ポケットモンスター剣盾 外伝 祈望のアカシア 作:甘井モナカ
《ブラッシータウンポケモン研究所》を出発した僕は、《ハロンタウン》へ向かっていた。
ソニア博士から完全には装備が支給されなかったが、いくつかもらったものがある。
その内の1つが《モンスターボール》だ。
球状のポケモン捕獲装置でポケモンに向かって投げると、体に当たる事でポケモンをゲットできるのだ。
手順はホップさんに教わっていてバッチリだけれど、実際に野生のポケモンに行うのは初めて。
そこで僕は閃いた。
《ブラッシータウン》と《ハロンタウン》の間には小さい草原があり、そこには捕まえやすいポケモンが生息しているようだ。
なので、ここでポケモンを捕まえる練習をしてしまえば不安は無事解消されるのである。
スマホで調べた記事『3分で分かるポケモントレーナーへのなり方初級編』にもそう書いてあった。
「次の街へ向かう前に肩慣らしといきますか。……着いたよ。ワンパチ」
青空の下、徐々に見えてくる黄緑色の風景。
辺りに広がる一面の草原を前に僕は足を止めた。
目的地にたどりついた僕はベルトに着けたホルダーからボールを取り出し、ワンパチを呼び出す。
『ワンパ!ワンパ!』
ワンパチは辺りに広がる草原の何かに興奮したのか、飛び跳ね回っている。
「さーて、野生ポケモンはどーこだ……?」
草原の中から、時折姿をみせる、毛皮やしっぽ。
意を決して足を踏み出す。
そんな僕の目の前に現れたのは青い羽毛に、黒い模様で覆われた顔。
『データ照合完了。ココガラ。ことりポケモン』
スマホに登録してあるのポケモン図鑑からデータが開示される。
ガラル地方に生息する飛行ポケモン。町でも何度か見かけたことがある。
「よーし。ゲットするポケモンは君に決めた!」
握りしめた掌に宿る微かな熱。
トレーナーとして初めて野生ポケモンの前へ立つ事に高揚感を覚えながら、僕は相棒の名前を呼ぶ。
「来い!ワンパチ!」
『イヌヌワン!』
呼び声に反応してワンパチが僕の前方へと躍り出た。
前衛に相棒。後衛にトレーナー。バトルの基本となる戦闘体勢が構築される。
穏やかに流れるそよ風が頬を掠めていく。
さわさわと風になびく草原の中で、僕を含めた3つの双眸が静かに交錯した。
草原を包んでいた沈黙が破られる。
『ピヨヨ!』
突如、草原に響き渡った鳴き声。
ココガラは自分の縄張りから追い出そうとするかの様に飛び上がり、前方の二人に目掛けて飛び込んだ。
眼前へと飛来する青色の弾丸。
「ワ、ワンパチよけろ!」
『ワン!』
マーチは目を見開いた。想定していなかった相手の先制攻撃。
彼は慌てて声を張り上げる。
指示を察知したワンパチは、地を這うように身体を押し下げて左側へ大きく飛び退いた。
少年と子犬の間に空いた空間をココガラは突っ切る様に通り過ぎていく。
低い風切り音が一瞬鳴り、周囲の空気が荒れ狂うようにうねりをあげた。
「思ったよりずっと速い……!?」
至近距離から発生した風圧を踏ん張りながら、少年は無意識の内に呟く。
間近で体感すると想像以上の青い小鳥のスピード。
背筋に冷や汗が滲むような感覚を覚えながら彼は前にいるワンパチへ目を向けた。
眼前に立つワンパチは、ただ沈黙した背中をこちらに向けていた。
純粋な目で相手を見上げ、怯む事なく闘志を燃やす佇まい。
少年の口から熱を帯びた吐息が吐き出さされる。
一瞬でも弱腰になった事が恥ずかしい。そうだ。相棒に負けてなんていられない。
マーチはおもむろに両手を掲げて両頬を叩いた。
「大丈夫。落ち着け。僕らならやれる……!」
乾いた衝撃と共に、意識が切り替わる。
音に反応したのか、上空を旋回していた相手が動きを見せる。
澄んだ青空から地表へと滑空していくココガラ。上空から滑るように突進するそれは、再び相手を貫く弾丸となる。
あの時よりも早い。でも、この動きは……?
