ジャパンカップが近づくにつれ、お互いにも競走相手となるアドマイヤベガとエアシャカールが共に練習する機会は減っていく。
競走相手がレース本番に準備している作戦を前もって知ってしまえば、対策は立てやすくなる。相手の手の内を分かっている側の一方的に有利な展開となり、純粋な競走とは呼べない状況になってしまう。
が、同時に、アドマイヤベガはエアシャカールと共に、テイエムオペラオーの進行をマークする計画を示し合わせていた。
レース中、最も強い負荷が脚に掛かる最終コーナーを、全速力で駆け抜けさせないため……アドマイヤベガが得た不吉な予言、『オペラオーがジャパンカップにて粉砕骨折を起こす』ことを現実にせぬために。
「いい?あくまでも私たちの目的は、オペラオーと全力で競い合って勝つこと。コーナーを抜けて直線を向いたら、進路をあける。」
「分かってる。マトモにやり合って勝てなきゃ、オレも気が済まねぇ。」
ジャパンカップの迫る前日、顔を合わせたアドマイヤベガとシャカールは、自分たちが共に真っ当な競走を望んでいることを再確認しあっていた。
この計画を実行する決断を下したのも、元はと言えば完全に信じられるものだとも断言できない、『予言』という不確かな判断材料に過ぎない。宿敵として競い合ってきた覇王に破滅的な結末をもたらさぬことが目的であり……しかしレース自体の目的は、自らが勝つことである。
純粋なレースの結果、得られる勝利をこそ望むのであれば、それぞれアドマイヤベガもシャカールも、より得意とする走りを選択しただろう。
好敵手が疲労骨折を免れるように全力での走りを抑えながら、最終的には実力同士の競い合いを望む。
それは危うい線引きであった。
ジャパンカップ当日のテイエムオペラオーは、今までになく浮かれ、陽気であるように鷹木の目には映った。
出走ウマ娘を東京レース場へと送る専用のバスの中で、立ち上がって歌い舞い続けようとする彼女を、どうにか座らせてシートベルトさせるだけでも一苦労であった。
実際には、平時と大差なかったのかもしれないが。
「歓喜と幸福の大広間を、門と扉が取り巻いている!ウマ娘の名誉、無窮の栄光が、無限の名声に輝き聳え立つ!あぁ、我が玉座もいよいよ引退の際へと追い込まれた!」
「追い込まれた割には、随分と朗らかなんだな。」
「当然だとも!この覇王に、いよいよトドメを刺す勇者が現れると考えれば!しかし、ボクも負けるつもりはないけれどね!はーっはっはっは!」
三敗すれば引退すると、世間にも表明していたテイエムオペラオー。宝塚記念のメイショウドトウ、天皇賞秋のアグネスデジタル、そして次なるはジャパンカップか、有馬記念かといった状況であった。
とはいえ担当トレーナーである鷹木としては……これは本来、担当トレーナーが抱くべき念としては相応しからぬものであったが……オペラオーの引退が、早まることを望んでいた。
それは要するに、担当ウマ娘の敗北である。
無論、鷹木とて、オペラオーの勝利を喜ばぬトレーナーではない。日々のトレーニングはすべて、担当ウマ娘の勝利へつながることを念頭に置いて指導し続けている。
が、彼の脳内をずっと支配し続けていたのは、オペラオーの身体に蓄積し続けている負荷、診断では拾いきれない損傷についての懸念であった。
レース中にウマ娘が起こす骨折は、直接的な接触や転倒が原因となることもあるが、何よりも恐れられるのが疲労骨折である。
特に、身体機能を極限まで追い込んで走りぬくことになる大舞台、それを幾度も経験し続けるトップクラスのウマ娘であるほどに、そのリスクは高まっていく。
ゆえに、いくら勝てそうなレースが連続していても、本番と本番の間には少なくとも1か月のスパンを空けるようスケジュールを組むことがトレーナーとしての常識となっている。十分な休みを取ることなくレースに出続けていては、いずれ身体が持たなくなる。
鷹木も当然ながら、その点には留意し続けていた。このジャパンカップ出走を直前に控えたタイミングで、再びの精密検査を受けさせたのも、彼の慎重さあっての判断である。
やはり何らの異状も無しとの報告を受け取って、鷹木の表情に明るさは戻ってこなかった。むしろ、ますます目に見えない領域へと潜んだ怪我のリスクが不気味さを強めたようにまで感じていた。
が、ウマ娘たちにとっては、生涯を通して同じレースはない。
大舞台が目の前に用意されていれば、そこに出走することこそが彼女らにとって最大の栄誉であり、栄冠はその先でしか掴めない。
