トレセン学園入学二年目、クラシック路線を歩み出したウマ娘たちに用意された大舞台のひとつ、皐月賞が徐々に近づいて来る。鷹木も当然ながら、テイエムオペラオーをそれへ出走させることを目標としている。
四月を目前に出走した毎日杯は出走権に直結はしないものの、皐月賞の前哨戦として注目を集めるレースの一つではあった。
毎日杯が行われた日の阪神レース場は曇天に覆われていた。
今までは知名度だけにものを言わせて一番人気を得ていたオペラオーであったが、流石にGⅢのレースともなればそうもいかない。彼女は三番人気として、毎日杯に出走したのである。
パドック上でオペラオーが無駄に目立っていたのはいつものことであったが、観戦席から見つめる鷹木は春だというのに額の汗を拭く手が止まらなかった。
むろん、緊張感から絞り出される冷や汗である。
このレースでしくじれば皐月賞への出走は遠ざかる。学園内テストの成績では十分な能力を示していたものの、前哨戦たるレースで負けてしまっては他のウマ娘に大舞台での出番をとってかわられる可能性だってあるのだ。
トレーナーの心境などどこ吹く風に、オペラオーは平静と何ら変わりなくゲートインし、スタートを切った。いつも通りの先行策、先頭をいつでもとらえられる位置で悠々と走っていく。
……が、後半のレース展開は鷹木を冷や冷やさせるものであった。
〈第3コーナーに入りました、先頭は1番人気バイオマスター、そして二番手にグループコマンダー、マイネルサクセス上がって来て三番手。サンキングラッド下がっていきました、3番人気テイエムオペラオーは内側を走っている、さあ第4コーナーです。〉
先行策を取るウマ娘が最も恐れるべきリスク、すなわち最終コーナーから直線へ向かう混戦に巻き込まれて前に出られなくなる状況。
まさにそれに近い形が、固唾を飲んで見つめている鷹木の視線の先にあった。
〈外からタガノブライアン、アストラルブレイズも接近してきた!直線コースに向きました、先頭はバイオマスター、ブルーコマンダーが並んでいる!後ろからタガノブライアン、マイネルサクセス……間を通ってテイエムオペラオー!テイエムオペラオーが抜け出した!〉
その走りは、確かにトレーナーから指示できる類のものではなかった。
集団に巻き込まれた状態で、ゴールに向かって一気にスパートをかけるタイミングは、前を遮るライバルたちに隙間を見出し得る一瞬に判断するほかない。
どの程度の間隙があれば、自分を前に持っていけるか。その時点で、どれほどのスタミナが温存できているか。降着扱いとならぬよう、無茶なルート取りになっていないか。
全ては、実際にレースに出走し、白熱する最終直線で競り合っているウマ娘自身でなければ判断の出来ぬ要素ばかりだ。
〈外からタガノブライアン!ブルーコマンダーも粘っている!先頭はテイエムオペラオー!後続の子たちが離されていく……テイエムオペラオー、今一着でゴールイン!テイエムオペラオー、このレースで三連勝です!〉
二着との差、四バ身。4コーナーでの詰まりが無ければさらに先を走れていたことを鑑みても、なお揺るがぬ圧勝であった。
担当トレーナーらしいアドバイスを鷹木が何も与えられぬままに、テイエムオペラオーが勝利を得ていく状況はさておき、彼女は皐月賞へ出走するウマ娘として十分な実力を示すこととなった。
URAから本年度の皐月賞出走ウマ娘が発表された際、オペラオーの名がそこにあったことに世間からは意外性を見出されなかったものの、鷹木はひとり自室で跳びあがって足の指を机の脚にしたたか打ち付け、床に転がって痛みと安堵を噛み締めたものである。
それゆえ、つい先日の謎めいた奇行……三女神像の前に、ナリタトップロードやアドマイヤベガともども無意識のうちに引き寄せられるという事態は、ますます鷹木の心配性を加速させたのであった。
皐月賞という大舞台へ出走する権利をせっかく得たのに、ここに来て何らかの支障を抱えたとあっては大変だ。
「なぁ、一度保健室で診てもらってもいいんじゃないか?知らず知らず溜まっていた緊張で、奇妙な行動を取ってしまったのかもしれないし。」
「このボクを緊張させるものがあるとするならば、それは覇王に比肩する美しさを誇る星の輝き!あぁ、すなわち、アヤベさんを目の前にしたときだけだ!」
「あぁ、確かに、あの時アドマイヤベガも居合わせてはいたが……言いたいのはそっちじゃなくってだな。『誰かに呼ばれたような気がして』だなんて、相当精神的に疲れている奴の言うことだぞ。」
「行こう!」
「え?」
「保健室に、だよ。キミはトレーナーとして、ボクが保健室に向かうべきだと判断したのだろう?」
