ガツン、ガツッ、と鈍く重い音が、照明を落として薄暗くなった練習場に響いている。
「……ハァ……。」
エアシャカールは、震える息を深く吐く。乱れた呼吸と共に、刺刺しく荒立った心を鎮めようとして。
彼女が力任せに蹴飛ばしていたコンクリートの壁には、ウマ娘の脚力に穿たれてヒビが入っていた。シューズに打ち付けた蹄鉄も、本来掛かるはずのない衝撃を受けて軽く歪んでしまっている。
「何を、焦ってンだよ、オレは……ロジカルじゃねェぞ。」
使い物にならなくなったシューズを脱ぎ捨てながら、普段の自分らしからぬ凶暴な感情が去っていくのをシャカールは目を閉じて待った。
彼女の念頭にあったのは、アグネスデジタルの存在であった。
むろんシャカールも同世代のウマ娘として、デジタルの快進撃が喜ばしからぬものであったわけではない。アグネスデジタルはダートGⅠでの勝利に引き続き、ついに覇王テイエムオペラオーに勝利するまでに至ったのだ。
それは十分、偉業としてシャカールも認めるところである。
だからこそ、その栄冠が自らの手に掴まれていないことについての焦りはいよいよ募ったのであった。
昨年のクラシック級、皐月賞と菊花賞の二冠を讃えられることが専らであるエアシャカール。裏を返せば、それ以降のレースには全く勝てていないということである。
「近づいてる、確実に、近づいてンだ……。」
初めてテイエムオペラオーに挑んだ昨年のジャパンカップでは、十四着と惨敗。そこで折れることなく実力をつけ続けたシャカールには、確かに結果が伴ってはいた。春の天皇賞では八着、宝塚記念では五着。
そして先日の天皇賞秋では、一着のアグネスデジタル、二着のテイエムオペラオー、三着のメイショウドトウに続き、エアシャカールは四着。同じく出走していたアドマイヤベガにシャカールは勝っているのである。追い込みで走る先輩として、目標とし続けてきた先輩に。
が、今、エアシャカールの脳内を占めていたのは、自分よりも後ろを駆けていると思われたアグネスデジタルによって、引き離された事実ばかりであった。
「オレを追い越したと思ったら、あっという間に置いて行きやがった……。」
アグネスデジタルが海外のレースへ進出するという情報は、既にエアシャカールも掴んでいた。ズルズルと勝てぬままの状況が続いている自分の境遇と引き比べるほどに、歴然たる差を付けられた様は強く彼女の胸中に刻まれたのである。
早々と薄暮の光も去っていった秋空の窓外、すっかり練習場が真っ暗になってしまうまで、エアシャカールは目を閉じて座り込み続けていた。彼女が寮に帰ったのは、門限ギリギリの時刻となった。
翌日、アドマイヤベガによって呼び出されたエアシャカールは、結城トレーナーとも顔を合わせることとなった。
共に同じトレーナーに指導を受ける身ではあったが、同じレースに出走する以上、合同で練習する機会は今後無くなっていく。競走相手である以上、互いに手の内を明かしてしまっては、純粋な競い合いにはならないためだ。
が、アドマイヤベガが切り出した話の内容に、エアシャカールは耳を疑った。
「次のジャパンカップは、私とエアシャカールで、テイエムオペラオーの進路をブロックする。」
「……はァ?」
ウマ娘レースにおいて、人気度の高い選手が集中的なマークの対象となり、結果的にレース中に進路のブロックを受けることは今までもあり得たことである。
テイエムオペラオーの場合、最も世間からの印象に残っているのは昨年の有馬記念であろう。年間無敗の大記録が掛かった最後のレースにて、オペラオーは最終直線に入るまで徹底したブロックを受け続けた。
オペラオーは勝利したものの、彼女への妨害を行ったと見られたウマ娘たちには少なからず非難の声が観客たちから上がった。
とはいえ、これがレース中の違反行為として判断されるか否かは線引きが曖昧なところである。
京都大賞典でアドマイヤベガ自身が行ってしまったような、意図的に斜行しての進路妨害は明確に違反となる。が、先行している選手が自分の最も走りやすい進路を取ったがため、結果的に後方の選手の進路上に位置しただけであれば、何ら妨害行為には当たらない。
