アドマイヤベガの身に起きた奇怪な現象は、一部のトレーナーと同期ウマ娘たちの胸の内に収められたまま、夏合宿での鍛錬は続いた。
トレーニングに注いだ熱意のほどは、どのウマ娘も同等であったことは言うまでもないものの、この夏に大きく能力を伸ばしたのはアグネスデジタルである。
夏に入る前、5月のレースでは九着、6月のレースでは十一着と伸び悩んでいた彼女であったが、それまでと違って桂崎という担当トレーナーを得たことの影響は大きかった。敗因を分析してくれる存在は、トレーニングの方針を明確にしたのである。
スタミナを振り絞っての末脚強化に専念し続けたアグネスデジタルは合宿中における並走練習にて、ついにナリタトップロードを追い越してゴールすることに一度成功していたのである。
「本当に、デジタルは強くなったよ。前に言っていた通り、オペラオーと直接対決する日も近いかもね。」
夏季の最終日、合宿所からトレセン学園へと戻るヘリの中で、トップロードはアグネスデジタルにそう告げた。トップロードの隣に身を固くして着席しているオペラオーは、空飛ぶ乗り物に相変わらず慣れぬ緊張ゆえか口数少ない。
後輩に追い越される焦りを一切感じさせることなく、純粋に称賛してくれる先輩の存在をアグネスデジタルは嬉しく感じた。
「先輩からそう言っていただけるなんてぇ……!できれば、オペラオー先輩にドトウ先輩、アヤベ先輩にも勝ってみたかったですけどね!」
「はわわわぁ、わ、私のことも、そのうち追い越してしまいそうですぅ……。」
実際のところ、アグネスデジタルは幾度目かの練習時、メイショウドトウにほぼ並んでゴールするところまで漕ぎつけてはいる。レース本番でなければあの鬼気迫る走りを発揮し得ないのが、ドトウの性格であったためでもあるが。
が、一度の敗北後も絶対的覇王として君臨し続けるオペラオーはもとより、彼女と今なお火花を散らし合うアドマイヤベガには未だ届きそうになかった。
当のアドマイヤベガは、今回は窓際の席を占め、窓枠に頬杖をついてボンヤリと窓外の光景を眺めている。トップロードの話しかけた声に対しても、僅かに反応が遅れていた。
「秋からのレースが、本当に楽しみだね。私たちを継ぐ後輩たちが、どんな活躍を見せてくれるのか……アヤベ?」
「……えぇ、そうね。」
アドマイヤベガの脳内に渦巻き続けていたのは、当然のことながら例の怪奇な経験の中で与えられた、不吉な予言である。
エアシャカールは今後活躍の場を得られず、引退後間もなく事故によって死亡するであろう。テイエムオペラオーはジャパンカップの最中、疲労骨折を引き起こし、間もなく安楽死の処分を下されるであろう……。
(あんな予言を信じるなんて、私もどうかしてるけど。)
ウマ娘が安楽死を余儀なくされるほどの怪我とはいかなるものか、アドマイヤベガには想像もつかなかった。そもそも、あの記事で彼女らに対して用いられていた「馬」という呼称自体、理解しかねるものだったが。
何の根拠もない予言だとはいえ、無視しきることは出来なかった。二年前のアドマイヤベガは、予言の通りに東京優駿で勝利し、その後不調により長期療養に入った経験があるのだから。
(オペラオーは、あと二回負ければ引退する。つまり……ジャパンカップまでに、私があの子に二度勝てば、悲劇は避けられるはず。)
アドマイヤベガの突き詰めた眼光には、長く共に競って来た好敵手への思いも込められていた。
トップロードほどの長い付き合いを持つ友でなければ、彼女が素っ気ない態度を取ったとしても、普段のアドマイヤベガと大差ない様子にしか見えなかっただろう。
