鷹木トレーナーが、トレセン学園の校医から呼び出しを受けたのは、秋の天皇賞が数日後に迫る頃のことである。
当然ながら不吉な予感と共にそれを受け取った鷹木。常々より、現役引退していてもおかしくない戦歴を重ねてなお走り続けるオペラオーが、いつ怪我や故障を起こすかと冷や冷やし続けていたこともある。
検査によって、彼女の脚に異状が見つかったのだろうか。ことによっては、本番間際というこのタイミングで急遽出走を取り下げねばならない。
あるいは、オペラオーはどれほど医者から止められても、天皇賞への出走を敢行するのであろうか……。
鷹木が抱える不安は、校医から真っ先に投げかけられた問いによってますます増大した。
「お忙しい中、ご足労いただきすみません、トレーナーさん。テイエムオペラオーは、お連れですか?」
「いえ、連れて来たほうが宜しいですかね。」
「いやいや、トレーナーさんだけにお伝えしたいことがございまして。」
すなわち、ウマ娘には聞かせられないような話だということだ。
努めて落ち着いた振る舞いを見せようとしていた鷹木であったが、目に見えて顔色が蒼ざめ、表情に緊張が増していく様は隠しようがなかった。
相手を見ることにかけては専門の校医には、筒抜けであったろう。硬い表情は崩さぬものの、鷹木の緊張を解く様に口元を緩めて言葉を継ぐ。
「先に申し上げておきますと、テイエムオペラオーの身体に明確な異状があったわけではありません。天皇賞には、予定の通り出走させられます。」
「あぁ、よかった……では、話というのは?」
校医はしばらく口を噤み、既に頭の中では整えていた、トレーナーへ伝えるべき内容を反芻する。
それは明確に医師として伝えるべき事項ではない以上、言葉選びにも慎重を期したのであった。勘が読み取った領域に、正確も不正確も無い。
「これからお伝えするのは、あくまで憶測の混じった見解です。どのように受け取るかは、トレーナーさんの判断にお任せします。」
「……?はい。」
「先ほども申し上げた通り、テイエムオペラオーの身体には一切の異状が見られません。が、レースに出る上での危険はゼロではない、と自分は考えています。」
鷹木は暫し混乱した。
専門の医師が持ち得た見解である以上、無視することは難しい。しかし、検査した上で異状がなかったにもかかわらず、そのような意見が出されるに至った過程が分からない。
「え、でも……異状は、ホントに、全く無いんですよね?」
「はい。その点は確かに。……自分が念頭に置いているのは、今の状況が、サイレンススズカの骨折事故が起きた天皇賞出走直前と似通っているという点です。」
鷹木の中に疑念が残っていることに変わりはなかったものの、たった今出されたそのウマ娘の名は、一種の説得力を以て彼の胸に迫って来た。
サイレンススズカ。
逃げて差す、との呼び声高き圧倒的なレースを見せつけたウマ娘。誰にも先頭の景色を譲らなかった、彼女の速さを超える者は今後二度と現れぬだろうとまで言われている。
まさにURA史上最強のウマ娘となるはずだったサイレンススズカの、選手生命が唐突に断たれたのは三年前、秋の天皇賞のことであった。
「自分も、トレセン学園専属の医師として、出走前のサイレンススズカの身体チェックに携わった一人なんですがね。」
その言葉を耳にした鷹木は、改めて目の前にいる校医の顔に注視する。
何を伝えられるのかとばかり心配していた時には気に留めることのなかった、医師の顔に刻まれた皺が目についた。一線級のウマ娘がレース出走に相応しい状態か否か、重い判断を強いられてきた者の苦労が共に刻み付けられていた。
あの頃はまだようやくデビュー戦に足をかけたばかりのテイエムオペラオーと付き合うだけで必死だった鷹木の記憶にも、その日のことはしっかりと刻まれている。
二番手のウマ娘に10バ身以上の差をつけたまま、東京レース場の3コーナーへと突入していったサイレンススズカ。
「三年前のサイレンススズカも、出走前には脚に異状が見られませんでした。全く、何も。」
