった。
叩きつけたはずの拳は力なく広がり、鈍い痛みを訴えかけてくる。
……どうして。
吹き飛ばされた身体は幾つも傷が走り、流血した跡が赤黒く変色していた。
体を包み込む浮遊感は途切れて、次に訪れるのは全身を走り抜ける激痛。
……なんで。
もはや地面なのかも分からない黒い地平線の端に僕は叩きつけられた。
一瞬途切れた感覚が痛みによって復活する中、僕は肺から抜けた空気を求めて喘いだ。
どうして、届かないんだ。
激痛と疲労でぐちゃぐちゃになった思考が空回る。
身体の内側に残る熱の僅かな余韻だけが、僕を突き動かしていた。
痛みの抜けない手足に鞭を打ち、立ち上がる。
視線を上げた先に映るのは暗くそびえ立つ壁。
行かないと。
あの闇の向こうにあの人は行ってしまった。
想いに突き動かされ、思考がまとまる前に身体が動き出す。
踏み出された足は速度を増して、地面を蹴り上げる。
前方に広がる黒い壁との距離が縮む。
息を止めて歯を食いしばる。
音もなくそびえ立つ壁目掛けて、僕は上体を叩きつけた。
体を通して鈍い衝撃音が響いた。
肩から突き抜ける激痛。
「……ぐぁ!」
悲鳴を上げる僕の身体とは裏腹に、そびえ立つ壁には傷1つ見当たらない。
僕の身体は文字通り弾かれ、冷たい地表へと落下した。
「……!」
苦しい。
息ができない。
身を捩って痛みに堪えた僕は、自身の息遣いが妙に大きく聞こえるのに気づいた。
周囲に視線を向けると辺りは深淵を彷彿とさせる深い闇が広がっているだけだった。
「……あぁ」
血の気が引いていく音がした。
四方を闇に囲まれ、一人倒れ込む自分。
胸の内に残ってた最後の余熱が消えていく。
誰もいない、世界の果て。
僕はそこでようやく気付いた。
自分が失敗したということに。
「あああああああ……!」
震えた声が喉の奥から溢れ出した。
届かなかった。
あの人に。あと少しだったのに。
止められなかった!僕は……!
胸の奥から生じた後悔は冷たい雨のように降り注ぎ、僕の身体を暗い底へと沈めていく。
不意に視界の端が明るくなった。
鼻を啜って顔を持ち上げると、遥か後方に見える儚い灯火のような光。
僕はそれを直感で理解していた。
苦痛も、理不尽も存在しない夢の世界。
幾度も渡り歩いたから分かるあの温かさと安らぎは、今の僕に必要なもの。
ここは冷たくて苦しいから。
あそこに戻ればこんな痛い思いしなくて済む。
眼前にそびえる苦痛を伴う困難なんてない。そこにあるのは穏やかで、色鮮やかな風景。
僕はゆっくりと手を伸ばした。
震える腕が儚げに灯る光と重なった瞬間。
僕の脳裏に1つの情景が過った。
それはいつか見た旅の景色。
草原で。
街並みの中で。
黄昏の下で。
決まって照らし出される彼女の横顔。
その笑みを見つめて僕は。
僕の心は。
「……!!!」
脳裏の奥が真っ白に爆ぜた。
顔から火が出るほど熱くなる。
馬鹿か、僕は!
痛い思い?辛い思い?
何のためにここまで来たのか思い出せ。
彼女のいない、あんな幻想に捕らわれるな。
幻想に捕らわれてるあの人を取り戻すためにここまで歩いてきたんだろ。
嫌なんだよ。
もうあの人のあんな表情を見るのは。
ユウリさんの、今にも泣き出しそうな顔を見るのはもう嫌なんだ!
「ぐっ……!」
動け!
体の奥で爆発する熱が産声を上げる。
冷たい手足に再び熱が伝播していく。
「……ああああああ!」
動け!動け!
口から迸る気炎。
呆れるほど一途な想いが身体の中を駆け巡る。
膨れ上がる熱とは裏腹に、ピクリとも動かない身体。
全身に残る傷と疲労は確かな重石となって、僕を地面に縫いつける。
身体が鉛の様に重い。
それでも。
眉を吊り上げて、前を睨みつけながら僕は歯を食いしばった。
動け!動け!動いてくれ!
震える手足に力を籠める。
頬を冷たい汗が流れ落ちる。
全身の熱によって高まった心臓の鼓動が鼓膜を叩き続けた。
そして、自身の脈動が響く中で。
僕はその声を聞いた。