ポケットモンスター剣盾 外伝 祈望のアカシア 作:甘井モナカ
眼前に広がるのは青い空。
喜びに包まれたのも束の間、莫大な疲労感に襲われた僕は草原に座り込んでいた。
軽やかな風が吹き抜け、火照った体の熱を外へと運んでいく。
頭脳を急激に使った反動か、考える事が億劫になっていた僕はただ空を見つめていた。
「マーチ君」
自分の名前が耳に入り、僕は反射的に振り向いた。
眼前に現れたのはユウお姉さんの顔。
って近い!?
急いで距離を取ろうとしたが、僕は手を滑らせ後頭部からひっくり返った。
「うげっ!」
視界が反転して、世界が逆転する。
慌てて体を起こそうとするが、焦る気持ちとは裏腹に体は鉄でも抱えているかの様に重い。
つまり、僕は彼女の前でわちゃわちゃしてしまっていた。
「ぷ、くくく……。あはは!ごめん、ごめん。返事なかったから寝てるのかなって思っちゃった」
「ふん……!」
両手に力を込めて上体を起こす。
目の前に現れたユウお姉さんはお腹を抱えて笑っていた。
恥ずかしい所を見られてしまった。しかし、そんなに面白いのだろうか。
「……頭を目一杯回したんで、休んでただけですよ」
長時間響く笑い声に少し口を尖らせた僕は、じんわりと痛みを発する後頭部をさすった。
あ。少し腫れてるかも。……たんこぶにはならなそうかな。
自身の頭皮の状態を確認する中で、僕は彼女がボールを2つ持っている事に気づいた。
「ん?ああ……。ほい。こっちが君の相棒君だよ」
僕の目線に気が付いたのか、彼女は右手に持っていたボールをこちらに手渡してきた。
不意に脳内を衝撃が走った。
バトルが終わったあとボールを貸してほしいと言っていた、彼女の言葉が浮かび上がる。
当時は頭が回っていなかったから二つ返事で了承したけど、何をしていたのだろう。
「ありがとうございます。そういえば、ボールを預かってもらってましたけど、何してたんですか?」
僕の問いに、ユウお姉さんは左手に持っていたボールを撫でながら微笑んだ。
「なにって。んーとね、ポケモンの回復だよ。色々ケガしてたでしょ?」
持っているボールを軽く叩きながら、彼女は呟いた。
ああ。ポケモンの回復ね。なるほど……。
え。嘘でしょ!?
「うぇ!?」
僕の口から零れたのは情けない声。
衝撃的な発言過ぎて理解が追い付かなかった。
僕は急いで自分の記憶を手繰り寄せた。
ポケモンの回復手段はキズぐすりや木の実を食べさせるか、ポケモンセンターでナースさんに診てもらうくらいのはずだ。
しかし、さっき空を見上げていた時も、彼女がボールからポケモンを出している気配はなかったはずだ。
じゃあ、どうやって……?
「ふふーん。どーやって回復させたか知りたそーな顔してるね?」
顎に手を置き考え込んでいると、得意げな声が上から降ってきた。
顔を上げると、得意げにしているユウお姉さんの姿が。右手で持ち上げた眼鏡の端がきらりと光る。
「……知りたいです!」
この方法が分かれば、キズグスリ代を節約できる。
自分の中で湧き上がる下卑た笑い声を全力で抑え込む。
おっと。よだれが。
僕は急いで立ち上がり、これから教わる情報に耳を傾けた。
「おっけー。じゃあ、私にもう1回勝ったら教えてあげる!」
どーん、と。
清々しい笑みを浮かべながら彼女は爆弾を投下してきた。
瞼の裏側で蘇るのは先程の激闘。
自分の口元から皮膚の引き攣った音が聞こえた。
僕は今、ちゃんと笑えているのだろうか。
「キズグスリ代、浮かそうとしてたでしょ?ばればれだよぉ?」
僕の下卑た考えは見透かされていたようだ。
彼女は僕の顔を覗きこむように腰を折り、いたずらが成功した子供のような笑みを浮かべている。
「すみません……。おっしゃる通りです」
「まぁ気持ちはわかるよ。私も昔、君と同じ考えだったし」
僕の謝罪に苦笑しながらユウお姉さんは続ける。
「……私の時も、ずるい考えがバレて教えてもらえなかったなぁ」
彼女は手の中のボールを一撫でして、目を細めた。
昔の事を思い返しているのか、彼女の目はなにか思い出を懐かしんでいるようだった。
「だから、君もまだ我慢だよ!ポケモンに無駄にケガさせない事も大事だからね!」
「……わかりました。頑張ります!」
顔を上げこちらに向けて破顔するユウお姉さん。
僕は、さっきまで抱いていた邪な考えを振り払い、ボールを握りしめた。
彼女の言う通りだ。
いきなり抜け道を探すのは良くない。旅はまだこれからなのだから。
