病院での検査、待機を済ませたナリタトップロード。
京都大賞典で起きた接触転倒事故はかなりの衝撃ではあったが、脚にダメージが入ったわけではなかったのが不幸中の幸いであった。
とはいえ、時速70kmにも達するウマ娘の速度で転倒すれば、大なり小なり怪我は免れない。地面に叩きつけられた衝撃で臓器や頚椎などに損傷が入っていないか、検査には丸一日を要した。
トップロード自身は既に痛みが引いているのを分かっていたが、それでもアグネスデジタルがマイルチャンピオンシップ南部杯を走る日はずっと病室から出ることは許されず、ようやくトレセン学園へと戻れたのは更にその翌日のことであった。
大きく擦りむいた膝や腕に包帯が巻かれた姿ではあったものの、元気そうに笑顔を見せて姿を現した彼女を真っ先に出迎えたのはアグネスデジタルである。
「トップロード先輩!ホントに、良かったです……!ご無事で!」
「大げさだなぁ、私はレースに出て、帰って来ただけだってば。」
前述の通り、全速力で走っている最中であれば致命的な怪我にも繋がりかねない、ウマ娘レース中の転倒事故。
彼女らが常に命懸けでレースを行っていることを分かりやすく示す一件には違いなかったが、それでもナリタトップロードが何事でもなかったかのように振舞うのは、ひとえにアドマイヤベガへの思いがあったためであろう。
アグネスデジタルが勢いよく駆け寄ってくる、その背後にはアドマイヤベガが真剣な眼差しをこちらに向けていた。
長い期間トップロードの近くに居て、トップロードを転倒させた当事者であり、ゆえにこそ誰にも劣らずトップロードの事を心配し続けていたのであろうアドマイヤベガ。
無事な姿を見られた安堵ばかりではなく、謝罪、後悔、そしてこれからの不安がいっぱいに詰め込まれたその瞳に向かって、トップロードは明るく声を掛ける。
「何てことは無かったよ、アヤベも迎えに来てくれてありがとう!さっそく、私と並走練習する?」
「まだ、全力で走ることは許可されてないんでしょ。」
アドマイヤベガは、トレーナーづてに可能な限りの情報を聞き出していたようであった。
検査では目に見える損傷を確認できていなかったものの、時間が経ってから明らかになる故障もあるだけに、全力を振り絞って走ることには未だドクターストップが掛かっている。
ましてや、本番のプレッシャーおよび身体的負荷に晒されることは、いよいよ無茶である。
それによってもたらされる結果が、ますますアドマイヤベガの表情を暗くしていたのだ。
「……それに、トップロードは……天皇賞にも、出られない。」
秋の天皇賞は、三週間足らず先のことである。
本来であれば出ることが出来たナリタトップロードは、転倒事故の影響を鑑みて出走は取り消しとなっていた。アドマイヤベガも同様であったが、こちらはトップロード転倒の原因となった斜行に対する処分という形である。
「ま、無茶は出来ないからね。」
あくまでも何気ないことのように口調を保っていたトップロードであったが、言い方を変えたところでその事実の大きさに変わりはない。
トレセン学園4年目の秋である。既に全盛期を過ぎていると言われる時期、それでも出走資格を得ていたウマ娘がGⅠの大舞台に出走する時期を逃すことは、どれほど重大な損失か。
来年になれば、実力をつけてくる後輩たちがさらに増え、活躍の機会は失われていくというのに。
「……私の、せいで。トップロード……本当に……」
「アヤベ。」
彼女の口から謝罪の言葉が出てこようとするのを遮るように、トップロードは口を開く。
彼女には、先輩二名のやり取りを傍で見ているアグネスデジタルの表情が、ますます辛そうになっていくのが見えていた。努めて明るい声で、トップロードは挑戦的な表情とともに一つの提案を行う。
「勝負だよ。次の天皇賞、どっちが勝つか。」
「……へ?」
「はい?」
ナリタトップロードの発言に、アドマイヤベガもアグネスデジタルも同時に聞き返す。
腑に落ちない表情のアドマイヤベガが自らの言葉で疑問をぶつけに来るまで、トップロードは口を噤んだまま微笑んで待っていた。
「な、何を言っているの?私も、トップロードも、次の天皇賞には出られないって……。」
「直接の勝負じゃないよ。まず、アグネスデジタル、出走するんでしょ?」
「はぁ……はい。」
未だにトップロードの提案をのみ込み切れていないアグネスデジタルがつい生返事をし、慌てて返事しなおす。
「結城トレーナーのところからは、エアシャカールが出走するんだよね?」
