覇道のドラマトゥルク   作:Okubo Masau

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 遂にやって来た日本ダービー当日……の観戦。まだ本格化を迎える前のオペラオーは、アヤベさんやトップロード、ドトウ、そしてトレーナー達とともに観客席に。ターフ上を駆けるは、スペシャルウィークを筆頭とした黄金世代の顔ぶれ。本物の舞台を見せてやりたいというトレーナーの想いは、彼女にいかなる光景を贈るのか。
 暫くは大舞台も雲の上の存在、観戦する立場が続きます。


覇王、遠く化け物を望み

 東京優駿、別称「日本ダービー」。最も運のあるウマ娘が勝つと言われはするものの、当然のごとく相応の実力を兼ね備えた者にしか勝利の女神は微笑まない。

 

 G1の中でも出走できることが最高の栄誉との呼び声高いこのレース……の観覧客たちに紛れて鷹木とテイエムオペラオーは訪れたのであった。

 

 目立ちたがり屋のオペラオーのことだから、さぞ着飾って現れるのだろうという鷹木の予想は大きく外れた。いつも肌身離さず身に着けている王冠のような髪飾りを外し、濃紺を基調としたコートでシックにまとめた彼女の私服は目立ちこそしなかったものの、生来のセンスの高さを窺わせるものであった。

 

 とはいえ、中身はあのオペラオーに変わりないのである。開場を待つ観覧客たちの混雑に紛れて僅かながらもレース場内へと進みつつ、鷹木は繰り返し伝えた。

 

「頼むから、この混雑の中で騒がないでくれよ。お前の近くに居合わせた不幸な一般客の鼓膜が破れたら、賠償責任を誰が取ることになるか分かってるだろうな。」

 

「案じたもうな我が賢明なる理髪師、それに気に掛けるべきはボクではなく彼女の存在ではないのかな?」

 

「彼女……?」

 

 オペラオーが指さした先へ鷹木の視線が向いた瞬間、そこでちょっとした騒動が巻き起こった。

 

 立て続けに破裂音が起き、同時に空高く噴水のようなものが吹き上がる。付近からは悲鳴や驚きの声が上がり、血相を変えた警備員が人混みをかき分け悪戦苦闘しながら寄ってくる。

 

「なっ、何が起きた!?」

 

 ……が、その喧噪の中には笑い声も少なからず含まれている。奇しくもその現場付近にいた鷹木たちは、騒動の中心を避けるように広がった人の輪の端から、何が起きたのかを見ることが出来た。

 

 駆けつけてきた警備員の前で頭を掻いて事情を説明しているのは、他の誰と見間違えようもない片桐の姿である。彼の傍には、やはりというかメイショウドトウがしょぼんと立ち尽くしていた。

 

 濡れてポタポタと雫を落としている彼女の髪からは、清涼飲料の匂いが立っている。手にしたビニール袋の中にいくつも詰められた飲料の缶が、内容物を漏らしていることからも原因は明らかであった。

 

「いやすみません、お騒がせを。この子ったら、皆の分も飲み物を買ってくるのだと張り切ってしまいましてね。」

 

「す、すみません、すみません、私ごときが飲み物を調達してしまってすみません!」

 

「気にしなくていいよ、ドトウ。きっと、暑さのせいで炭酸が噴き出したんだろう。」

 

 これだけの衆目に晒される場で騒動を起こしてしまったにもかかわらず、淡々と事情を警備員に話している片桐。この男が狼狽えることなどあるのだろうか、と鷹木は感心する他に無かった。

 

「ところで、警備員さん。この子このまま濡れたままじゃカゼをひいてしまいます。汗をかいた時のために着替えは持ってきたんですがね、トイレの個室でもお借り出来ますか?」

 

「えぇ、トイレでしたら、会場内に……」

 

「じゃあ、行こうか、ドトウ。警備員さんが、着替えられる場所まで案内してくれるから。」

 

「すみません、私なんかのためにすみません……」

 

 変わらず周囲の誰に対してでもなく謝り続けているドトウを連れ、警備員の誘導に従って道をあける群衆たちが作る道の真ん中を悠々と歩いていく片桐。

 

(片桐、アイツ……!)

