覇道のドラマトゥルク   作:Okubo Masau

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いよいよ訪れた秋の天皇賞、本番。鷹木トレーナーの胸中は、幾度も大舞台への出走を重ねて来たテイエムオペラオーが、いつ故障してしまうか、疲労骨折をおこしてしまうかという心配で一杯であった。が、担当ウマ娘の勝利をこそ願うべきトレーナーとして、オペラオーに全力で勝ってくるよう伝え、送り出す。世紀末覇王に挑まんとする優駿たちのなかには、遂にこの舞台へとたどり着いたアグネスデジタルの姿もあった。


身を苛み、命を削ぎ、玉座へ

 10月28日、東京レース場。

 

 昼には既に本番の舞台へと到着していたテイエムオペラオーは、いつも彼女を見ている鷹木の目には何やら浮かれているように見えた。

 

 周囲の他の人間からは、いつも通り朗らかに歌い、笑っていることに変わりないと見られていただろうが。

 

「鷹木!あぁ、ボクは、今日のレース、とても素晴らしい予感がするよ!」

 

 大舞台を直前にした興奮もあったのだろうが、オペラオー特有の響き渡る声は、平常時よりもわずかに息継ぎを多く要していた。

 

 テイエムオペラオーが緊張することなど万に一つもないだろうが、丸4年にわたって担当を続けて来たトレーナーとして、鷹木はいつも通りの声でやり取りしてやる必要を見出した。

 

 彼女の瞳の輝きは、どこか異様だったのである。

 

「まさか、お前を倒しに来る勇者の現れる予感か?」

 

「はーっはっはっは!そうかもしれない!だが、ボクは、世紀末覇王だ!そう易々と、栄冠を譲り渡したりはしないよ!」

 

 普段通りであれば、それっきりで済みそうなやり取り。

 

 だが、今回のオペラオーは、再び顔を上げ、そして今度は多少神妙な顔つきになって繰り返した。

 

「鷹木……ボクは、負けるつもりはないよ。」

 

「あぁ、分かってる……」

 

「キミが、ボクの身体を案じていたとしてもね。」

 

 万が一に備え、オペラオー用に予備のシューズと蹄鉄を用意していた鷹木の手が止まる。

 

 オペラオーには、鷹木の考えなど筒抜けだったのだ。

 

 もしも彼女を敗北させる勇者が現れれば、いよいよオペラオーの現役引退は近づき、怪我のリスクがこれ以上増す前にレース場から去らせることができる。

 

 ウマ娘担当トレーナーとして、それはレースで勝たせることと同等に重く捉えられるべき事項である。

 

 ……が、ともすれば、オペラオーの引退が早まることで、自分がこの計り知れぬ不安から解放されるのだと……これだけ勝ち続けてきたのだから、十分ではないかと、そう考えてしまう部分があったことを、鷹木は否定しきれなかった。

 

 作業の手を止めた鷹木が、振り返った先に居たオペラオーの表情は真剣だった。

 

「たしかにボクは、勇者の到来を望んでいるよ。けれども、敗北を望んでいるわけじゃないさ。」

 

「……。」

 

「負けるつもりでレースに出走するなど、あまりに礼を欠いた態度じゃないか。共に舞台を駆ける騎士たちに対して、ね。」

 

 彼女の言動がいかに道化て見えていようとも、レースに掛ける熱意、勝利への執念が本物であることは、既に鷹木も十分に知らされている。

 

 その熱意に限度は無く、どこまでも突き抜けるほどのものであることは、今この状況に至って初めて実感しているようなものであったが。

 

「ボクは勝ち続けるつもりさ。いつまでも、いつまでも、何度だって、全力で走り、先頭に立ってゴール板前を駆け抜けたい。」

 

「知っている……。」

 

「だが、鷹木トレーナー。キミはボクのことを心配してくれているんだろう?負けることではなく、壊れることを。」

 

 鷹木は再び返事に窮する。このテイエムオペラオーというウマ娘は、どれほどこちらのことを見通しているのだろう。

 