相変わらず、鷹木は目の前のウマ娘を御せる気がしなかった。今回については、オペラオーが進言を受け入れる形ではあったものの。
トレセン学園の保健室はかなり充実した治療施設を備えている。少しの怪我が重大な事故に繋がりかねないウマ娘たちをいつでも受け入れられるよう、常に複数名のスタッフが常駐している。
治療用の薬品や、搬送用の担架に車椅子、安静を保つための複数のベッド。更には緊急時に現場で治療可能な設備に至るまでを備え、一つの医院が学園の中に存在すると言っても差し支えない規模であった。
今回の件で鷹木が心配している分野、すなわちメンタル面でのケアを行える専門医も無論のことながら勤務している。何がきっかけでスランプに陥るとも知れないウマ娘たちと向き合い、心の問題を探り出す手伝いをするスタッフたちである。
が、オペラオーの診療を担当した心療内科医からは、明確な問題点の指摘など為されなかった。
「何の心配もありませんね。この子は精神面においてもいたって健康です。」
「はぁ、そうですか……。」
「むしろ、ウマ娘として理想的な状態を常に保ち続けています。置かれている状況に左右されず、無条件で自分自身を称賛し続けられるというのは、一種の才能ですよ。」
普段からそうであるがゆえに、鷹木はオペラオーの奇行を生み出した元凶を必要以上に案じていたのであった。
彼の表情が晴れぬままであることを見て取った相手は、薄く苦笑いしつつも付け足した。
「まぁ、確かに異常ですけれどね。そんな精神状態は。」
「本当に、問題は無いんでしょうか?」
「彼女が自身の性格を問題視するかどうかの話ですからねぇ……ウマ娘としてレースに出る分は、何ら問題ありませんよ。」
「通常なら並みならぬプレッシャーを背負う局面で、彼女が無理をし続けているのではないかと心配で……。」
「あの子の場合は、自らの晴れ舞台を心待ちにする思いが優先するようです。ウマ娘たちにとっては、レースで華々しい勝利を挙げることこそが何よりもの望みですから。ま、安心してください。」
保健室から出てきた後も、平静と何ら変わりなく歌を口ずさんで……いや、一帯に響き渡らせているオペラオーの背を追って練習場へ向かいながら、鷹木は自分自身の心的負担ばかりが増したのを感じていた。
トレーナーばかりが焦燥と緊張を滾らせる日々は瞬く間に過ぎていき、いよいよ皐月賞の前日となった。
本番前トレーニングにも熱が入る中、オペラオーに休憩を指示してトレーニング施設から出てきた鷹木は、メイショウドトウと鉢合わせた。危うくウマ娘の脚によって、自らの足の甲を踏みぬかれる寸前であった。
彼女の後ろには、担当トレーナーである片桐がついている。
「はわわわっ……!す、すみません、すみません!私ったら、またボーッとしながら歩いてて……。」
「いや、大丈夫。そんな慌てないで、君が狼狽えると二次被害が拡大するから。」
「おや、どーも、鷹木さん。オペラオーは、皐月賞目前の追い込みといったところですか。」
「えぇ、アイツのことですから、いよいよ緊張感の無さが心配になっているところでしたが……ところで、片桐さんはどちらへ?」
鷹木にそう尋ねさせたのは、相手が抱えている大きなカバンの存在であった。ドトウもスポーツバッグを担いでいるし、いつもラフな格好で通している片桐も、珍しくそこそこフォーマルな装いである。
「中京レース場の方に、ね。ウチのドトウは、明日のかいどう賞に出走させるんですよ。」
明日行われる皐月賞は日本全国から注目されるレースであったが、その同日に他のレースが行われないわけではない。大歓声を浴びる大舞台を傍目に、他のレースに出るウマ娘たちの方がずっと多いのだ。
そして、メイショウドトウはそんなウマ娘の一員に、明日なりに行く。
「そうですか……健闘を祈ります、メイショウドトウ。」
「い、い、いえ、私なんかより、オペラオーさんやトップロードさん、アドマイヤベガさんが出る皐月賞の方がずっと大変ですよぉ……!」
「ドトウ、おどおどしないでと言ったでしょう。かいどう賞だって、決して小さなレースというわけじゃない。胸を張って晴れ舞台に向かえば良いのです。」
片桐の語調には常に余裕があり、ゆえに彼がライバルウマ娘やトレーナーに対して引け目などを感じていない態度には説得力があった。
鷹木はテイエムオペラオーの担当としての自らを省みるほどに、メイショウドトウの担当として片桐は適材であるように思えてならないのであった。
「では、明日を楽しみにしましょう。お互いにね。」
そう言い残し、片桐はメイショウドトウを連れてスタスタとトレセン学園の門を出て行った。