「えぇ……ということは。」
「私は、アグネスデジタルのトレーニングを手伝う。アヤベは、エアシャカールの特訓をサポートする。それで、次の天皇賞、どちらを勝たせられるか勝負、ってこと。」
アドマイヤベガの表情に、いつもの凛と張り詰めた緊張感が戻ってくる。
桂崎トレーナーのもとに居る、ナリタトップロードとアグネスデジタル。結城トレーナーのもとに居る、アドマイヤベガとエアシャカール。
共に出走できなくなった天皇賞であったが、それぞれの後輩ウマ娘を勝たせるという目標は、自らが出走することに負けず劣らずウマ娘としての闘争心を呼び覚ます提案であった。
早くも、トップロードの隣で話を聞いていたアグネスデジタルは目を輝かせている。
「つまり、私とシャカールちゃんの勝負ってこと、ですね!」
「違うよ。デジタルと、シャカール……それからオペラオー、ドトウとの勝負。」
「ひょぉい!?」
「『勝つ』って、そういう意味でしょ?」
言うまでもないことだが、今年に入って未だ一敗しかしていない世紀末覇王テイエムオペラオーは健在、秋の天皇賞にもきっと1番人気で出走する。
さらに、覇王討伐の誉れ高きメイショウドトウもまた、天皇賞の出走メンバーに名を列ねている。
要するに、「天皇賞で勝つ」ためには、打ち勝つべき好敵手の中にオペラオーやドトウも含まれているということだ。素っ頓狂な声を上げたアグネスデジタルに、ナリタトップロードはにっこりと笑んで見せる。
「そもそも、アグネスデジタルは、オペラオーに勝つつもりで出走するんじゃなかったの?」
「も、ももも、もちろん、そのつもりですともぉ!とはいえ、いきなり私とシャカールちゃんと、先輩方を並べられてしまうと、ちょっと動揺が、ですね……」
「面白そうね。」
今度はアドマイヤベガが、アグネスデジタルの発言を遮る。
致命的な怪我を負う前にオペラオーを引退させねば、と気を揉み続けている彼女としては、その目的にも適った勝負であった。
「見ていなさい、エアシャカールを化け物に仕立て上げてやるから。」
「ふふ、こちらも負けていられないね、デジタル。」
「は、はい!勿論です!薫陶、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
アドマイヤベガから、先ほどまでまとわりついていた気弱そうな空気がすっかり消え去ったのを見て、ナリタトップロードの表情は温かかった。
思い悩み、顧みて悔いることに時間を費やすのではなく、ウマ娘らしくレースの事に集中していてほしかった。自分が出走できない期間も、それだけを念頭に置いていれば、少なくともアドマイヤベガの表情を自分の存在のために曇らせることはない。
彼女がオペラオーに勝とうとして、斜行まで起こしてしまうほど焦っていた原因について、思い至るところのあるトップロードはなおさらそう望んでいた。
エアシャカールも、トップロードと同様の点で気がかりであり続けていた。
あの強気に見えて繊細な先輩がいつ立ち直るか、と練習の最中にもふと浮かぶ思い。自らの走りはロジカルでなければならない、と雑念は払うようにしていたが、しかし彼女の思考においてアドマイヤベガ先輩の存在感は大きすぎた。
自分の現状の走りを理想と比較するたび、アドマイヤベガの顔が出てくるのだ。しかし、トップロードを出迎えに行って、戻って来たアドマイヤベガには以前までの引き締まった表情が甦っていた。
「おかえり、先輩。ンで、トップロード先輩は……。」
「無事。それより、練習を再開して。」
「お、おう……。」
声の張りにも、今まで通りの緊張感が漲っている。トレーニングに向かうアドマイヤベガは、常に刺刺しいほど真剣であった。
とはいえ、あれほどクヨクヨと思い悩んでいた、トップロードを転倒させてしまった一件について、アッサリと片付けられるようになった理由をシャカールは未だ知らない。
「何かあったのか?先輩。練習に付き合ってくれンのは、嬉しいけどよ……。」
「あなたが勝つか、アグネスデジタルが勝つか。トップロードから、勝負を持ち掛けられたの。」
「あン?」
「次の天皇賞よ。もちろん、オペラオーにも勝つ。ドトウにも勝つ。出来るわね?シャカール。」
一概にウマ娘という存在は負けず嫌い、勝負を吹っ掛けられれば応じずにはいられない性質であるが、アドマイヤベガは特にその気の強いウマ娘であった。