 サイレンススズカやケイズドリームの身に起きたことについて、詳細に調べるための資料を集めていた様を見られたのだろうか。あるいは、口に出さずとも、十分に読み取れるほど自分の表情にはその不安が出ていたのだろうか。

 

 いずれにしても、目の前のオペラオーは再び笑みを浮かべ、その笑みが自分の案じる思いを拒む類のものであることは確実であった。

 

「引退などしたくない。永遠に走り続けていたいよ。走りを諦めるのは、死ぬときだけだ。」

 

「オペラオー。」

 

「だから、世紀末覇王は勇者に会う必要があるんだ。意地でも負けを拒み続けるボクが、キミの不安を的中させてしまう前にね。」

 

 おそらく今回の天皇賞において、レースの最中に鷹木が願い続けるのは勝利ではなく、オペラオーの脚に致命的な損傷が起きないことの一点になるだろう。自分の小心を否定しようも無い鷹木にも、ハッキリと予測できることであった。

 

 このレースでも勝ってしまえば、オペラオーの身体は今後もさらに本番レースの過酷な負荷に晒され続けることになる。

 

「だから、あぁ、トレーナー。無茶な願いかもしれないが、聞き届けてほしい。」

 

「何を……」

 

「ボクの勝利を願ってくれないか。ボクは壊れてでも、走り続けたいんだ。」 

 

 鷹木は、至極当然のことに今さらになって気づかされたような心持ちであった。

 

 オペラオー以外のウマ娘が勝つ光景を待ち望む瞳は、これから彼女が出ていくレース場のスタンドに溢れているだろう。無敗伝説を打ち立てた覇王に勝つウマ娘が、ドトウに続いていつ現れるか、誰が勝つのかと。

 

 そんな中、確実にテイエムオペラオーの勝利のみを願う存在が、彼女の担当トレーナーでなくてどうする。

 

「どうして無茶なもんか……全力で走って、勝ってこい、オペラオー!」

 

 口だけが笑みを湛えていたオペラオーの目がまず開かれ、半拍ほど遅れて顔全体の笑顔となり、迸り出た声は朗々と響き渡った。

 

 外では雨が降り続いていたが、晴れて澄み切ったオペラオーの瞳を前に、暗雲は吹き払われてしまうかとまで思われた。

 

「もちろんだとも!今日も勝ってくるよ、トレーナー!」

 

 地下バ道へと去っていくオペラオーの、勝負服姿の背を見送る鷹木。

 

 昨年から今年にかけて、絶対的覇王として君臨し続けるウマ娘の後ろ姿は、実際のところ小柄なものであった。同年代のウマ娘たちと比べても背は低く、今回出走する後輩たちの中でもオペラオーより華奢なのはアグネスデジタルぐらいである。

 

 しかし堂々と歩み去っていくオペラオーを見送るうちに、鷹木は自分の内に巣食っていた不安が薄れていくように感じた。

 

 世紀末覇王の舞台に、暗雲は無い。何らの根拠になり得ないそんな理屈に、今の鷹木は不思議なまでに説得力を与えていたのだった。

 

 とはいえ実際の天候が晴れることは無く、雨は降り続いたまま、バ場状態は重の発表となった。

 

〈あいにくの天候となりましたが、このレース、道悪巧者の世紀末覇王にとって天が味方しているのか。今年度秋の天皇賞は、あるいは波乱が見られるのでしょうか。解説には今回もスペシャルウィークさんをお招きしてお送りしております。〉

 

〈はい、よろしくお願いします!昨年の勝ちウマ娘は言うまでもありませんが、あの時と同じ重バ場ですからね。連勝記録は止まっているものの、GⅠ勝利数の記録には期待が持たれるんじゃないでしょうか!〉

 

〈既にGⅠを7勝している世紀末覇王、ここで8勝目を挙げれば、かの皇帝と呼ばれたウマ娘をも超えることとなります。偉業達成か、あるいは再びの覇王討伐なるか。〉

 

 無論のことであったが、ウマ娘レースを見に来る観客たちの関心は、専ら実況アナウンサーが語る内容に収束していただろう。すなわち、勝敗の行方である。

 