その道半ばで、サイレンススズカは、あるいはケイズドリームは……自らの脚が壊れる激痛とともに、レースの舞台から降りざるを得なかったのだ。
骨格に疲労が蓄積した結果、あるいは身体の限界を超えた負荷が掛かった結果、粉砕骨折を起こし、その後の生涯をマトモに走ることも歩くことも無く過ごす羽目になる、そんな危険をウマ娘に背負わせることを……鷹木は踏み切れる性格ではなかった。
「鷹木?」
「……なっ、なんだ?」
既にバスはレース場の裏手へと到着しており、出入り口が開いてもなお悄然と座り込み続けている鷹木の顔を、オペラオーが覗き込んでいる。
「随分と顔色が蒼白いじゃないか、フライアを連れ去られた神々もかくあらんや、だね!」
「いや、気にするな、緊張しているだけだからさ。」
担当トレーナーのことを心配しているか否か判然としないオペラオーの問いかけに曖昧に返し、慌てて立ち上がろうとする鷹木。
しかしオペラオーはトレーナーの顔を覗き込む姿勢から全く動いていなかったため、必然的に鷹木は彼女と額をぶつけ合う形となった。そこそこの勢いで立ち上がったためか、ゴチンという鈍い音は車内に軽く響いたほどである。
「あだっ!?……つっ痛ーっ……じゃ、じゃなくて、オペラオー!だ、大丈夫か!?」
鷹木が立ち上がろうとしているのが分かっていたにもかかわらず、敢えて彼とぶつかる姿勢を変えなかったのは、オペラオーの故意によるものだったろう。
「っふふ……」
それに鷹木が気づいたのは、オペラオーも額をさすりながら、その口元がいたずらっぽくニヤついていたのを見てからである。間もなく、含み笑いはいつもの高笑いへとなった。
「くっふふ……ははは……はぁーっはっはっは!」
「いや、笑ってる場合か、レース直前だぞ!本当に大丈夫か!?頭がフラフラしたりしないか!?」
「はっはっは!いやはや、鷹木は実に優しいな!そこまで徹底して心配してくれるだなんて、ね!」
途中で視線を向ける先を変え、オペラオーが同意を求めた相手は、既にバスの出入り口から入ってきていた。
出走直前の彼女と鷹木トレーナーを出迎えるつもりが、なかなか降車してこないのを待ちかねたのだろう。
「ホントですよ!せっかくオペラオー先輩の晴れ舞台なんだから、もっと明るく送り出してあげましょう!」
「アグネスデジタル……!?」
先月の天皇賞秋における勝利を機に、トレセン学園理事長から海外進出を推されたアグネスデジタル。現在は十二月のレースに備えて既に海外での調整を行っているはずであった。
「日本に帰って来てたのか。」
「今日だけ、ですけどね。トップロード先輩のために桂崎トレーナーが戻るので、私もオペラオー先輩の応援のために。」
「あぁ!ありがとう!アグネスデジタル!きよらかな勇者!大外から駆けてくるキミの姿は、何とけがれなく、明るく、愛らしく輝いていたことか!今日も、同じくらい輝かしい勇者に会えるだろうか!」
「おぉ、オペラオー先輩!もしも再び勇者が現れようとも、あなたはお強い!きっと、覇王たるあなたが勝ってしまわれるでしょう!」
アグネスデジタルがオペラオーの掌を下から取り、口調は喧しくも所作は恭しく、バスを降りる彼女をエスコートしている。
バスでの移動中も笑っていたオペラオーであったが、不安に胸塞がれた鷹木が黙り込んでいる時と比べて、その笑い声はより明るく響くようであった。
「はーっはっはっは!言われるまでもない!永遠の栄光は、ずっとボクと共にある!今日も輝きながらレースを愛し、笑いながら走ろう!」
「ひょぉぉう!称えあれ!テイエムオペラオー先輩!キラキラ光れ!ウマ娘の三女神よ!」
唐突に尋ねて来たアグネスデジタルの出現は実に騒々しいものであったが、どんよりと曇っていた鷹木の心は随分と救われたようであった。
空は抜けるように晴れ渡っている。
〈近づく冬の気配をも吹き飛ばすような熱気であります、東京レース場。ジャパンカップ、GⅠ、2400m、出走ウマ娘は15名。間もなく、彼女たちがパドックに姿を現します。現在の入場者数は11万人を超えまして、まさに現代ウマ娘レースの頂点を競うレースに相応しい様相であります。今年のジャパンカップはいかが見られますか、スペシャルウィークさん。〉
実況者の隣、解説の席にスペシャルウィークの姿がある光景は、もはやテレビ画面の向こう側でも見慣れたものとなっていた。
〈はい、今でも私、一昨年走った時のことは覚えてます。距離もあるし坂道もあるしで、かなりスタミナを削られるんです。実力の求められるコースですが、今年はもしかすると史上初の二年連続ジャパンカップ制覇が達成されてしまうかもしれませんよ!〉