自分が引き受けた勝負の内容を語るにつけ、ますます爛々と瞳の輝きを増しつつある先輩を目の前に、エアシャカールは多少たじろぎながらも頷く。そうしている間にも、アドマイヤベガはウォーミングアップを開始している。
シャカールに張り付いて、みっちりと特訓する気満々なのだ。
「……ッたりまえだ。GⅠの勝ちは、もう目の前まで来てンだ。」
「そうやって喋ってる時間も無駄。トレーナー、練習コースの設定とタイム計測お願い。」
「あぁ。」
今まで黙って彼女らのやり取りを見つめ続けていた結城トレーナーは、その一言をどこか明るさの取り戻された声で放った。
エアシャカールを引っ張るようにして、練習コースへと向かっていくアドマイヤベガの足取りは、いつでも走り出せるように軽々と弾んでいた。
一方、結城トレーナーの見ている練習場では、ナリタトップロードとアグネスデジタルが向かい合っている。
先ほどは威勢よく返事したものの、アグネスデジタルとしては、転倒してしまったトップロードの身体状態が気がかりなようであった。
「とはいえ大丈夫なんですか?お医者さんからは、まだ全力で走らないようにって言われてるんですよね?」
「あくまで、万が一って話だと思うよ。脚の骨にもヒビひとつ入ってないんだし。」
「そりゃヒビ入ってたら歩くどころの騒ぎじゃないですけど。」
アグネスデジタルも鈍いウマ娘ではない。先ほど持ち掛けた勝負も、アドマイヤベガが囚われている悔恨の念を吹き払う名目の方が大きかったことにぐらい、気づいている。
無論、自分がGⅠのレースで一着を狙えるまでの実力を着々と築き上げて来た実感はある。ゆえに、トップロードが全力の並走練習に付き合えないことが、シャカールと比しての不利要因になるとまでは考えていなかったのだが……。
この心優しい先輩は、多少無理をしてでも自分のトレーニングに並走してくるのではないかと危惧していたのだ。
「あの、私を勝たせるって言っても、本当に無茶はなさらないでくださいね?それこそ、練習中の怪我のせいで、天皇賞以降のレースにも出られなくなったりしては……。」
「私は無茶しないよ。ね、桂崎トレーナー?」
「あぁ。よく知ってる。」
トップロードは練習コースに背を向け、つかつかとトレーナーの隣まで歩いていく。
アグネスデジタルがポカンと口を開けて眺めている前で、彼女は桂崎トレーナーの横にある椅子に腰を下ろした。
「私が、今からデジタルを担当する第二のトレーナーだよ。」
「えっ。」
どこかおどけた口調でそう告げるトップロードの隣では、その調子を引き受けたかのように桂崎トレーナーがワザと改まった喋り方で彼女を紹介し始めた。
「こちらに居られるナリタトップロードトレーナーは、誰よりもテイエムオペラオーやメイショウドトウの走りを近くで見てこられた。また、毎回のレースで見せる完璧なペース配分にも高い評価が送られている。次の天皇賞で勝つために、最も必要な助言を期待できるだろう。」
「はは、そこまで期待されちゃうと、むしろ私の方が緊張しちゃうな。」
「す、す……すごいです!二人のトレーナーさんに見ていただけるだなんて!トレーナーハーレム√に突入です!」
ようやく事態をのみ込み、アグネスデジタルも桂崎やトップロードに調子を合わせてみせる。
しかし、既にトップロードの眼差しは真剣であった。桂崎が取り出したタブレット画面に視線を走らせ、これまでの走行データを確認する。
「じゃあ、さっさと練習を始めよう。今までの傾向からするに、芝のレースは差しで走るかな?」
「は、はい、そのつもりですが……」
「今の走りを確認する必要があるかな。ウォーミングアップが済んだら、まずはタイム計測しながら走ってもらおう。その上で、まだ改善点が見つかれば詰めていく。」
「あぁ。俺が見逃してる点があるかもしれない。いつもと違って、トレーナーの席からでしか見えない部分もあるだろう。厳しく見てやってくれ、トップロード。」
「お、お手柔らかにです……。」
「手を抜いたりはしないよ。勝って一着になってもらうんだから、天皇賞で。」
やがて脚の慣らしが終わったアグネスデジタルが走り出し、その蹄音を聞きながらもトップロードは自らの心の昂揚を感じ取っていた。
天皇賞への出走を逃し、それが少なからず失意に繋がっていたことは事実であったが、誰に対しても責を問いたくはなかった。すなわち、自分の心のうちに抱えておく他になかったのである。
この点をナリタトップロードは、友であるアドマイヤベガの立ち直りと共に解決してしまっていた。