トレセン学園にしとしとと注がれ続けた梅雨も明け、夏が訪れる。
オペラオーのトレーニングを担当する傍ら、東京優駿のレース映像を幾度も幾度も見直していた鷹木であったが、結局オペラオーの敗因を見いだせなどしなかった。
先行寄りのペース、道中でもスタミナを浪費する無茶はなく、集団に巻き込まれず前に上がり、ゴール前の上り坂でも失速なし、スパートにも十分な加速を得て……それを平然と追い越して行ったトップロードとアドマイヤベガの能力が、いよいよ計り知れぬ領域へと去っていくばかりであった。
余りに見直し続けていたため、鷹木はアナウンサーによる実況をまるきり暗唱できるほどになっていた。しまいには夢の中においても聞こえはじめ、じっとりとかいた寝汗とともに目覚める朝も少なくはなかった。
毎朝トレセン学園へと出勤する彼に街路の並木から降り注ぐ蝉時雨の大音響が、その余韻を洗い流してくれることだけが救いであった。
「最近、キミは妙にボクのタイム計測をやりたがるね。」
「そうか?」
トレーニング開始前のストレッチを行いながら、オペラオーから掛けられた声を生返事で迎える鷹木。
実際、今も彼の手にしているタブレット上には、これまでの本番レースにおける各区間のタイムデータが表示され、ストップウォッチが片手に握られていたわけだが。
「ま、そりゃ、トレーナーだからな。担当ウマ娘の走行データを把握するのは当然だろ。」
「好きなだけ計測すると良いさ!けれども新たな発見はそこに無いだろう……なぜなら、ボクは常に速くなっていくに決まっているのだからね!」
オペラオーは言い放ち、練習用コースへと向かっていく。彼女の言う通り、他のウマ娘集団が居ない状態で走っても、常に同じようなタイム……そして、日々、コンマ秒単位で縮んでいくタイムが……計測されるばかりであった。
並走する存在との駆け引きもオペラオーは常に楽しんでいる様子であったが、邪魔するもののないコースを伸びやかに走っていくその姿もまた爽快なものであった。
皐月賞での勝利、東京優駿でも三着という成績が認められたオペラオーは、練習場やトレーニング施設を優先的に使用するだけの権利を得ていた。相変わらずの鷹木は、他のウマ娘チームが練習しようとしているタイミングにかぶってしまわぬかと、逐一気にしてばかりであったものの。
好成績を残すウマ娘となればこそ、その身の振り様には細心の注意を払わねばならない。有力チームに睨まれれば、レース運びが不利になることは必定なのだから。
オペラオーが練習用コースのゴールラインを駆け抜けると同時に、鷹木はストップウォッチを止める。
彼が予想の範疇にあるタイムを記録している一方で、オペラオーは息を整えるのももどかしそうに乱れた髪を手早く整え、グラウンドの隅からこっそりと見学していた後輩ウマ娘たちの方へ歩み寄っていく。
その先には、隙あらばオペラオーの練習風景を目に焼き付けている、大きなリボンを付けたウマ娘、すなわちアグネスデジタルの姿があった。
「やぁ、ごきげんよう!おぉ、なんだ?このきらきらした光は?明るい光がどんどん近づいて来るぞ!影の中に光るキミは、何者だ!」
「ひょぉぉう!私は、夜を突いてトレセン学園に参上したのです!眩すぎるあなた様こそ何者でしょうかぁ!」
「この場所に、アグネスデジタルが姿を見せるとは!何を始める気だ!」
「ひょわぁあ!尊きテイエムオペラオーよ!ファフナーの住みかを見張っておいででしたかぁ!」
最近は学園内で増しつつあるオペラオーとのやり取りで、このアグネスデジタルというウマ娘も相応に博識であることは鷹木も知らされつつあった。