 

 それが片桐の最初から仕組んでいた策であったかどうかは定かでなかったが、少なくとも彼とドトウは混雑に揉まれることなく、超満員の会場へと確実に入場することができたのだった。

 

 普通であれば惨事に他ならないアクシデントを、自らの利とするだけの機転を見せた同期トレーナーを、唖然と見送っている鷹木。彼の隣で、オペラオーは小さく拍手を送っていた。

 

「なるほど、彼は名参謀だね。キミも何か考えてみればどうだい?例えばボクがオペラ歌手として登場し、周囲の客たちが自然と花道を作るように、さ。」

 

「やめてくれ。俺にアイツほどの度胸が無いってことなら、いくらでも認めるから。」

 

 あまりに鷹木の声に懇願の念がにじみ出ていたためか、オペラオーもそれ以上は突拍子もない思い付きを推すことはなく、大人しく群衆の流れに合わせてじりじりとした会場入りを続行したのであった。

 

「いいだろう。同行者も望まぬ無理を通すのは、美しくないからね。」

 

 いつも頓狂な行動の目立つ彼女も、自らを抑えるべき局面は弁えているようであった。あるいは、常に演技として振る舞うことに慣れたオペラオーこそ、最も理性的なウマ娘であるのかもしれないと鷹木は感じた。

 

 変わらず、鷹木の予測は見通しの悪いものではあったが。ようやく会場の観覧席へたどり着いた彼は、思いもよらぬ光景を目の当たりにした。

 

「やぁ、鷹木トレーナー、そしてオペラ―さん。こっちですよ。」

 

「はわわわぁ、オペラオーさんが、私の隣に……」

 

「これは奇遇だね!ボクと走りを研鑽し合った朋たちと共に、東京優駿を観覧できるだなんて!」

 

 鷹木たちが予約した席のすぐ隣に、先んじて会場に入っていた片桐、およびメイショウドトウ……のみならず、片桐からチケットを受け取ったアドマイヤベガ、ナリタトップロードの姿もあったのだ。

 

 片桐が予約した席が連続して並んでいることには合点がいったが、彼とは別々に予約を入れたはずの鷹木の席のすぐ隣に来ているとは思いもよらなかった。

 

「……俺の予約した席の隣、狙って取りました?」

 

「さてね、偶然でしょう。しかし、こうして気心の知れた仲で肩を並べている方が、レース観戦にも熱が入るというものでしょう。」

 

 探るような視線を投げかける鷹木など意にも留めず、何ほどのことも無いかのようにノンビリと返す片桐。彼の向こう側には、キッとこちらに鋭い一瞥を投げかけたアドマイヤベガの眼が光った。

 

「気心知れた間柄になったつもりでいるの、アンタだけだから。」

 

「まぁまぁ、アヤベ。片桐トレーナーのおかげで、私たちも東京優駿を見に来れたわけだしさ……。」

 

 無言で遥か遠いターフを見つめているアドマイヤベガの隣で、彼女に声をかけているナリタトップロードの姿もいつも通りである。地味ながらも存外に可愛らしい私服のアドマイヤベガの隣で、いよいよ男装の映えるトップロードが並んでいると美男美女カップルとして見られかねない構図であった。

 

 ファンファーレとともに歓声が沸き上がり、やがてアナウンスの声も響く。

 

〈やってまいりました第九レース東京優駿日本ダービーG1、中山2400メートル芝、稍重です。〉

 

 パドックに今回出走するウマ娘たちが姿を現し始める。いずれも互いに引けを取らぬ一流選手ばかりであり、この時ばかりはいつも何かと騒がしいオペラオーもドトウも、固唾を飲んで状況を見つめていた。

 

〈三番人気は12番、セイウンスカイ。皐月賞ではキングヘイローに加えスペシャルウィークという名だたる血統バを制し勝利、いま最も勢いのあるウマ娘です。〉

 

「あぁいう子の勝ち方は参考になりますね、駆け引きの手腕には惚れ惚れしますよ。」

 

「ですかね。」

 

 鷹木からしてみれば、このレースの人気順で下位のウマ娘ですら、日本ダービーに出走できている時点で雲の上の存在である。そんな彼女らを、自らの担当ウマ娘と引き比べて見ることのできる片桐の心境は計り知れなかった。

 

〈二番人気、2番、キングヘイローです。皐月賞ではセイウンスカイに敗れ惜しくも二着、彼女の走りにはなおも多くの注目が集まっています。〉

 

「……どうしたんだい、アヤベさん。今、ボクの方をチラと見たね?」

 

「み、見てないわよ。」

 

「案ずることはない、玉座に先約があろうとも、この世紀末覇王がすぐにでも奪い取ってみせるさ!」

 

 アドマイヤベガとしては、オペラオーがキングヘイローの名に反応してパドックを凝視しているのではないか、という些細な好奇心を向けただけであったのだが、当のオペラオーは常通りに周囲に気を払い続けていたのであった。

 