だが、今のトップロードには分かっていた。アドマイヤベガの心を占める大きな不安の存在も、なんとかして再びテイエムオペラオーに勝利しようと執念を再燃させている理由が単純なものではないことも。
(落ち着いたら、アヤベは本当のことを伝えてくれるだろうか。今年の夏は、どんな恐ろしい体験をしたのか。)
とはいえ、何も知らぬ仲間や後輩たちにまでその不安を伝染させるわけにもいかないトップロードは、楽し気に喋り続けるアグネスデジタルへと再び笑顔を向けた。
トレセン学園へと戻ったアグネスデジタルが、急ぎ再開すべきであった練習はダートでの走行である。
次なる出走予定レースは9月19日の日本テレビ盃、すなわちダートレースなのだ。合宿中は秋の天皇賞やジャパンカップへの出走を見越した先輩たちとともに芝のコースを走り続けていたが、残り二週間と少しの期間中にダートで走る感覚を完全に取り戻さねばならない。
とはいえ、芝でも十分に通用するトップスピードに、従来より得意としていたダートを駆け抜けるスタミナも備わり、現状のアグネスデジタルは以前と比べても格段に強くなっていた。
「以前の通り、無理にウチに入らずに走るぞ。今のお前なら、外を回りつづけても勝てる。」
「はい!今回出走は八名ですからね……確実に、前を塞がれることなく勝たせてもらいます!」
舞台となる船橋レース場は、スパイラルカーブと呼ばれる特殊なコーナー区間を有している。これは直線から入った直後は緩やかなカーブが、徐々に半径を狭めていきカーブが急になっていくという構造である。
コーナー突入直後は緩やかなためスピードを出したままでも構わないが、その遠心力に引っ張られる形でコーナー出口では外側へと振られることになる。トップスピードで逃げ切ろうにも、速度を抑えている後方のウマ娘が小回りで攻略してくれば追いつかれやすくなるのだ。
内と外、あるいは逃げと差しでの有利不利は比較的少なく、走りやすいレース場としての評判は高い。この夏を通じて底力を上げたアグネスデジタルが、自らの脚を試すうえでは理想的な環境であった。
当日、アグネスデジタルに与えられた枠番は7番。
かつてであれば不利な位置として抵抗を感じていたかもしれないが、今のアグネスデジタルの目には越えるに相応しき試練とのみ映っていた。
(芝と違って、ダートのレースなら私のスピードが最初から活かせます……!)
3番人気の評を下されたアグネスデジタルであったが、彼女が既にGⅠウマ娘の座へと返り咲くだけの力を得ていることを観客たちは知らなかったのである。
〈日本テレビ盃、いよいよ発走です……スタートしました!各ウマ娘、一斉に揃ったスタートを見せ、まず間からケンチャムが出てまいりました。外から上がっていきますのはホリークラウン、このあたりホリークラウンが先頭に立ちました、ケンチャムは二番手のポジションを取ります。そして昨年マイルチャンピオンシップを勝ちましたアグネスデジタルは現在三番手、ウチを突いてタマモストロングです。〉
芝のレースであれば、さすがに逃げウマ娘たちのスタートダッシュには無理について行くことのないアグネスデジタル。
が、ダートであれば状況は真逆である。芝のレース速度に合わせられるアグネスデジタルの脚ならば、あっという間に逃げウマ娘たちの背後へつけることが出来る。むろん先行争いに加わることとなるが、ウチ側を譲り続けることで無用なポジション調整にスタミナを割くことはない。
(ずっと外側を回り続けます、そうやって勝つために、この夏ずっと先輩たちと走り続けたんですから!)