相変わらず、二名が口走っているのが何のオペラから引用されたセリフであるか彼には見当もつかなかったが。
「折角の機会だ、存分にボクの美しさを目に焼き付けておいてくれ!暫く、ボクはトレセン学園に姿を見せられないからね!」
「そっ、そそそ、それは、いったい何故ぇ……!?」
「おぉ、愛おしきデジタルよ!ボクは夏の間、雲の高みの彼方へと、光の精の一族のもとへと赴かねばならぬ!」
「ひょあああ!?い、いったい、どこに行ってしまわれるというのですかぁ!?」
「夏合宿に向かうだけだろ、どんだけ大袈裟な言い方になってんだ。」
昨年度はアドマイヤベガとの縁あったおかげで、トレセン学園入学一年目にもかかわらず、結城トレーナーの個人トレーニング施設における夏合宿を経験できたオペラオーたち。
しかし、通常ならば夏合宿に参加できるのは入学二年目から。二年目以降の先輩たちと夏の間会えなくなることが確定しているデジタルは、その事実を改めて突きつけられ狼狽の極みにあった。
今初めて知ったわけではあるまいが、オペラオーの目の前で大袈裟に取り乱して見せる彼女の振る舞いには演技めいたところもあった。それに呼応するかのように、オペラオーもいよいよ大袈裟な身振りとともにデジタルと共鳴している。
「ひぇぇええぇええ!?ウマ娘の先輩方を拝めないとなっては、私は餓えて渇いて乾涸びてしまいますよぉ!この夏、天寿を全うせよとは神の思し召しか……!」
「心配は要らないさ!きっと美しいものを補う必要があると思ってね、ボクを撮影する権利を君にはプレゼントしよう!好きなだけ拝むと良いさ!はーっはっはっは!」
キングヘイローからの影響も受けているのか、彼女に似たような言葉を口にするオペラオー。
自身の本番レースに向けての準備が立て続けであった今年度に入ってからというもの、思い返せばキングヘイローと交流する機会はなかった。無論、黄金世代のウマ娘たちはそうそう自由な時間など取れなかったが。
しかし、二年次生以降が参加する夏合宿に向かえば、彼女らと顔を合わせる機会もある。
「な、ななな、なんとぉ!で、ではぁ、お言葉に甘えまして、こちらからポージングの方をリクエストさせていただいてもよろしいでしょうかぁ!」
「いいとも!ボクの優美な姿を、心ゆくまで堪能したまえ!」
アグネスデジタルは取り出したスマホから凄まじい勢いのシャッター連射音を響かせながら、指定されもせず自ら次々にポージングを決めていくオペラオーにレンズを向けている。
撮影データと比例して血圧が上がっていったのだろうデジタルが、やがて鼻血を噴出して倒れてしまったのを保健室に運び込み、オペラオーはトレーニングの時には滅多に拭かない汗を拭って鷹木に告げた。
「いやはや、ボクの美しさを熱心に讃えてくれるのは嬉しいが、彼女と喋っていると疲れてしまうね。」
「お前が言うか。」
そんなトレセン学園に注ぐ夏の日差しも本格的にギラつき始める頃、夏合宿は開始された。
前年度結城トレーナーから招かれた個人トレーニング施設ではなく、学園が所有する合同合宿所。他のウマ娘やトレーナーも数多く到着する混雑の中で、合宿所を見上げた鷹木は、建物に随分と古臭い印象を受けた。
二年次生以上のウマ娘の殆どを収容し、ばかりか彼女らの担当を行うトレーナー達にもひと夏の間寝泊まり出来る部屋を提供する合宿施設。トレセン学園そのものに負けず劣らず広大な敷地は、小さな町と同等の規模を誇っている。
やはりと言うか、鷹木は緊張し続けていた。右を見ても、左を見ても、自分より若手のトレーナーはほぼ居ない。時折、「皐月賞を制し日本ダービーにも入着したウマ娘のトレーナー」として声を掛けられるも、相手の眼の内に純粋な称賛の色を読み取れることは少なかった。