すなわち、今年のテイエムオペラオーも十分に優勝する実力を有していると、スペシャルウィークは見ているのだ。
アグネスデジタルが応援に駆け付けた時には、自分の担当ウマ娘の勝利を願う気持ちが甦りつつあった鷹木であったが……いざターフの上へとオペラオーを送り出した後からは、再び急激に不安が沸き起こるのを実感していた。
どうか、オペラオーが無事に走り切りますように。ラストスパートの途中で、脚の骨が砕けるようなことには、決して……。
誇張ではなく、ただただ運命の神にでも縋るような思いで祈り続けている鷹木を他所に、パドックでのウマ娘紹介は進んでいき、いよいよスタート前のゲートインが始まった。
〈枠入りが進んでいきます、まもなく発走の瞬間が近づいてまいりました。5番人気のナリタトップロード、先月の京都大賞典における4番人気のアドマイヤベガと接触しての転倒事故が記憶に新しい所ですが、現在は傷も完治して万全の体調とのこと。〉
〈本当に良かったです、トレセン学園ではデビュー当時からずっと仲の良い子達でしたから……。〉
トップロードが転倒する原因を作ったアドマイヤベガに関しては、あの無茶な斜行についての責任を結城トレーナーが進んで被ったこともあり、またトップロードが努めてアドマイヤベガと談笑する様を見せたこともあり、批難の声はほぼ無くなっていた。
〈さて3番人気のメイショウドトウを抑えまして、今回はなんと2番人気に推されました、エアシャカールがゲートに入っていきます。なかなか勝ちきれないウマ娘としての印象が強いですが、いかがでしょうかスペシャルウィークさん。〉
〈同年代を除けば、覇王オペラオーと一番多く競い合って来た子ですからね。シャカールちゃん、順位を上げてきているのは事実ですし、今回はひょっとしたら勝てるかもです!〉
勝てぬままにも地道に戦績を伸ばしつつあるエアシャカールに、スペシャルウィークも目を向けていることの分かる発言であった。「ひょっとしたら」というのは、その可能性が相応に低いことを示していたが。
アドマイヤベガと取り決めたブロック作戦の存在もあってか、発走直前のエアシャカールの眼光は異様なまでに鋭く輝いていた。
〈体勢完了しました、ジャパンカップ……スタートしました!ほぼ揃いましてきれいなスタートです、ウチの方でテイエムオペラオーは良いスタートを切っています。しかし外から上がってくるウマ娘を前に、控えた感じになりました。ウィズアンティシペイション、そしてティンボロア、果敢に飛ばしていきました。〉
〈外枠の選手が前に出て、良い位置を取ろうとしてますね。コーナーを回る距離も長いので、早めにウチ側へと入りたいところでしょう。〉
中央ウマ娘レース場の中でも、特に一周の距離の長い東京レース場。
コーナーの内と外では、回る半径が大きくなるほど距離上の不利はかさむ。一周すれば数十メートルもの差になってしまうため、外枠でのスタートとなった選手はいかにしてコーナー内側へと入り込むかが課題となるのだ。
しかし、ほぼすべての出走ウマ娘が同じように考えるだろうことから、今回の鷹木はオペラオーに追い込み寄りの指示を出していた。先行争いに巻き込まれ、周囲との位置取りを兼ね合いながら細かくコース取りを変え続けるのは、余計にスタミナのロスとなる。
何よりも、接触、転倒事故に巻き込まれることを、鷹木が強く恐れていたことが大きかったが。
〈三番手にダイワテキサス、四番手にはインディジェナスが控えております、五番手には二馬身の差がついて、アメリカンボス、そしてウチにはメイショウドトウが並んでいます。これから1,2コーナーの中間地点から第2コーナーを駆け抜けようというところ、一番手は変わらずティンボロア、ウィズアンティシペイションが二番手、アメリカからのウマ娘たちが現在先頭を占めています。〉
〈このコースで逃げ切るのは難しいですが、スタミナに自信があれば速度を落とさずゴール前までもっていくかもですね!〉
食い入るようにレース展開を見つめている鷹木は、オペラオーが殆ど最後方に位置していることばかりが気がかりとなっていた。
たしかに追い込み寄りで走れとは伝えたものの、最後方というのはオペラオーの得意とする位置取りではない。トレセン学園内における他チームとの練習の時点でも、十五名中のおよそ六番手から八番手辺りの位置を常に走っていた。
ここに来て、オペラオー特有の気まぐれが始まったのか……?