 実際に出走するウマ娘たちの胸中は、それと同一ではなかった。特定の相手に勝つことを狙って走るだけで、容易く手にすることのできる天皇賞の栄冠ではない。

 

 レースというものは全く、自分自身との勝負であった。他選手の位置を見据えての立ち回り、スタミナの配分、最終スパートの仕掛け所……あらゆる要因がコンマ秒のタイムを大きく揺さぶる中で、集中力を乱した自分が居れば、すなわち敗北である。

 

 先を行くライバルに負けたくないといくら念じても……運ぶ脚が届かなければ、能力が及ばなければ、結果は覆らないのだ。

 

 苛烈な競走の世界であることが観る者には分からなくなるほど、走る彼女らの輝きはレース場を華やかに彩っていた。パドックに現れるウマ娘たちの紹介は進んでいく。

 

〈今回は4番人気となりました、アグネスデジタル。今月頭に行われました盛岡レース場でのマイルチャンピオンシップでは見事に一位、GⅠのマイルチャンピオンシップを芝、ダートの双方で制覇するという偉業を成し遂げました。〉

 

〈芝もダートも、両方制してしまうウマ娘なんて、この子以外に見たことありません!彼女の能力には大きく期待できますよ!〉

 

 自分が掲げた風変わりな目標を達成したことについて称賛を得たデジタルであったが、しかし今は天皇賞を勝つことこそが一番の目標である。

 

 ついに、世紀末覇王テイエムオペラオーと競い合える舞台に立ったのだ。本気で栄冠をつかむことを狙うアグネスデジタルが何よりも強化してきたのは、ラストスパート時のトップスピードである。

 

 これはナリタトップロードからの指摘に因るところが大きかった。芝レースにおける先行のペースではレース前半にスタミナを浪費してしまい、後半に取っておくと余剰のスタミナを抱えたままゴールすることになるアグネスデジタル。

 

 ダートで培った粘り強い走りを最高速度へと変換する練習を重ねた結果、アグネスデジタルの勝負は最終直線での伸びに掛かっていた。

 

〈3番人気はこの子、エアシャカールです。今年に入ってからは大阪杯、天皇賞春、そして宝塚記念と、かの覇王に追いすがる走りを見せたものの、未だ栄冠をつかむには至っていません。落ち着いた走りで、今度こそ勝利なるでしょうか。〉

 

〈この世代では、私も一番注目しているウマ娘です!先輩ウマ娘たちに遮られても、着実に戦績は上がって来てますからね!〉

 

 現役の第一線で活躍している中では、サンデーサイレンスの血統を継ぐ数少ないウマ娘の一員であるエアシャカール。

 

 とはいえ彼女の歩みは、アナウンスにもあった通り地道なものであった。初めてテイエムオペラオーと競い合った昨年のジャパンカップでは、十四位。そこから徐々に順位を上げ、四位に迫るまでには至っていたが、なおも世紀末覇王の背中は遠かった。

 

 アドマイヤベガの見立てでは、エアシャカールはスタミナの配分に心なしか慎重になりすぎているきらいがあった。

 

 追い込みの作戦へ移行しながらも先行の癖が抜けなかった頃、中盤までにスタミナを使いすぎてしまったがために勝てなかった時期を経験しているためだ。

 

 より早いタイミングで仕掛け、ラストスパートを可能な限り長く続ける。

 

 最終直線に差し掛かるずっと前から長い距離を利用してじわじわと加速し続けるアドマイヤベガの末脚に、その走りはいよいよ似通って来ていた。

 

〈今回も2番人気、そして1番人気は言うまでもないでしょう、まずはこの子、メイショウドトウ!昨年から今年まで、長きにわたって覇王の後塵を受けながらも、ついに6月の宝塚記念では彼女の無敗記録に終止符を打ちました。今もなお、オペラオーの背に最も近い存在と言えるでしょう!〉

 

〈たくさんの大舞台を経験してきてますからね!実力はいよいよ磨かれてきていますよ!〉

 

