十月の京都レース場は見事な晴天に恵まれていた。
かの黄金世代の怪物スペシャルウィークが出走する、そして黄金の次代の新星テイエムオペラオーとも激突するとの前評判を受け、当然の如くレース場の客席は超満員であった。
誰か一人でも、自分のことを励ましてくれる存在が近くにいてほしい、というのが鷹木の率直な心境であった。
出走する当のオペラオーは、いつも通りに意気揚々とパドックへ向かっていき、本来は彼女を励ます立場にあるはずのトレーナーが一人寂しく取り残されたのである。自分の担当ウマ娘が現世代最強の怪物と対峙する本番の開始まで、鷹木は孤独の中に震えていた。
今までもそれは同様であったが、オペラオーの級友たちにはわざわざ応援に来るだけの余裕は無い。
メイショウドトウは来週の嵯峨野特別に、アドマイヤベガとナリタトップロードはその翌日の京都新聞杯に出走することが決まっている。皆、スペシャルウィークと対決できる機会を得たオペラオーを羨ましがりはしたが、かといって自身のトレーニング時間を削るわけにもいかない。
おそらく今ごろはトレセン学園内の練習場から、画面越しにこのレースを見てくれているのだろう。
〈目指すは天皇賞、ジャパンカップ、そして有馬記念!大舞台の勝敗を占う京都大賞典、今年も名だたるウマ娘たちが集まりました!〉
アナウンスの開始とともに、一段と大きな歓声が沸き起こる。わざわざアナウンサーに告げられずとも、観客たちが待ち望むウマ娘の名は殆ど決まっているようなものであった。
〈3番人気を紹介いたしましょう、テイエムオペラオーです。今年に入って頭角を現しましたこのウマ娘、皐月賞一着、東京優駿三着という好成績を残しています。今回の京都大賞典では、ついにあの最強ウマ娘と激突。果たして、彼女に対しどこまで食らいつくことが出来るでしょうか。〉
スペシャルウィークの前座として紹介されたも同然の実況に、彼女の担当トレーナーたる鷹木は畏縮しかけていた精神が逆立つのを感じた。さしもの小人物たる鷹木の中にも、自らの担当ウマ娘の扱いについて憤然とするだけの気概は残っていたのである。
とはいえ、スペシャルウィークの名を聞かされたおかげか、パドック上にいるオペラオーのパフォーマンスはむしろ気合が入ったようにも見えた。
〈2番人気、メジロブライトです。昨年春の天皇賞を制し、有馬記念でも好成績を残しています。黄金世代の代表的なウマ娘たちと常に肩を並べて走って来た彼女にも、期待が寄せられます。〉
昨年は、鷹木たちが見学した有馬記念において見事な走りを見せたメジロブライト。トレセン学園に入ってから四年目となる彼女には、今年になってもなお勢いに衰えが見られない。
メジロ家特有の品の良さそうな顔立ちと相まって美しくウェーブのかかった髪が輝き、彼女に掛けられる歓声の大きさはオペラオーに向けられたそれを凌駕していた。
多少GⅠレースに勝ったところで、オペラオーが黄金世代と比肩するほどの存在になれたわけではない。その遠さを、次に現れたウマ娘の存在がさらに強調したのであった。
〈1番人気……おっと、やはりすさまじい歓声です……!改めまして、1番人気、スペシャルウィーク!〉
割れんばかりの歓声に、アナウンサーも実況をいったん区切る。
京都レース場は異様な空気に湧き立ち、スペシャルウィークという存在が別格である事を全ての観衆が証明し、実感していた。むろん、目を限界まで見開いてパドックからの中継映像を見つめていた鷹木も例外ではない。
〈スペシャルウィークの登場です!言わずと知れた、黄金世代最強のウマ娘!今年の春の天皇賞も制し、まだまだその実力は健在!グラスワンダーに一手譲る局面も見られますが、本日その宿敵の姿はありません!このレース、スペシャルウィークの独壇場となるか!〉
鷹木としてはそれを否定したい一心ではあったが、無言のままにパドック上に現れたスペシャルウィークの姿を前に、ぐうの音も出なかった。
あの夏合宿の初日、気さくに話しかけてきた朗らかなウマ娘と同一であることには違いなかったが、その貫禄と威圧感を纏った姿はあの時と比べようもなかった。その身の丈に差など無い筈であったが、体格が倍以上に膨れ上がったようにも見えるのは目の錯覚であろうか……。
彼女がスペシャルウィークであるという、それだけの事実が強さの裏付けであった。何らの誇張も無く。
