十一月、中旬。トレセン学園敷地内の木々もすっかり葉を脱ぎ捨て、尖った枝の先を冴えつつある空へと差し伸べている。
日に日に暗くなっていく早朝の出勤は、鷹木の抱く焦燥を冷たく駆り立て続けていた。間もなく、テイエムオペラオーの二年目が終わりを告げる。
(アイツのクラシック級、俺の判断が足を引っ張ったんじゃないか……?)
戦績だけで言えば、トレセン学園の大部分を占めるウマ娘と比しても、格段に優れている。皐月賞での一着は、オペラオーが十分に優れた能力を証明した経験に他ならない。
その後の東京優駿は三着、菊花賞は二着だったとはいえ、何百名と在籍する同期ウマ娘たちの中で残した成績としては相当に優秀である。これが自らの担当ウマ娘を支え、ともに切磋琢磨して得られた結果であれば、今も鷹木は満足げな表情を浮かべていただろう。
だが、実際は違った。オペラオーは、鷹木からのアドバイスなど必要とせず、その才能で勝ちを得ていたのである。
むろん、トレーニングメニューの設定、トレーニング用施設の利用予約、レース出走登録などは鷹木が仕事した結果だ。ナリタトップロードのように何でも自身一人でこなせてしまうウマ娘ならばまだしも、そこまで器用ではないウマ娘の方が多い。
「俺の、トレーナーとしての役目って……。」
その点を思い返せば、アドマイヤベガやナリタトップロードが入学当初はトレーナー無し、テイエムオペラオーおよびメイショウドトウがトレセン学園からトレーナーをあてがわれる形で学園生活を開始したことにも、一つの納得が見いだせた。
メイショウドトウは言わずもがな、日常生活を送る中で信じられない次元のドジを連発するウマ娘だ。
担当トレーナーはあの胡散臭い曲者中年男、片桐。彼ほど抜け目なく要領の良い男であれば、ドトウのヘマを多少なりグレーな手段を用いてでもカバーするだろう。
テイエムオペラオーはと来れば、自分の世界観に浸りすぎるあまり、現実の影響をたやすくは受けない精神を有するウマ娘。
トレーニングの厳しさや、レース本番の勝敗によってメンタルが揺るがされる心配はほぼ必要ないものの、事務的な手続きやスケジュール管理などはからっきしである。放っておけば、丸一日でも鏡に向かい合い、人目をはばからず歌い踊り、気の向いたときにのみしか走らぬだろう。
そう考えてみれば、鷹木は必要とされる役割を担ってはいた。
彼の懸念は、その必要とされる分野においてすら、テイエムオペラオーの足枷となっていないかという点にあった。
(アイツが何のレースに出走するかを決めるのは、俺だ。あれだけの才能を秘めたウマ娘に相応しい、大舞台を……。)
確実に勝てるという保証も無い中、期間の限られたウマ娘の本格化時期を、いかに華々しく飾れるか。
過去のレース結果や、同じレースに出走するウマ娘のデータをもとに、自らの担当ウマ娘に相応しい舞台を選ぶのもトレーナーの大切な仕事だ。そして、ウマ娘自身の心が折れぬ限り、高く険しい栄冠への道を用意することも。
例えばキングヘイローが、GⅠレースで好成績をなかなか残せぬまま、それでも彼女をGⅠに挑ませ続ける担当トレーナーの考えも鷹木にはよく理解できた。キングヘイローの能力は、確かに大舞台で玉座を狙える水準である。
ただ、黄金世代が化け物揃いなのだ。
今年の秋からキングヘイローはマイル路線へと舵を切るとのこと。今月末に予定されているマイルチャンピオンSに出走し、それでも良い結果が出せなければ……。
鷹木は首を振った。今は他人の心配をしている場合ではない。
皐月賞ウマ娘、テイエムオペラオー。四度のレースで勝てていない状況は、その皐月賞勝利という称号を引きずる中で擦り切れかけさせていた。
それも、トップクラスでしのぎを削るウマ娘たちが入れ替わり立ち代わりトップに躍り出たというわけではない。この一年を通じ、ポスト黄金世代を担うウマ娘の顔ぶれは世間の中でほぼ固定されたのである。
曰く、テイエムオペラオー、アドマイヤベガ、そしてナリタトップロード。
殊にアドマイヤベガとナリタトップロードは、報知杯弥生賞からの因縁続くライバル同士として世間から見られていることは、先月の京都新聞杯の反応によっても十分に窺い知れた。先日の菊花賞ではアドマイヤベガは六着となったものの、東京優駿と京都新聞杯での二連勝は一般の記憶に新しい。
トレセン学園の内部にいる人間であれば、実力は鼎立する三者の間で拮抗していることは認識されている。が、現状一般の観客からは、テイエムオペラオーが賑やかしの道化役として見られていることは間違いなかった。
それは、オペラオーの普段の振る舞いにも問題はあったろうが。
「京都大賞典でスペシャルウィークとぶつかるって、分かってりゃなぁ……あっちを回避して、京都新聞杯に出させたのになぁ……」
