世間がクリスマスに浮かれる中もウマ娘たちはトレセン学園の練習コースを走り続け、有馬記念の当日を迎えた。
恐ろしく晴れ渡った天頂は、もはや宇宙の群青がそのままに覗けるかと思うほどに青い。
冴えわたる冷気に引き締められたかの如く、白々と輝くターフの上に大歓声とファンファーレ、手拍子が響き渡った。
〈15万の大歓声、年の瀬を締めくくる大一番、有馬記念!いよいよ枠入りとなりました!〉
アナウンサーによる実況にも、それとわかるほどに熱が入っている。
文句なしの大舞台、一流のウマ娘でなければ立てないレース場に自分のウマ娘が出走することなど、何か月も前の準備段階から分かっていたはずの鷹木であったが……ここにきてとんでもない事に気づいたかのような感覚であった。
昨年はトレセン学園の校舎裏にて、片桐が勝手に持ち出してきた大型モニターを用い皆と観戦したレースである。あまりに遠く感じていたその場所に、テイエムオペラオーは立っている。
レースへと送り出す際、担当ウマ娘を激励する言葉を何か掛けようとして口を開いた鷹木の声は震えに震えていた。
「お、オ、オペラオー……か、勝ってこい……!」
「何をそう緊張しているんだい?言われずとも、ボクの勝利は確実さ!はーっはっはっは!!」
当の自称覇王は、ここに来ることも至極当然のような顔をして年末の中山レース場地下バ道へと歩み出ていったのだが。
テイエムオペラオーは、5番人気であった。並みいる優駿たちが出走するこのレースで、それほどの票を集められたことだけでも結構なことではあったが、その上の4番人気にはナリタトップロードが居たのである。
やはりオペラオーから逃げ切って勝った、菊花賞のトップロードの印象が世間には強く残されていたのだろう。オペラオーと同期のウマ娘でありながら、常に安定した好成績を残すトップロード。
彼女を担当する桂崎トレーナーとの経験の差をも、鷹木は見せつけられたかのように感じていた。
〈今年も様々な活躍を見せてくれたウマ娘たち、特に黄金世代の後から頭角を現したナリタトップロード、テイエムオペラオーの走りも見逃せません。しかしやっぱり一番の期待が寄せられるのはグラスワンダー!あるいは、スペシャルウィークが宝塚記念の雪辱を果たすか!〉
人気トップ2は当然ながらスペシャルウィーク、そしてグラスワンダーであった。とはいえこちらも直近の対戦成績が反映されており、スペシャルウィークは2番人気、1番人気はグラスワンダーとなっている。
最強の黄金世代。その背に食らいつこうと思えば食らいつける場所まで来て、尚のこと絶対的な隔たりの先に居るウマ娘たち。
ウマ娘の栄光極まるレース場の熱気に息が詰まりかけ、鷹木はどうにか祈る余裕だけを残していた。
〈ゲートイン完了!2500m先のゴールへ真っ先に飛び込んでいくのは果たしてどのウマ娘か!有馬記念!……スタートを切りました!さすがは優駿たち、目立った出遅れはありません!まずは注目の先行争い、ゴーイングスズカが強引に行きました!続きましてはダイワオーシュウ、おっと、ウチからナリタトップロードが一気に上がって先頭ウマ娘にぴたりとつけた!〉
アナウンスにもあった通り大きな出遅れは見られなかったものの、ナリタトップロードのスタートがわずかに遅れていた。どのような状況でも冷静沈着なあのウマ娘も、黄金世代の実力者たちに囲まれた状況では多少なりと神経を揺さぶられたのであろうか。
トップロードの得意とする先行策の位置には既にあったのだが、彼女は最初のコーナーに入る前に先頭集団へと合流していた。
(東京優駿では追い込み、菊花賞では先行、有馬記念では逃げ、か……?)
器用なトップロードであればこそ可能な芸当だったろうが、鷹木はそのようにコロコロと作戦を変更していく桂崎トレーナー……あるいはトップロード自身の意図を計り知れずにいた。
〈注目のグラスワンダーは後方、11番手。そしてスペシャルウィークは最後方から!スペシャルウィークは最後方で、今、最初のホームストレッチへとかかっていきます!先頭は変わらずゴーイングスズカ、その後ろにピタリとつけてナリタトップロード!ダイワオーシュウ、その外シンボリインディ、テイエムオペラオーも続いている、フサイチエアデールと並んでいます!〉
またしても、鷹木は体の髄から絞り出されるような冷や汗を流していた。
先行策。模範的な、先行の位置。そこに、オペラオーが居る。
また、負けるんじゃないか。しかも相手は黄金世代最強の二名だ。負けた。
鷹木は凡庸な思考回路でそんな予測を出しかけ、しかし早くもパンクしかけている精神状態の中ではたと思い至った。
幾度も負けた作戦を、敢えて選択し続けること自体、オペラオーほどの精神を持つウマ娘でなければ為し得ないことではないか?
