「検査結果は、異状なしです。」
天皇賞の東京レース場から戻って来たテイエムオペラオーを即座に診断した校医は、鷹木トレーナーの端末へと診断結果をまとめたデータを送りつつ告げる。
硬いままの表情を変えることなく、黙りこくっている鷹木の顔をチラと見やり、医師は言葉を継いだ。
「この報告では、とても安心できないとお思いかもしれませんが。」
「いえ……急な診断の申し込みに応じていただき、ありがとうございました。」
「仕事ですから。」
なんの異状も見つからなかったウマ娘が、脚部への負荷蓄積による粉砕骨折を起こしてきた過去。それを鷹木へと告げたのがほかならぬこの医師であっただけに、二人の間に交わされる言葉は尽くされずとも十分であった。
一度の診断では、十分な安心材料たり得ない。実際に本番で走るまで、骨折が起きうるとは判断されないことだってあるのだ。
「今日に限らず、また後日にも、少しでも気がかりな事があればいつでも診断を受けに来てくださいね。」
鷹木は黙ったままに頷いた。トレーナーの先輩たちも、常にこの恐れと闘い続けていたのだろうか。それとも、鷹木が神経質すぎるだけであろうか。
いつ、担当ウマ娘が故障を起こすか。せり上がってくる不安に、喉元まで埋め尽くされたような心持ちであった。
一方、当のテイエムオペラオー自身に、不安の色は当然ながら全く見られない。
練習場へと戻って来た鷹木は、アグネスデジタルを迎え入れて談笑しているオペラオーの姿を目の当たりにすることとなった。
鷹木が校医からの診断結果を持ち帰って来たことはオペラオーも分かっていたはずだったが、彼女はまるで気がかりな様を見せず、デジタルと先ほどまで喋り合っていた内容を口にした。
「ようやく戻って来たね、我が聡明な理髪師!キミからもデジタルへの助言をひとつ!」
「じょ、助言?何の話だよ、唐突に……。」
とはいえ、デジタルが助言を求める内容があるとすれば、自ずとその内容は絞り込まれた。
今後の出走レースについてであろう。秋の天皇賞で優勝した彼女には、当然ながらジャパンカップへの出走も視野に入っているはずだ。
「いやいや、私自身の問題ですので、鷹木トレーナーにまで手間をおかけするなんて……。」
「むろん、最終的に決めるのは、デジタル、キミ自身だ!とはいえ、彼の意見にも一聴の価値はあるだろう。無難な決断には事欠かないトレーナーだからね!」
「悪かったな無難で。」
しかし、きっとオペラオーから先日の勝利を讃えられ続けていたのであろうデジタルの表情には、迷いが見られた。
芝とダートの両方で確かに一度はGⅠを制したものの、その路線を今後も続けていくのは至難の業であろう。芝レースに専念しても、GⅠの舞台に立ち続けること自体がごく一部のウマ娘にしか許されないのだから。
だから、おそらくアグネスデジタルは、これから芝あるいはダートのいずれかに絞るつもりなのだろう……。
そんな鷹木の安易な予想は、すぐに大外れであることが分かった。
「実は、天皇賞のすぐ後、理事長さんから……海外のGⅠレースに出ないか、とお話をいただきまして。」
「……海外の、GⅠ!?」
「そうとも!このトレセン学園から、世界へと羽ばたく!まさに、勇者が戴くべき栄光に相応しいと思わないかい!」
「何故にオペラオーが誇らしげなんだよ。しかし、そうか……海外か。」
凡庸な予想を軽々と飛び越えられてしまうあたり、全く鷹木は無難なトレーナーであった。
海外のGⅠレースとなれば、いよいよ競走のレベルは高くなってくる。日本のGⅠレースで勝てたからといって、出走自体が出来るとも限らない、更なる狭き門。
トレセン学園出身ウマ娘にも、これまで海外のレースに出た者は限られているとはいえど居る。例えばエルコンドルパサーなどはフランスでのGⅠにおける活躍が有名であるが、彼女ほどの活躍を見せる才能を持ち合わせたウマ娘自体が稀有なのだ。