 競走相手の様子を探ることは出来なかったため、鷹木がメイショウドトウの姿を目にするのは夏合宿以来のこととなった。

 

 自信なさげな平常時と対照的に、パドックに現れる彼女の顔が引き締まって見えるギャップは相変わらずである。

 

 そう、昨年から変わることなく……オペラオーの好敵手であり続けるウマ娘。先行寄りか追い込み寄りか、本番で走り始めるまで分からない作戦選択も相まって、もはや鷹木はドトウを対策の視野に入れることをほぼ諦めていた。

 

 実際に走るオペラオーでなければ、処しきれない相手なのだ。

 

 一流のレースで勝つウマ娘が、人間に御しうる範疇を超えていることを、これに似た経験を重ねて結城トレーナーは理解していたのだろうか。

 

〈さて、1番人気です!さぁ、会場も盛り上がってまいりました、物凄い歓声に包まれております!昨年、そして今年、ウマ娘レースのファンは、この名を最も多く口にしたことでしょう、テイエムオペラオー!勝ち続けるあまり、彼女を破るウマ娘の到来を待たれるほどの世紀末覇王、満を持して登場です!〉

 

〈もうデビューしてから4年目が過ぎようとしています、それでも勝ち続けられるのは、きっと尋常じゃない鍛錬を積み続けてるおかげだと思います!〉

 

 テイエムオペラオーの登場を、今日一番の歓声が出迎えたのは確かな事実であった。

 

 が、彼女の勝利だけを確実に願える存在は、担当トレーナーである自分だけだと、奇妙な確信とともに見つめていた。

 

 実際には、むろんオペラオーを応援する声が溢れていただろう。が、これは鷹木の自身に対する戒めであった。

 

 負ければ、引退させられる。引退させれば、もう脚の骨折のリスクなどに、担当トレーナーとして心悩ませる必要もない。

 

 そんなことばかりを考えて、担当ウマ娘の勝利を願う気持ちを薄れさせていた。

 

 組み合わせた両手の指が痛くなるほど、ぐっと握り締めた掌に向かって、鷹木はただオペラオーの勝利をのみ祈っていた。

 

〈さて、雨が降り続いております、芝状態は変わらず、重の発表であります。各ウマ娘のゲートインが進んでおります……さて今回の枠入りですが、どう見ますかスペシャルウィークさん。〉

 

〈このコースは最初のコーナーまでが短いですからね。外枠の子たちは、追い込みの作戦でなければ厳しくなりそうです。反対に、内枠では先行が有利となりますね。メイショウドトウは今回2枠ということもあって、かなり走りやすいんじゃないでしょうか。〉

 

 テイエムオペラオーに対しても、今回の鷹木は先行を指示していた。

 

 スペシャルウィークが予想で語った通り、内枠を取ったメイショウドトウが先行するのも確実だろう。再ウチを回って行かれると、オペラオーも余分なスタミナは費やせない。最終直線時に並ぶまでもっていけば、残るは世紀末覇王の脚次第だ。

 

 レースを重ねるごとに実力を伸ばしていくエアシャカール、そしてアグネスデジタルについては確実なことは言えなかったものの、鷹木はまだドトウほどの警戒を抱いてはいなかった。

 

 エアシャカールは確かに一線級の能力を有していたが、格の違うオペラオーの末脚に食らいつく域にはまだ達していない。

 

 アグネスデジタルの成長の幅は脅威であったものの、マイル戦で勝利こそ得てはいても、2000mにまで距離が延びれば無理が出てくるだろう。

 

 好位置でスタートできるメイショウドトウが、鷹木の想定において目下の強敵であった。

 

〈ゲートイン完了……スタートしました!1枠のロサードは好スタートを切りましたが下がっていきます、外からテイエムオペラオーが好ダッシュ……そして、サイレントハンターは最後尾となりました。まずはメイショウドトウがやはり飛ばして先頭、テイエムオペラオーが二番手、ウチからステイゴールド、続いてダイワテキサスといった形であります。〉

 

〈逃げを得意とするサイレントハンターが下がって、逆にいつも追い込みのダイワテキサスが先頭集団という意外な展開です!〉

 