〈さぁ大歓声に包まれて直線を駆け抜け、第1コーナーにかかりましてウチウチをスエヒロコマンダー、そしてユーセイトップラン!そのアウトコースにグラスワンダー!アウトコース、グラスワンダーが駆けている!後方にはメジロブライト!最後方でじっくり、じっくり溜めながら、スペシャルウィークが追う!〉
先行策以外の何を採れようか。先頭集団は、あのナリタトップロードが抑えている。彼女と競り合おうにも、器用なコース取りによって楽々と抜かせてはくれないだろう。
脚をためるために後方へ下がれば、グラスワンダー、スペシャルウィークの二大巨頭が聳えている。最終直線で一気にぶち抜く力は、明らかに彼女らの方が上だ。
「オペラオー……。」
ほかのウマ娘たちに交じって大スクリーン上をゆっくりと流れていく自らの担当ウマ娘を見上げ、鷹木の呼び掛けた声は既に掠れきっていた。
逃げも、追いもならぬ。確実には勝てぬ戦でこそ、覇王は優駿たちに挟まれたままにじっと展開を窺っているのだ。
〈向こう正面へと入っていきます14名のウマ娘たち!先頭はゴーイングスズカ、ゴーイングスズカがどうにか先頭ですが……ナリタトップロードが外からスーッと合わせていきました!その後方からダイワオーシュウが現在三番手、さらにシンボリインディであります!最ウチはフサイチエアデール、アウトコースをテイエムオペラオーが行っている!〉
もうじきに、第3コーナーへと差し掛かる。既にナリタトップロードが先頭を取るコースへ入り、他のウマ娘たちも勝負をかけ始めるタイミングが迫ってくる。
オペラオーは、やはり理想的な先行策の位置にいた。先頭争いをしている3名の背を追い、並ぶウマ娘の外側につけている。
「勝て、オペラオー……何回も負けた作戦がなんだ、お前の脚なら勝てる……!」
レース開始時からほとんど声を出していなかった鷹木だったが、既に枯らしたような声で彼は声援を投げかけ始めた。
ジンクスや見る者たちの思いなど、レースの結果には直結しない。そう信じる彼が今まで敗因を分析する際も全く考慮に入れていなかった要因が、今になってその胸の奥から応援の声を迫り上げさせたのだ。
〈インコース、スエヒロコマンダーとステイゴールド!外目をつきましてツルマルツヨシが行っている!そのインコースにユーセイトップラン、さらにメジロブライト、アウトコースにグラスワンダー!そして、ファレノプシス!最後方からスペシャルウィーク!今日のスペシャルは、グラスを前に見ている!グラスワンダーの後方でじっくりと待機している!!〉
第4コーナー。未だにトップロードは先頭のウマ娘をがっちりとマークしたままで回ってくる。グラスワンダーもスペシャルウィークも、既に集団から外へと抜け出して、一気に上がる態勢を整えている。
並ぶ者無き、最強世代。
彼女らのラストスパートで、有馬記念の全てが決する。
「勝てぇ……オペラオー、勝てるぞ、黄金世代に!あれだけトレーニング漬けだったんだ、お前が歌ってる最中も無理やりトレーニングに引きずり戻して悪かった!だからお前の努力を越える奴は居ないんだ!勝てぇっ!!」
鷹木は自分が何を叫んでいるのか分かっていなかったが、今は喉が裂けるのもお構いなしに迸る自らの悲鳴を止める術などなかった。
〈さぁ4コーナーへ向かっていく!先頭、ゴーイングスズカ、並んでナリタトップロード!14名が固まりだした!スペシャルウィークが外を通って上がっていく!スペシャルが外を!スペシャルウィークが外から上がっていったっ!!集団は大きく横に広がっている!グラスワンダーも一気に外から飛び込んできた!〉
怪物たちが、遂にその牙を剥いた。
どれほど集団がコーナーの外側に膨れようとも、そのさらに大外から異次元の末脚をもって上がってくる。
ナリタトップロードは、ゴーイングスズカから引き離されていた。やはり、スタート直後のあのわずかな遅れ、それを取り戻そうとした加速が、ここにきて響いていたのだ。
しかし実況、および会場じゅうの熱狂する観客はスペシャルウィークとグラスワンダーに視線を集中させていた。
「行け!行け!行け!突っ込め!!」
鷹木があらんかぎりの声を送る先、オペラオーは同じ先行策を採っていたツルマルツヨシの後ろに居た。
終わったか?
