連日、ギッチリと詰め込まれたトレーニングのスケジュール、合宿中の他チームとの練習競走実施に向けた調整なども重なり、今年の夏合宿は嵐のように過ぎ去ったように鷹木は感じていた。
無論、夏合宿が終わり、新学期が開始されたところで、ウマ娘たちがトレーニングに追われる日々を続けることには変わりなかったのだが。
「もう次のレースが決まったのかい?早いね!ドトウ。」
「はいぃ、片桐さんがあっちこっちのレース場に赴いて、私の出走権をどんどん貰ってくるんですぅ……。」
ある日の並走練習後、クールダウンのストレッチを並んで行いながら、オペラオーはドトウからの報告に目を丸くしていた。彼女のことだから、そのリアクションには多分に演技が混じっていたろうが。
とはいえ実際に驚いていたとしても無理はない。メイショウドトウはつい先週、札幌レース場にて行われたポプラステークスに出走してきたばかりだったのだ。レース模様は、またしても現地にて担当トレーナーの片桐が動画撮影して送ってきた。
〈さぁ最終コーナーを回りまして、マルタカトップガンが先頭!オータムリーフ、ブルートレジャーが食らいつく、その後ろにメイショウドトウ!〉
そのレースにおいて、メイショウドトウはやはり練習と同様、忠実に差しの作戦を再現していた。中盤までは後方でスタミナを温存、最終コーナーを回る辺りから加速して前を目指し始めたのだ。
が、作戦通りに走れることと、勝利を得ることは別である。
〈ウチを突いて上がって来たのはワルツダンサー!大外からプリンセススカーラが来たぞ!オータムリーフ苦しいけれど粘っている!並んだ、プリンセススカーラ!プリンセススカーラ!今、一着でゴールイン!〉
結局、メイショウドトウの名はアナウンスにて僅かに触れられるのみで終わった。
八着という結果に終わったメイショウドトウは、肩を落としてトレセン学園へと戻ってくる。とはいえ、その様子はいつものオドオドした態度と大差ないようにも見えた。
常に抱く自信に僅かの瑕疵すら入れぬオペラオーとは対照的に、ドトウの場合は落ち込んだ表情こそ見せるものの易々とはへこたれぬ強靭な精神が武器である。そう鷹木が気付いたのは、ずっと後になってからのことであったが。
曇った表情を浮かべることの多い彼女の顔に、涙が流れたことはたったの一度もない。
現に、つい今しがた行ったオペラオーとの並走練習においても、オペラオーにゴールの先を越されたドトウはハッキリと悔しそうな表情を浮かべたのである。勝てる自信のないウマ娘ならば、決して浮かべることのないであろう表情だった。
「しかし、大丈夫なのか?クラシック級のウマ娘は、少なくとも一か月以上は本番と本番の間を空けなければ身体的な負担も無視できなくなるだろう。」
オペラオーとドトウがクールダウンのストレッチを終えようとしている傍らから、鷹木はトレーナーとしての見解を投げかける。
「か、片桐さんに、私の状態をチェックしていただいてますから……実は、次の大倉山特別に出走したあと、その次の週には道新スポーツ賞にも出る予定なんですぅ。」
「な、なんと!一か月に三つものレースに出走するのかい!凄いじゃないか、ドトウ!」
オペラオーからは純粋に賛嘆の声が上がったが、鷹木は思わず眉を顰めざるを得なかった。
正気の沙汰とは思えない、というのが何の誇張も無く彼の抱いた率直な感想であった。本番レースにおいては練習時とは異なる緊張感、そして通常の生活におけるよりも遥かに多大な負荷をウマ娘の脚に掛けることとなる。
ゆえに、ウマ娘たちはレースに出走するごと、事故の可能性を高めていっているのだ。彼女らがいかに勝つかを考えるのみならず、故障や不調、怪我に陥らぬよう細心の注意を払い続けることも、トレーナーに課せられた重大な責務である。
(何を考えてるんだ、片桐の奴は。)
鷹木はすんでのところで、その言葉を実際に口から出さず飲み込んでいた。一か月に三つのレースに出走させるなど、ウマ娘の脚に責任を持つべきトレーナーの判断として適切であるとはとても思えない。
こんな無茶なスケジュールを組んだことが原因で、ドトウが不意の怪我に見舞われたら、どうするつもりなのか。どうすることもできないのが、現実だろう……。
そのようなことを実際に鷹木は口に出したわけでは無かったが、表情には十分に表れていたらしい。
「はーっはっはっは!おやおや、ボクの担当トレーナーは、ドトウの身体を心配しているらしいね!」
「は、はわわわぁ、わ、私なんかを心配していただいてるだなんてぇ……」
「しかし、ボクの目の前で、ライバルウマ娘を気遣うとは!この覇王を嫉妬させようというのかい?」
「そんなに顔に出てたか?いや、俺はあくまで、いちトレーナーとして、懸念事項を想定していただけであってだな……。」
この場に片桐が居たならば、彼の腕を引っ張ってウマ娘たちに声の届かない位置まで連れていき、真意を問い質していたところであったが、それは叶わなかった。
当の片桐は、立て続けに出走が決定されたレースに向け、そのスケジュール調整や出走登録用の書類準備などに追われていたのである。ドトウをオペラオーやトップロードとの合同練習に預ける日が多くなっているのも、そのせいであった。
とはいえ、メイショウドトウは自らを担当するトレーナーについて、相応の信頼を寄せているようであった。
「片桐さんが大丈夫と言ったので、きっと大丈夫ですぅ。私も、そこまで無理をしてる感じしませんからぁ……。」