全ては、テイエムオペラオーの走りに託されていた。このレースの日を、これほどのビッグネームと共に迎えることになろうとは思いもしなかったものの、彼女は今日にいたるまで全霊を懸けてトレーニングに取り組んできたのだ。
無論、本当に一秒も無駄にしていなかったかと問われれば、鷹木は言葉に詰まらざるを得なかったが。
高笑いを響かせ、舞い踊り、自身の美しさに耽溺する時間こそあれ、いつも鋼の如く揺るがぬメンタルを携えたオペラオー。周囲からの歓声が全て自らに向けられているとでも錯覚しているのか、笑顔を振りまき手を振りながらスタート地点のゲート内へ入っていった。
〈今、スタートしました!まずまず綺麗に揃ったスタートです、テイエムオペラオー外からの好スタート。ウチからはミスズシャルダンが抜け出して先頭へ、二番手はブリリアントロード。ツルマルツヨシはその後ろ、スペシャルウィークが外に並んで現在三番手であります。〉
スペシャルウィークは前方、先行の作戦を採ったようであった。対するオペラオーは中団に位置し、いつでも外側に出られる位置につけている。
バ群に巻き込まれるリスクも低く、スペシャルウィークがいつ仕掛けても反応しやすい位置。強敵をマークしつつ、スタミナ面でも無茶のない、理想的な位置取りであった。
〈第1コーナーに入りまして、先頭は変わらずミスズシャルダン。ブリリアントロードに続き、スペシャルウィークも変わらず三番手。テイエムオペラオーはウチに入っております、後ろからローゼンカバリー、メジロブライトが追いかける。〉
コーナーの内側に入ったオペラオー、他の選手によって外側に出る余地を埋められるリスクが無い状況においては適切な判断であった。コーナーは内側で回ったほうが当然ながら距離も短くなる。
今回もまたオペラオーの判断に全てを委ねて走らせていた鷹木であったが、今のところ理想的な走りを見せている彼女にいっときの安堵を得ていた。
……が、同時に沸きあがってきた胸騒ぎは徐々に無視できぬほどになった。以前の東京優駿においても、オペラオーはこれと言って無茶のない走りを実現し、その上でアドマイヤベガおよびトップロードに抜かれたのだ。
〈向こう正面に入りました、先頭からの順位は変わらずミスズシャルダン、ブリリアントロード、スペシャルウィーク。その後ろにはツルマルツヨシ、あの皇帝ルドルフの系譜に連なるウマ娘が黄金世代最強の背中を追っています。テイエムオペラオーも外に出て徐々に上がろうというところか、やはりスペシャルウィークを睨んでいる!〉
次の第3コーナーから第4コーナー、そして最後の直線に出る直前、そのいずこかでスペシャルウィークは仕掛けるだろう。
彼女の末脚に遅れれば勝ち目はない。ゆえに、このレースに参戦している全てのウマ娘の注視はスペシャルウィークに注がれていた。彼女が動けば、集団全体が動く。一歩でも先に出ようとして、バ群は団子状態になる。
そうなる前に、外へ出やすい位置を取ったオペラオーの判断は、確かに順当なものであった。
……だというのに、鷹木の胸騒ぎはますます高まるばかりである。このレース、何かがおかしい。何か、大きな違和感を見逃しているような……
〈これから第3コーナーに向かいます!スローペースとなっております、先頭はミスズシャルダン……さあスペシャルウィーク動いたか、坂の上から加速し始めた!〉
京都レース場、芝2400m外回りコースは、向こう正面の直線から3コーナーに向けて高低差4.3mの上り坂がある。上りでスタミナを浪費することなく脚をため、下りへと転じる最終コーナーに入る前から順位を上げ始めるのが定石となっている。
その定石通り、スペシャルウィークは加速し始めた。何ら意外でもないタイミングの彼女のスパートに周囲のウマ娘たちも反応し、順位を落とすまいとスタミナを振り絞り始める。
とはいえ稀代の化け物をそう易々と抜き去れる、あるいは突き放せるとは誰も考えていない。
いよいよ最終直線での勝負に入った時のため、末脚はギリギリまで取っておきたいのだ。
〈後ろからテイエムオペラオーであります、スペシャルウィークの後ろまで上がってきている!ブライトはまだ動かない、メジロブライトはまだ動かない、インコースを通ってまだ八番手!第4コーナーに差し掛かろうというところ、スペシャルウィークは依然三番手!〉