 相変わらず底の知れぬこの同期のウマ娘に対し、アドマイヤベガは小さく溜息を吐くだけで返した。直後、どよめきと歓声が観客席を震わせ、彼女自身もパドックへ視線を向けることとなったのだが。

 

〈一番人気、5番、スペシャルウィークです。彼女もまた前回の皐月賞で連勝記録は止まりましたが、このレースに掛ける意気込みは十分。仕上がりは最高のようですね、期待できますよ。〉

 

 ターフ上でもスクリーンの中でも、その体格は他のウマ娘たちと変わらぬはずであったが、それでもなおスペシャルウィークが別格であることは会場に詰めかけた観衆の引き起こす轟きが物語っていた。

 

(怪物……。)

 

 鷹木は戦慄く余裕さえ無かった。今から走りだすのであろう、あの恐ろしい何かと対峙することを憂いねばならぬのは、自分とは遠い存在たちばかりであるかのように感じていた。自身もウマ娘のトレーナーであり、いずれ頂点を目指すのならばそれに肩を並べることは避けられないはずだったが。

 

 ここに来てようやく自らを抑えられなくなったのであろう、オペラオーは立ち上がって拍手していたが。

 

「スタンディングオベーションには早すぎるが、敢えて讃えさせてもらおう!素晴らしい、いずれ我が宿敵として相応しい存在だ!」

 

「未勝利バ戦でようやく一勝しただけの奴が、何言ってんのよ。」

 

 アドマイヤベガからの辛辣なツッコミも意に介さず、きっと大群衆の中に埋もれて向こうからは見えていないだろうに、なおもスペシャルウィークに向かって声援を投げかけるオペラオー。

 

 彼女の尽きぬ自信についても、鷹木は唖然とするばかりであった。

 

〈全ウマ娘ゲートイン完了。……栄光はただ一つ!〉

 

 時間を計ることの敵わぬ静寂を破り、ゲートが開く。

 

〈日本ダービー、今スタートしました!さぁ誰が行く、セイウンスカイ、セイウンスカイか!?いや内からキングヘイロー行きました!先頭はキングヘイロー、続いてセイウンスカイ。スペシャルウィークはバ群中団です!〉

 

 レース展開は大方の予想を裏切る形で幕を開けた。追い込み策を得意とするはずのキングヘイローが、序盤から先頭に立って飛ばす……すなわち、逃げの戦法を取ったのだ。

 

「そりゃあ、怖いでしょうな……あんな化け物と競い合うのは。」

 

 片桐のつぶやきに、鷹木はようやく頷きを返すのが精いっぱいであった。口を開けば、動悸と共に臓腑が飛び出してきそうだ。

 

 スペシャルウィークの存在感は、この観覧席にまで暴力的に伝わってくる……彼女に並んで走っているウマ娘たちが、その覇気に食い破られはしないか心配になるほどだ。

 

〈1000m通過!かなりのハイペースで進んでおります!過去の東京優駿の中でも、類を見ない速さです!落ち着いていきたいところですがキングヘイロー先頭で2バ身のリード!そのまま向こう正面に入ります!〉

 

 変わらずキングヘイローはハナに立ち、その背後をぴったりとセイウンスカイが付けている。血統ウマ娘に相応しい堂々たる走りであるが、見方を変えれば背後から迫りくる怪物に食われまいと必死で逃げる図に過ぎない。

 

 実況中継のブレが酷い映像の中では確と見ることも叶わなかったが、鷹木の目にはキングヘイローの必死さが彼女の表情に浮き上がって見えたようであった。そのあくなき勝利への執着と、闘争心と。

 

 なによりも深い絶望が。

 

〈先頭は依然キングヘイロー!何処で仕掛けるのかセイウンスカイ。スペシャルウィークは上手く外へ出ている!さぁ第4コーナーを抜けて…セイウンスカイ仕掛けた!キングヘイロー下がっていく!先頭はセイウンスカイ!〉

 

 慣れぬ逃げの戦法は当然ながら功を奏さず、キングヘイローはバ群に呑まれ、他のウマ娘たちの後塵を浴びる。

 

 最終直線で先頭に立ったのはセイウンスカイであった。皐月賞と同様の展開を前に観客席は大いに沸き、鷹木の隣では片桐が滅多に見せぬ熱中をその声に浮かべていた。

 

「良いですね、ここからは400メートル近い坂があります。坂を苦手とするスペシャルウィークに対し、これは良い配分だ。」

 

〈残り400m坂を上る!内セイウンスカイにスペシャルウィークが――あっという間に!並ばない!並ばない!!あっという間にかわした!!〉

 