が、突然失速した彼女は、そのままレースから外れるように自らの身体をコース外へともっていく。片脚を庇うような、辛そうなその走り方は余りにも痛々しかった。
レース後の診断結果は、左足の粉砕骨折。転倒することなく、他のウマ娘を巻き込まぬように離脱したことがサイレンススズカの性格の表れであり、激痛にもかかわらずコース外にまで行けたことが殆ど奇跡のような状態であった。
「あの事故があった瞬間から、我々医師は元凶を必死になって探り続けました……が、どれほど入念に出走前の検診結果を見直しても、異状の片鱗、予兆と見えるものさえ、見つからなかったんです。」
おそらく、サイレンススズカを事前に診断した医師たちは冷たい目で見られたことだろう。が、ウマ娘たちの身体を誰よりも案じているのは、彼ら校医なのだ。
「ウマ娘としては、全く正常な状態でした。粉砕骨折が起きた原因は、今なお完全に不明です。」
「そう……ですか……。」
テイエムオペラオーが同じ目に遭えば、自分は全く同じことを医師から聞かされることになるのだろうか。
どれほどの失意を沸き上がらせる言葉も、淡々と告げざるを得ない医師の口調を前にすれば、つい鷹木はそう考えてしまうのであった。
「ウマ娘として限界を超えた走りを続けた結果、健康な状態の骨格ですら負荷に耐え切れなくなったのではないか……というのが、現状出されている結論です。憶測に過ぎませんが。」
「オペラオーの身に、同じことが降りかかる可能性は……?」
もはや心細さを隠すこともなく尋ねる鷹木の口調を前に、校医は首を横に振った。
「全く、分かりません。繰り返しますが、身体の診断結果では、一切の異変が見られません。……医師としてお伝えできる“正確な”情報は、それだけです。」
ウマ娘として、速さの限界に挑み続けること。
それはURAの宣伝広告にもキャッチコピーとして用いられるほど、世間では持て囃される文言である。
が、それは言い換えれば、彼女らの身体が壊れるか、壊れぬかの瀬戸際に晒され続けているということでもあるのだ。
テイエムオペラオーの身近にも、そういったウマ娘が居なかったわけではない。
忘れもせぬ、昨年二月の京都記念。テイエムオペラオーにとっては無敗記録が開始された記念すべき舞台であったが、とあるウマ娘にとっては悪夢の舞台だった。
……ケイズドリーム。
トレセン学園4年目、ベテランの域に達していた彼女は、39戦目を京都レース場にて迎えていた。
栗毛、鹿毛のウマ娘に囲まれ、先行する彼女の美しい葦毛はひときわ目立ち、観客席からの歓声を浴びていた。先行のペースを守って堅実に走り続け、いよいよ最終直線にてラストスパートに掛かろうとした瞬間の出来事。
ガクンと大きくつんのめったケイズドリームは、あっという間に失速して後ろへと置いて行かれる。真後ろを走っていたブリリアントロードが、危うく彼女を交わして接触を逃れた。
外側から差して見事に勝利したテイエムオペラオーは喝采を浴びていたが、レース後の彼女が高笑いしなかった数少ないレースの一つでもあった。
競走中止となったケイズドリームの診断結果は、脚の粉砕骨折である。やはり、4年もの間走り続ければ、相応の負荷が蓄積していたのだ。
大一番、最も脚に負荷が掛かるラストスパートの瞬間に、異変の無かった脚が壊れてしまう。
(オペラオーも、4年目……あんだけ大舞台に出続けてれば、当然……)
以前、アドマイヤベガが不穏な予言を得たのは天皇賞の先、ジャパンカップの事であったが、それを鷹木は知り得ない。
とはいえ、知らされればそれはいよいよ現実味を帯びたであろう。今まさに校医からの進言で思い起こされた、サイレンススズカに降りかかった災難と、その予言はほとんど似通ったものだったのだ。
いよいよ暗さを増していった鷹木の表情に視線を向けた医師は、暫しの沈黙ののち口を開いた。
「自分は、今でも定期的にサイレンススズカに会いに行ってるんですよ。」
「無事、なんですか?」
「えぇ、そりゃあ。命を落とすには至らず、事故以降の必死の治療の甲斐あって、再び立って歩けるまでには回復しています。」
