アグネスデジタルの劇的な勝利によって飾られた9月もいよいよ過ぎていくほどに、アドマイヤベガの焦りは強くなる一方であった。10月に入れば、間もなくテイエムオペラオーと直接対決となる京都大賞典が待ち構えている。
もちろん、これまでにない強敵であるテイエムオペラオーに勝利することについては、ドトウに負けず劣らず並みならぬ執念を燃やし続けていたことに彼女も違いは無い。
が、今はただ、11月のジャパンカップまでに、オペラオーに二度勝つことに目標の主たる所が置かれていた。
すなわち、京都大賞典、そして天皇賞秋の二大レース。
三度敗れれば引退することを公言しているテイエムオペラオーは、宝塚記念に引き続き、あと二度の負けで引退が決定する。
(私が勝って、あの子を引退させる。悲劇が起こる前に……!)
毎年のように夏合宿で体験する怪奇現象、ウマ娘たちの命運を予言するかのようなボロボロの新聞紙の内容は、今や殆ど確証ある予知であるかのようにアドマイヤベガには感じられていた。
そこに記されていた不吉な予言、テイエムオペラオーがジャパンカップのレース中に致命的な骨折を引き起こすという悲劇。
きっと、それによる引退はオペラオーにとって大いに不本意なものとなるだろう。好敵手であるアドマイヤベガにとっても、マトモに立ち上がることすら出来なくなってしまうオペラオーの姿など、見たいものではない。
激戦を走り続けて来たウマ娘の身体には、尋常ならざる負荷が蓄積している。
オペラオーと同じ舞台に立ち続けて来た者として、その末路は競走相手であっても悲惨なものであってほしくはなかったのだ。
(目標は今までと変わらない……届かなかった一歩を詰めて、勝つだけ。)
アドマイヤベガがいつになく焦りを抱いている様を、最も近くで感じ取っていたのはエアシャカールである。
彼女と違って京都大賞典に出走しないシャカールは、10月に入るまで幾度となくアドマイヤベガとの並走練習を行った。常に「ロジカル」であることを至上とするシャカールにとって、この常に冷静な先輩の在り様は憧れる到達点の一つでもあった。
……が、芝2400mの走行練習を繰り返すアドマイヤベガは、明らかに熱くなりすぎていた。
先日も、シャカールとほぼ並んで練習コースのゴールを通過したアドマイヤベガは、クールダウンもせず多少息を整えただけの状態で、再びコース上へと向かおうとしたのだ。
「まだ、タイムを縮められる。もう一回、付き合って。」
「お、おいおい、今日はここまでだ。ンなことより、早いとこクールダウンを済ませねぇと、脚の筋肉のダメージを持ち越すぜ?」
「そうだったわね。無理に付き合わせてごめん、私だけでもう一走りしてくる。」
「じゃ、なくってだな、アヤベ先輩……。」
エアシャカールから練習の終了を促されても、アドマイヤベガは聞く耳を持つことなく、汗をぬぐったスポーツタオルを投げ捨てて背を向ける。
滅多な事ではウマ娘の練習に口を出さない結城トレーナーが、制止するのをシャカールは初めて聞いた。
「アドマイヤベガ。今日の練習は終了だ。速やかにクールダウンを行って、寮へ戻りなさい。」
「……。」
その声は穏やかだったが、そこには厳然たる響きが抱かれていた。
基本的にはウマ娘自身が組む練習メニューに任せ、余程のことでもない限り彼女らの意思を尊重する方針の結城トレーナー。
彼がウマ娘の行動を阻む『余程のこと』を、今まさにアドマイヤベガは実行しようとしていたのだ。
「これ以上続けても、身体にダメージが蓄積するだけだ。君を怪我で引退させたくはない。」
「……分かった。」
それでもなお、脚を止めたままに芝のコースへ向かい合い続けていたアドマイヤベガであったが、再度の結城トレーナーの言葉に応じてようやく踵を返す。
俯きがちのままに練習場を照らす照明に背を向けた彼女の顔は真っ暗で、立ち尽くしたままのエアシャカールにも表情は読めなかった。