 今までの作戦からガラリと変えるということは、勝利を模索していく中で取られる選択肢の一つである。勝利予想がオペラオーとドトウの二名で占められる状況でも、他のウマ娘だって十分に勝ちを狙う範囲に居るのだ。

 

 とはいえ、あまりにもメイショウドトウ、テイエムオペラオーは理想的な位置についていた。

 

 宝塚記念では集団に前を塞がれ、大きく交わすこととなったテイエムオペラオー。今回は先頭集団で最初から飛ばしている、すなわちわざわざ進路を変えるためのロスは最小限で済むということだ。

 

〈あとはジョーテンブレーヴが外を回っています、トレジャー、さらにウチを突いてロサードは中団やや後方といった位置。さらに後方集団、これも前への距離を詰めています、向こう正面へと入りました。アグネスデジタルは外を行きます、その内側にサイレントセイバー、エアシャカール、そしてメイショウオウドウが後方待機。〉

 

〈全体的にスローペースで運んでいますね、団子状態です!しかし向こう正面の坂を上り切ったら、仕掛ける子が出てくるんじゃないでしょうか!〉

 

 他のウマ娘の位置取りをほとんど気にせずにすむ位置についたドトウとオペラオー、二名の先輩を確認してエアシャカールは内心苦々しかった。敗れるつもりなど無かったが、しかし本領発揮出来る世紀末覇王が強敵であることは否めない。

 

 が、それ以上にアグネスデジタルの位置取りが意外過ぎた。彼女は内側に三名のウマ娘が並んだ、その更に外側を走っていたのである。

 

(そんな大外を回り続けりゃ、スタミナのロスは相当なもンだろ……勝てるってのか?)

 

 アグネスデジタルとしては、今年の五月、六月に経験した、あの苦々しい敗北から学んだ結果、会得した勝ち方を実行しているに過ぎなかったが。

 

〈先頭はメイショウドトウで半バ身のリード、そして二番手には上がってまいりましたトレジャー、三番手は変わらずステイゴールドです。しかし外からジョーテンブレーヴ、いま上がって来て三番手となりました。テイエムオペラオーはステイゴールドと殆ど並んで四番手であります、3,4コーナーを回って行くところ。〉

 

〈いよいよ、皆のスピードが上がってきましたね!ここからが勝負所ですよ!〉

 

 向こう正面からコーナーまでは下り坂、最終直線に突入するまで目立った上りは無い。すなわち、コーナーで加速したうえで、勢いを殺さず直線へ向くのが理想的な運びである。

 

 ここで先頭のメイショウドトウへと迫っていくウマ娘たちも目だったが、テイエムオペラオーを始めとして優勝候補とされるウマ娘たちはまだ動いていなかった。

 

(530m近い最終直線、こんだけ長けりゃ追い込みも決まる。焦ンなよ、散々2000mの練習はしまくったんだからよ。)

 

 相変わらず大外を回り続けるアグネスデジタルを斜め前に見ながら、エアシャカールはゆっくりと加速を開始した。

 

〈外側からダイワテキサス、一旦中団まで控えました。残り800を切っています、一旦下げたロサードが再び外に出して追い上げに入りました。あとはエアシャカールが大外から、そしてメイショウオウドウも後方から差を詰めに掛かって、4コーナーを回って行きます、残り600を切りました!〉

 

〈優勝候補の子達が、ここまで理想的な走りです!これは、勝てるんでしょうか!?〉

 

 解説のスペシャルウィークが口にしたのは勿論、テイエムオペラオーに勝てるのか、という意味だったろう。

 

 世紀末覇王はロスなく、スタミナを他に割くことも無く、先団でじっくりと好位置につき続けていたのだ。

 

 エアシャカールは4コーナーに入った時点で、十分に加速を行っていた。あとは直線へ突入すると同時にトップスピードへ入り、ペースを落とさず一気に差しきるのだ。

 

(デジタル……まだ行けンのか?)