「えっ……。」

 

 これまた片桐が決して浮かべることのない動揺が彼の表情に張り付いていたが、その世にも珍しい光景を鷹木は当然のごとく見ている場合では無かった。

 

 遂にターフ上の怪物が牙を剥いた。スペシャルウィークと呼ばれるそれは、中団から一気に抜け、ハナに立っていたセイウンスカイのリードも一息に引きちぎり、他のウマ娘たちが競い合うコンマ数秒の差など一笑に付すかのごとく、異次元へと翔っていく。

 

 唯一抜きんでて並ぶ者なし。

 

 トレセン学園のモットーとして、もはや神話世界の故事であるかの如く扱われていたその光景が今、目の前にあった。

 

〈夢を掴んだスペシャルウィーク!!1着はスペシャルウィーク!!ガッツポーズが出ました!並ぶことなく、スペシャルウィークがあっという間に突き抜けました!!〉

 

 二着との差、5バ身。出場できる選手自体がほんの一握り、一流のウマ娘の証である日本ダービーにて、これほど圧倒的なレースを演じたウマ娘は他に居ない。

 

 観覧席ではアドマイヤベガもナリタトップロードも、歯を食いしばったまま圧倒され身動きが取れずにいる。メイショウドトウはほぼ気絶しかけている。

 

 鷹木は、驚いて目を見開いている片桐、呆然と口を開いて場の雰囲気にのまれているオペラオーという、この世で最も見ることの難しいであろう両名の表情に挟まれていたが、それに気づくことなど出来なかった。

 

 周囲の大歓声に紛れつつも、ようやく彼らの沈黙を破ったのは立ち上がったオペラオーの拍手であった。

 

「Brava!素晴らしい、素晴らしいよ、さすがは黄金世代の頂点、最高の優駿だね!」

 

 今度こそ正真正銘のスタンディングオベーションを演じるオペラオーであったが、彼女の拍手は特定の相手に向けられているようであった。

 

 その先にあったのは、緑色の勝負服。14着という惨憺たる結果に終わり、前を走るウマ娘たちの跳ね上げた芝や泥に汚された、キングヘイローの姿。

 

 未だ全身が痺れたようになって動けない鷹木であったが、オペラオーの良く通る叫びが確かにキングヘイローの顔を観覧席へと向けさせた様は目の当たりにした。

 

 そして、彼女が握った拳を、オペラオーの方へと確かに向けた仕草も。

 

 彼女の顔に表情は無かったものの、大敗を喫した後もなお声援に答えるG1ウマ娘の気概がそこにあった。

 

「……あ、あぁ、本当にすごかったね……大丈夫?アヤベ……」

 

「うるさい、ほっといて。ちょっと落ち着いたら、すぐに帰ってトレーニングするから。」

 

「はわ…………わ………………」

 

 観覧席に居並んだウマ娘たちが四者四様の反応を見せている一方で、鷹木の前に片桐がそっと何かを差し出す。

 

 それがハンカチであることに気付いた鷹木は、初めて自分の両目から涙が流れていることを知ったのであった。慌てて顔を拭いつつ、半笑いで片桐の紳士的な思いやりを拒む。

 

「ど、どうも……しかし、これが頂点の戦いとは、ね……」

 

「いや、こんなのはもう無いでしょう。空前絶後ってやつですよ、とんでもないウマ娘が居る時代に鉢合わせちまったもんだ、この子たちも……」

 

 鷹木よりもずっと先に、いつも通りの調子を取り戻した片桐が、自らの両脇に居並ぶウマ娘たちを眺め渡す。鋭く反論を返したのはアドマイヤベガ、そしてオペラオーも続く。

 

「何それ、憐れんでいる気?黄金世代だろうが何だろうが、私はすぐに追い越すから。」

 

「そうとも!覇王がこの中山レース場に降臨するのも間もなくだ!ところで、ボクはキングヘイロー先輩に会いに行きたいんだが。」

 

 オペラオーの突拍子もない発言も、先ほどの興奮の余波で脳が痺れたようになっている鷹木には大した驚きを引き起こさなかった。どうにか呼吸を整えた彼は、取り戻した冷静さとともに淡々と説く。

 

「あのな、レース直後のウマ娘とトレーナーは一番厳重に守られてるんだ。妙なファンに絡まれないようにな。」

 

「だが、先ほどキングは確かにボクの声援に応えてくれた!あれは、王として謁見を許すという意味だと聞いたが?」

 

「何なら、私が口を利きましょうか?トレセン学園の関係者として、話が通るかもしれない。」

 