無論、こうして違反扱いされないことを逆手に取り、人気ウマ娘に対し複数名で連携してのブロックが行われてきた事例は珍しくないのだ。
「いや……けどよ……アドマイヤベガ先輩が、そういうのを一番嫌ってたンじゃねェのか?」
「それは否定しない。」
エアシャカールは呆然とした表情を隠せぬままではあったが、かろうじて問い質した。
アドマイヤベガが、誰よりも純粋な競走というものを望んでいたことは、シャカール自身が結城トレーナーの指導下に入る際に聞かされていたのだ。
ウマ娘はチームを組むこともあるのだが、それは練習相手を恒久的に得るという目的のみならず、本番レースの展開を有利に運ぶという目的も含まれていた。すなわち、人気上位ウマ娘への進路ブロックを確実に成功させることである。
実際のレース場で観戦している立場からは、複数名からの徹底マークが重なったにすぎない状態と、組織的に仕組まれたブロックの見分けはつかない。同チーム内から複数名が出走し、示し合わせた通りに妨害に徹する者たちが居れば、本命で一着を狙うウマ娘は格段に勝ちやすくなる。
そのようなレースを、アドマイヤベガは徹底的に嫌っていた。
彼女にとって、勝利の栄光はあくまで純粋な速さの先に掴まれるべきものであった。
だからデビュー直後も、URAのレジェンドたる結城トレーナーから直々に声を掛けられるまで、他のトレーナーからの勧誘を悉く拒絶し続けていたのである。ウマ娘チームに入れられるなど、まっぴら御免だと。
個々のウマ娘が絶対的な実力を有していた黄金世代、そして覇王オペラオーと好敵手たちが上位を独占し続ける世紀末世代。それらの影響もあり、ここ数年はチームによって掌握されるレースが見られることはほぼ無かったのだが……。
たった今、アドマイヤベガによって為された提案は、自身が妨害に専念するウマ娘として振舞うことに他ならなかった。
「オレが、先輩と同じ結城トレーナーから指導されることになった時も、決してチームになったわけじゃないって念押ししてたよな?アドマイヤベガ先輩自身が。」
「それも、覚えてる。」
「じゃあ、どうしてだよ。一番嫌ってる作戦を、何で自分から。」
「オペラオーに、確実に勝つためよ。」
「答えになって無ェよ……。」
アドマイヤベガの性格を良く知り、現在の彼女の表情を見ていなければ、エアシャカールは早々とこの先輩に幻滅していたことであろう。いくら挑んでも勝てぬ宿敵を前に、とうとう手段を選ばなくなってしまったのか、と。
が、依然としてアドマイヤベガの瞳からは光が失われず、その表情は真剣そのものであった。
エアシャカールを何よりも戸惑わせたのは、いつもの揺るがぬ意志を感じさせる眼光に、懇願するような色味が混じっていたことである。他者に頼むような真似をすることの殆ど無いアドマイヤベガが、そのような態度を示すことは余りにも稀有に過ぎた。
こちらは困惑の表情を浮かべたまま、エアシャカールは黙ってウマ娘たちを見つめ続けている結城トレーナーへと顔を向ける。
「トレーナーも、変だと思わねェのか?アドマイヤベガ先輩、どうしちまったんだよ。」
「僕は、話を聞いているからね。この作戦に踏み切ることにした理由を。」
「なンだよ、そりゃ……。」
結城トレーナーから落ち着いた表情のままに返され、シャカールの困惑はますます深まっただけであった。
自分には皆目見当のつかない理由とやらで、アドマイヤベガが純粋な競走を放棄しようとしているのだろうか。それをトレーナーまでも黙認しているとは……。
ウマ娘レース選手として培ってきた忍耐力が無ければ、エアシャカールは再びアドマイヤベガが口を開くのを待てず、この場を立ち去っていたかもしれない。
正確には、結城トレーナーがアドマイヤベガを促した形であったが。
「ほら、ますますシャカールを混乱させるばかりだろう?本当のところを、伝えないと。」
「……分かってる。」
アドマイヤベガは、それでも如何にして伝えるべきか逡巡する様子であった。情報伝達を渋ることのないアドマイヤベガが、こうして口籠ることもまた滅多に見る様子ではなかった。
後輩であるエアシャカールがじっと待ち続けている表情を真っすぐに受け止め、ようやく意を決したアドマイヤベガは口を開く。