 

 が、彼女の目の前には、アグネスデジタルの姿があった。大外から差すつもりでエアシャカールは外側へとコースを取っていたが、アグネスデジタルもまたエアシャカールに追いつかれることなく速度を上げていく。

 

 当のデジタル自身は、ダートのマイルチャンピオンシップを走った時と同様、冷静そのものであった。ずっと大外を走り続けたのも予定通りであり、スタミナの残量にも、何らの作戦違いはない。

 

〈さぁ、先頭は、僅かにウチのメイショウドトウか、そして外のジョーテンブレーヴ、並んで直線へと向きました!三番手、横一線に、これは大激戦だ、空いた外目からテイエムオペラオーが追い込んでくる!テイエムオペラオーが来た、テイエムオペラオーが先頭へ並んでくる!内ラチ沿いはステイゴールド!先頭のメイショウドトウが粘っている!〉

 

〈坂を上り切りました!これでもスピードが落ちないなんて!〉

 

 ここまで先頭付近を占め続けていた面々が、最終直線の上り坂でわずかにでも失速すれば、後方からの追い込みウマ娘にも勝ち目はある。

 

 が、世紀末覇王、それに並び立つ者たちが、そう易々と差されるはずもない。

 

 後方集団を形成する殆どのウマ娘たちにはもはや勝機が無いも同然であったが、エアシャカールは淡々と脚を速め続けた。自分同様に加速し続け、むしろシャカールとの差を広げつつあるアグネスデジタルと共に。

 

(おい……まさか、お前、そんなレベルにまで……)

 

 この時点でエアシャカールは、今までで最高の走りを実現できていると確信していた。

 

 だからこそ……あれだけ大外を回り続け、なお自分の前を全く譲ろうとしないアグネスデジタルが、底知れぬ実力の怪物に見え始めていたのである。

 

〈さぁ坂を上り切って、先頭はメイショウドトウ、しかしテイエムオペラオーがわずかに抜け出したか……大外からアグネスデジタルの追い込み!これは届くのか!?先頭はテイエムオペラオーが抜けた!メイショウドトウは二番手!オペラオー、止まらない!みるみる引き離していく!〉

 

〈もう、2バ身も!?強すぎる……!〉

 

 テイエムオペラオーと拮抗していたかに見えたメイショウドトウであったが、ここに至るまで何者のブロックも受けなかったオペラオーが全力でゴールを目指し始めたと同時に、置いて行かれる。

 

(ウソだろ……!?あれが限度じゃねーのか……!)

 

 どうにかゴールラインを越えるまでにメイショウドトウに並べるか否か、と見ていたエアシャカール。

 

 故に、そのドトウを引き離したオペラオーには、もはや決して届かぬ事が確定していた。

 

 が、エアシャカールが目を剥いた先には、そんなオペラオーへと食いつかんばかりの勢いで末脚を発揮しはじめたアグネスデジタルが居たのだ。

 

〈テイエムオペラオー、メイショウドトウをみるみる突き離す!これは強い!このままゴールか、いや、外から追い込んできたアグネスデジタル!アグネスデジタルが、外からきわどく差を詰めていく!さぁ外に切れながら、先頭に並んでいる!!〉

 

〈並んだ……!?並んだ!!〉

 

 アグネスデジタルは、驚異的な状況に自らの身を置いていたことを、その時は実感していなかった。

 

 ただ、自分の限界……ウマ娘としての限界を、突き破ろうと苦悶し続けていた。

 

(あぁ……死にそうです、苦しいです……こんなに、物凄い、ものなんですね……先頭の景色は……)

 

 完璧に計算され尽くしたスタミナは、存分に燃やし尽くした。メイショウドトウをも抜き去り、遥か雲の上の存在と見えたテイエムオペラオーは、今、自分の真横に居る。

 

 スタミナは、当の昔に尽きたようであった。どうして自分がそれでも走り続けていられるのかが不思議だったが、オペラオーと並んで目指すゴールが近づいてくるごとに、一歩は自然と前へ踏み出された。

 

(分かりましたよ、先輩。私にも、分かりました。この光景のためならば、命をも投げ出したって、惜しくない。)

 

 視線は真っすぐ、前へと向いていた。

 

