アドマイヤベガは、生涯で最も心細い夜を過ごした。
彼女の斜行のせいで転倒したナリタトップロードが病院へと搬送されたこともあり、京都大賞典のウイニングライブは中止となった。斜行を起こしたアドマイヤベガは失格となり、繰り上がる形でテイエムオペラオーが一着として処理された。
混乱と喧噪にあふれる京都レース場から、トレセン学園のスタッフに匿われるようにして移動用バスに乗せられ、逃げるようにしてトレセン学園へと戻って来たアドマイヤベガ。
あまりに蒼ざめきった彼女の顔色を前にして、結城トレーナーは事情を聴くよりもアドマイヤベガを落ち着かせることを優先したようであった。医療スタッフに彼女の精神状態を診断させ、自らも何やかやと語りかける。
アドマイヤベガ自身には、殆ど相手の言葉を聞き入れる余裕などなかったが。思いの中心を占めていたのは、ナリタトップロードの容態についてのみであった。
あの悪夢のような予言を回避しようとして、結果的にナリタトップロードの選手生命を断つようなことにでもなれば……。
結城トレーナーとしてはずっと傍についていてやりたい気持ちもあったが、彼の立場上そうもいかないことは、数秒おきに着信音やメッセージの受信音を響かせる端末が示していた。
「では、自分はしばらく戻ってこれないから……頼んだよ、シャカール。」
「おう。」
トレセン学園のスタッフらに囲まれながら、慌ただしく去っていく結城トレーナー。
同じトレーナーによって指導されているウマ娘として、アドマイヤベガと共に取り残されたエアシャカールであったが、相手を慰めたり元気づけたりする言葉とは縁遠い彼女にとって、今の状況は難局以外の何物でもなかった。
(まぁ、気にすんなよ……じゃねェな、トップロード先輩のことが心配に決まってンだし。)
乱れたままの前髪が顔に被さり、俯きっぱなしのアドマイヤベガの表情は見えない。
が、その胸中が計り知れないほどの不安と後悔に押しつぶされそうになっていることは、血色を失ったまま膝に乗せられている彼女の指先から見て取れた。
(なんで、あんな無茶な斜行したのかを聞きてェところだが……質問じゃなくなっちまう、責めてるだけだ。)
ただ自分が勝つことが目的であれば、アドマイヤベガは今まで通り、最終直線で真っすぐにゴールを目指していたはずだ。進路上を塞がれていたわけでもない。
斜行したあげく、接触し転倒させてしまったナリタトップロードの存在に気づかぬほど、彼女の目を曇らせていた焦りの正体は掴めぬままであった。が、尋常のものではないことだけは確かに感じられた。
(クッソ、どう声を掛けりゃいいんだよ。オレに出来ることは……。)
ただでさえ相手の本心が見えない状況で、掛ける言葉の見つからないエアシャカールも黙りこくったまま、気まずい時間だけが過ぎていく。
部屋の扉が細く開かれ、覗き込んでいる何者かの姿に勘付いたのは、間もなくのことであった。エアシャカールの視線がそちらに向いたことには相手も気づいたろうが、覗き見が発覚しても逃げようとしない。
覗き込んでいる目、そしてその上で揺れる栗毛には十分すぎる見覚えのあったエアシャカールは、アドマイヤベガをチラと振り返りつつも席を立ち、訪問者の元へ向かう。
はたして、そこに居たのはテイエムオペラオーであった。
「シャカールくん……アヤベさんの様子は?」
いつも朗々と声を響かせ、笑ったり歌ったりしているオペラオー。
彼女が声量を抑えて喋るところを初めて聞いたシャカールは、まるで別人を相手しているかのような心持を覚えた。
「分かんねェ。普段の先輩じゃ、ありえねぇことばっかりだ、オレもお手上げだよ。」
頭を掻きながら答えるエアシャカールの声の響きだけはぞんざいであったが、その眼には先輩を案じる色が浮かんでいた。
彼女に気づかれていない時から部屋を覗き込んでいたテイエムオペラオーは、ずっと気遣わしげにアドマイヤベガの方を見つめ続けていたシャカールの眼差しの柔らかさを既に感じ取っていた。
「一つ確かに言えることがあるとすりゃ、トップロード先輩の状態を早く知りたいってとこだろうな。」
「だろうね……ボクも、気になっている。」
とはいえ、ウマ娘個々の情報は、当然ながら彼女らのプライベートにかかわることであり、公には発表されるはずもない。
それは病院へ搬送されたトップロードについてのみならず、アドマイヤベガも同然である。
「なにか情報は……」