「良くない、かもしれないね。」
アドマイヤベガが去っていった後、結城トレーナーはエアシャカールに語り掛ける。
その思案に満ちた顔はやはり俯けられ、斜めから当たる照明の光がますます老トレーナーの顔面に刻まれた皺を深く見せていた。
「ウマ娘の寮にまで、トレーナーが入り込むことは出来ないから……アドマイヤベガのこと、気にして見ておいてくれるかな。」
「……分かってる。言われなくても、オレはそのつもりだ。」
「済まないね。相当に焦ってしまっている、あの子は。」
それでもなお、ウマ娘が走りたい、勝ちたいとする意思を阻むことを出来ないのがトレーナーであった。
いかにURAの生ける伝説、トレーナーの頂点に立つ人物であったとしても、彼はウマ娘の決意を覆し得なかったのである。
本格的な秋を迎えつつある京都レース場に、超満員の観客が詰めかけたのは10月7日のこと。
京都大賞典は3か月越しに覇王テイエムオペラオーを始め、アドマイヤベガ、ナリタトップロードといった錚々たる顔ぶれが揃う一大レースだけあって、全国からの注目を集めていたのは言うまでもない。
観客たちは、いよいよ覇王の背に追いつきかけている、アグネスデジタルやエアシャカールの存在をそこまで大きく見ていなかった。
当のアグネスデジタルは翌日の10月8日に盛岡レース場でのマイルチャンピオンシップ南部杯を控えていたため、それどころではなかったのだが。
〈京都レース場、芝2400m。絶好のレース日和に恵まれまして、芝状態は良であります。京都大賞典、全七名の選ばれし優駿たち。間もなく発走の時を迎えました。やはり注目の的となりましたのは1番人気テイエムオペラオーでありますが、2番人気ナリタトップロードにも、メイショウドトウに続いての覇王討伐に期待がかかります。〉
これだけのウマ娘がそろい踏みするレースでありながら、スペシャルウィークの解説がアナウンスとともに響いてこないのは、今となってはますます不自然な事のように思われた。
メディアへの出演で多忙を極めるスペシャルウィークのスケジュールは、GⅠレースのためにのみ空けられているような状態であった。
アドマイヤベガは、3番人気。彼女もまた幾度もその実力を認められていながら、堅実にオペラオーと並ぶところまで漕ぎつけることもあるトップロードほどには評価されていない節があった。
(出走数がこれだけ少なければ、追い込みも大外を回らず決められる……まずは一勝、確実に獲らせてもらう。)
ここでの勝利が得られなければ、あの不吉な予言の為されたジャパンカップへのオペラオーの出走が確定してしまう。
アドマイヤベガの一着への執念は、従来通りのウマ娘としてのものでもあり、好敵手に降りかかる悲劇を回避させるためでもあった。
〈態勢が整いました……スタートしました!揃ったスタートを切りました、まず、テイエムオペラオーが先頭に立ちました、今回の世紀末覇王は進んで先頭に出ましたが、ウチからはスエヒロコマンダーが行きまして先手を奪いました。そしてナリタトップロードは三番手であります。その後、2バ身ほど開いてサニーサイドアップがウチに、ホワイトハピネス、ユーセイトップラン、最後方にアドマイヤベガであります。〉
読み上げるウマ娘の名前も少ないためか、実況アナウンスの声もどこかゆったりとした速度である。
が、その実況の間に張り詰めている緊張感は並みならぬものであった。現世代における最強クラスのウマ娘がほとんど揃っているレース、コース上の位置取りもわずかに狂えば致命的な遅れへと広がってしまう。
歓声を浴びながらスタンド前を駆けるウマ娘たち。コーナーに入るまで600mもの長さを誇る直線にて、アドマイヤベガは速やかに最ウチへと入った。
(無駄なスタミナは使わない、確実に最終コーナーから追い込んで勝つんだから。)
前方ではほとんどの選手がオペラオーを追う形で、それぞれの位置を固めつつある。