鷹木の中に残る悔恨はそれだけではなかったが、最近の彼の念頭を常にめぐり続けている嘆きはその点に尽きていた。
物思いに耽りながらの出勤は、自然と鷹木の脚を遅くしていた。今や一般生徒用ではない、使用予約は必要なものの一日自由に使える専用の練習場にテイエムオペラオーの姿はあった。
専用であるはずなのに、その中からオペラオーとほかのウマ娘たちが賑わしく歓談している声が聞こえてくることにも鷹木は慣れつつあった。
自らの美しさを讃えてくれるファンへのサービスに余念のない彼女は、たびたび見学や応援に寄ってくる後輩ウマ娘を練習場内にまで呼び込んでしまうのだ。ひとたびオペラオーのお喋りが始まればそれだけ練習時間が削がれるため、彼女をトレーニングへと引っ張り戻す役目も鷹木が担っていた。
とはいえ、大舞台でのプレッシャーや蓄積したストレスを、いつどこで発散できているとも知れないオペラオー。
彼女が心の底から楽しそうに語らっている状況を中断させることが、心苦しくないわけではなかった鷹木は、あえてゆっくりとトレーニング補助の準備をしながら談笑の場に近寄っていくのが常であった。
今日、オペラオーによって呼び込まれた後輩ウマ娘はいつもの二名である。すなわち、アグネスデジタル、そしてエアシャカール。
「いやぁ、それにしてもオペラオー先輩と同じ日に、同じ順位になるというのもなんとも奇遇かつ光栄なことではありますがぁ……ほんッと惜しかったんです、私!」
「あぁ、そうだったね!菊花賞の同日行われたもちの木賞、デジタルはボクと同じく二着だった!見たよ、映像アーカイブでね!」
「ひょおぉ!?早くも私の走りをご覧にぃ!?」
「当然じゃないか!覇王の直感が告げているんだ、キミはいずれこのボクを脅かす好敵手となる、とね!今のうちにマークしておかねば!」
「そ、そそ、そんな、持ち上げすぎですよぉ、私まだ頑張ってオープン戦に出走するのが精いっぱいなんですからぁ……。」
「チッ、ハナにつく謙遜だぜ。オープン戦にすら出られてねぇオレがここにいるのは、場違いだってか?」
「いやいやいや、んなこと言ってないですって!シャカールちゃんだって、デビュー戦は惜しいとこまで行ってたんでしょ?」
「五着だったよ、くそったれ。」
デジタル相手に毒づきながらも、オペラオーの練習場へ同級生と並んで仲良く訪れているのがエアシャカールというウマ娘であった。
オペラオーの無駄に冗長かつ脚色に溢れた経験談は、いわゆるロジカルさを重視する彼女の求める情報からは程遠かったろう。が、これほどまでに容易く専用練習場へ迎え入れるGⅠウマ娘の先輩が他に居ないのも事実だった。
アグネスデジタルに付き合わされるという形をとりつつ、オペラオーから盗める技術やコツが無いかと抜け目なく狙っているのだ。成績が目立たぬものではあれど、たしかにシャカールは並みのウマ娘に収まる器ではなかった。
あまりにも無防備に後輩ウマ娘との歓談を楽しんでいるオペラオーの時間を、そろそろ中断させようと鷹木は声を掛ける。
「まだトレーニング時間中なんだから戻れ、オペラオー。十分に体が温まったらトラック上での走り込みだ、後輩さんたちもせっかく来てもらって悪いが。」
「おっと!我が参謀がこう言っている、済まないがボクは行かねばならない!」
「いえいえ、お気になさらず!私どもは隅っこから、あなた様の美しい御姿を見させていただきますのでぇ。」
「これ以上の話を聞けないんなら、オレはトレーニングに戻るぜ。次のレースでこそ、勝てなきゃならねぇんだ。」
クルリと背を向け、この場を去ろうとするエアシャカール。
彼女の行く手を塞ぐように現れたのが、アドマイヤベガであることに鷹木は気づいて目を見開いた。顔色の変わった彼の視線を追って、アグネスデジタルも同様に刮目し、エアシャカールは予想外の相手の襲来にしばらく固まっている。
いつも通りに美しく澄んだ眼差しで、この場に集まっている一同を確認し終えたのち、アドマイヤベガは口を開いた。
「あなた、エアシャカールよね。ちょうどよかったわ。」
「え?お、オレに用があんのか?」
「えぇ。結城トレーナーがあなたを呼んでる、校舎二階のトレーナー部屋に向かって。」
「……へっ?」
エアシャカールは、今度こそ度肝を抜かれ、常とは真逆に気の抜けきった声を上げた。
その思いは鷹木も同様であった。アドマイヤベガのように才能の塊であるウマ娘だからこそ、自らトレーナーを担当したいと名乗りを上げた結城トレーナー。
URA界のレジェンドたる人物が、新たにチームを結成するわけでもなく、無名の新米ウマ娘を呼ぶとは何のつもりだろう。いや、むろん、ウマ娘を呼ぶのだから、担当を申し出る気なのだろう。
しかしアドマイヤベガのトレーナーを続けながら、新たなウマ娘を迎え入れる暇があるのだろうか?