それは、単に鷹木が気に病み過ぎているだけだったかもしれないが。
オペラオーはと言えば、黄金世代の先輩たちと出会えるチャンスを前に、随分と気分が浮き立っていたようであった。尤も、今を時めく黄金世代の中心的存在たちは、その他大勢のウマ娘集団と一緒になって行動してはいなかった。
「あぁ、あぁ!楽しみで仕方がないよ!この合同合宿には、スペシャルウィーク先輩も、グラスワンダー先輩も参加しているんだろう!一刻も早くお会いしたい!どうか振り向いてくれ!このボクに!」
「そう簡単に会えるわけがないでしょう。」
「学年も違うし、それにスペ先輩たちは特別な扱いだからね。」
興奮のあまり今にも叫び出しそうな、いや既にほぼ叫んでいるテイエムオペラオーに対し、冷たく一言を投げつけるアドマイヤベガ、そしてゆったりと穏やかな声で返すナリタトップロード。
メイショウドトウは少し離れた水道の蛇口で、先ほど思い切りすっ転んだ際に足に付いた泥を洗い流している。
彼女らのやり取りを傍に聞きながら、二年次生向けの練習場の一角に集まったトレーナーたちは、夏合宿期間中の打ち合わせを行っていた。相も変わらず、バカンスにでも来ているつもりなのかと突っ込みたくなるほどにラフな格好の片桐が切り出す。
「ま、ウチのドトウは皆様のお力を借りるつもりで来ておりますからね。どうぞ容赦なく、全力の走りに付き合わせてやってください。」
「えぇ、お互いが力となり、切磋琢磨できるに越したことはありません。」
担当のトップロード同様に、柔らかな口調の桂崎。
東京優駿のレースを見て以降、この桂崎というトレーナーに対しても鷹木は警戒を抱くようになっていた。いつもいつもオペラオーとの並走練習では逃げ寄りの走りを披露していたトップロードに、本番では全く異なる追い込みの走法を実行させたのである。
今はいつも通りに柔和な顔立ちを晒し合同練習に参加しているこの男、なかなかのタヌキであろうと鷹木は見ていたのだった。
「はい、ですね。」
一方の鷹木はといえば、たったそれだけの相槌を返したに過ぎなかった。
自分たちのウマ娘について詳細を語り、ライバルに手の内を明かすわけにはいかぬトレーナー同士のやり取りとはいえ、これはあまりにも大人同士の応答として心許ない。しかし、自らが弁の立つほうではないことを自覚している鷹木は、それ以上下手に喋らずにいることを選んだ。
鷹木が言葉を継ぐのを待つことなく片桐が即座に口を開いたため、沈黙を埋める努力は無用であった。
「で、結城トレーナーは?アドマイヤベガさんは、ここに居られますけど。」
片桐から向けられる視線から微妙に目を逸らしつつ、同期のウマ娘たちに囲まれたアドマイヤベガが返答する。彼女も、この一癖あるトレーナーが少々苦手なようであった。
「結城トレーナーは来ない、他のチームのトレーナーさんたちともお話があるって。今日は私だけ。」
「ほほう、流石はレジェンドトレーナー様だ。何かとお忙しいようですな。」
片桐が軽い調子で返したように、その件はトレーナー達にとっても何ら意外な事では無かった。
今、この合宿施設にはトレセン学園の全チーム、そしてウマ娘を担当するトレーナーの殆どが集結しているのだ。アドマイヤベガの担当である以前にURA界のレジェンドたる結城トレーナーに対し、他のトレーナー達がどうにかして接する機会を得ようとすることは想像に難くない。
オペラオーは、そのような状況を慮るつもりもなかったようだが。
「結城トレーナーと共に居れば、黄金世代の先輩方と会うこともあるだろう!彼はいつ、ボクたちの練習場に来るんだい、アヤベさん!」