「さてと。じゃあ話は変わるけど、マーチ君はこの後どーするの?」
「ブラッシータウンに戻って、電車でエンジンシティに向かおうと思ってます。開会式もあるんで余裕もって移動しようかなって」
ユウお姉さんの問いに僕は、ボールをホルダーにしまいながら答えた。
《エンジンシティ》はここからかなり離れた場所にある。一般道路を歩いていくにはしんどい距離のはずだ。
交通方法はいくつかあるが、その中で一番おすすめなのが《ガラル鉄道》だ。
ガラル各地に跨るこの路線は多くの都市を結んでいて、様々な地方へ行き来が可能。
そして、ジムチャレンジャーはなんと各地で使用可能な定期券がもらえて乗り放題なのである。
「おお。チャレンジャーの特権だ。でもリーグカード承認後じゃないんだっけ?」
ユウお姉さんは顎に手を当てて、首を傾げた。
彼女の考えの通り、ジムチャレンジャーの特権を使うにはリーグカードを提示して身分の証明が必要だ。
でもジムチャレンジはまだ開催しておらず、リーグカードは手元にない。
これでは普通に電車に乗り込み運賃を支払う事になる。
特例を使わなければ。
「実はですね、推薦状がリーグカードの代わりになるんですよ」
「え?そーなの?」
僕の答えにユウ姉さんは目を丸くした。
やはりあまり知られていない事らしい。
ガイドブックの隅に記載されていた特例ルールを思い出しながら、僕は少し得意げな気分になった。
「ええ。ガイドブックにぜーんぶ書いてあります。推薦状があれ……」
瞬間。
僕の頭の中を一条の光が突き抜けた。
頭の奥底が不自然に痺れる。まるで本能的に何か重大な見落としを思い出そうとしている感覚。
何か、何か忘れている気がする。
頭の奥で引っかかる違和感を懸命に引き寄せる。
今日の出来事。
研究所。ソニア博士。偉大なる儀式、の失敗。
「あ」
自分の顔面から一気に血の気が引いていく音がした。
鮮明に蘇る、数時間前の出来事。
推薦状の未発行。
僕の手元には特例ルールのカギとなる推薦状がない。
「……推薦状、まだ発行されてませんでした」
「あちゃー」
がくっと肩を落とす僕の前で、ユウ姉さんは額に手を当てて空を仰いだ。
不意に全身に降りかかった疲労感が容赦なく瞼を落としにかかる。
閉じられた瞼の裏に浮かんでくるのは申し訳なさそうなソニア博士の顔。
『……ごっめーん。(てへぺろ)』
良い感じに送りだしてくれましたけど、何も解決してませんでしたね。
ソニア博士は勢いしかないサムズアップを行い、脳裏の奥へフェードアウトしていった。
「前途多難だねぇ……」
ユウお姉さんは瞼を閉じて、頷きながら唸っている。
僕も唸りたい欲求に駆られながらも、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
どうする……。
歩いていくのは論外だし、家の自転車で行ける距離なのか。途中で力尽きたりしないのか。
胸に渦巻く不安を取り払おうと今後の事を考えていると、不意に目の前のユウお姉さんが手を叩いた。
彼女の眼鏡が日光を反射して妖しく煌めいている気がする。
「……おっと。私もそろそろ行かなくちゃかなー」
彼女はポケットからカードケースを取り出し、首から下げた。
ケースの中の赤いカードには彼女の顔写真と彼女のプロフィールが記載されている。
それはガラルのポケモントレーナーの大半が持っているであろう身分証。
今一番求めていたものが目の前に現れた僕は、思わず目を見開いていた。
「リーグカード!」
「正解でーす。お姉さんジムチャレンジ関係者だからね」
顔の横までリーグカードを持ち上げたユウお姉さんは口角を上げ、にやりと笑みを浮かべた。
急な出来事に頭が真っ白になっていた僕。
先程聞いた彼女の言葉が耳の中で反芻していく。
その時。
頭の奥で一条の光が瞬いた。
「……ユウお姉さんもエンジンシティに向かうんですか?」
「そうだよ。私も開会式の準備とかしなくちゃいけないしね」
僕の問いに嘆息して、頷きながら答えるユウお姉さん。
これからの仕事の事を考えているのだろうか、表情が少し暗い。
大変だ、と軽い同情心が芽生え駆けるが、僕は頭を振って呼吸を整えた。
落ち着け、今は自分の事を考えなくちゃ。そして運は味方してくれている。
彼女も僕と同じエンジンシティに向かう事が分かった。
まどろみの森で出会い、ポケモンバトルも行った。僕は彼女にとって知り合い以上の存在になったはずだ。たぶん。