宙を睨みつけるマーチの思考が加速する。あの圧倒的な速さは驚異的だが、同時に弱点にも成り得る。
脳裏で浮かび上がった要素が組み合わさり、彼の中に答えを作り出す。
成否の鍵となるのはタイミング。
瞬きをすることなく、その瞬間を見届けた少年は合図を繰り出した。
「ワンパチ、ほっぺすりすり!」
『イヌヌワン!』
合図と同時にワンパチは4つ足を構えて前傾姿勢をとった。
頬の付近に電気が収束していき、青白い瞬きが周囲を照らし出していく。
風切り音と大気を焦がす帯電音が重なり合う。
直後。
雷電を纏った子犬は構えていた両足を解放した。
蹴り上げた衝撃音と共に紫電が宙へと昇っていく。
「加速する時は動きが直線的になる……! そこだ!」
『ピヨッ!?』
ココガラは体を捻り、眼前に迫る電撃から逃れようとする。
しかし、ワンパチの方が僅かに早い。
青白く発光した電撃が、青い小鳥の右翼を捉えた。
上空で響き渡る鈍い衝撃音。
『……!』
電撃を受けたココガラは悲鳴を上げ、草原へと墜落した。
足に力が入らないのか動きが先程と比べると遅い。
羽毛の隙間を紫電の瞬きが走り抜け続けている。
「よし。状態異常が決まった……!」
動きにキレがない小鳥を前に少年はバックから、《モンスターボール》を取り出した。
野生ポケモンの捕獲成功率を上げる方法は3つ存在する。
1つはトレーナーのレベルを上げる事だ。
《ジムバッチ》を手にする中でトレーナー自身の経験・技能が増すと、野生ポケモンへの威圧感、干渉力が高まって捕獲しやすくなるとか。
2つ目はポケモンを瀕死に追い込む事。
野生ポケモンを生命活動を停止寸前まで追い詰め、捕獲時の抵抗を弱める。
そして、3つ目がポケモンへ状態異常を付与する事。
眠り、氷、様々なパターンがあるが、その中でも麻痺は――。
「麻痺は相手の動きを鈍らせ、捕獲しやすくする……!」
マーチは右手に持ったボールを握りしめ、麻痺が継続しているココガラへ向けて放り投げた。
弧を描いて飛んだボールは青い羽毛に当たり、衝撃でボールが開く。
2つに割れたボールの中が白く発光した瞬間。
ココガラはその中へ吸い込まれた。
「よし。ここまでは大丈夫……」
『ワンパ!ワンパ!』
少年と子犬は顔を見合わせ、息を吐いた。
まだ捕獲が成功した訳ではない。
ここから、ボールへ格納する前にポケモンが抵抗して外に出てしまえば捕獲失敗となる。
数々のトレーナーを阿鼻叫喚させた、『魔の三度の揺れ』に突入しようとしていた。
ボールが点灯し、右側へ大きく揺れる。1回目。
「頼むぞ……!」
ボールが点灯し、左側へ大きく揺れる。2回目。
『イヌヌワン!』
ボールが点灯し、再び右側へ大きく揺れる。3回目。
「……!」
マーチは祈るように、目をつむった。
ボールの揺れる音が消え、周囲は静寂に包まれた。
どれくらい経ったのだろうか。
1分後か。1秒後か。
刹那にも、永久にも感じられた時間の中で、それはやってきた。
カチッ!、と。
彼の鼓膜を叩いたのは、機械の小さな駆動音。
少年はゆっくりと瞼を開いた。
ココガラが倒れていた場所に見えるのは1つの《モンスターボール》のみ。
転がっているそれは、中にいるポケモンを包み込むかのようにやさしく点灯していた。
目の前の光景が物語る結果は1つ。
少年は成功したのだ。
自身の中で初となる野生ポケモンの捕獲に。
僕は掌の上のボールを見つめていた。
収納したボールは使用前と重さが変わらないはずだけど。
捕獲したポケモンの存在が僕の右手に確かな重さとして伝わってくる。
「ゲット、できたんだ」
『イヌヌワン!』
