夏合宿の初日に体験した、黄金世代の首魁ウマ娘スペシャルウィークとの遭遇が、あまりにも稀少な偶然であったことは確かであった。
その後の合宿における数日間、スペシャルウィークはもちろんのこと、他の黄金世代の面々と直接会うことなど無かったばかりか、合宿施設内のどこに居たという噂すら流れてこない。
「ま、サイレンススズカの例もありますからな。」
毎度、いつもの練習場にてトレーニングを開始するたび、今日も黄金世代の先輩が覗きに来ないかとキョロキョロしているオペラオーに集中するよう鷹木が窘める傍らで、片桐がのんびりと告げる。
昨年の天皇賞、レース中に突然の粉砕骨折を発症したサイレンススズカ。あれから八か月以上が経過しているが、彼女が第一線に復帰する見込みは未だに立っていない。
怪我の治療が済むことと、怪物級のウマ娘たちがしのぎを削る現場へ戻ることは全く同じではないのだ。そも、粉砕骨折ほどの重症ともなれば、治療自体が容易いことではない。
黄金世代の面々自身の意思はどうあれ、トレセン学園側が彼女らの扱いに細心の注意を払っていることは間違いなかった。彼女らは、現在のトレセン学園における至宝と呼んでも過言ではないのだ。
そして、彼女らを担当できるようなトレーナーについても同様に。
鷹木や片桐とは異なり、格段に担当ウマ娘の面倒を見る手間の薄い桂崎は練習メニューを確認しながらアドマイヤベガに尋ねる。
「そういえば、本日は結城トレーナーのご予定は?あの方もレジェンド、我々ではそう簡単にお目にはかかれないでしょうけれど。」
「今日なら、来るかもしれない。他の予定がいきなり入らなければ、だけれどね。」
「結城さんともなれば、合宿所内をただ歩いているだけでもあちこちから声が掛かるでしょうからなぁ。」
アドマイヤベガを担当している結城トレーナーが合同練習の場に姿を見せぬまま、合宿の最初の一週間が過ぎようとしていた。トレセン学園トレーナーの中でも一番の重鎮は、あちこちのチーム担当トレーナーからアドバイスを求められ、あるいは練習場所に呼ばれているのだろう。
担当トレーナー無しでの練習が続いたアドマイヤベガであったが、テイエムオペラオー、ナリタトップロード、メイショウドトウといった勝手相知ったる面々との合同練習は彼女にとって何らの支障なくこなせるものだったようだ。
並走練習のみならずウェイトを使った筋力トレーニング、スタミナを鍛える砂浜での走り込みなど、あらゆる練習の場面で彼女は同期のウマ娘たちの中でも飛びぬけた才覚の持ち主である様を披露していた。
故に、以前も結城トレーナー自身が言っていた通り、アドマイヤベガに関しては必要以上の干渉なく、彼女自らがやりたいようにトレーニングをさせる方針なのだろうと鷹木も考えていた。
そんな結城トレーナーは、ある日の夕刻近く、唐突に姿を現した。
夏の夕陽を浴びて長く伸びる影でグラウンドを撫でながら、ウマ娘たちがその日最後の走り込みを行っていた時のことである。鷹木たちが気付くよりずっと前から彼はその場の様子を見つめていたのだろう。
実際に鷹木達が彼の存在に気付くのは、結城トレーナーのボソリとつぶやいた言葉が背後から投げかけられた時のことであった。
「アドマイヤベガ、キレがないね。」
あまりに気配なく、予兆なく投げかけられたレジェンドトレーナーの声に、鷹木も片桐も、常より大して取り乱す様を見せない桂崎も小さく跳びあがった。
「あ、あぁ、これは結城トレーナー。いやぁ、今日も丸一日しっかりトレーニングしていてもらったので、あの子たちも多少の疲れはあるでしょう。もちろん、過剰な負荷がかからぬよう、我々もしっかり管理しておりますがね……」