そんな中、理事長がアグネスデジタルへと海外進出を提案した……これは、ほぼほぼ確実に、海外レースの水準に相応しい才能の持ち主だと認められたも同然であろう。
少し考えるまでもなく、鷹木は大きく頷きながら答えた。
「それなら、行ったほうがいいだろう。理事長に認められたのなら、デジタルの脚が海外でも通用するのは間違いない。」
「はい、そう言っていただけるのは、有難いんですけど……トップロード先輩のこと、気になってしまって。」
「ナリタトップロードが?」
「その、私が海外のレースに出るとなれば、桂崎トレーナーも一緒に来ていただくことになると思うんですが、その間、トップロード先輩は日本に残されることになるので……。」
おずおずとアグネスデジタルが口にする懸念の元を、鷹木は完全に失念していた。
京都記念での転倒事故の影響で天皇賞は出走しなかったナリタトップロードであるが、もちろん引退はまだまだ予定していない。擦りむいた傷も早々と治癒し、骨格や筋肉にも損傷は全く見られず、次のジャパンカップには出走することとなっていた。
そんな中、アグネスデジタルが次に海外のレースを狙うとなれば、当然ながら担当トレーナーである桂崎は彼女と共に日本を離れることになるだろう。練習拠点を海外に移し、現地の環境に合わせた調整を行っていかねばならない。
その間、ナリタトップロードは、単独でトレーニングを続けるしかなくなる。オペラオーやドトウ、アドマイヤベガは同じ本番レースに出る競走相手であるだけに、共に練習して手の内を明かし合うわけにもいかない。
仮にトップロードのために海外と日本とを往復することになれば、ますます桂崎トレーナーの負担は増える。自分よりも先輩にあたるトレーナーに、そのような重荷を負わせ得る決断を、鷹木は迷いなく後押しすることが出来なかった。
しかし、覇王テイエムオペラオーは、勇者の迷いを早々と断ち切ってみせた。
「気にすることはないさ!トップロード君のことは、ボクも前々からよく知っているからね。彼女は、デビュー当初からずっと担当トレーナー無しで練習し、そして勝ってきたんだ!」
「そ、そうだったんですか?」
「あぁ!だから、桂崎トレーナーの不在時にも、トップロードは十分にその能力を発揮するだろう!それに、後輩が夢を追いかけることを、彼女は全力で応援してくれるさ!デジタル、キミだって知っているだろう?」
「言われてみれば……トップロード先輩には、幾度も背を押していただいてました。」
「桂崎トレーナーだって、トップロードが指導を求めればその都度日本に戻ってくるさ!そうだろう、鷹木トレーナー!」
「っ……おう、そう、だな……。」
鷹木は、オペラオーほどすんなりと首肯することは出来なかった。
自分自身の事でもないのに、無責任なまでの確信を得ることは、ある種の勇気を要した。自分がアグネスデジタルの海外進出を推したがために、桂崎トレーナーの負担を増やすような結果になっては……つい、そのように考えてしまうのが小心者の証であった。
が、トレーナーとは、常に担当ウマ娘のことを第一に考えているべき存在である。
鷹木は自らの中にその認識があることを再確認して、改めて頷きなおした。
「桂崎トレーナーも、担当ウマ娘が海外レースに出ることを最優先で動いてくれるはずだ。周りの皆は、お前のために全力で協力してくれる。自分の目標に専念するんだ、アグネスデジタル。」
「……はい!ありがとうございます!おかげで迷いが晴れました!桂崎トレーナーと、トップロード先輩に、私の決意、伝えてきます!」
「よし!ボクも行こう!」
「オペラオーまで行く必要は……あ、おい!……行ってしまった。」
駆け出したアグネスデジタルにつられるようにして、テイエムオペラオーも練習場を駆け出していく。