「無ェよ、たぶん。」
エアシャカールはいつも情報収集に用いているパソコンを開こうともせずそう吐き捨てたが、彼女の心境を推し量ったオペラオーはそれ以上追及しなかった。
ネット上の情報を攫えば、さきほどの京都大賞典での出来事について観客たちからの声が無数に拾えることは明白であったが……無茶な斜行でトップロード転倒の原因を作ったアドマイヤベガへの批難が集まっていることは想像に難くない。
そんなものを、シャカールは当然ながら見たくはなかった。
「様子を見に来たんなら、部屋に入ってくれよ。オレが相手してるより、オペラオー先輩のほうが喋りやすいかもしれねェ。」
「いや、むしろボクが居るべきではないだろう。」
シャカールは黙ったまま、オペラオーの顔を見返す。
ここで喋っている内容が室内に届かぬよう、扉は閉められていたが、オペラオーの視線はその扉の向こう、直接は見えないアドマイヤベガの方へと向けられていた。
「彼女は、ボクと同じレースを競ったウマ娘だ。そのレース中での失敗を、競走相手が慰めに来るなど……対等に競い合う仲として、礼を欠く行為じゃないか。」
「……かもな。」
やはり、静かな声で真面目な事を口にするオペラオーには慣れないエアシャカールであったが、その内容には頷くしかなかった。
むろんアドマイヤベガ先輩を案じる思いが胸中の大半を占めてはいたものの、今になってシャカールの中ではオペラオーというウマ娘の存在についても新鮮な興味が沸き上がりつつあった。
はたしていつも披露している朗らかな姿が演技なのか、今こうして落ち着いた様を見せているのが演技なのか。アドマイヤベガのことが気になっていることについては、きっと本心であろうが。
「ボクからは、シャカール、キミに頼むことしかできない。出来る限り、アヤベさんのことを見ていてくれ。」
「オレも、ホントに見てるだけしか出来ねェけどよ……。」
しかし、どちらによりオペラオーの本心の比重が置かれているかについては、その後に起きた想定外の出来事によって露わになった。
近づいてくる足音も聞こえず、やにわに扉が開かれる。先ほどまで椅子に掛けたまま俯ききっていたアドマイヤベガには、その目元に涙をぬぐった跡こそ残っておれど、ほとんど平静を取り戻したかのような表情が見られた。
「そんな必要はない。私は、もう立ち直ったから。」
「わっ……先輩!?」
「あっ……あ、ア、アヤベさん!は、はーっはっはっは!むろん、このボクは心配などしていなかったとも!キミこそ、この世紀末覇王に比肩する、紺碧の騎士なのだからね!」
唐突に立ち直った姿を見せるアドマイヤベガの登場に、エアシャカールが動揺したのは言うまでもなかったが、その隣でテイエムオペラオーは先ほどまでの落ち着きも見るかげなく狼狽しきっていた。
その姿を見たエアシャカールの中では、やはりいつも歌い踊って賑やかに過ごしているテイエムオペラオーの姿は演技なのだろうとの確信を得ていた。どれほどプレッシャーのかかる状況でも演技を崩さないというのは、これまた常軌を逸した精神力ではあったが。
とはいえ、今はアドマイヤベガの演技力の無さが際立っていた。「立ち直った」などと口にする、その唇は小さく震えたままだったのである。
「後輩に心配かけてられないもの。明日から、また練習に付き合って。」
「お、おう……。」
「そうさ!キミという一等星は、常に天上に輝き続ける!次の舞台が楽しみだよ!」
「……きっと、次のレースに私は出られないでしょうけれどね。」
サッと背を向け、足早に歩き去っていくアドマイヤベガが残したその言葉は、重く冷たく場を沈み込ませた。
おそらく観客からの批難を集めた彼女が、何のお咎めもなく再度のレース出走が許されるはずもない。ナリタトップロードが仮に復帰不可能な大怪我を負ってでも居れば、いよいよ選手生命自体が危うくなる。
さしものオペラオーも、演技ですら笑い声をあげていなかった。シャカールは先ほどまでの会話の続きに入ろうとオペラオー先輩の方を振り向き、息を呑んだ。
普通に接している内はまずお目に掛かれないであろう、オペラオーの表情……眉根に皺を寄せて、心痛に悶える辛さがそこに表れていた。
見開かれた後輩の両目がこちらに向いていることにすぐ気づき、世紀末覇王は速やかに平静を装ったものの。
「オペラオー先輩……。」