そう考えかけた鷹木は、オペラオーの前を並んで塞いでいるのが、アドマイヤベガ、そしてエアシャカールであることに気づいた。ばかりか、先行で走ることが殆どであるナリタトップロードまでも、オペラオーの外目を塞ぐように位置していたのだ。
〈三番手にはインディジェナス上がってきて、四番手にダイワテキサス、そのウチ五番手にアメリカンボスが追走して向こう正面へと入っていきました。っと、ここでトゥザヴィクトリーが大外から一気に上がって来た!果敢に前を目指して、あっという間に先頭であります!〉
〈直線の区間で前に出て、コーナーを良い位置で回るつもりですね!しかし向こう正面に一つ目の上り坂、ゴール前にももう一つ上り坂が待ち構えてますよ!〉
白熱する先行争いに観客席も湧いていたが、トレーナー達、そして実際に走っているウマ娘たちの意識は、ほぼ全て最後方に集中していた。
走りながら後ろを振り返っている余裕のないレース中、テイエムオペラオーがその同年代のライバルたちに進路をブロックされていることを明確に認識した選手は数少ない。
ただ、京都大賞典、天皇賞秋と、先行の作戦を採り続けた世紀末覇王が、延々と最後方で脚を溜め続けている状況が不気味でないわけがなかった。
〈さて1番人気テイエムオペラオーは現在後方集団、前方をアドマイヤベガ、そしてエアシャカールに塞がれる形となっております。その外、これも珍しく追い込みの位置、ナリタトップロードが並び、あとはホワイトハートが続くといったところ。さぁ坂を上り切りまして、まもなく先頭集団は3コーナーへと入ってまいります。〉
〈普段はあまり追い込みの印象がない選手ですが、かなりスタミナのロスなく走ってこれていると思います!〉
スペシャルウィークの目から見れば、オペラオーへのブロックが意図的なものであることは知れただろうが、彼女はそこに言及することはなかった。アドマイヤベガやエアシャカールの性格上、妨害に徹するだけ徹するようなことは無いだろうと思えたのだ。
実のところ、スタート直後の時点で、アドマイヤベガとエアシャカールの二名だけではオペラオーの進路を塞ぎきれてはいなかった。外側からオペラオーの前へと入り込んだ両名であったが、オペラオーは躊躇なく大外へ出て交わそうとした。
そこを、外から蓋をするように下がって来たのがナリタトップロードである。アドマイヤベガはナリタトップロードに対して、今回の作戦を何ら説明などしていなかったのだが……チラと横目で確認したトップロードの表情は、既に心得顔であった。
オペラオーの脚をもってすればさらに交わす動きに入ることもあり得たろうが、結局彼女はその位置に落ち着くことを決めたようであった。
自分の前を塞いでいるのが共に駆け続けた好敵手たちであることが分かった以上、オペラオーは妙な疑いを抱く余地など見出さなかった。
〈1000mの標識を通過していきました、各ウマ娘、ゆったりとした流れとなっていますが、3,4コーナーの中間地点を目指しております。先頭はトゥザヴィクトリー、ティンボロア二番手、後方とのリードをひろげていた二名ですが、その差は縮まっておよそ4バ身!ウチを回ってインディジェナスわずかに三番手の位置、600の標識を通過しました!〉
〈後方の子達は、まだ仕掛けませんね……直線に出るまで、溜め続けるつもりでしょうか!〉
アドマイヤベガにとっては、一番の正念場であった。
