自分がしばらくレースから離れることの報告と、オペラオーの練習風景の見学申し込みをアドマイヤベガが行った翌日からも、彼女は律儀に鷹木のもとを訪れた。
アドマイヤベガの脚に見つかった異状というのが何だったのか、彼女の担当トレーナーではない鷹木には知らされることではなかった。
別段、自らの脚をかばうような真似もせず、松葉杖など突いているわけでもないアドマイヤベガは、傍から見る分には何ら怪我や不調があるようには見えなかった。
が、ウマ娘のレース本番中、彼女らの脚にかかる負担は尋常ならざるものである。日常生活に何らの支障ない状態であっても、本気で走ることができないという状況は珍しいことではない。
練習場の隅からアドマイヤベガの鋭い視線に晒され続けても、何らいつもと変わらず振舞い続けるのがテイエムオペラオーというウマ娘であった。
「我が聡明なる理髪師よ!今日はどのような鍛錬を用意してくれたのかな?」
「今回も、コーナーの通過を重視した走り込みだ。有馬記念のコースは、直線よりもコーナーで勝敗がつきやすいからな。直線が短いだけにコーナーでの順位争いも激しくなるだろうし、他所のチームとの合同練習もいずれ……」
「なるほど!ではさっそく、秋空の下にボクの美しさをひけらかしに行こう!」
鷹木が最後まで喋りきるのを待たず、いかにも走りやすそうな状態の練習場を前にウズウズしていたのであろうオペラオーはそそくさとコースへ出ていく。たしかに、秋晴れの続くトレセン学園の練習用芝コースは、いずれも最良の状態が保たれていた。
ため息とともにタブレットを操作し、タイム計測と走行中の映像録画の準備を始める鷹木。
「いつもあんな感じなの?」
「わっ」
背後から予兆なくかけられた声に、彼は跳びあがった。ついさっきまで練習場の隅で壁にもたれかかっていたアドマイヤベガが、瞬間移動したかのごとく真後ろに立っていた。
アドマイヤベガは何も足音を立てぬように近寄ってきたわけではないのだが、彼女が行動へ移るタイミングは凡人の予測の範疇に収まるものではなかったのである。
彼女らのレース中の走り方は幾度も観察して分かっているつもりの鷹木も、こういった通常時の振る舞いには一線級のウマ娘と人間の感覚の隔たりを実感せずにはいられなかった。
「あ、あんな感じ……ってのは?」
「今みたいなやり取りしてんのか、ってこと。アンタがわざわざ伝えるまでもないことを長ったらしく喋って、途中で聞き飽きたアイツがさっさと自分から練習に向かうみたいな。」
オペラオーとの間に為されるやり取りは、既に担当トレーナーとしては慣れっこになっていたものの、いざこうして第三者から告げられれば情けないものではあった。
既に練習用コースのスタート位置についたオペラオーを確認し、鷹木はタブレットを掲げていつでも計測開始できるように構える。トレーナーがどんな状況にあろうとも、いつも自分のペースでトレーニングを開始するのがオペラオーであった。
「短くない付き合いなんだからわかるだろう、オペラオーはあぁいう性格だからさ。」
「アイツに問題があるわけじゃないでしょ、ウマ娘はレースで勝てればいいんだから。トレーニング環境は、トレーナーが提供するものでしょう。」
ごく端的に自分の理論の逃げ場を封じられた鷹木は押し黙る。と同時に、走り出したオペラオーに合わせてタイム計測を始めた。
「有馬記念のコース解説だなんて、トレーニング始める前にいちいち喋る必要ある?たった今出走を決めたわけじゃないんでしょ、ずっと前から予定してたことでしょうに。」
「オペラオーに今回のトレーニングの意義を十分納得させるためだ、特有の気まぐれで投げ出させないようにだな……」
「アイツが理屈で納得する奴じゃないことぐらい、担当トレーナーのアンタが一番よく分かってるでしょう。ベラベラと無駄話してるヒマがあれば、さっさと練習に入るべきじゃないの?」
またしても言い込められた鷹木は押し黙る。オペラオーと自分だけが居る状況と比べ、口をさしはさんでくる第三者が居る状況というのは実にやりにくいものであった。
しかし……鷹木は考え直す。
今まで通りの状況を続けていては、何の進展も望めない。自分は担当ウマ娘の性質を掴みきれておらず、当のオペラオーは京都大賞典、菊花賞と続けて勝ち切れていない。
無論、自分はオペラオーに対しできる限りのことはしてきた。が、それでダメなのなら、自分が見えていない所を見る他者の存在は貴重である。
「……結城トレーナーは、どういうトレーニングをしてたんだ。」
とはいえ、鷹木がアドマイヤベガに返せた言葉は、それが精いっぱいであった。何が問題なのか分からない人間に、問題の核心を突けるはずもない。