「私は……悪い予言を、見た。」
「……へっ?」
「ふざけているわけじゃないの……どうか、最後まで聞いて。」
「お……おう。」
彼女の話が進むほどに、その内容の荒唐無稽さは、普段から真面目なアドマイヤベガを口籠らせるに十分であることが明確になっていった。
4年前の夏合宿、アドマイヤベガは最初の不吉な予言を得た。それは古い新聞紙の切り抜きが掲示板に貼り付けられた形で現れたそれには、クラシック級の彼女が東京優駿に勝利後、菊花賞を最後に引退してしまい、レースには復帰しないと書かれていた。
引退の理由となるのは靭帯炎であり、引退してから数年後に亡くなってしまう……とまで。
「その翌年、あなたも知っている通り、予言の通りになったの。私は東京優駿で勝って……菊花賞の後に靭帯炎が見つかって、レースを離れる事にした。」
「でも、先輩は復帰したじゃねェか。そんなもん、予言でも何でも無ェ、嘘だ。ロジカルさの欠片も無い。」
「復帰できたのは、その予言を見ていたおかげ。菊花賞のレース中、脚に違和感を覚えた私は……全力で、走らなかった。」
「……マジか。」
あの菊花賞は、翌年を見据えてエアシャカールも注目して観戦していただけに、レース展開を今でも覚えている。
いつもは最後方からの追い込みを得意とするアドマイヤベガが、珍しくオペラオーと殆ど並び続けて走ったレースであった。結果的に1番人気のアドマイヤベガは六着に沈んでしまったわけであるが。
その奇妙な展開の理由が、本気で走らなかったことにあったとは……。
今のエアシャカールには、レースに全力で向き合わなかったことについての侮蔑よりも、アドマイヤベガが伝えんとする所を汲み取ろうという意図の方が強かった。
「そのおかげで、脚の不調が?」
「えぇ。あの時、全力の負荷を脚に掛けてしまったために、炎症がもっと酷くなっていたら、本当にそのまま引退していたかもしれない。」
何とも言い返せないまま、エアシャカールが押し黙るとともに場を静寂が占める。予言を知っていたからこそ、望まぬ未来を回避したという事実をアドマイヤベガは経験している。
彼女が毎年の夏合宿で見ている予言には、一定の信憑性がある……。
もちろん、エアシャカールも非ロジカルな話を鵜呑みにするつもりは無かったが、アドマイヤベガがウソをついているわけではないことは目を見れば分かった。
「……それで、今年の夏合宿でも、私は別な予言を見たの。」
再びアドマイヤベガは口を開き、自分の足元に落としていた視線をエアシャカールは彼女の表情へと向ける。
「テイエムオペラオーが……ジャパンカップで、レース中に……粉砕骨折を起こす……って。」
「え……。」
レース中の粉砕骨折。それが大舞台で起こり得る最悪の事故であることは、ありとあらゆるウマ娘、そしてトレーナー達の知るところである。
三年前の天皇賞、秋。サイレンススズカの身に起きたことを、忘れることなど誰にもできない。
練習や度重なるレース出走によって骨格に負荷が蓄積し続けていることについて、それ以降のトレーナー達が極度に敏感になっている原因でもあった。
「アイツも……オペラオーも、もう四年目。私が長期休養している間も、ずっと走り続けていた。」
「だよな……あンだけGⅠに出続けてりゃァ、疲労骨折を起こすこともあり得るぜ。」
「何としてでも、そんな終わり方は避けたいの。だから、ジャパンカップまでに、アイツを引退させたかったんだけれど……。」
三度敗れれば引退すると公言しているテイエムオペラオー。
彼女は既に宝塚記念にてメイショウドトウに、天皇賞秋にてアグネスデジタルに敗れている。京都大賞典でもアドマイヤベガが勝っていれば、既に引退しているはずであったが、そうならなかった以上もはやジャパンカップへの出走は決定事項である。
京都大賞典にて、無茶な斜行をしてまでもオペラオーの勝利を阻止しようとしたアドマイヤベガ。
今、エアシャカールの中ではようやく理屈が繋がった。自身が勝つためだけであれば、まっすぐにゴールを目指したであろう彼女を、そこまで焦らせた元凶が見えた。
長く共に走り続けた好敵手に、降りかからんとする災厄の予言だったのだ。