驚きはしたものの、如才なく返答する片桐。だが、結城トレーナーはその言葉にも首を横に振った。
「それを加味しても、だよ。アドマイヤベガならば、まだまだ本気を出せる余力があるはずだ。」
鷹木は、ウマ娘たちの一団に目を向ける。たった今、彼女らは練習用コースの最後の直線に入ったところである。
アドマイヤベガは通常時と遜色のないスパートを披露してはいたが、それを開始するのは他の面々と同様に直線に入ってからであった。全力で走る際、いつも実践している第3コーナーからの加速ではない。
その点を踏まえれば、確かにアドマイヤベガは全力では無かった。鷹木も、片桐ばかりに結城トレーナーの相手をさせまいと口を挟む。
「以前、直線に入ってからの走りを実行してナリタトップロードに敗れたこともありますし……あらためて、あの走り方がタイムにどう影響するのかを確かめたいのでは?」
「あの件については、アドマイヤベガ自身が不適切な走法だったと決定づけた。彼女は、無駄なことを練習時間中に試す性質のウマ娘ではないよ。」
結城トレーナーからはあっさりと仮定を退けられ、鷹木はおとなしく口を噤む。
片桐と並んで大人しくなってしまった鷹木の隣で、ポツリと呟いたのは桂崎であった。
「体力面に問題が無いのなら、精神的な問題か何か……」
「だろうね。」
いつも目立たぬ桂崎トレーナーであったが、少なくとも若手トレーナー達よりはウマ娘を見る目を有していたのだった。が、それでもなおURAの生ける伝説、結城トレーナーに及ぶほどではない。
「では、彼女と話せる場を設けますか?あるいは、合宿に同行している校医を受診させるか……」
「喋りたがらないだろう、アドマイヤベガは。無理に喋らせたところで、一時的な帰結にしか至らない。」
桂崎からの提案も、すげなく却下する結城トレーナー。
トレーナー達の視線が向く先で、練習用コースにてゴールし終えたウマ娘たちがこちらに向かってくる。相も変わらず騒がしいオペラオーを避けるようにアドマイヤベガは距離を取っていたが、それでも仲の良いトップロードに話しかけられれば口を開く回数は以前より増していた。
「あの子が胸中を語るのならば、あぁいった場面においてのみだろう。決して、我々トレーナーが聞き出そうとするものではないさ。」
すなわち、アドマイヤベガが精神面で抱えている何かを吐露する相手として、最も可能性が高いのはナリタトップロードであるはずだった。
その相手に、寄りにもよって彼女が平生より最も避けているテイエムオペラオーを選ぶとは鷹木も予想だにしなかった。当のテイエムオペラオー自身も同じく、そして珍しく驚きを隠していなかった。
「どうして、このボクを相談相手に選んでくれたんだい?いや、むろん、覇王としては、いかなる形であれ好敵手のお相手を務めるのは吝かではないが!」
そんな会話は、一日の練習が全て終わり、他のウマ娘たちが食事時間に備えて合宿所へ帰って行った後の砂浜で交わされていた。
トレーニングの掛け声も賑やかなウマ娘たちの声も遠くなり、寄せては返す潮騒が薄暮の砂の上を渡っていく。鷹木は、オペラオーとアドマイヤベガの邪魔にならぬ程度の距離でじっと聞いていた。
「当たり前だけど、トップロードに相談するつもりだった。でも、あの子に相手してもらったら、全部受け止めてもらいたくなっちゃいそうだから。」
「なるほど!敢えてキミが敵意を抱くこのボクを相手取り、自らを律する心を失うまいというのだね!流石はアヤベさん、天晴な精神だよ!よかろう!君の相談相手になろう!」
「後は、アンタがその声のボリュームを下げてくれたら完璧なんだけれど。」