〈前に三名、後ろに三名、そして最後方にアドマイヤベガだけがポツンと遅れて追う形となっております。これから第1コーナーへとかかってまいります、先頭に立っておりますのはスエヒロコマンダー、リードは2バ身から3バ身。そして二番手にはテイエムオペラオー、ウチに並んでナリタトップロードが三番手。ホワイトハピネスがその後に続き、半バ身差でサニーサイドアップという形。これから向こう正面の直線へ入ってまいります。〉
コーナーの最ウチはナリタトップロードに塞がれる形で、一つ外を回ることとなったテイエムオペラオーであったが、その程度では彼女にとって十分なロス足り得ないだろう。
むしろ前を決して塞がれない状況、集団に埋もれる恐れも無い舞台で、世紀末覇王の力はいよいよフルに発揮されるものと見えた。
(条件は、こちらも同じ。あなたに並ぶことぐらい、私には造作もない。)
ジャパンカップまでのレースで、一勝でもオペラオーに与えれば、当のオペラオー自身が凶兆に囚われてしまう。
その恐れを極力押し殺すように、アドマイヤベガはレース運びへ集中するよう自らに言い聞かせていた。あくまで、自分は自分の勝利のために走っているのだ、と。
〈ホワイトハピネス、ユーセイトップランから5バ身ほど遅れまして、アドマイヤベガが最後方であります。先頭からしんがりまで大きく開いた形となっておりますが、徐々に詰まって来たか。間もなく第3コーナーへと入ります、先頭は変わらずスエヒロコマンダー、淡々としたペース。3コーナーの坂を上り詰めて、下りにかかるところ……ウチから抜け出したナリタトップロードが、スーッと上がっていって先頭に並んで行った!〉
やはりスピードの出やすい京都レース場の第3コーナー、下り坂へ突入したのに合わせて仕掛けたナリタトップロード。
このままテイエムオペラオーと並び続けていれば、前に出ようにも先頭のスエヒロコマンダーに前を塞がれる形となってしまう。ぐんぐんと近づいてくるスタンドから歓声を浴びながら、理想的な走りを見せるトップロードは加速していった。
〈ナリタトップロードを追う形でテイエムオペラオー、変わってウチを突いたのはホワイトハピネスでありますが、ここでアドマイヤベガが仕掛けた、アドマイヤベガが3コーナーの下り坂から一気に仕掛けました!外を回って物凄い追い上げだ!〉
(行ける、これなら……!)
本来、十数名が同時に走るウマ娘レースにおいては、前方を塞がれかねない差しや追い込みのウマ娘は、コーナーを大回りになって距離上のロスを抱えることも覚悟のうえで、大外を回って走らねばならない。
が、たった七名しか走らぬ今回の京都大賞典においては、ウチ側に一名しかいない競走相手のすぐ外を回っていくことで追い込みが成立した。
すなわち、アドマイヤベガは今までになく理想的な形で前方に迫っていけたのである。
スピードに乗った先頭集団が、コーナーを曲がって来た勢いのまま、コース外側に振られながら最終直線へと突入する。後方から見る間に上がって来たアドマイヤベガは、その隙間を突くように内側から前を目指し始めた。
〈さぁ最後の直線へと向きました!このところ先頭はナリタトップロードか、その外をテイエムオペラオーが突っ込んできた!さらにウチを突いて、最後方から追い込んできたアドマイヤベガ、三名並んでゴール板を目指す!前三名の争い!びっしり競り合った!先頭はアドマイヤベガか!〉
完全に並んだ。アドマイヤベガはナリタトップロードを追い越し、さらに次元の違う加速を続けるテイエムオペラオーをも抜き、僅かに先頭に立ったのだ。
しかし、テイエムオペラオーは、そのまま後ろへと流れ去ってくれはしなかった。アドマイヤベガは過去最高の末脚を発揮できていたはずだったが、栗毛の世紀末覇王は再びその差を縮めはじめたのである。
(駄目……だめッ!ここで勝ってしまったら、あなたはジャパンカップで……!)
