アドマイヤベガが経験した奇妙な出来事を、ナリタトップロードが聴き取ってトレーナー陣に伝えてからの動きは早かった。
この場所がURAのレジェンド、結城トレーナーの個人所有する合宿所でなかったとしても、現役GⅠウマ娘に異変ありとの情報はトレセン学園にとって一大事であっただろう。
一時間も待つことなく、このド田舎にある合宿所には一流の医師たちが到着していた。日頃よりトレセン学園の校医として勤め続けているスポーツドクターや心療内科医たちである。
例の大型ヘリを一般の自家用車と同様の感覚で飛ばすことの出来る結城トレーナーの存在に改めて舌を巻きつつも、無論ながら鷹木トレーナーもアドマイヤベガの診療結果を気に掛けていた。
散策先から合宿所に戻ってきて、ある程度落ち着きを取り戻していたアドマイヤベガ自身はと言えば、あまりにも手厚すぎる医療サポートに出迎えられた困惑の方を大きく感じていたようであったが。
その日の空が暗くならぬうちに、アドマイヤベガを診た医師たちからの報告をトレーナー達は受け取ることとなった。
「結果から申し上げますと、どこにも異状は見られませんね。」
結城トレーナーに呼び出される直前まで、学園が所有するほうの合宿所に詰めていたのであろうスポーツドクター。彼は健康的に日焼けした顔に、その報告のあっけなさを感じさせぬしかつめらしい表情を浮かべている。
URAの生ける伝説たる老トレーナーが、じっとこちらを見つめている状況ではそうせざるを得ないのだろう。
「外傷が見られないのはもちろん、過度の負荷が蓄積している状態でもありません。今までどおり、トレーニング後の適切なクールダウンを忘れず行っている限り問題はないかと。」
窓の外では夕闇が濃くなりつつある練習場を、軽く走っているウマ娘たちの姿があった。
アドマイヤベガの気を晴らすつもりなのか、ナリタトップロードが彼女の隣に寄り添うように駆けている。軽く流す程度の速度であるおかげか、テイエムオペラオーが機嫌よく歌いながら足を運んでいる様が窓越しにも響いてくる。
「精神面におきましても、多少の緊張状態は残っていましたが、現状は明確に不調を引き起こすレベルのものではないと判断されます。」
「つまり、明日からも練習を続けさせて構わないんだね?」
静かに尋ねる結城トレーナーの目は笑っていなかった。それはウマ娘の状態について真剣になっているためであったろうが、そんな視線に射られ続ける医師たちの緊張状態の方が鷹木は心配になるほどであった。
とはいえ、アドマイヤベガが経験した怪奇現象をそのままに鷹木が味わっていたら、泡を吹いて倒れているのは鷹木自身だったに違いない。
あの出来事を生々しく思い出すことを厭ったアドマイヤベガは、ナリタトップロードに対しごく簡潔にのみ内容を語っていた。さらにトップロードからトレーナーたちへと伝わった話は、彼女が幻覚を見た内容に恐怖しているらしい、程度のものに収まっていたのだ。
「はい。自分たちは学園の合宿所へと戻らなければなりませんが、何かあればすぐにでもご連絡を。」
「あぁ、また頼むよ。忙しいところ、わざわざ呼びつけて済まないね。」
医師たちがこの場を離れるころには結城トレーナーにいつもの穏やかな表情も戻ってきていたものの、この場に残された緊張感が晴れ切っていないことに変わりはなかった。
専門家によって異状なしと診断された後、トレーナー達に可能なのは憶測ばかりである。各々の担当ウマ娘を最もよく知っているのが彼らに他ならないとはいえ、明確な対処は見出せぬままであった。
「ウマ娘が幻覚を見るだなんて前例は、やっぱり無いもんですかね。」
「さあ……先ほどのお医者さんたちも触れてないってことは、重大な異状の兆しではないとは思いますが。」
そそくさと合宿所の建物内へ戻っていった結城トレーナーを見送り、並んで鷹木と片桐トレーナーは顔を見合わせている。
相変わらず歌を響かせながら練習場での駆け足を続けているオペラオーの声を聞くにつけても、この夏の田舎町で起きる出来事に平穏でないものなど有り得ないようにしか思えなかった。
「例えば何でしょう……人間の例しか報告はないものの、ランナーズハイみたいな。」
「いや、ウマ娘の走りにおいてはあり得ないでしょう。幻覚を見るほど過度の苦痛に晒され続けることなど、ウマ娘レースにおいては最も避けられるべき走りだ。」
「ですよねぇ……。」
走っている最中に幻覚が見える……となれば、人間であれば超長距離を数日駆けて走りぬく、アドベンチャーレースのような競技では起こり得る。
数百㎞から数千kmにも及ぶ長大なコースを、十数日という制限時間内に、過酷な気象条件や地形の急峻さにも耐えて踏破せねばならない。睡眠時間は削られ、体力が枯渇同然の状況に陥ってもなお脚を動かさねばならぬ極限状態の中、幻覚を見るに至る選手は存在するという。
体力面においては人間を凌駕するウマ娘であるが、このように熾烈を極める環境においては脚を故障するリスクの方が高く、アドベンチャーレースには未だウマ娘が出走した記録はない。
