盛岡レース場にて開催されるマイルチャンピオンシップ南部杯への出走を控えていたアグネスデジタルは、発走日の前日より現地入りして調整を行っていた。
前日、というのはすなわち10月7日、京都大賞典の日である。
京都大賞典のレース中、ナリタトップロードが転倒して病院へ運ばれたことは一大ニュースとなっていた。GⅠレース本番を控えて最終調整に専念していたデジタルの耳にも、伝わっていた。
ナリタトップロードとアグネスデジタルの両方を担当している桂崎トレーナーは、当然ながら京都大賞典のレース後からトップロードに付きっきりで病院に居続けている。
トレーナーの立場としては本番直前のアグネスデジタルに無用な心配を抱えさせたくはなかったろうが、それでも病院に運ばれたトップロードから離れるわけにはいかず、本来の予定通りに盛岡へ向かえない旨を連絡することとなった。
通信端末の通話画面に現れたデジタルの表情には、目に見えて不安の色が浮かんでいたのだ。
「デジタル……。」
「トレーナーさん、トップロード先輩は大丈夫なんですか?」
「心配しないでいい、デジタルは明日のレース本番に集中するんだ。自分は行けないが、トレセン学園からサポートのスタッフが向かう、必要な事があれば彼らに頼むように。」
「でも、その、ニュースの映像でも見たんですけど、トップロード先輩、かなり激しく転倒して……」
「脚は折れていない。それだけは真っ先に確認した。問題ない、帰ってくればトップロードも練習を再開出来ているだろう。」
「そう……ですか。」
腑に落ち切らない返事のアグネスデジタルを前にして、病院スタッフから呼ばれたのであろうトレーナーは通信を切り、暗くなった端末のディスプレイ表面にはデジタル自身の不安そうな顔が映る。
脚は折れていなかったとしても、病院に担ぎ込まれるほどの怪我がいかなるものか、デジタルの立場からは判然としない。
ただ、桂崎トレーナーが自分のことを心配させまいと気遣っている一点だけは明確であった。
(私がレースに集中できるように、トレーナーもはからってくれているんです。トップロード先輩に、勝利の報告を持ち帰らなくちゃ、ですね。)
そう自分自身に言い聞かせても、拭い去り切れない心配が心の隅に溜まっていることは否めなかったが、いかなる状況においてもメンタルを安定させねばならないのがウマ娘である。
これもまた試練、アグネスデジタルという勇者が、覇王討伐に向かうまでの道のりであったろう。
翌日は曇天に覆われていたが、雨は降らずダートは乾いたまま。
湿り気のないダートは、すなわち固まっておらず脚がめり込みやすい。さらに盛岡レース場は向こう正面、そしてゴール前の直線における上り坂がコースの特徴となっている。
逃げや先行のウマ娘はスタミナを削られやすい構成であったが、しかしアグネスデジタルは当初よりの作戦を崩すつもりはなかった。
芝のレースにも通用するスピードで先行し、集団に揉まれることなく、ラストスパートまでスタミナを持続させる。ペース配分を僅かにでもミスすれば着順を大きく損なうレース本番に、集中力を僅かにでも乱すことは許されない。
レース当日の朝から、アグネスデジタルは無心で直前までの身体調整に努めた。ともすれば沸き上がってくるトップロード先輩への不安は、目前に迫る本番の舞台へ意識を注ぐことで払いのけた。
が、間もなく否応にでもトップロードの存在は心のど真ん中に戻ってくることになる。
調整用のグラウンドで脚を慣らしているアグネスデジタルの元へやって来たのは、ほかならぬ桂崎トレーナーだったのだ。
「かっ、桂崎トレーナーぁ!?」
「どうにか本番には間に合ったか。」
今日は代わりにトレセン学園のスタッフが来ると聞かされていただけに、桂崎自身がレース場にまで駆けつけて来た時にはアグネスデジタルも素っ頓狂な声を上げた。
朝一番の到着とはいかなかったものの、ナリタトップロードが担ぎ込まれた京都の病院から盛岡までの距離を、桂崎トレーナーは2時間かそこらで移動してきたのだ。
トレセン学園側が、大阪の空港までのヘリ移動、そこからプライベートジェットによる岩手までの飛行、そして空港から盛岡レース場までこれまたヘリでの移動……と、万全のルートを準備したおかげであった。
「あの、トップロード先輩のこと、見てなくても良いんですか?」