「少なくとも、今日は来ないって言ってるでしょ。」
「次に会ったら、ぜひボクらを黄金世代の面々と会わせるように伝えておいてくれたまえ!何なら、練習競走も申し込みたい!」
「は、はわわわあ、黄金世代の皆さんと、練習だなんて、緊張で卒倒しちゃいますぅ……」
泥を洗い流し終えて近づいてきたメイショウドトウは、オペラオーが言い放った途方もない提案を唐突にぶつけられ、顔色を変えている。呆れた表情を隠しもしないアドマイヤベガは、そんな彼女をなだめるような口調で返した。
「心配することじゃない、そうそう簡単に予定の調整が利く相手じゃないんだから。」
「ま、そりゃあそうでしょうね。」
「では、さっそく始めましょうか皆さん。ウォーミングアップから。」
アドマイヤベガの発言をあっさりと肯じて、片桐と桂崎も各々の担当ウマ娘用のトレーニングデータを記録する準備を開始する。ウマ娘たちも、促されるままに走る前のストレッチを始めた。
鷹木も他のトレーナー同様に、ほぼ無言のままタブレットの画面に指を走らせ始めたところであった。
「お、おぉ!この眼、とこしえに見開かれ!この息吹、晴れやかな風のように!」
「ストレッチに集中しろ、合宿トレーニング開始早々に気を散らすんじゃない。」
オペラオーがいつも通り、あらぬことを叫び始めたのだと勘違いした鷹木はそう軽く窘めたのだが、彼女が継いだ言葉には思わず顔を上げざるを得なかった。
「スペシャルウィークが手を振っている……このボクに!」
「え?」
「わ、あ、あ、わ、ほ、本当ですぅ、す、スペシャルウィークさんですぅ……!」
「マジで……?」
「あぁ……」
ドトウやアドマイヤベガ、トップロードも息をのんで視線を向ける先には、確かにあのスペシャルウィークが顔を覗かせていた。
ウマ娘の大舞台、その姿を画面越しに見る時と、今目の前に現れた実物の彼女は随分と印象が違っていた。レース本番直前と雰囲気が異なるのは、当然のことだったろうが。
練習場の隅からこちらを覗き込むスペシャルウィークは、ただ通りがかったついでのようにも見えた。が、オペラオーが無駄に良く通る声でその存在を指摘したのを契機に、こちらへスタスタと寄って来たのだ。
そこには、黄金世代を背負って立つウマ娘の中心的存在としての気負いなど一切無い、余りにもあっさりとした接近のみがあった。
「あはは、見つかっちゃいました?どーも、スペシャルウィークです!いやぁ、ちょっと覗くだけのつもりだったんですけどねー。」
「こ、これは、これは……」
いつも饒舌な片桐ですら、現世代最強の怪物を前にして、そう返すのがやっとのことであった。鷹木が一語も発せぬ状況にあったのは、言うまでもない。
が、一拍置きはしたものの、彼女へと一気に歩み寄り、迸る思いの丈を言葉に紡いで垂れ流し始めたのは、やはりオペラオーである。
「笑いながら現れる歓びのウマ娘、スペシャルウィークがここに居て、微笑んでいる!讃えあれ!ボクたちを照らす太陽!あぁ、どんなにか会いたかったことか!物凄い洪水が押し寄せて来るんだ……だから全身全霊で、その逆巻く波を見つめるしかない!」
「あ、あはは、あなたがテイエムオペラオーくん?うわさ通り、面白い喋り方だね……。」
オペラオーの芝居がかったセリフ回しについては、見事に即応してみせた例がキングヘイローにある。
ゆえにこそ、たった今賛美の言葉をまくしたてるオペラオーに詰め寄られ、たじたじと後ずさっているスペシャルウィークの姿は、その比類なき戦績にいよいよ似合わぬ年相応の振る舞いとして映ったのであった。