相手との距離感を全く考慮しないオペラオーの声量から耳を背けながら、アドマイヤベガは苦言を呈する。
日が暮れていく海岸線に大声は似つかわしからぬ趣向だと判断したのか、以降はさしものオペラオーも声を低めた。そんな彼女を前に、アドマイヤベガはぽつりぽつりと話し始める。
まるで、見えない傷を負った場所を探る指先のように、一語一語、慎重に。
「私、こないだの日本ダービーで勝ったでしょ。」
「あぁ、もちろん忘れるはずも無いさ。次に勝たせてもらうのはこのボクだけれどね!」
「そういう話をしたいんじゃないの、今は。で……そのことなんだけど……」
アドマイヤベガは、暫く次の言葉を出せずにいる。喋りづらそうにしている相手を急かすことが美しくないと判断されるのか、その間オペラオーはいつも通り優美なステップの練習をしながら空を仰いでいた。
東の空は既に群青に染まりつつあったが、一番星が出るには未だ早い時刻である。
「変なこと、言っちゃうかもだけど……私、自分が日本ダービーで勝つこと、知ってたの。」
「なんと!凄まじい自信だね!このボクでも抱けるかどうか……改めて見直したよ、アヤベさん!」
「いいから、ちゃんと聞いて。そういうのじゃなくって、私が日本ダービーで勝つ、って書いてある新聞記事を見たの。去年、夏の合宿で。」
「へっ?」
オペラオーが演技じみた響きのない、素から意表を突かれた声を出すのも滅多にないことであった。離れて聞いている鷹木はもちろん、真っ白な脳内が空気で満たされたようになって思考停止していたが。
「結城トレーナーの知り合いの人が経営する食堂まで、皆で一緒に向かったの、覚えてる?」
「あ……あぁ、忘れてはいないさ。ドトウが途中で野生のタヌキを助けたり、色々と思わぬ寄り道が楽しかったね!」
「あの帰り、私がひとりで先に帰ろうとしたのも……」
「そうだったね、アヤベさんは一足先に出たんだ。結局、戻ってきてボクたちと共に合宿所へ帰ったが。」
「その時の話なんだけれど……帰る道の途中に、掲示板みたいなのが立ってたの……古びた、町内会の案内みたいなのが貼ってあるような……」
話が進むにつれ、アドマイヤベガの口調は明らかに重くなっていく。
その話の向かう先に、彼女にとって重大な何かが潜んでいることは明らかだった。空を染める夕暮れの色は西へと退いていき、宵闇は急速にその濃さを増していく。
「そこに、一枚の新聞記事の切り抜き……貼ってあって……その中に……」
「アヤベさんがいずれ日本ダービーで勝つ、と書いてあったのかい?」
「うん……。」
「素晴らしい話じゃないか!確かに不思議な体験だったろうけれど、勝利することが将来に約束されるのなら……」
「ちゃんと聞いて。」
アドマイヤベガの声は静かであったが、しかし重く、いくばくかの悲痛も混じっていた。
「書いてあったのは、私が勝つことだけじゃなくって……その後、私が、怪我で引退するって……」
「え……。」
オペラオーの素の声を立て続けに二度聞くことが出来るなど、殆どあり得ない状況である。が、そんなことを気に留めている場合では無かった。
水平線の向こうに隠れた太陽の残光いよいよ暗く、俯くアドマイヤベガの表情は薄闇のベールに包まれよく見えない。
「引退だけじゃない……その、その記事は、私が、私が……」
「もういい。言わなくていいよ、アヤベさん。」
オペラオーはアドマイヤベガの前に跪き、彼女の顔を見上げていた。
俯ききったアドマイヤベガと、目を合わせているのだ。アドマイヤベガは、口を閉じている。先ほど何を言いかけたのかは分からないが、傍から聞いていても彼女が胸の内に抱えているものの重さだけは、その口調から推し量れるほどであった。