自分がどれだけ無茶な選択をしたか、その時のアドマイヤベガは気づいていなかった。
並んでいる以上、アドマイヤベガが外へとコースを取れば、テイエムオペラオーも接触を避けるようにコース外側へと流れざるを得ない。そうすれば、距離的な有利は稼げるアドマイヤベガの勝ちは近づく。
しかし、それは『斜行』……特に、他の選手の走りに明確な影響を及ぼすものは、違反である。
ことによっては、あの冷静なアドマイヤベガが、これほど無謀な走り方をしたことに、テイエムオペラオーも内心で大いに驚いていたかもしれない。
が、実際に驚きの声を上げたのは、アドマイヤベガの僅かに後ろを走っていたナリタトップロードであった。
「あッ……!!」
〈先頭は、アドマイヤベガだ!アドマイヤベガ先頭!外からは、テイエムオペラオーが二番手!大接戦だ!先頭はアドマイヤベガ……ああぁーっと!!ナリタトップロード転倒!ナリタトップロード転倒です!接触あったか!〉
アドマイヤベガはテイエムオペラオーに進路を譲らぬつもりで斜行し……もちろん、その時点で違反は免れなかったのだが……しかし直接接触してしまったのは、これまたテイエムオペラオーとほぼ並んでいたナリタトップロードであった。
ナリタトップロードはテイエムオペラオーとアドマイヤベガに挟まれる形で身動きが取れない状態だったのだ。
彼女がわずかに後ろを走っていたこともあり、オペラオーを勝たせまいと必死だったアドマイヤベガの視界に、トップロードの姿は入っていなかった。いかに必死になっていたとしても、実際にぶつかってしまうことだけはアドマイヤベガも避けていたはずだった。
芝と土を蹴立てる自分の脚に、一瞬だけトップロードの熱い息が吹きかかる。
どさっ、という音を背後に聞きながら、アドマイヤベガは一着でゴールした。まるで氷を全身に詰め込まれたような冷ややかさとともに、ゴール板前を通過することになろうとは思いもよらなかった。
〈ゴール!アドマイヤベガが一着、二着にはテイエムオペラオーでありますが、審議のランプが点灯しております!このレースは審議であります!〉
そこからのことを、アドマイヤベガは殆どマトモに記憶していない。
振り返った時、ちぎれた芝や土にまみれてナリタトップロードが転がっている様を目撃した彼女は、何かを喚きながら駆け寄っていった。
おそらく、トップロードへ謝罪の言葉を尽くしたはずだった。
「大丈夫、私は、擦り傷ぐらいだから……」
そう言って立ち上がろうとするトップロードの表情に、かなりの無茶が浮かんでいるのは明確に見えていた。
どよめきや喧噪、中には罵声まで飛び交っている観客席に向けて、ナリタトップロードは自分の健在を示そうと努めていたのだろう。アドマイヤベガに対する悪口雑言が、多少なりと軽減できるのであれば、と。
間もなく駆け寄って来た救護スタッフによってストレッチャーに載せられ、搬送されていくナリタトップロード。
なおも混乱の収まりそうも無い大叫喚を一身に浴びながら、トップロードの乗った救急車を見送って呆然と立っているばかりのアドマイヤベガの手をとったのはテイエムオペラオーであった。
レース後としては異常な事態であり、ナリタトップロードが搬送される様を見るテイエムオペラオーの目は確かに心配そうであったものの、アドマイヤベガへと向ける表情はいつも通りに朗らかなままだった。
「さぁ、こっちへ。」
「オペラオー……私は……。」
「アヤベさん。分かってる。」
何を分かっているとも口にはしなかったが、この時ばかりはオペラオーの根拠なき自信の漲る瞳が、固まり切っていたアドマイヤベガの脚を動かした。
夏の暑気も完全に去ったレース場に吹く風は冷え冷えとして、感覚のなくなり切ったアドマイヤベガの指先は我知らず震えていた。