「そのトップロードから叱られてしまってね。自分に付きっ切りになるよりも、レース本番のアグネスデジタルを見に行ってやるように、って。」
ナリタトップロードの真面目な表情が、それを直接見ていないアグネスデジタルの脳裏にも浮かぶ。
いつも運動服か勝負服を着ている彼女が、病院の入院服を着てベッドに横たわっている様はとても想像できなかったが。
「じゃぁ、先輩の様子は……。」
「問題はなさそうだ。転倒時に打撲した所はあるが、様子を見つつトレーニングにも戻れるだろう。」
「あぁ……よかったです!」
半日ぶりに晴れやかな声を出したアグネスデジタルは、再びダート練習場の砂を蹴って走り出した。
自分の胸中を占めているのが沸き上がる不安を抑え込むようであった緊張感ではなく、勝利に向けた心地良い緊張感へと変じているのも実感していた。
桂崎トレーナーに、アグネスデジタルの待つ盛岡レース場へ向かうよう告げたトップロードの判断は正しかったのである。
レース直前ともなれば、今さらになって作戦を確認するまでもない。
が、共に本番の勝利に向けて模索を続けてきたトレーナーが傍にいることは、心境面で大きな安定を生んだ。
〈非常に盛り上がっております、OROパーク。盛岡レース場、ダートコース1600m、GⅠマイルチャンピオンシップ南部杯、間もなく発走となります。各ウマ娘、枠入りが進んでおります、3番人気ノボトゥルーはフェブラリーステークスを獲ったウマ娘、2番人気ウイングアローもまた昨年度のフェブラリーステークス王者であります。しかし何といっても1番人気はアグネスデジタル、芝のマイルチャンピオンシップに並んでダートも制覇なるか。〉
ファンファーレと共に、URAのレース場顔負けの大歓声が沸き起こる。
地方ウマ娘レース場とはいえ、GⅠに通用する実力者のみが顔をそろえる舞台。今年の上半期は碌な結果が出せていなかったアグネスデジタルが、いよいよGⅠウマ娘として本格開花するか否か、試される時がまさに今であった。
〈総勢9名、ゲートイン完了しまして……スタートしました!まず揃いましたがちょっとばらけたか、クラシックホリデー後ろからのレース展開となります、ハナを切っていくのはハイフレンドピュア、ウチからはトーホウエンペラーが行った。三番手にはアグネスデジタル、1番人気アグネスデジタルは二番手の外に付けました。〉
盛岡レース場の1600mは、2コーナーの奥にあるポケットからのスタートとなる。
わずかにカーブする箇所はあれど、スタートから約800m近い距離をほぼ直線で駆け抜けることとなる。したがって、外につけることによるデメリットは、他のレース場と比較すれば少ない。
二番手のウマ娘の外側に付けたアグネスデジタルは、そのままコーナーも回っていく心づもりであった。
〈アグネスデジタルの後ろにノボトゥルーがおります、その外からはゴールドティアラが上がって来た、昨年のこのレースの覇者は一気に脚を使って先頭へ上がります!その後ろにはメイセイユウシャ、最後方にはクラシックホリデーと、ウイングアローが並んでおります。先頭から最後方までは10バ身の圏内、先頭はハイフレンドピュア、ゴールドティアラが並びました。〉
ゴールドティアラが自分の外側を通って先頭まで上がっていくのを傍目にも、アグネスデジタルは三番手の位置を守り続けた。
0.1秒の差が、順位を変える世界である。最終直線でのスパートに至るまでに、余計なスタミナは使えない。位置を変更するのも、予定にない加速を起こすのも、ロスに繋がってしまう。
どれだけの速度で走り続けていようとも、水面にさざ波ひとつ立てぬかのように脚を運んでいく心地良い緊張感を、アグネスデジタルはとうに会得していた。
〈先頭から3バ身差でアグネスデジタルは三番手、ウチにはトーホウエンペラーが四番手、その後に3番人気ノボトゥルーが真ん中の五番手であります。2番人気ウイングアローは七番手でありますが、これが前へ前へと押し寄せてまいりました!さぁいよいよ第4コーナー、アグネスデジタルも前にでて先頭に並びかけた!〉
背後からも迫りくる蹄音がはっきり聞こえていたが、アグネスデジタルの心は全く乱されていなかった。