「何をボサッとしてるの、早く行って。結城トレーナーも暇な人じゃないんだから。」
「わ、わ、分かってるぜ、ったくあの爺さん、このオレに何の用だよ……。」
アドマイヤベガにせっつかれ、エアシャカールはどうにかこうにか口先だけでいつもの調子を繕いながらこの場を立ち去った。
練習場内では、やはり状況を飲み込み切れていないアグネスデジタルがオペラオーと顔を見合わせていた。
相変わらずブレないオペラオーは視線を合わせたデジタルに至近距離からのウインクを送り、尊みの不意打ちを受けたデジタルは頭をくらくらさせてフラついている。
そんな二名を脇に、スタスタと鷹木の元へ近づいてきたアドマイヤベガは一息に喋った。
「私、しばらく結城トレーナーから外れることになったわ。」
聞く分にはごく短い文言ではあったが、アドマイヤベガの口からあまりにも淀みなくそれが発されたためであろう。
おそらく、彼女はこの言葉を自らが口籠ることなく言い放てるよう、幾度か練習したのだ。それほどまでに、この言葉は重かった。余りにすんなりとその内容が耳から入ってきた鷹木は、ごく明快なその意味を理解するまで数秒を要したのであった。
「菊花賞の後、私の脚に、異状が見つかって。今は治療中。また走れるようになるまで、オペラオーの練習を見させてもらいたいの。」
彼女が声を震わせまいと努めていることは、いかに鈍感な鷹木であっても聞き取れた。
あの菊花賞で、既に異変は起きていたのだ。アドマイヤベガは本気で走ることが出来ていなかった。とはいえ、出走前に何らかの異状が見つかっていれば出走自体を取り消すはずである。
すなわち、あのレース中に脚の異状が見出されたことになるが……であるならば、アドマイヤベガが最初から本気ではないペースで走り通したことへの説明がつかない。
「アヤベさん。」
唐突に上げられたオペラオーの声はいつも通り朗らかで、同時に真剣な緊張をもはらんでいた。
「キミはまた、走れるのかい?」
「走るわ。」
そのやり取りも、至極簡便な言葉をもってのみ行われた。
テイエムオペラオーは、アドマイヤベガへと近づいていく。この両名が対峙する一点は、どこであろうとその場の中心となる。
スポットライトを浴びているスター二名を、背景の暗がりの中から鷹木とアグネスデジタルは見つめていた。
「良かった。言ったろう、キミは覇王と共に走るべき運命なのだと!」
「アンタの妄言に付き合ったつもりはないから。私が選んだだけ、この道を。」
やはり周囲を置いてけぼりにするウマ娘同士のやり取りを聞きながら、鷹木は一つの憶測を巡らせていた。
最初から本気で走るつもりなら、菊花賞のアドマイヤベガは追い込みのペースで走っていたはずだ。向こう正面からスタンド前へ戻る第3コーナーから加速し始め、最終直線にて全力の末脚を発揮し、一気に先頭を奪っている……ハズだった。
実際は、オペラオーに並走し続け、最終直線ではスタミナを使い切った様子もなく、バ群に埋もれたままのゴール。彼女の勝利の定石との違いを見出すのならば、脚への負担だろう。
幾度も繰り返された検査では異変が見つからなかったにせよ、彼女は何らかの不吉な予兆を自身の脚に感じ取ったのではあるまいか。そして、いつも通り全力でのスパートを掛けることを回避した……悲劇を避けるために。
レース中に粉砕骨折を起こし、復帰のめどが立たなくなってしまった、あの稀代の優駿サイレンススズカと同じ道を辿らぬように。
「それにしてもアヤベさん、どうしてボクの傍に来てくれたんだい?治療中はボクのように喧しいライバルより、トップロードくんの方がよほど癒しになるだろうに!」
「喧しいって、自覚あったのね。別に、大した理由はないけど……」
アドマイヤベガは僅かに目を背けた後、改めて眼差しをオペラオーに向ける。
いつ治療が終わり、いつ復帰できるのかを明確には語らなかったアドマイヤベガだったが、彼女の中に闘争心は失われていなかった。
「私が走れないでいる間、アンタが活躍してるのを見せられたら、腹が立つから。復帰する時の燃料を溜めさせてもらうわ。」
「はーっはっはっは!敵は近くに置けとはよく言ったものだ!いいだろう、この世紀末覇王を打ち倒す武器、存分に研ぎあげておいてくれたまえ!」