目の前の事実をもう一度確認するかの様につぶやいた僕の独り言にワンパチが反応する。
黄色いしっぽを左右に大きく振りながらこちらを見上げている。
見たところ外傷もなく、相変わらずな元気な姿だった。
「意外と頼もしいんだね。君」
先程の戦闘の光景が脳裏に浮かぶ。
ココガラに臆する事なく、勇敢に立ち向かう後ろ姿。いつも見せていた気の抜けた雰囲気とは異なる、初めて見た姿。
僕の知らない相棒の顔に驚かなかったといえば嘘になるが、そんな事より強く湧き出たのは信頼感。
この相棒と一緒なら今回の旅はだぶん大丈夫。きっと何とかなる。
根拠はないが、そう思わずにはいられない頼もしさをワンパチから感じられた気がする。
僕はゆっくり腰を下ろすと子犬の背中の毛並みをそっと撫でた。
「今回はほとんど君のお手柄だったぜ。相棒」
『ワンパ!ワンパ!』
ワンパチは目を細めると、胸を張って誇るように僕を見つめ返した。
瞬間。
遠くで閃光が瞬いた。
発光した方へ振り向くと、遥か彼方の先で鮮やかな赤色の光が立ち上っていた。
あそこの方角は確か、《まどろみの森》……。
僕は以前、周囲の大人から森の中には立ち入るなと言われていた事を思い出した。
深い霧がかかっており、迷って出てこれなくなり魂が抜かれるとか。
あ、でもソニアさんとホップさんは頻繁に出入りしてたな。
地域の言い伝えを気にせず、ノリノリで実地調査に乗り出していた二人の行動力を思い出して苦笑しそうになるが、今は森に入る理由もない。
「まぁ。野生ポケモンもゲットした事だし、とりあえず街に戻りますか」
僕は立ち上がり、相棒がいた場所へ振り返る。
「おーい。ワンパチもど……」
その先の言葉は続かなかった。
数秒前までは確かに一緒にいた相棒をどこにもいなかったのだ。
急いで周囲を見渡すと、はるか彼方に黄色の子犬の後ろ姿が。
向かっている先は轟音と光が発生した方角だ。
このままだと《まどろみの森》に入ってしまうかもしれない。
いや、きっと入る。
「おいおい。さっきの頼もしさはどこに行ったの……」
僕は思わず頭を抱えるが、ここで止まっていても事態は好転しない。
数秒後に心の整理を成し遂げた僕は、先程捕獲したボールをホルダーにしまいながら相棒の後を追って駆けだした。
『ここから先はまどろみの森。立ち入ることを禁ず』
僕は目の前にある年期の入った仰々しい看板を見つめていた。
森の周囲は柵で覆われていて簡単に入る事は出来ないようだ。
ここまでは何も問題はない。
僕の斜め前の不自然に空いた柵の隙間以外は。
「……まさか誰か入っちゃったとか、無いよね?」
『スンスンスン……』
ワンパチは周囲の草むらに顔をうずめている。
柵を動かした犯人を特定する警察犬のように匂いを嗅ぎ続けている。
「……いやいや。まだ誰か入ったとか決まったわけじゃないし」
僕は周囲を見渡しながら不安を吐露する。
野生ポケモンを捕まえに来ただけなのに、何故肝試し直前の緊張感を味わわなければならないのか。
あの時、閃光を無視しなかった自分を恨みながらも森の中の様子を伺ってみる。
森の中は霧が深く、奥がまったく見えない状況のようだ。
少しでも奥の様子を探ろうと一歩踏み込んだ僕の耳にそれは飛び込んだ。
「……人の声?」
森の深くからなのかこだましているので内容は聞き取れないが、声の様なものが微かに聞こえてくる気がする。
悔しいけど、目の前の警察犬の勘が正しかった。恐らく森の中へ誰かが侵入している。
そんな僕の思考を遮るかのように目の前で再び閃光が瞬いた。
不均一に数回。
明らかな異常事態である事にようやく気付いた僕は大人を呼ぼうと町へ引き返えそうと後ずさった。