「……それが、さっきのブロック作戦と、何の関係があンだよ。」
「レース中、一番負荷が掛かる区間は、最終直線に入るまでのコーナー。」
全速力でゴールを目指す最終直線でのラストスパートが最も観客席を沸かせる区間ではあるが、それ以上に足へ負担をかけるのは、コーナー部分での加速である。
人間の陸上選手をも遥かに凌駕する速度で、コーナーを駆け抜けるウマ娘たち。
そのスピード相応の遠心力が体重に加わった負荷を、彼女らは脚一本で支えることとなる。
「あなたも普段から実感しているはず。一番脚への負担が強くなるのは、3,4コーナーで加速していく時だって。」
「つまり……もしもオペラオー先輩が疲労骨折を起こすとしたら、そのタイミングだってことか?」
アドマイヤベガは黙って頷く。極力、その不吉な予言を口に出すことを避けようとしているように。
かのサイレンススズカも、骨折を起こしたのは3コーナー突入の後であった。ウマ娘本来の能力を超えた負荷が脚に掛かった結果、粉砕骨折へと至ったのだ。
「だから、コーナーを回って行く間は私とあなたで、オペラオーをブロックし続ける。最終直線に入るまで。」
「そこから先は……?」
「もちろん、きちんと進路を空ける。ラストスパートは、全力でゴールを目指すだろうから……あとは、本気の勝負。」
「その全力で駆け抜ける最後の直線で、オペラオー先輩が骨折を起こしたらどうすんだよ。」
再び黙ったまま、アドマイヤベガは首を横に振る。
彼女にとっても、これがギリギリの選択なのだろう。最終直線でも妨害に徹し続け、オペラオーに全力を出させないまま負けさせることは、自身のウマ娘としての矜持が許さないのだ。
エアシャカールは、しばらく黙り続けていた。
アドマイヤベガの説明は、一応は“ロジカル”である……『予言』という、オカルトめいた部分さえ除けば。
困惑を胸に沈黙を続けるエアシャカールを前に、まだ言葉を選び続けていたのであろうアドマイヤベガは、意を決したように口を開く。
「それから……シャカール、聞きたいことがあったのだけれど。」
「オレに?」
「あなた、最近ものを蹴飛ばすような癖を付けてない?」
エアシャカールは、自分の表情が固まるのを隠せなかった。
アグネスデジタルと自分との差が開いていくことへの焦りが募って、壁を蹴り続けていたのはつい昨日のことである。
たしかに誰にも見られていないことを確かめてはいたはずである。あるいは、不自然な歪み方をした蹄鉄を捨てたために気づかれたのだろうか。
「無ければ、いいのだけれど。その……あなたについても、予言を目にしていて……。」
「……どういうンだ。」
「有馬記念を最後に引退して、すぐ、脚で物を蹴りつけたのが原因で、骨折するって……。」
それは一種マヌケな内容ではあったが、しっかりと心当たりのあったエアシャカールは表情を凍りつかせる。
ますます青ざめていく後輩の血色に気づいていないはずもなかったが、アドマイヤベガはあえて視線を外し、図星を指されたエアシャカールに気づかぬふりをしていることは明らかであった。
まだ今は、次なるGⅠレースを目標に、戦績を巻き返すチャンスはある。
が、これといった実績も挙げられぬまま、引退することになってしまっては……。
活躍するウマ娘たちの影、過去の自らの栄光が埋もれていく状況に、いよいよ耐えられなくなってしまう恐れはある。
ウマ娘の脚は強力でありながら、ガラスのように脆い。昨日はどうにか感情を抑えながら壁を蹴りつけていた程度であったが、自棄になった時に同じ癖が頻発しては、アドマイヤベガが口にした予言は現実のものとなる。
「……気ィ、つけとく。」
「えぇ……。時間を取らせちゃって、ごめん。さっそく、トレーニングを始めるわ。ジャパンカップも近くなったら、合同の練習も出来なくなるから。」
「……あぁ。」
半ば強張った表情のまま、ウォーミングアップを始めるエアシャカールとアドマイヤベガ。
トレーナーが違えば、このどこか冷え冷えとした緊張感が漂う空気を変えようと提案していたところであろうが、しかし結城トレーナーは黙って見つめていた。
凶兆を与えられた未来を変えるため、彼女らが本気になっていることは明らかだったのだ。