遠心力とともに加速することで、最もウマ娘の脚に負荷のかかりやすくなる最終コーナー。ここでこそ、オペラオーには速度を抑えてもらわねばならない。
3年前の天皇賞秋で、サイレンススズカは3コーナーにて骨折を引き起こしたのだ。
(あなたなら、最終直線で一気に突き抜けられるでしょう。今は、どうか抑えて。)
自分の真後ろにいるオペラオーから相当なプレッシャーを感じつつも、アドマイヤベガは居並ぶエアシャカールと共に、前方の集団から引き離されないギリギリの速度を保ち続けた。
ナリタトップロードはと見れば、やはりオペラオーのすぐ外側に並び、彼女が抜け出すのを遮り続けている。何も直接説明していなかったアドマイヤベガの思惑を、トップロードはいつの間にか汲み取っていたらしい。
間もなく、コーナーを抜け、直線へと向く。
エアシャカールと目くばせする必要もなかった。コーナーから直線へと突入していく流れのなか、シャカール、アドマイヤベガ、ナリタトップロード、そしてテイエムオペラオーはごく自然に横一線で並んでいたのだ。
〈3番手から、ウィズアンティシペイションが交わしていった!さぁ直線へと向いた、テイエムオペラオーは、囲まれながらもようやく外へと持ち出していった!ナリタトップロード、その外にならんだまま追いかけていく!ウチにはアドマイヤベガ、そしてエアシャカール、並んで一気に前を目指し始めた!〉
〈あぁ、ついに!来ますよ、覇王のライバルたちが!〉
(直線に、向いた……あとは、真剣勝負。)
最終直線ならば、コーナーで加速するのと比べ、脚に掛かる負担は比較的少ない。とはいえ、依然として平常時とは比べ物にならぬ負荷がラストスパート時に発生することには変わりない。
事実、ケイズドリームは最終直線での競り合いの最中、骨折を引き起こしている。もしも今、目の前のオペラオーの身体が、いきなりガクンとつんのめって、そのまま減速し始めたら……。
しかしそんなアドマイヤベガの懸念は、すぐに吹き飛ばされることとなった。
エアシャカールとナリタトップロードとの間に空いた隙間、それを縫うように飛び出したテイエムオペラオーの末脚は、まさに次元の違う加速度だったのだ。
〈さぁ先頭争いは、ウィズアンティシペイションか、しかし後方からの追い込み集団が迫ってくる!ほぼ一団だ!テイエムオペラオー、最後方からもう先頭に並んできた!?速い、速い、これは何という末脚、アドマイヤベガ、エアシャカールも食い下がっている!〉
〈10名以上を、一秒もかからずに抜き去ってますよ!あれだけ足を溜めて……これは、勝っちゃうのでは!?〉
最終コーナーを回り切るまで、加速を控えさせたのはアドマイヤベガの思惑通りであった。そして、直線へと向いたとき、オペラオーに道をあけ、本気の勝負で決着をつけることも。
が、最終直線に入るまでスタミナを温存し続けたテイエムオペラオーの末脚が、いかほどに尋常ならざるものであるかについて、彼女はすっかり失念していたのだ。
(分かってた、オペラオーは先行でも、差しでも強いって……でも、こんなに!?)
追い込みを得意とするアドマイヤベガとて、後れを取る能力ではない。同じく並び続けているナリタトップロードと共に、既に他のウマ娘集団を抜き去っていることには違いない。
が、オペラオーとの距離はどんどん開いていく。
(ダメ……あなたは、ここで勝ったら、また次のレースにも出てしまう……もう、身体が持たなくなる!)