そもそも、大自然を踏破するアドベンチャーレースと、競技場においてコンマ秒のタイム差を競うレースでは質が違いすぎる。
従来のウマ娘レースにおいては競走のさなか極まった集中力と共に高揚感に似たものを味わうことこそあれど、基本的にコース取りやスタミナ配分を管理するための理性の働きが常に求められるだけに、幻覚を見ることは理想の真逆に位置する現象だ。
殊に、そういった無茶な走りからは縁遠い性格のアドマイヤベガから幻覚を見たという報告が上がって来たことは、トレーナーたちにとって理解し難い事実であった。
「まさか、アドマイヤベガだけが昼飯も食わず、ぶっ通しで走り続けてフラフラになってた、なんてことは……」
「居合わせた子達からも聞きましたが、ちゃんと食堂での昼食時には同席していたそうですよ。そもそも、他のウマ娘と比べても輪をかけて慎重な子なんだから。」
「ですよねぇ、自身が定期的に診断を受けに行くだけでなく、オペラオーを担当する俺に対しても検診を受けさせるよう言ったり……」
鷹木はそこまで口にしたものの、アドマイヤベガが怪我や故障に対し慎重になった原因については忘れ去っていた。
二年前の夏合宿、オペラオーに対して自身の奇怪な体験を打ち明けたアドマイヤベガの発言は、それ以降に積み重なった激動の記憶に埋もれて取り出されなかったのだ。
いよいよ暗くなっていく空から夕映えの色が取り除かれ、暮れて暗くなった練習場からウマ娘たちが戻ってくる。
軽く流した程度とはいえ、体の温まったこともあり、アドマイヤベガはかなり血色が良くなったようにも見えた。すっかり安堵しきったトレーナー達は、シャワーを浴びに向かう彼女らとは別れ、自室へ戻って夕食までの時間を書類仕事にあてようとした。
が、アドマイヤベガの声が鷹木を呼び止める。
「鷹木トレーナー。」
「なっ、なんだ?」
彼女の声は静かなままであったが、その裏には切迫したような響きがわずかにあった。
「オペラオーは、まだ引退しないのよね?」
「あぁ、少なくとも、あと二回負けないうちは。」
トレセン学園への出資者が示した条件は、テイエムオペラオーは三回敗れるまで引退しないというもの。宝塚記念にてメイショウドトウに敗れたのを一回目と数えれば、残りは二回である。
アドマイヤベガが今になってそんなことを訪ねてくる真意を掴みかねて、鷹木は戸惑いを表情に表したままだった。
「……今年の、ジャパンカップには?」
「もちろん、出走させるぞ。その時までに、二回負けて引退になってなければ、の話だが。」
オペラオーは既にドトウや後輩たちを伴って、シャワールームの方へと去っていった。常に無駄に響く声で歌い続けているおかげで、彼女の現在位置は手に取るように分かる。
質問を重ねるたび、アドマイヤベガの表情は張り詰めていくようであった。既に顔の紅潮は去り、幻覚を見たと言って戻って来たときのような血色の悪さへと近づいていく。
もう一つ引っかかる点があるとすれば、アドマイヤベガの心配がほぼオペラオーにのみ向いているということであった。
「ジャパンカップまでに、出る予定のレースは決まってるのかしら。」
「あ、あぁ、10月の京都大賞典、それから天皇賞秋を予定してるが……。」
アドマイヤベガの目つきが急激に鋭くなる。
彼女の真意を理解できぬままの鷹木は、ただそれを呆然と眺めるばかりであった。
「どちらも私が勝たなければ。あの子はジャパンカップで……。」
「アヤベ。」
いつの間にか、ナリタトップロードがアドマイヤベガの背後に現れていた。
憑き物が落ちたような表情で振り返ったアドマイヤベガは、間もなく顔を俯けて足早に去って行ってしまう。あとには不可解を表情に張り付けた鷹木と、沈思するトップロードだけが残された。
「トレーナーさん。」
鷹木へと語り掛けるトップロードの声には、真剣な響きが伴っていた。
「アヤベは、自分が経験したことの全部を喋ってないよ。思い出すのが、怖いんだと思う。」
「えっ……。」
「もちろん、アヤベの担当は結城トレーナーだけれど……鷹木トレーナーにも、気にしておいてもらいたい、かな。」
「……わ、分かった……。」
とは言われたものの、やはり察しの悪い鷹木はポカンとした表情を外せぬままである。
トップロードはそんな彼を前にして更に何かを言いかけ、しかし詮方ないことと思い直したのか口を閉じ、いつもの穏やかな瞳に戻って立ち去っていった。
(オペラオーが、ジャパンカップで……?アドマイヤベガは、いったい何を言いかけたんだ?)
この場に勘の良い片桐トレーナーが居れば、あるいは何かを掴んでいたかもしれない。が、既に自分ひとりだけとなってしまっていた鷹木は、相談する相手を持たなかった。
アドマイヤベガ自身が語りたがっていない内容を無理やり喋らせるわけにもいかず、鷹木の胸中には漠然とした不安が植え付けられたのみであった。