「いや、それはしないで、お構いなく、ホントに。」

 

 おもむろに片桐が言い放った提案を、鷹木は大慌てで却下する。この男ならば、実際にレース直後のウマ娘たちとの面会を果たすために何を仕出かすとも知れないと思ったためだ。

 

 鷹木の慌てようを見た片桐は微笑みつつ、隣で完全に腰を抜かして立てずにいるメイショウドトウの方へと身体を向けていた。

 

「ご心配なく、私はこの子が回復するのを待たなきゃいけません。」

 

「じゃ、私はトップロードと一緒に帰るから。練習時間、一秒でも勿体ない。」

 

「アヤベったら、そんなせかせかしなくても……じゃあね、トレーナーさん達。東京優駿の観戦、誘ってくれてありがとう。」

 

 自分が彼女らのチケットを用意したわけではない鷹木は、その感謝に対し曖昧に応える。自分もそろそろ荷物をまとめるかと向き直った時、彼の隣にオペラオーの姿は無かった。

 

「え?おい、オペラオー?」

 

「彼女なら、先ほどあちらへ……」

 

 片桐が指し示したのは、観客席の裏手へと向かう通路の向こうへ姿を消すオペラオーの背中である。地味な色の服を着ていても容易くそれとわかる栗毛が、狭い通路へと入っていった。

 

「まさか、アイツ……!」

 

 鷹木は大慌てで荷物を取りまとめ、変わらずドトウの様子を見ている片桐におざなりな挨拶だけを投げ、オペラオーの後を追う。

 

 未だ興奮冷めやらぬ観客席の熱狂とは対照的に、係員だけが往来している裏手はしんと静まっているように感じた。オペラオーが余計なことを仕出かす前にと、慌ててあちこちへと小走りで顔を覗かせる鷹木は、そこに思いもよらぬ光景を見た。

 

 最初、その音は係員が何か備品を片付けているものかと思われた。堅い壁に、何かを容赦なくぶつけている音。

 

 その主は、一人のウマ娘トレーナーであった。トレーナーがどのような恰好をするかは個々の自由であったが、彼の振る舞いは今まさにレースを終えたトレーナーとして相応しく、そして衝撃的なものだった。

 

 ガツン、ガツンと音を立て、コンクリートの壁に拳を打ちつけ続けている彼。既に、いくつか血の染みが壁面には飛び散っている。

 

 そんなことを続ければ手は腫れあがり、骨にひびが入るか折れるかするだろうに、そのトレーナーは自らの激情をぶつける動きに容赦を見せることなどなかった。

 

 鷹木は彼を止めるために声を掛けようなどとは、微塵も思わなかった。

 

 それはウマ娘のトレーナーとして相応しい行いだったのだ。今の鷹木が至るべくして、同時にあまりに遠く感じている境地。彼は果たして、この己が同じほどの悔恨を抱くことがいずれ出来るかどうか、自らに対し訝しむばかりであった。

 

 呆然と立ち尽くしている彼の目の前で、やがてそのトレーナーは自分の担当ウマ娘が戻って来たのか、関係者のみの立ち入りが許されている区画へと扉を開けて入っていく。その姿が消えてもなお金縛りにあったように動かずにいる鷹木の背に、勢いよく声が掛けられた。

 

「やぁ!こんなところにいたのかい、我が心狭き参謀よ!どれだけ探したことか!」

 

「探してたのはどっちだと……おい、まさかお前……」

 

 振り返った鷹木が目の当たりにしたオペラオーは、明瞭に満足そうな表情を浮かべていた。

 

 彼は一瞬、オペラオーが無理を通してでも先ほど出走した先輩ウマ娘に会いに行ったのではないかと危ぶんだ。規則を逸脱した行為について、謝罪する羽目になるのは自分である。

 

 こういった危惧へ真っ先に思考が向くあたり、やはり鷹木は凡庸な人間であった。

 

「はっはっは!流石に、キングヘイロー先輩には会えなかったよ!けれどもボクは満たされている、本物の大舞台を体感することが出来たのだからね!」

 

「……そうだな。じゃあ、帰るか。」

 

「何を言ってるんだい、ドトウを置いては行けないよ。彼女、しばらくは歩くのに助けが必要そうだったじゃないか!」

 

 オペラオーはそう言い放ち、まだまだ混雑し続けている観覧席へと戻っていく。

 

 混雑および片桐から離れて一足先に帰る機会を得かけていた鷹木であったが、オペラオーを呼び止めることなく渋々ながら彼女の背に付き従ったのであった。

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