 それでもアグネスデジタルには、オペラオーが大きく頷いているのが見えるようであった。

 

〈テイエムオペラオー先頭!アグネスデジタルが並んだ!とらえたか!?捉えた!捉えた!!ゴールイン!!アグネスデジタル、先頭でゴールイン!!一着です、アグネスデジタル!〉

 

〈勝った!?す、すごい……!デジたん!!〉

 

 ふら、ふらと脚を運びながらも減速していくアグネスデジタル。やはり歓声は、ゴールの実感を得てから遅れて耳に届いた。

 

 場内の実況アナウンスもほぼ聞こえなくなるほどの大歓声に包まれ、気力を振り絞りきったアグネスデジタルは半ば呆然としていた。

 

 自分が昨年、掲げた遠すぎる目標。世紀末覇王、テイエムオペラオーに勝つこと。

 

 それがたった今達成されたのだと、先ほどの死力を賭した走りの直後では麻痺したようになった頭では把握しきれていなかったのだ。

 

 が、背後から熱く鼓動する腕を回され、アグネスデジタルにはいつも通りの魂が戻って来たような感覚が走った。

 

「ひょわあっ!お、オペラオー先輩!?」

 

「あぁ、あぁ、デジタル!やっぱり、キミこそが勇者だった!」

 

「い、いぃ、いきなり、何を……!」

 

 テイエムオペラオーは、アグネスデジタルの背中から抱き着いていたのだ。

 

 本気の走りを終えた直後の彼女らの身体は、まさに命がそのまま脈動しているかのように熱い。傍からは微笑ましい光景として映っただろうが、実際のところはレースにぶつけた情熱がそのまま伝わり合うようにアグネスデジタルは感じていた。

 

「さぁ、観衆の喝采に応えよう!あるいは、ボクが出しゃばって歌ってしまおうか!」

 

「いっ、いやいや!私が勝ったんですから!」

 

 オペラオーに抱き着かれたことで、どこか蒼ざめてボンヤリしていたアグネスデジタルの頬に、紅潮が戻ってくる。

 

 観客席へと大きく手を振って応えたアグネスデジタルには、改めて大きな歓声が送られたのであった。

 

 一方、担当トレーナー用のブース内で、鷹木は独り憔悴しきった様子で椅子から立ち上がれずにいた。

 

 まずもってオペラオーが二着でゴールインしたとき、勿論ながら悔しさを覚えたが……それを覆い包むほどの大きさで、安堵を感じ取ったことは否めなかった。

 

 かつて、担当ウマ娘の敗北に際して、自分の拳から流血させるほどに壁を殴り、悔しさを爆発させていた八雲井トレーナーほどの境地には至れていないのだ。

 

「オペラオー……やっぱり、お前が無事に走り切っただけで、俺はホッとしてしまってるよ……。」

 

 もしも、最終直線のラストスパートに入った時、ガクンと彼女の体が沈み込み、それ以上走れないような状態で脚を引きずりはじめでもしたら。

 

 トレセン学園に戻ってくることなく、担ぎ込まれた病院から、現役復帰不可能の報告だけが届いたとしたら。

 

「どんな状況でも、自分の担当ウマ娘が勝てなかったことを、心の底から悔やむのが、本物のトレーナー……だよな。」

 

 両手を組み合わせたままにレースを見つめる鷹木の祈りが、全く別種のものへと変じていることを知らぬまま、オペラオーは何の躊躇も、加減も無い、全力を振り絞ってゴールに向かっていた。

 

 負荷が蓄積した自分の脚、折れるならば折れてしまえとばかりの勢いで。

 

 共に競うウマ娘たちに礼を尽くし、栄冠を求める自らの執念に忠実であること。それは、かくも苛烈にウマ娘自身の身体を酷使することなのだ。

 

「……済まない、オペラオー。やっぱり俺は、凡人だよ。」

 

 ゆえにこそ、鷹木は即座にトレセン学園の校医へと連絡を入れていた。

 

 オペラオーが帰ってくれば、即座に身体の精密検査を行えるよう、準備してもらえるように。

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