僕の目の前の警察犬が柵を飛び越えさえしなければ。
「わ、ワンパチ!?」
『ワンパ!イヌヌワン!』
ワンパチは柵の向こう側で振り返り、一緒に来いとでも言うように僕を見つめてくる。
『……最後までワンパチを信じてあげて』
不意にあの時の言葉が心の中で反芻する。相棒との信頼の重要性を説く博士の真剣な眼差し。
じんわりと。体の奥底に熱が灯る。
今あいつを信じないで何時信じるっていうんだ。
心の中から波打つ鼓動にも似た直感を信じ、僕も柵を掴んで飛び越える。
僕の行動に満足したのか、ワンパチは鼻を鳴らして前へと向き直った。
「わかったよワンパチ。少しだけ、中の様子を見るだけだからね」
並び立った僕らは、おもむろに足を踏み出した。
そんな僕らを歓迎するかのように《まどろみの森》は草木を揺らし静かに音色を奏で続けていた。
森の中は薄暗い闇に包まれていた。
周囲に広がっていた濃霧が薄れつつあるが、いまだに人らしき影は見えない。
僕の前を行くワンパチは地面に鼻を近づけ、迷うことなく慎重に進んでいく。
「……誰かいますかぁ!」
奥へ進みながら僕は周囲に声を掛け続けた。
しかし、特に反応もなく聞こえてくるのはこだまして響いてくる自分の声のみ。
あの声は自分の聞き間違いなのか。それとも声の主は返答ができない状況なのか。
胸の内に僅かに生じる不安を振り払うように僕は目の前に生い茂る草木をかき分けた。
そして目の前に広がったのは、短い草木が生え揃う野原のような場所。
相変わらず薄暗いため確証はないが、リーグコートぐらいの広さだろうか。
イワークやカビゴン、大型ポケモンが動き回れる程度はありそうだ。
先程まで閉所な道を進んできたこともあって、久々の視界に草木の入らない空間に両手を伸ばしながら僕は辺りを見回す。
『イヌヌワン!』
不意に響いた相棒の声。
僕はワンパチの呼び声がする方を向いて、固まった。
薄暗い視界の奥。
野原の端に立つ木の下で投げ出された手足。
早鐘を打つ心臓に突き動かされる様に僕は駆け出した。
「あの……!大丈夫ですか!」
巨大な幹の下にもたれ掛かっているのは女の子だっだ。たぶん僕と同年代。
左側に大きく流したダークブラウンのボブカット。
フレームのない丸眼鏡に深緑色のベレー帽。
ピンクのリボンワンピースにグレーのニットパーカー。
以前にどこかで見た事のあるような顔立ちは、淡麗だが、どこかあどけなさが残る少女そのもの。
「あのー……」
こちらの呼びかけに反応はない。
こんな森の奥深くで意識がない理由で考えられる事は。
脳裏に浮かび上がる最悪な予感。
背筋に冷ややかな衝撃が走るが、良く見ると胸が小さく上下しているのが確認できる。
もしかして、眠っているだけなのか。
あ。違いますよ?これは現状確認であって、決してやましい事はなにも……。
心の中から湧き出る罪悪感に言い訳をしながら、杞憂となったこの状況に僕は胸を撫で下ろす。
緊張の糸が緩んだのか、急な疲労感に体が重くなるのを感じた僕は少女と少し距離をおいた位置に腰を下ろした。
視界の先で、眠り続ける彼女の横顔が見える。
瞼を閉じた無防備な寝顔のはずなのだが、可愛らしさと美しさで溢れている。
僕より少し年上なのだろうか。面識は、たぶん無い。でもどこかで見たような気がするような……。
頭の奥で何かが引っかかっているが手が届かない。
悶々と悩む僕とは対照的に隣のワンパチは臆することなく自分の顔を彼女の体に顔を近づけている。
手。腕。肩。
おい。それ以上はダメでしょ。こいつ、彼女の唇を狙ってやがる……!?