予想外の展開にも対応できるよう、今まで鍛錬と判断練習を重ねて来たのだ。それこそ、自分の前方に八名近い競走相手が壁を作っていても、勝てるように。
今、目の前には二名しか並んでいない。真っすぐ走れば、そのままゴールへたどり着く。
予測した通りに運ぶレース展開であれば、すなわち前々より備えていた走りが十分に通用した。
通用させるだけの実力を、アグネスデジタルは備えていた。
〈さぁここからは名物の上り坂が待ち受けている!このあたり一気にアグネスデジタル先頭か!外からノボトゥルー、ウチを通ってゴールドティアラ、最ウチからトーホウエンペラー!しかし先頭は依然として、アグネスデジタル!突き抜けた!アグネスデジタルが先頭だ!〉
昨年までのアグネスデジタルであれば、自分が先頭を切って最終直線を駆け抜けていく状況を、偶然か奇跡の積み重なった結果のように感じていたであろう。
が、今、ほとんどウマ娘として完成された能力を有するアグネスデジタルにとって、この先頭は必然以外の何物でもなかった。
(今なら、分かります……GⅠウマ娘の先輩たちが、あんなに自信満々で、勝ち続けられた理由が。)
勝てるようになるまで、幾度も負け、なぜ勝てなかったのかを考え、執念を抱いて自らの脚を鍛え、また本番の舞台に自らを曝す。
そうやって駆け上がって来た以上、一着になるだけの根拠は、既にウマ娘の中に備わっているのだ。
〈これは強い、強すぎる!アグネスデジタル!アグネスデジタル完勝!一着でゴールイン!……盛り上がっております、OROパーク!アグネスデジタル、芝のマイルチャンピオンシップも勝ったウマ娘でありますが、ダートのマイルチャンピオンシップまでも完勝であります!いやぁ、強かった、強かった!〉
芝とダート、両方で勝ちたい。
そんな荒唐無稽なアグネスデジタルの願いが、遂に結実した瞬間でもあった。
当のアグネスデジタルは、笑顔を見せて観客席に手を振って見せてはいたものの、その喜びが爆発するほどの強さでないことは実感していた。
勝利が幸運によって与えられるものでは決してなく、着実に積み重ねた自分の努力によって、手に取ることを確実化した結果であったためだ。
(もしかして、オペラオー先輩が高笑いする癖を付けてたのって……この落ち着きを、この冷静さを、彩るためでしょうか?考えすぎかもですが。)
張り詰めていた緊張が、緩やかにほどけていくアグネスデジタルの心の中は、確かに静かなままであった。比例するように、自分の耳を劈くばかりの大歓声は、いよいよ強く響き渡り始めた。
その日のウイニングライブもソツなく終えて、トレセン学園へと帰るバスの車中。桂崎トレーナーの口からは、アグネスデジタルの胸を高鳴らせる言葉が出た。
「秋の天皇賞、出られるぞ。」
「えっ……。」
「前々から出走の申請はしていたんだが、どうしても実績面で並ぶ競合相手が居たんだ……が、今回の勝利で上回った。」
アグネスデジタルの出走が、他のウマ娘が舞台に上がることを阻んだ結果になる。が、それは今さらである。
過去のレースにおいても、同じ舞台に上がろうとするウマ娘たちと狭き門を奪い合ったことには違いない。
そのことを認識しながらも、アグネスデジタルの心の中には一つの重大な事実が沸き上がりつつあった。
「つまり、いよいよ……私は、テイエムオペラオー先輩と、対決できるってことですか……!」
「あぁ。芝のコースでの能力面でも、十分に並んでいる。勝ちに行くぞ、覇王に打ち克てるのはドトウだけじゃないってことを知らしめるんだ。」
長い道のりであった。昨年は同年代でもエアシャカールやアグネスフライトらの活躍が目立ち、今年に入ってもしばらくの間は戦績の振るわなかったアグネスデジタル。
だが、ついに……かつて掲げた目標、覇王テイエムオペラオーに勝つという目標へ、いよいよ手が届こうとしている。
「……はい……!」
日頃お喋りなアグネスデジタルであったが、この時ばかりは万感を込めた沈黙ののちにようやく頷いたのであった。
「……でも、その前にトップロード先輩のことが気になります!ホントに大丈夫なんですか、先輩は!」
「心配ないって。俺を病室から無理やり押し出すほどだったんだから。」
さすがに緊急事態以外ではトレセン学園から空路の手配は行われず、翌日になって京都から帰って来たトップロードとアグネスデジタルは再会を果たすことになるのであった。