多少なりと、救いのある話題ではあった。レース中に骨折したウマ娘も、その後の生涯が暗黒に覆われ続けるわけではないのだ。
しかし、医師は「走れる」とは言わなかった。丸2年の歳月をかけて治療、リハビリを重ね、どうにか歩けるところまで漕ぎつけた程度ということだ。
「現在は、医療技術も発達していますから。粉砕骨折を起こした箇所も、時間さえかければ再建できます。」
「……あと、資金も、ですよね。たしか、数千万円単位で……」
このところウマ娘の怪我について敏感になり続けている鷹木も、それを調べたことがあった。
実際には治療費のみならず、リハビリ用設備や生活補助の資金もかさみ、計算した総額は億を超えていた。
「まぁ、相応に。しかし、それに関してはトレセン学園が全面的に負担しますので。」
ウマ娘たちの命を預かり、レースの舞台を準備しているトレセン学園。彼女らについて責任を負うということは、それだけの規模を負担できるということでもあった。
そのようなリスクがあることを分かったうえで、なおウマ娘たちはレースへ向かうのだ。
「それで……一度だけ、スズカに尋ねたことがあるんです。あの天皇賞、もしも骨折することが分かっていたら、出走するのをやめたか、って。」
サイレンススズカも、ケイズドリームも、脚に蓄積する負荷に躊躇するぐらいなら、全力で走りぬく思いの方が強かったろう。
速さを極めた、その先へ。先頭でゴール板前を駆け抜ける、その一瞬へ。
「答えは……?」
「『それでも、私は走りました』と。」
鷹木はゆっくりと視線を自らの膝の上に落とす。
いよいよ彼が口を利けなくなったのを確認して、校医は会釈だけを残し、その場から歩み去っていった。
(オペラオーも、きっと、同じことを言うんだろうな……。)
仮に自分の脚が砕け散り、生涯かけて走ることが出来なくなるとしても……ことによっては、天寿を全うできなくなるとしても、ウマ娘はレースを走る。
自らの全てを懸けて。
『走りを諦めるのは死ぬときだけだ。』
テイエムオペラオー自身が二年前に鷹木へと告げたその言葉は、思い返すたびに重みを増していくようであった。
校医の呼び出しから練習場へと戻って来た鷹木は、ちょうどコースを一周してきたばかりであろうオペラオーと鉢合わせる。
さすがに誰に対しても自らの姿を見せる状況でなければトレーニングに専念し続けるのだろう世紀末覇王は、扉を開けたばかりの鷹木と相対する直前まで真剣な面持ちを残していた。
すぐにも、それは見開かれた眼と響き渡る高笑いによって上書きされたが。
「あぁ、鷹木!良いところに戻って来てくれた、先ほどまで走っていたボクに寄り添う風が、新たな脚本のアイデアを囁いたんだ!」
「お、おう……」
「これが、実に高らかな調べでね!はーっはっはっは、思い出すだけで心が躍っている!今すぐ、ボクのステップで表現しようか!」
「いや、待て。待てって。」
ついさっき走り込みの練習を終えた直後であろうにもかかわらず、練習場の真ん中へと向かおうとするオペラオーを鷹木は制し、自分の隣に椅子を用意する。
先ほどの医師からの話を聞いた直後では、トレーニング中の休憩時間はいくら与えても足りぬように思われた。
身体を休めさせ、なおかつオペラオーの思い付きを阻害しない最善の方法は、一つ。
「歌うだけなら近くで聞かせてくれ……その、身体は動かさなくていいから。」
オペラオーの両目が再び見開かれ、そして何かに気づいたかのように細められた。
いつも自分の歌い声をうるさがっているトレーナーが、そうしてまでオペラオーの身体に負担を与えまいとする思いに、彼女は気づかぬはずがない。
「あぁ、良いだろう!このボクの美声を、とくと味わうがいいさ!」
鷹木の隣に座りに来るテイエムオペラオーの足取りは、いつも以上にウキウキとした調子にはずんでいるようにも見えた。
その後しばらく、オペラオーの歌声を超至近距離で聞き続けた側に耳鳴りが止まらなかったことについては、鷹木も多少は後悔したが。