黄色いしっぽをブンブン振りながら、器用に前足を使って彼女の顔の前に立った子犬はそのまま自分の顔を近づけていく。
そうはさせるか。
「ダメだって!ワンパチ!」
僕は素早くワンパチの後ろに回り、白いお腹に手をまわし彼女の顔から距離を置く。
脇を支えられて後ろ脚を伸ばした状態になったワンパチだが、依然しっぽを振り続けている。
あれ、珍しいな。
僕はワンパチを抱えながら思考を巡らせた。
人懐っこい性格ではあるが、誰彼構わずって訳でもない。
ここまでじゃれつくには結構好感度を上げる必要があるはずなんだけど。
「……ん」
「!」
彼女が目を覚ました様だ。
こんな薄暗い森の中では目覚めが悪いだろう。ワンパチでお出迎えしてあげますか。
見ず知らずの女性といきなり顔を合わせるのが恥ずかしいという本音を隠しつつ僕は自分の前にワンパチをセットして反応を待つ。
3秒経過。
反応がない。おかしい。
ありったけの想像力をかき集めた脳内シュミレートでは……。
『おはよう、ございます……。!?ワンちゃんカワイイ!』
『君もカワイイよ、子猫ちゃん。ずいぶんお寝坊さんなようだネ。僕が家まで送ろうカ?』
『キャー。トレーナーさんも素敵!』
以下略。
想像とは違う雰囲気に首を傾げつつ、僕はワンパチの横から顔を出し様子を伺った。
おっと。彼女の目はパッチリと開いている。完全覚醒のようだ。
でもどこか様子がおかしい、どこか一点を見て固まっているような。心なしか両頬も赤い。
彼女の視線からどこを見ているのか逆算してみる。
ワンパチの愛らしい顔?
違う。もっと下の様だ。
ワンパチの立派な毛並みのお腹?
これも違う。もっと下の様だ。
ワンパチの白いしっぽ?
惜しい。もう少し下の様だ。
順番に視点を下げ、目の前に広がった光景を見た僕も固まった。
ぽよん。ぽよん。
ワンパチがブンブン振っているしっぽが当たっているのだ。
服の上からでも確認できる彼女の2つの小山に。
左右へ振られるしっぽに合わせて、彼女の小山も右に左にと柔らかく形を変えて動いていく。
ぽよん。ぽよん。
力なく下がった視界を前髪がゆっくりと覆っていく。
僕は震える腕でワンパチを持ち上げゆっくり自分の隣に座らせる。
そして。
両手と頭を地面にくっつけ、誠心誠意叫んだ。
「すいませんでしたぁぁぁ!」
『ワンパ!』
隣のスケベ犬はこの空気をものともせず嬉しそうに吠えた。
君とは一度どこかで話をつけなければならないようだな。
「あはははは……!本当、ごめんね。びっくりさせたよね。こんな所で寝ちゃってて……!」
頬に集まった熱が残る少女は目元からずれた眼鏡の位置をちょこんと戻した。
僕の誠心誠意の土下座と状況説明によりワンパチを使って卑猥な事を企む変態という認識は払拭できたようだ。
先程寝ていた場所に座り込んだ彼女は恥ずかしそうに頬を掻く。
「いやいや、こちらこそ動揺して余計な事しかしてないので……!」
かなり刺激が強かった想定外の出来事が、脳裏に浮かぶのを必死に防ぎながら僕は慌てて答えた。
頬に滲む汗を拭きながら隣に目をやる。
『ハッ……ハッ……』
想定外の出来事を引き起こした張本犬は何事もなかったかの様に隣で黄色いしっぽを振りながらこちらを眺めていた。
こいつ。
「……すごい仲良しなんだね」