練習用コースのコーナーを切り抜けて向こう正面を疾走していくオペラオーを視線で追いながら、そのライバルウマ娘は淡々と答える。
「私がやりたいように、やらせてくれた。逆に言えば、私が自分に足りない力を、自分から見出すように仕向けてきたの。」
結城トレーナー自身がかつて口にした通りである。一流のウマ娘が本当に求めるトレーニングは、ウマ娘自身にしか分からないというのが彼の持論であった。
とはいえ、URAの歴史そのものとも呼ぶべき伝説的人物を前に、彼から直接の指導を受けられないことについて、アドマイヤベガに思うところはなかったのか。
「不安はなかったのか?自分から見出すと言っても、本格的なレース向けに練習すること自体が初の体験だっただろ。」
鷹木が浮かんだ疑問をためらうことなく口に出来たのも、アドマイヤベガが気遣いなしに声を掛けてきたおかげかもしれなかった。
「もちろん私だって、分からないことだらけ。でも、結城トレーナーの周りには、次々に黄金世代の先輩たちや、トップクラスのウマ娘チームが集まってきたから。」
有力なチームや有名なトレーナーの近くにいるだけでも、ウマ娘たちは理想的な練習環境を得ることができる。試合に出た選手の実績が単純な能力の良しあしにもならず、置かれた環境に左右される先例は鷹木もいやというほど見知ってきた。
「その練習風景を見て、真似たのか。」
「全部真似してたら、キリがないでしょ。私が必要だと感じたところだけ。」
オペラオーはコーナーを回り、こちら側の直線に戻ってくる。が、ゴールはまだ先である。有馬記念を想定したコースのゴールは反対側、もう一度コーナーを回った向こう側の直線にある。
アドマイヤベガの鋭い視線を浴びながら、いつも朗らかに笑っている覇王は一転、至極真面目な表情で直線を一心に駆け抜けていった。
「そのトレーニングが、何の効果があるのか、何の役に立つのかとか、解説は……?」
「ないわ。そこも含めて、自分で判断しろってのが結城トレーナーだったから。」
鷹木ならば、言葉を尽くして解説していたことだろう。
ウマ娘トレーナーを志した時から相当量の勉強を重ねていた彼は、走りに必要な筋肉をいかにして鍛えるか、心肺機能を高めるにはどのように練習すべきか……等々について語り始めれば数時間は持たせられる自信があった。
だが、知識さえ得られれば勝てる世界ではない。
「練習の効果を言葉で伝えられてたら、私はそれで分かったつもりになったと思う。それで脚が速くなるんだって、思い込んで満足してた、きっと。」
「……本当に速くなるのを実感するまで、効果の分からない練習を繰り返したってことか?」
「私の身体が判断するの、今の自分に必要な鍛え方を。だからのんびりしている時間はない……私たちが本格化した能力を保っていられる期間は、限られてる。」
自分のライバルが練習コース上を走りぬく姿をしっかりと目に焼き付けているアドマイヤベガの表情は静かなものであったが、たしかに薄っすらと焦燥が浮かび続けていた。
オペラオーがゴールラインを通過すると同時に、鷹木はタイム計測を止め、動画撮影を終了する。タイムは縮まる一方であった……何者にも邪魔されず、オペラオーのみが走るコースであれば。
「でも、アイツ、弱くなっていってる気がする。」
アドマイヤベガがぼそっと呟いた言葉に、鷹木は目を見開いて聞き返す。
「え……?オペラオーが、か?」
「だって、走り方が分かりやすすぎるから。私はてっきり、アンタが余計な指示を出して、アイツに従わせてるものだと思ってたんだけれど。」
そう指摘されるのも無理はない。オペラオーが一着を獲れなかったレースでは、たしかに鷹木は走り方に口出しはしなかったものの、オペラオーは先行策として理想的な走りをしていたのである。
皐月賞で勝った時、オペラオーはまさかの追い込み策を採ったというのに。
「しかし、勝つために最善を尽くすのは、当然のことじゃないか。」
「最善を尽くすのは、みんな同じ。当たり前のことをして勝てるなら、最初からレースする意味なんてない。」
「じゃあ、何をすれば勝てるんだ……?」
鷹木が口にした疑問はあまりにも根本的すぎて、トレーナーがウマ娘に向ける質問としては間抜けすぎる内容であったが、この時に限ってアドマイヤベガは呆れたような雰囲気を声色に浮かべはしなかった。
「分からない。分からないから、私たちは走るんでしょう。」
「……。」
その返答を肯ずるには、鷹木はあまりに若すぎた。
トレーナーとしての立場、ウマ娘の能力を自らの指導で引きあげ、勝利へ導くための存在。
確実に勝敗を決するトレーニング法が無いことは当然の事実であり、同時にトレーナーの尽力を否定する不気味な嘲笑でもあった。