いや、たった今大外から上がってきたグラスワンダーと、ツルマルツヨシの間には大きな隙間が空いている。そこから抜け出せる。
あの皇帝シンボリルドルフを継ぐ者、ツルマルツヨシの末脚を超えられるのならば、だが。
〈スペシャルウィーク、グラスワンダーを躱して外へ出ようとしている!ウチではゴーイングスズカ粘っている!ゴーイングスズカ粘っている!だがツルマルツヨシ並んだ!ツルマルツヨシを追ってテイエムオペラオー!外からグラスワンダー!グラスワンダー来た!!〉
ツルマルツヨシはなおも加速した。最ウチで粘っていたゴーイングスズカを抜き去り、先頭に立ってゴールへ駆けていく。
だが、グラスワンダーとスペシャルウィークが並んで猛烈な加速で追い上げてきた。昨年から、幾度も見せつけられた、化け物じみたラストスパート。ツルマルツヨシには、ゴールが遠すぎる。
そしてオペラオーは、そんなツルマルツヨシの背を未だに追いかけていた。ゴーイングスズカをどうにか追い越したところだ。
4着の確定ランプが灯る……脳裏に浮かんだ数秒後の予測を吹き飛ばすように、鷹木はあらんかぎりの声で叫んだ。
「勝てよぉぉおっ!勝てるぞぉおお!テイエムオペラオォォッ!!」
嗄れきった喉からは、大した声量も出なかったが。
ピンクの勝負服を纏ったオペラオーの姿が、一瞬、ぐっと脈動したように見えた。
見る者を慄然とさせるほどの覇気を伴って、テイエムオペラオー、世紀末覇王はゴールへと翔る。
〈ツルマルツヨシ頑張っている!ツルマル粘って……テイエムだ!テイエム来ている!!テイエムか!?〉
差した。オペラオーが、先頭だ……
オペラオーはたしかに一瞬先頭に立ち……しかし黄金世代の二名は、猶のこと規格外であった。
〈外から!グラスだ!スペシャルだ!並んでいる!差し切った!どっちだ!どっちだ!?最後はこの二名だーっ!!〉
15万人の大絶叫が、中山レース場を轟かす。
鷹木は自分も一体となって叫んでいるような感覚であったが、実際は応援で力を使い果たして座席にぐったりと身を任せていたのであった。
〈一着は写真判定となります!いやー、しかし、これが……ウマ娘たちの戦いですね!三着以降の結果が表示されます、三着はテイエムオペラオー、そして四着にツルマルツヨシ!〉
未だに観客席の大叫喚は収まっていなかったが、その中でもはっきりと聞き取れるほどの拍手が贈られる。
あの最強の先輩ウマ娘を相手に、見事な善戦を見せたものだと讃えているのであろう。
だが鷹木は、喜べなかった。同時に、悔しがりも出来なかった。ありとあらゆる気力を短時間で焼き尽くしてしまい、何も感じられない状態に陥っていたというのが正確なところであろう。
いや、悔し涙を流すエネルギーがまだ溜まっていなかった、と言うべきかもしれない。
〈ゴール前の50m、最強の世代、最強のウマ娘たちが、最高の戦いを見せてくれました!ここでグラスワンダーが勝てば、去年に並び有馬記念連覇となりますが……結果が出ました!今、結果が出ました!勝ったのは……グラスワンダー!!〉
改めて沸き起こる大歓声の中、鷹木の意識は急速に遠のいていくばかりであった。
〈ただいま結果が表示されました!有馬記念、昨年に続き制しましたはグラスワンダー!ハナ差!ハナ差での勝利です!これで史上三人目!グランプリ制覇となります!〉
グラスワンダーの名を、何万人もの観客がコールしている。
有馬記念まで上り詰め、グラスワンダーとスペシャルウィークの背後にまで駆け上がってなお、最高の栄冠は未だ遠い。