並みのウマ娘を遥かに凌駕する能力を持って酷使され続けるオペラオーの脚の骨が、あの走りをもってしても砕け散っていないことは奇跡にしか思えなかった。
いくら後方から懇願の眼差しを投げかけても、オペラオーが速度を緩めるはずはない。
彼女は、世紀末覇王。
自らの命を差し出してでも、栄光に向かって走り続ける存在。
そんな彼女へ、今なおピタリと並び続けていたのが……エアシャカールであった。
〈テイエムオペラオーが来た!テイエムオペラオー、テイエムオペラオー先頭に代わって、ぐんぐんぐんぐんと差を広げていく!そしてエアシャカールが追い込んでくる!三番手争いはアドマイヤベガ、ナリタトップロード!ウチからはメイショウドトウが上がってくる!200mを切りました!〉
〈強すぎる!強すぎるけど!勝てる!勝てるよ!〉
ジャパンカップの直前に至るまでの期間、エアシャカールはひたすらに最終直線での加速練習に専念し続けてきた。
それまでは、アドマイヤベガの得意とする、3コーナー入り口から長い距離を使っての加速に重点を置いていたのだが、今回の作戦でその走りは使えない。
そのために大きな作戦変更を余儀なくされたのだが、これが期せずしてシャカールの光明となった。
アドマイヤベガが見た『予言』とやらは余りにも非ロジカルであり、エアシャカールも内容には半信半疑であった。しかし、彼女からの提案を受け、開始した最終直線のみを使ってのラストスパートは、実にエアシャカールの性分に馴染むものだったのである。
(いくら気持ちを抑えても、先行されりゃあ焦りは溜まる。一気に爆発させるなら、余計な事考えずに突っ走るに限ンだろ。こいつはロジカルだ。)
そして、自分が新たな得意分野を見出したことは……アドマイヤベガ先輩には黙っていた。同じ作戦を担う仲とはいえ、個々はあくまでも競走相手であり、自分の手の内を明かすことは無い。
現に、アドマイヤベガは唖然としていた。
すでにメイショウドトウがウチ側から自分たちに並びかけてきていたが、先頭で並び合うオペラオーとシャカールにはすでに2バ身近くの差を付けられている。
一着争いは独占されていた。
テイエムオペラオーと、エアシャカールの両名によって。
〈先頭は、テイエムオペラオーだ!だが殆ど並んでいる、エアシャカール!テイエムオペラオー、いまだ先頭とはいえ、ぐんぐんとエアシャカールに詰められている!並んだ!並んだまま!ゴールイン!……エアシャカール一着!!体勢有利か、勝ったのはエアシャカールであります!!〉
〈凄い……!他の誰も追いつけていなかったのに、あそこから並んで、勝った……!〉
会場の空間そのものを揺らすかのような大歓声が、ターフの上を強く打っている。
ゴール板を通過し減速していく、その真隣りにはテイエムオペラオーが、そして背後からはアドマイヤベガ、そしてナリタトップロード、メイショウドトウの姿。
改めて「確定」のランプが点いている結果表示を確認すれば、エアシャカールの名と番号はしっかりと示されている。
もう一度、周囲を見渡し……。
「何をキョロキョロしているの、きちんと観客席に向かってアピールなさいよ。」
アドマイヤベガの声が、ようやくエアシャカールの平常時の意識を呼び戻したようであった。
シャカール自身はそこで初めて、置かれた状況に呆然としていた自分自身に気づく。この割れんばかりの歓声の中でも、やたらとはっきり聞こえる声を響かせながらオペラオーも近づいてきた。
「はーっはっはっは!素晴らしい走りだったよ、新たなる勇者!さぁ!皆はキミを讃えている!喝采の元へと歩み出たまえ!」
「お、押さないでくれよ、オペラオー先輩……。」
テイエムオペラオーから両肩を手で押され、観客席の方へと向き直らせられるエアシャカール。
こういった場でのアピールのポーズを何も考えていなかった彼女は、昨年の皐月賞や菊花賞で見せたのと同様に、ぎこちなく手を振るだけで済ませることにした。
……その最中にも高まっていた違和感の方が、より強くシャカールの意識内で広がり始めていたのである。
「おい、オペラオー先輩……大丈夫か?」
シャカールが観客たちからの喝采を浴びている間も、彼女の両肩に後ろから手を乗せ続けていたオペラオー。
が、そこに掛かる力は徐々に強くなっていく。オペラオーが体重を自分の足で支えられなくなっているのだと、間もなくシャカールは気づいた。
「なんか、脚……怪我してンじゃねぇのか?」
「今はキミが栄光に浴する時だ、気にしないでくれ。」
「ンなこと、言ってる場合かよ。」
間もなく、彼女らの様子を後ろから見ていたアドマイヤベガ達も、オペラオーが片脚を浮かせるようにしてエアシャカールの背中にしがみついていることに気づく。
覇王はあくまで何事もないように振舞うことを望んだが、すぐさま運ばれてきた担架に横たえられ、救急車へと運び込まれたのであった。