「体感だけに頼るのは危険だぞ、あのサイレンススズカだって、レース当日も万全の態勢だと言われていたわけだし。」
このドトウというウマ娘が、あの片桐という胡散臭いトレーナーに言いくるめられているかのように感じていた鷹木は食い下がる。
が、彼の言葉を遮ったのはオペラオーであった。
「鷹木トレーナー。ドトウの担当トレーナーの判断を尊重すべきだろう?」
いつもいつも頓狂な言葉を口走っては高笑いしているオペラオーから、本当にごく稀に向けられる冷静な指摘は、鷹木の口を閉じさせるに十分な圧を有していた。こういった時ばかりは、彼女が自称している『覇王』なる肩書きも似つかわしく感じられた。
それに何よりも、滅多なことでは呼ばれない自分の名前、トレーナーという立場を口にされることに、鷹木は未だ慣れていなかった。
「ドトウ!健闘を祈るよ!北の大地から、朗報がもたらされることを期待する!」
「あ、あ、ありがとうございますぅぅ、精一杯走ってきますぅ……!」
押し黙ってしまった鷹木の目の前で、二名のウマ娘が向かい合って激励の言葉を贈り、贈られている。
確かに、この光景の中には理屈臭いトレーナーの姿があるべきでは無かった。
北の大地と言えば、人々の連想が避けて通れぬ所に北海道出身ウマ娘、スペシャルウィークの名が挙がる。少なくとも、今の鷹木の脳内には、彼女の存在が大きく居座っていた。
ドトウが3レースへ立て続けに出走する九月が過ぎれば、十月の重賞レース、京都大賞典が迫る。昨年は黄金世代の一角、セイウンスカイが見事な勝利をおさめたレースである。
十一月の菊花賞にオペラオーを出すことは視野に入れていたが、その前に鷹木は京都大賞典への出走も準備していた。今年に入ってからのオペラオーは好成績を残しているとはいえ、菊花賞は易々と出られるレースではない。
確実に出走権を得るため、またGⅠに次ぐ大舞台でのオペラオーの走りを今一度確認するため、京都大賞典は重要な前哨戦である。
このレースの出走枠を無事に得られた一報が、鷹木の心に安堵をもたらしたのはほんの数秒のことであった。URAの発表した出走ウマ娘リストに目を通していた鷹木は、その名を見つけた瞬間、心臓が止まったのではなかろうか。
少なくとも、呼吸は確実に忘れていた。
「ウソだろ……!?」
スペシャルウィーク。
担当トレーナー、結城尊。
名前がよく似た別のウマ娘ではないか、と目元を擦りながら幾度見直しても、リストの中にその名は確かに現れた。
その可能性があることは、むろん事前に十分予測できた。皐月賞や東京優駿は、トレセン学園二年次生に出走権が限定されている。ゆえに、学年が一つ上の黄金世代と顔を合わせることは無かったのだ。
が、京都大賞典は、そうではない。むしろ、今を時めく黄金世代のウマ娘であればこそ、参戦してくる可能性が充分に高い大舞台である。
「だからって……よりによって、スペシャルウィーク……」
「スペシャルウィーク先輩だって!?おぉ、その名、ボクの聞き違いではあるまいね!」
出走者リストを手に鷹木が天井を仰ぎながら口走ったその名を、トレーニングルームへ入って来たオペラオーは耳聡く聞きつけていた。
いずれ彼女も知ることになるこの衝撃的なニュースを、自らの口で説明しきる気力が残されていなかった鷹木は、出走者リストをオペラオーの手が奪い取るに任せ、そのまま椅子の背もたれに体重を任せた。
あの怪物スペシャルウィークが、オペラオーと同じレースに出走する。
すっかり精神的に打ちのめされてしまった鷹木が魂の抜け殻のようにポカンと口を開いて脱力している傍らで、自称覇王のテイエムオペラオーは大いに興奮し、ひとり熱狂の渦中にあった。
「スペシャルウィーク!スペシャルウィーク先輩の名が、ここにある!あぁ、なんて素敵な炎だ!素晴らしい輝きだ!今は遮るものも無く、ボクの行く手を照らす!さあ、炎を浴びに行こう!あぁ、ボクの想い、我が身に結え付けたまま、閉じ込めてはおけないよ!並ぶものなき栄光だ!はっはっは、はーっはっはっは!はあぁぁっはっはっはぁ!!」
鷹木が呆然と見つめている前で、興奮の留まるところを知らぬオペラオーは、いよいよ彼女の中から歓喜の言葉と高笑いを無尽蔵に迸らせている。
あまりに興奮しすぎて精神に異常をきたしたのではないか、と鷹木は心配しかけ、普段のオペラオーと現状にはそこまで差が無いことを思い出して小さく溜息を吐いた。
「何をグッタリしているんだい?キミも、このボクがスペシャルウィーク先輩と競うことに興奮を覚えたのは分かるが、今力尽きてもらっては困る!さぁ、輝かしきターフに勝利を刻むため、今日のトレーニングを開始しよう!」
「か、勝つ気でいるんだな……。」
「当然じゃないか!スペシャルウィーク先輩に勝利して掴む栄光は、他とは比べようも無く輝かしきものとなる!このボクが、いよいよもって世紀末覇王たる所以を、世に遍く知らしめるのさ!」
いかにオペラオーが自信満々であろうとも、黄金世代の実力が衰えるわけではないし、オペラオーが急成長を遂げるわけでもない。
が、彼女の力強い言葉が無ければ、鷹木は再びその腰を椅子から上げるだけの気力は湧いてこなかったであろう。
「捕らぬ狸の皮算用、って知ってるか?」
「知らないね!なぜなら、ありとあらゆる栄華はこのボクが既に獲ったも同然だからさ!それに相手は狸ではない、獅子か、あるいは龍としたまえ!」
「京都大賞典で、お前が食われないように祈ってるよ。」