「なに、アヤベさん自身が立ち直ったと言っているんだ、きっと大丈夫さ!それに、トップロードくんだって無事だとも、この覇王と共に駆けて来た騎士たちが、そうそう簡単に走ることを止めたりはしないだろう!」
アドマイヤベガの下手な演技に比べれば、その表情の切り替え方は見事であった。
が、それが演技であると分かっているエアシャカールには、彼女の表情の背後に透けて見える辛さが、より一層際立って感じられたのであった。
結城トレーナーが記者会見にて応答した内容は、その夜のニュース番組にて流された。
「アドマイヤベガには、私が指示しました。テイエムオペラオーを、徹底マークするように、と。」
普段の彼が、ウマ娘自身に練習メニューやレース中の方針を任せていることを知っている者からすれば、その発言内容は決して有り得ないことだとすぐに分かっただろう。
しかし、結城トレーナーにとっては、アドマイヤベガという才覚が断たれかねない状況こそ最優先で解消すべきものであった。
「多少強引な手を使ってでも勝つようにと伝えました、それが彼女に焦りを抱かせたのだと思われます。この度はウマ娘レースに危険な要因を持ち込むような指示を出してしまい、申し訳ないことをしました。」
真っ白な頭を下げて謝罪する老トレーナーに向け、無数のカメラのフラッシュが焚かれる。
ウマ娘レースの結果について責任を負うべきは、常にトレーナーである。
危険な走行をしようという判断は、アドマイヤベガが下したものではない。そのように世間へ認識させることで、アドマイヤベガが再びレースの世界へと戻れるように、というのが結城トレーナーの思惑であった。
エアシャカールはパソコンの配信画面越しにこの会見の様子を見ていたが、アドマイヤベガ先輩には見せないようにしていた。
きっと、彼女にこの上なく辛い思いを抱かせるだろうことは分かっていたからだ。
同じころ、鷹木トレーナーもその場面をテレビで見ていた。
彼としては、ウマ娘のために失態を全て引き受ける結城トレーナーの心意気に感嘆するところの方が大きかったが。そんな鷹木の胸中を知ってか知らずか、背後から覗き込んできたオペラオーが唐突な事を口走る。
「ボクが同じことをしても、キミは同じように謝罪してくれるのかい?トレーナー。」
「えっ……?まさか、お前がそんなこと……。」
「冗談だとも。けれど、アヤベさんが何故あんな無茶な斜行をしたのか、キミには分かっていないのだろう?」
何も言い返せない鷹木は押し黙る。
勝ちたいという意思だけであれば、今まで幾度も繰り返してきた舞台となんら変わりはなかったはず。アドマイヤベガを焦らせているものの正体を掴めていないことに関しては、鷹木も大勢の意見と変わりはなかった。
しかし、テイエムオペラオーはそれを掴んでいたようであった。
「きっと、ボクが原因なのだろうけれどね。」
「オペラオーが……?」
「鷹木トレーナー、ボクはあと幾度敗れれば引退になる?」
「宝塚記念でドトウに負けて、京都大賞典は繰り上がりで一着になったから、あと二回の敗北で引退、ってことになるが。」
三回敗れれば引退するという公約を掲げているテイエムオペラオー。
「つまり、次の天皇賞秋、そしてジャパンカップへの出走は確実というわけだね。」
「あぁ、天皇賞で負けたとしても、ジャパンカップには出ることになる……。」
ここにきて、さしもの鈍い鷹木の中でも、一つの繋がりが見いだされた。
夏合宿にて、アドマイヤベガが不穏な幻覚を見たという一件。あの直後、鷹木に話しかけて来たアドマイヤベガは「オペラオーがジャパンカップで」何らかの事態に巻き込まれると言いかけていた。
京都大賞典で何としてでもオペラオーを負かそうとしたということは、ジャパンカップまでに二度の敗北を与え、引退させようとしていたということではなかろうか。
起きうる出来事の詳細が掴めないことに変わりはなかったが、とはいえ鷹木の胸中には不穏な影が渦巻き始めた。
「……アドマイヤベガは、あの夏合宿中の幻覚で、何を見たんだ?」
「さぁ、分からないさ。けれども、ボクはお構いなしだよ!天皇賞も、ジャパンカップも、全力で勝たせてもらうからね!」
「あ、あぁ、頑張ろうな……。」
結局は当たり障りのない返答だけを口にするばかりの鷹木。
そんな彼の傍にまで近づいてきたテイエムオペラオーは、彼女にしては珍しく小声で囁いた。
「ジャパンカップでボクの身に何が起きるとしても……トレーナー、キミのことを頼りにしているよ。」