彼女の場合は、今後ジャパンカップが近づくにつれ会う機会がなくなっていくトップロードに今のうちに会いたいという思いが強かっただろうが。
「……しかし……海外か。」
昨年まではオペラオーの担当トレーナーとして、数々の大舞台への出走手続きを行い、中央URAのレース場へ足繁く通った鷹木。とはいえ、それらはあくまで国内での手続きや移動に過ぎない。
果たして自分が現状の仕事に加えて、担当ウマ娘のために住居を海外にまで移し、時には日本との間を往復するような生活に耐えられるだろうか。
実際のところ、アグネスデジタルが理事長から海外進出を持ち掛けられたという話を聞いたとき、鷹木はドキリとしていた。
テイエムオペラオーは、昨年度GⅠ、GⅡ通して無敗という記録を打ち立てたにもかかわらず、そのような話が出されることはなかったのだ。
その事実に対して覚える感情が悔しさではなく、安堵であったこともまた鷹木の自身に対する嫌悪に繋がっていた。ウマ娘が現状よりも上を目指すことよりも、自分がトレーナーとして担うべき負担が増すことを重視してしまうとは何事か、と。
先ほどまでのアグネスデジタルとのやり取りの中、テイエムオペラオーの眼差しに僅かにでも羨望の色が滲んでいないかと、実のところはそればかりをハラハラして鷹木は観察していたのだ。
オペラオーまで、自分も海外のレースに出たい、と言い出してはどうしようかと……。
(トレーナーは、ウマ娘のことを第一に考える……俺は、それが出来てるのか?)
当初の予定通りであれば、オペラオーの次なる目標は来月のジャパンカップである。GⅠの大舞台とはいえ、昨年も出走したこのレースについては、鷹木も僅かなりと落ち着いて望むことが出来る。
そんな自分の安堵を優先したいがため、担当ウマ娘の目標を狭めてしまってはいないか。
もしも海外のレースが次なる目標となれば、手続きの煩雑さ、移動先の土地に馴染む過程、その心労も並みならぬものであろう。
鷹木がその気であれば、テイエムオペラオーの海外レース参戦を理事長に打診することも出来たのではないか。理事長も、担当トレーナーからの進言を元に、オペラオーへと海外進出を提案し得たかもしれない。
が、それを実現できないのは、自分がトレーナーとしての負担を厭っている結果ではないのか。
(あくまで、ウマ娘の意思が最優先だから……。)
その理屈を言い訳のように使っている自分に気づき、鷹木は慌てて首を横に振った。
そんな彼の耳に届いたのは、テイエムオペラオーが駆け戻ってくる足音。慌てて顔を上げた鷹木は、バタンと練習場の扉を開けて飛び込んできたオペラオーの視線を真正面から受け止める形となった。
「あぁ!やはりボクの思った通りだったよ!」
「思った通り、ってのは。」
「桂崎トレーナーも、トップロード君も、デジタルの希望を快諾したんだ!やはり、海外のレースに出ることは、ウマ娘の目指すべき極致の一つだものね!」
「そ、そう、だな。」
鷹木の返答がぎこちないものであることに気づいているのか否か、オペラオーはウォーミングアップのストレッチを行いつつ、変わらぬ声の調子で告げる。
「さあ、トレーナー!ボクらも自分たちの目標に向けて、さっそく動き出そう!次なるはジャパンカップの栄冠だよ!」
「おう……。」
「むろん、ボクはアグネスデジタルが羨ましいとも。」
ギクリとして顔を上げる鷹木の表情を、オペラオーはしっかりと捉えていた。
彼女の表情は、柔らかい笑みのままであったが。
「だが、ボクはあくまでジャパンカップでの勝利を目指したいのさ!ドトウも、アヤベさんも、トップロードも、シャカールも出走するのだからね!」
「あ、あぁ、頑張ろうな……。」
オペラオーが、どの程度まで鷹木の懸念を見抜いていたのか、鷹木自身には知りようもない。
が、このウマ娘の洞察力が並みならぬものであることは、確かに感じざるを得なかった。