そして、リーグカードの特権は一枚につき4人まで使える。
この条件から導き出される結論は。
僕が彼女のエンジンシティ行きにお供するのは可笑しい事じゃないってことだ。
「あの!……僕も一緒に連れて行ってくれませんか」
僕は深呼吸をして、彼女に問いかけた。
ユウお姉さんはリーグカードから手を離し、こちらを目を向ける。
ゆるやかに微笑んだ彼女の口が開く。
「えぇ……。どーしよっかなぁ」
まさかの疑問形。
思わず目を見開く僕にユウお姉さんは追撃を仕掛けてきた。
「わたしのシャワーズ、キズモノにされちゃったしなぁー」
片目をつむり、顎に手を当てるユウお姉さん。
可憐な雰囲気と相まって、その立ち姿はまるで雑誌の中から切り出したかの様。
そんな中で、こちらに送られてくる不満げな瞳が僕の心を容赦なく突き刺してくる。
目線が痛いとはこういうことか。
「それを言うなら、僕のワンパチもフルボッコだっだんですが……!」
頬に冷や汗がにじむのを感じつつ、僕は慌てて弁解を行う。
ふと頭をよぎるのはユウお姉さんとシャワーズさんの猛攻の数々。
増水した河の激流を連想させる光景を戦い抜いたのだ。僕たちだって無傷では済んでいない。
僕の必死の弁明を受け、彼女は挙動不審となっている僕へさらなる追撃を行ってきた。
「そーいえば私、最初あった時いたずら?されたんだよねぇー。どこがとは言わないけど」
「ワンパチのあほぉ!」
僕は頭を抱え、思わず食い気味に叫んでしまった。
首を傾けて、こちらに一歩近づいてきたユウお姉さん。目前に広がる彼女の顔に目線が情けなく泳いでしまう。
そして、近づかれるとどうしても浮かび上がるのが、森の中で起きたハプニング。
いや九割以上こちらが悪いのだが。
頭に浮かんだ桃色の光景を忘れようと、目線を地面に向けて下げていくと彼女の件の場所が飛び込んできた。
ニットに包まれながらも程よい大きさを主張していて、まるで甘味溢れる果実の様……っておい。
鋼の意思を持って、目線をそらす。顔がやけに熱い。
「……もしかして、またみてたぁ?」
ユウお姉さんは一歩後ずさりして、自分の両腕で体を抱きしめた。
まるで、目の前の変態から身を守ろうとしているかのように。
ちょって待って。……それって僕じゃん。
「ううう……!」
羞恥と焦りと後悔が入り混じり、僕の口から出たのは言葉ですらなくなった。
終わった。こんな変態な恩知らずだったのか僕は。
顔に集まった情けない熱を感じながら、うなだれていると微かな笑い声が耳を突き抜けた。
「ふふっ……あははは!……もう無理ぃ。……お腹痛ーい。マーチ君、ノリがいいねぇ」
恐る恐る顔を上げると、お腹を抱えて笑いをこらえているユウお姉さんの姿が。
ひとしきり笑い切ったのか腰を折ったまま顔をこちらに上げると、目じりには涙が浮かんでいた。
「ぜーんぶ冗談だよ。……ふぅ。こんなに笑ったの久しぶりだよぉ」
「……ほんと、ですか?……良かったぁ」
今までの微妙な雰囲気が嘘だったかの様に霧散している。
両肩の重石がすっと取れたように感じた僕はほっと一息をついた。
「じゃあ。エンジンシティへ向かう前にご飯食べていこっか」
両手を上に伸ばし、軽い準備運動をしながらユウお姉さんはつぶやいた。
空を見上げると、日はかなり高くまで昇っている。お昼の時間だ。
僕も朝から何も口にしていない事に気がつくと、体も思い出したかの様にお腹の音を鳴らした。
「あ」
思わず間の抜けた声を漏らしてしまった僕。それを見てころころと笑うユウお姉さん。
「決まりだね。マーチ君、何かおいしいお店知ってる?」
タイミングが良いのか、悪いのか。
恰好がつかない状況に恥ずかしくなり、自分の頬に熱が集まるのを感じる。
満開に咲く花の様な笑顔の彼女を目にしながら、僕はランチで名誉挽回する事を決意した。
《ブラッシータウン》の駅前にある様々な店から自分のお気に入りの店を思い返す。
「それなら、昔からやってるおいしいカレー屋さんがありますよ。そこにしましょう!」
「お。いいねぇ!私、カレーには少しうるさいよぉ?」
町まで戻る帰り道。僕と彼女の嬉々とした声が晴れ渡る空の下に響き渡っていた。
この後、僕たちは街中で逃げ出したウールー達を捕まえたり、列車の中で起きたヨクバリス強盗事件を解決したり。ワイルドエリアで遭遇したさすらいコックとクッキング対決を繰り広げるのだけれど。
それはまた、別のお話。