オペラオーも当然ながら、この動きに気付いている。スペシャルウィークの背をピタリとマークし、いつでもゴール前で差せるよう、虎視眈々と狙いを研ぎ澄ましている。
何もかも、理想的な運びであった。スペシャルウィークに勝つためであれば。
〈直線に入りました、さぁここからです!スペシャルウィーク上がっていく!ウチへ入ったツルマルツヨシ!ウチからツルマルツヨシ!後方から一気に上がって来たぞ、最ウチメジロブライト!〉
第4コーナーを抜け、横に広がった集団の内側を突いて、追い込みのウマ娘たちが末脚を発揮して上がってくる。
皇帝ルドルフの後継ツルマルツヨシ、名門メジロ家の優等生メジロブライト。彼女らの能力もまた秀でていることはレース前から重々承知であったが、それもスペシャルウィークの化け物じみた強さの前では霞む……はずだった。
スペシャルウィークが、上がってこない。
〈メジロブライト二番手まで上がって来た!ツルマル先頭!ツルマルツヨシ先頭だ!スペシャルウィーク動きが悪い!これは一体どうしたことだ!ブリリアントロード三番手に巻き返した!〉
何らかの誤算があったことは、スペシャルウィーク自身については言うまでもないだろう。
が、彼女がもたらした異変は、レースに参加する殆ど全てのウマ娘たちへと波及していた。無論、スペシャルウィークを徹底マークしていたオペラオーも例外ではない。
明らかに本来通りの走りを発揮していないスペシャルウィークに気付いたのか、オペラオーは彼女のペースに合わせるのを止め、渾身の末脚で前を目指し始めた。
……もう、ゴール板までの距離は縮まりすぎていたが。
〈誰が一体予想できただろうか、スペシャルウィーク六番手!?おっとテイエムオペラオーが突っ込んできた!慌ててオペラオーが突っ込んでくる!だが目の前にはメジロブライト!ツルマル先頭!先頭はツルマルツヨシ!!〉
先んじてゴール板前を駆け抜けたのは、スペシャルウィークの存在感に惑わされることなく、自らのペースで走りぬいたウマ娘たちであった。
〈ツルマルツヨシ勝利しました!シンボリルドルフの後継者、底力を見せつけました!スペシャルウィークはまさかの七着、バ群の中……か、勝ちましたのはツルマルツヨシ!朝日チャレンジカップに続いて、大金星であります!〉
アナウンサーもスペシャルウィークの結果を前に、動揺を隠せていない。
鷹木はと言えば、担当トレーナー用のブースの中で、血の気が引いて真っ白になった唇を震わせているばかりであった。レースの興奮と、いよいよ読めない勝ち筋への絶望が、同時に押し寄せて来ていたのだった。
「こんなこと、あるのかよ……。」
〈二着はメジロブライト、三着はテイエムオペラオーです……しかし、まさか……スペシャルウィークに関しましては怪我の情報も入っておりません、何らかの調整ミスがあったのでしょうか。〉
自分のペースで走るだけでは、勝ち目はないはず。ともに出走する他のウマ娘との駆け引きにこそ、勝敗は左右されるものだ、と鷹木は考え続けていた。少なくとも、以前の皐月賞、東京優駿における勝ち方、負け方は、彼にそう判断させるだけの十分な材料であった。
そればかりか今回は、かのスペシャルウィークが出走しているのである。彼女をマークせずして、勝利など得られない、そのはずだった。
が、今回の結果は、スペシャルウィークのペースなど関係なく、自らの得意とする作戦を取ったウマ娘の勝利である。
「じゃあ……じゃあ、勝つには、どうすれば……」
今回のオペラオーの走りも、自分が事前に思い描いていた理想の勝ち筋通りであった。にもかかわらず、負けた。
いかにすれば担当ウマ娘を栄光へと導けたのだろう、スペシャルウィークが不調という事態は予測できなかったとしても、僅かでも勝利を引き寄せることは出来なかっただろうか、鷹木は頭を抱える。……彼がトレーナーとしてアドバイスを出していたとすれば、という仮定の上ではあるが。
鷹木はトレーナーとして、オペラオーに勝利をもたらすだけのカギを自らが握っているのだと、心のどこかで信じていたかったのだ。
そんな彼の心持ちなどつゆ知らぬ様子で、オペラオーの高笑いがターフ上に響き渡っていた。
スペシャルウィークが上がって行かないことには確実に焦りを覚えたろうに、ゴール後の今は間違いなく悔しさを味わっているだろうに、尚も常と変わらず笑い続けるテイエムオペラオーもまた、いよいよもって計り知れぬウマ娘であった。