離れた位置に立っている鷹木からは、両者の表情を確認することは出来ない。
みるみる暗くなっていく空を背景に、影絵のごとく向かい合ったウマ娘たちのシルエットが見えるばかり。
「アヤベさん。ボクには願うことしか出来ない。いつまでも、強敵たちと共に、走り続けていたいと。」
「……。」
「一体何者が、アヤベさんにそんな予言をしたのかは分からない。けれど、少なくとも、アヤベさんが走り続けることを願う、このボクが居る事だけは確かだ。」
実に、自身の存在感に絶対的な自信を有するオペラオーらしい励まし方であった。
その無駄に目立ちたがりな振る舞いを普段からアドマイヤベガに疎ましがられ、避けられているにも関わらず、オペラオーが共に走ることを望む事実が何よりもの励ましになる、と信じて疑っていないのだ。
「だから、安心したまえ!アヤベさん、キミは覇王とともに走るべき運命なんだよ!」
しばらく俯いたまま無言を続けているアドマイヤベガ。彼女からの反応を待つのが鷹木であれば、静寂に耐えきれず途中でこの場から逃げ出してしまっていたであろう。
が、テイエムオペラオーは、何らの不安も、微塵の疑いも持たず、力強い目線をアドマイヤベガの下から送り続けていた。アドマイヤベガの顔は完全に下に向ききっているため、オペラオーは彼女の胸元にまで顔を寄せ、見上げるような恰好である。
傍から見ていれば、甚だ滑稽な状況であった。
アドマイヤベガの肩が小さく震え始めたのに鷹木が気付いたのは、間もなくのことであった。よもや、余りにも理解力のない相談相手に失望し、悩みの種を自らで抱え込む他にないと悟って泣き始めてしまったのではなかろうか。
そんな鷹木の懸念は、即座に笑い声が聞こえてきたことでアッサリと払拭された。聞き慣れない声だと思えば、それはアドマイヤベガが笑っていたせいであろう。
「く……ふふ……本当に、バカな奴に相談しちゃって……私ったら。」
「お、おぉ!?アヤベさん、あぁ、キミは、そんなに素敵な笑顔を……!何という美しさだ、このボクでも負けてしまいそうなほどに!」
「さっきの言葉、確かに覚えたからね。約束よ、私が駆け続ける限り、あなたも共に来ると。」
ようやく顔を上げたアドマイヤベガの表情は、もはや夜の帳が降りつつあった暗がりの中で判別出来るはずも無かった。世にも珍しい、笑っているアドマイヤベガの顔を、鷹木は堪能できずじまいであった。
その稀少な瞬間は、既に終了してしまっていたらしいが。
何の根拠もないオペラオーの言葉ながら、不覚にも勇気づけられてしまった様を、アドマイヤベガはおくびにも出したくないのであった。
「もちろん、もちろんだとも!それよりもアヤベさん、もう一度笑ってくれないか?先ほどの輝きを、いま一度!」
「誰かさんじゃあるまいし、そうヘラヘラと笑わないわよ。じゃ、私はもう戻るから。」
「待っておくれよ、アヤベさん!君の笑顔を、改めてこの眼に焼き付けたいんだ!」
「しつこい。あぁもう、顔をいちいち覗き込んでこないで、鬱陶しいわね。」
二名のウマ娘の騒がしいやり取りは、そのまますっかり夜を迎えていた合宿所の方へと去って行った。
改めてアドマイヤベガの語った内容を反芻しても、鷹木はそれを真実だと思うことが出来なかった。まさか、未来を予言する新聞記事があるなど、そんな都市伝説のようなことなど実際にあるはずがない。
彼がそう考えなおすことが出来たのは、それを喋っていた時のアドマイヤベガの口調があまりに真に迫っていた様が、記憶から薄れつつあったためであるが。
鷹木も一人、夜風に散らされる足音を立てながら合宿所の部屋へと戻っていく。
薄暮も去りつつある空には、夏の一等星ベガが既に輝いていた。