もう無礼を働かない様、少し押さえつけるように背中の毛並みを撫でていると正面から声が飛んでくる。
顔を上げると目を細めた少女が僕らをじっと眺めていた。
「そうですかね?小さい頃からずっと一緒にいるので……」
『ワンパ!』
僕の中ではもう日常の一部になっているワンパチとのやり取り。
そこを改めて指摘され、僕は少し気恥ずかしさを覚えた。
「ポケモンと仲良くできる人は、良いトレーナーになるよ。……受け売りだけどね」
彼女は僕とワンパチを眺め、顔をほころばせた。
不思議な人だ。初めて会うはずなのに、まるでいつも見ていた気がする笑顔。
天真爛漫なその姿は、まるで映画のワンシーンをその場で切り抜いたように感じられる。
一瞬、見惚れていた事に気づいた僕は慌てて咳き込んだ思考を切り替えた。
頬が少し熱い。赤くなっているのだろうか。
手元に確認できるものは残念ながら、無い。
「……トレーナーといえば、僕今年のジムチャレンジに挑戦するんですよ」
彼女の発言から、僕は唐突に今日ここまで来た経緯を思い出した。
そうだよ。早くエンジンシティに向かわなくちゃ。
エンジンシティへ向かう準備を頭の中で組み立てていると、目の前の彼女が反応を見せた。
「え。君、ジムチャレンジに出るんだ!?」
僕の耳に飛び込んだ少し大きめな声。
彼女に目を向けると、眼鏡の奥に驚きを含んだ瞳が見える。
「そーですよ?」
何かおかしな事を言ったのだろうか。
彼女の反応に首を傾げながら僕は答えた。
「……あれ?気づいてない?」
「な、なにがです?」
彼女も僕の反応に首を傾けた。両耳に掛けられていた髪が、内側へと寄りそっと頬にかかる。
やばい。かわいい。
また見惚れそうになるのを僕は鋼の精神力で抑えるが、結果口が回らない返答になった。
「んー。……ならいっか」
彼女は苦笑しながら、頬をかいた。
耐えろ。僕の心臓。あ……無理かも。
「じゃ、じゃあ。ケガもしてない様なので僕はこれで……」
相変わらずの気恥ずかしさに耐えながら僕は、膝に力を籠めて立ち上がる。
自分の心臓がおかしな悲鳴を上げる前にこの場を離れて体調を戻さねば。
「あ……!ちょっと待って……!」
「うぇ?」
目を丸くした彼女は立ち上がった僕に手を伸ばしていた。
驚きのあまり、僕の口から言葉にならない奇声が零れ落ちる。
「え、えーと。お姉さん、実はジムチャレンジ関係者なんだよね。……裏方みたいな?」
明らかになる衝撃の事実。僕の脳内に一条の閃光が走り抜ける。
チャレンジ運営する人はこんな森の奥深くまで来なきゃいけないのか。
「な、なるほど。お仕事で森の中に入ってたんですね。あれ、でも寝てたような……」
「いや、あれは……そう、休憩!体を休めてたの!」
少女は口元を吊り上げながら元気良く答えた。
目が時折泳いでる様に見えるのはきっと気のせいだろう。
僕がしばらく眺めていると、そっぽを向いて口笛を吹き始めた。音がかすれて鳴っていない。
うん。なるほど。これはクロだな。
「あはは。大丈夫ですよ。内緒にしとくので。……それでは」
きっと、嘘がつけないのだろう。
彼女の不思議な対応に、思わず吹き出しそうになりながら僕は答えた。
少女は、先程とは打って変わり不思議そうな眼差しをこちらに向けた。