〈後方待機策はスナークレイアース、さらにはノボトゥルー、こちらも後方から狙う形。第1コーナーに入ります、さらに後ろからはアローウィナー、外目からはインテリパワーが最後方といった形。八名は5バ身の圏内に固まってバラけることなく、1200を通過です。先頭はホリークラウン、身体半分のリード。二番手ケンチャム、そして三番手に変わらずアグネスデジタルであります。〉
スパイラルカーブの出口では、やはりスピードを出している選手が外へ振られ、抑えている選手が小回りに通過し、バ群はばらけない。
このレースで集団に巻き込まれないことの重要性は、この点にもあった。密集した形が崩れない以上、理想的なポジションを取れぬまま最終直線へ突入する羽目になることも多いのだ。
アグネスデジタルも逃げウマ娘たちの背中にピタリとついてスピードを出していた結果、コーナーを大回りに通過することとなったが、それでも後方へ下がるようなことはしなかった。
〈ゴールまで1000m標識を通過しました、フェブラリーステークスの優勝ウマ娘、ノボトゥルーは後ろから三頭目、ちょっと集団に揉まれて前に出づらいか。800を切りました、シンガリはアローウィナーという流れ、先頭から最後尾まで変わらず5バ身の圏内、変わりません。先頭のウマ娘たちが徐々に並び始めた……600を通過して、まずはアグネスデジタルが動いた!〉
第3コーナーに入ると同時に、アグネスデジタルは仕掛けた。
走りやすいコースという前評判に偽りはなく、ダートは固まっていなかったものの脚が取られることもなく、スタミナには十分すぎるほどの余裕があった。今のデジタルには、自分がどこまでスピードを伸ばせるかの方にむしろ興味があった。
(それじゃ、ここからゴールまで一気です!)
会場からはどよめきが上がる。6月の安田記念、芝のレースで十一着と惨敗したウマ娘が唐突にダートに戻って来て、すぐに本調子には戻らぬだろうという見方が大半を占めていたのだ。
しかし、GⅠの称号に依然として相応しいアグネスデジタルは、その実力のほどを存分に見せつけたのであった。
〈さぁ動いたのはアグネスデジタル、アグネスデジタルが先頭に変わるか!ウチにケンチャム、その後にはタマモストロング、スナークレイアースといったところも上がっていきました!1番人気ノボトゥルー、まだ後方であがいているか!400の標識を通過です、4コーナーを回って、先頭は、アグネスデジタル!独走状態だ!〉
アグネスデジタルが仕掛けたのを見て、慌てたように後方のウマ娘たちも前へと上がり始める。
が、アグネスデジタルは途中で息切れすることなく、加速がとどまることもなく、ますます後方との距離を離していきながら最終直線へと突入していった。
二番手以降のウマ娘たちは拮抗した状態であったが、アグネスデジタルは確かに別次元に居たのである。
〈アグネスデジタル、この時点で3バ身のリード!二番手にケンチャモ、外からスナーフレイアース!ウチを突いてタマモストロング、200の標識を通過!二番手争いが熾烈を極めているが、先頭には及ばない、先頭はアグネスデジタル!二番手争いは、スナーフレイアース、タマモストロング接戦だ!今、悠々と、アグネスデジタル一着でゴールイン!アグネスデジタル、快勝であります!〉
レース場に響き渡る大歓声が、ほかならぬ自分へと向けられるのを、アグネスデジタルは久方ぶりに耳にしたのであった。
満面の笑みを湛え、両腕を大きく振って歓声に応えるアグネスデジタル。しかし、自分の仕草がかつてのように、タガが外れた歓びに衝き動かされるほどのものではなくなっていることにすぐ気づく。
それが、ずっと共に練習をしてきたナリタトップロード先輩や、あるいは桂崎トレーナーの冷静さが自分にもうつったものだと思い至り、デジタルは思わず苦笑した。
自分が苦笑などという表情を浮かべる日が来ようとは、学園に入ったばかりの自身に到底想定できるものではなかったろう。
「勝つって、難しいんですね……勝てるようになった私が、こんなに変わってしまうだなんて。」
アグネスデジタルは若干落ち着きを備えた笑顔を見せつつ、愛嬌を観客席に振りまきながらウイニングライブの控室へと下がっていったのであった。