「……あれ?ジムチャレンジについて教えてほしい事とか聞きたい事とかないの?せっかくだし歩きながらなんでも答えるよ!」
「それなら大丈夫ですよ。チャレンジガイドにおおよその事は載ってるので」
彼女からの提案は少し魅力的だったが、お仕事中の人を引き留めるのはちょっと恐れ多い。
それにいざという時のために常備してるしね。
今もショルダーバックに詰めている、何度も目を通した資料を思い浮かべた。
僕の答えを聞いた少女は不意に固まり、やがて苦悶の表情を浮かべながら頭を抱えて始めた。
「そっか。ガイドかぁ。君は取説ちゃんと読むタイプなのかぁ……」
少女の独り言がそよ風に乗って伝わってくる。
そりゃあ読みますよ。
大事なグッズ、フィギュアを組み立てる時の必需品なのだから。
「……それでは今度こそ。お仕事頑張ってくださいね」
僕は頭を下げ、踵を返す。
森を抜けるための一歩を踏み出そうと足を上げた。
背後で聞こえる地面を蹴る音。
直後、彼女の今日一番の声音が響き渡った。
「ま、待ってぇ!分かった!分かりました!白状、します……!」
突如聞こえた大きな声にびくっと驚きながら、僕は振り返った。
視界の奥で立ち上がった彼女は覚悟を決めるかのように、目を閉じ、息を深く吸った。
両手は不安を象徴するかの様に、開いて閉じてが繰り返されている。
そして、彼女の目が開かれた。
「帰り道、わからないんだぁ。一緒について行かせてくださぁい……!」
「なんですって」
僕の反応に、彼女は困惑を含んだ精一杯の笑みを浮かべた。
この表情は、まずい……!
健全な男の子には刺激が強すぎる表情にどぎまぎしながら、僕は逃げるように隣の相棒に目をやる。
『イヌヌワン!』
澄んだ眼差しと目が合う。『返事は決まってるよね?』とでも言いたそうな純粋な目をこちらに向けながら、ワンパチは力強く応えていた。
僕は小さく息を吐き出して瞼を閉じた。
心臓の鼓動は相変わらず早いがここで彼女を置いて逃げ出すほど恥知らずでなない。
覚悟を決めて瞼を開く。僕はおもむろに彼女へと向き直った。
「分かりました。では、さっき来た道を案内しますよ」
「……!ありがとう!」
目を大きく見開いた彼女はやがて、咲き誇る花びらの様な笑みを浮かべた。
本当に表情がよく変わる人だ。
僕は彼女の笑みをしばらく見つめ、口を開いたが言葉が上手く出てこなかった。
胸に生じた違和感はすぐに形となった。
「……まだ名前聞いてなかったですね」
「あ!そーだったね」
どうやら彼女も名乗る事をすっかり忘れていた様だ。
今思い出した事を恥じらっているのか、バツが悪そうに頬をかいている。
「僕はマーチっていいます。……こっちは相棒のワンパチです」
名前を呼ばれた相棒は元気な声で吠え、その場を飛び跳ねた。
「マーチ君っていうんだ。マーチ君、マーチ君ね」
少女は瞼を閉じ、自分の中に刻む様に僕の名前を反芻する。
いつも聞きなれている単語なのに、何かが違う感覚が僕を包み込む。
どくん、と。
身体の奥底で心臓が大きく跳ねた。
呼ばれた名前が虚空へ薄れていった。
反芻しおえたのか、口を閉じた彼女はゆっくりと瞼を開いた。
眼鏡の奥で輝く瞳に僕の姿が映り込む。
「えーと、そう。私はユウ。……だから、ユウお姉さんって呼んでね!」
そう告げた少女は小さくはにかんだ。
まるで小さないたずらが成功した子供のように。