担当ウマ娘が訪れないトレーニングルームのなか、鷹木は独りうなだれて座り込んでいた。
口の中から流し込まれた重苦しさが腹から彼の身体を床へと引っ張り続けているかのごとく、背を丸めたままにタブレットの画面を凝視している。
オペラオーが勝手な理由で遅刻することは珍しくなどなかったが、今回ばかりは彼女がこの場に姿を見せない理由も明確になっている。
トレセン学園からの通達は、あまりに唐突に送り付けられていた。
〈鷹木トレーナー。トレセン学園主任会議にてあなたの指導内容を精査した結果、担当ウマ娘の能力向上を目的とした取り組みからは明確な乖離があると判断されました。今まで担当いただいたウマ娘『 テイエムオペラオー 』のトレーニング担当者は後日改めて決定いたします。引き続き主任会議からの指示をお待ちください。〉
何の前触れもなく、予告もなく、一方的に送り付けられた冷たいメール文面。
せめて前もって警告か、苦言か、あるいは嫌味でもいい、あらかじめ向こうからなにがしか言ってくれていれば、鷹木にも心の準備というものが出来ていたはずだった。
現実には、誰も、何も親切に教えてなどくれない。
このメール一通で、鷹木のオペラオーへの関与はあっさり拒まれたのだ。
鷹木は今日もいかにして担当ウマ娘を勝たせるか悩みつつ、綿密に組み立てたトレーニングメニューをオペラオーに実行してもらうつもりでトレーニングルームを訪れていたのに。
ガタン、とスリープモードにもせずタブレットをテーブルの上に投げ出す。オペラオーの身体状態、伸ばすべき能力、それらを細かに観察し、分析し、見いだされたトレーニング内容の項目がそこには並んでいた。
しんと静まり返ったトレーニングルームの壁で、デジタル表示の時計が音もなく時を刻み続ける。
もはや、オペラオーにこれを伝える時は二度と来ない。
「全部無駄だったってことかよ……俺がやってきたこと……」
これが部外者による評であれば、さしもの鷹木も精神にささくれを作りつつも十分に耐えられるものであった。
世間一般の観客や、マスコミが勝手に書き立てているだけであれば……それでも精神的ダメージは大きかったろうが……所詮は、トレセン学園外部の素人が勝手な憶測を述べているだけ、と捨て置けただろう。
だが、彼のトレーニングの手腕にダメ出ししたのはベテランたちなのだ。トレセン学園主任会議は、トレセン学園に所属するトレーナー達の中でも経験豊富なベテラントレーナー達によって構成されている。
例えば、彼自身が昨年度以前に幾度か直接会った結城トレーナーも、その一員である。
彼らが有しているのが単なる権威ではなく、豊富な実績に裏打ちされたトレーナー担当歴であることが、一層のこと鷹木へ突きつけられた手厳しい評の説得力を増していた。
覆せない。むろん、鷹木とて、自分がプロとして最善のトレーニング方法をオペラオーに提案し続けてきたのだ、という自負はある。相手が素人であれば、ただの報道関係者であれば、いかに小心者の彼とて声を大にしてその点を強調できただろう。
しかし、押しも押されもせぬベテラントレーナー達を前にしては……むしろ素人同然なのは、鷹木の方であった。浅い経験しか持ちえない、頼りない若手トレーナーに過ぎなかった。
「けどよ……あれ以上、どうしろってんだ……後から結果だけ見て、ごちゃごちゃ言うんじゃねーよ……!」
凄まじい落胆、自分自身への失望に耐え続けられそうにもない鷹木は、それへの反動として憤りに似たものを自らの中に生成しようとも試みた。
自分は何も間違ってない、誰よりも良くオペラオーの身体状態を理解し、トレーニング内容や休息期間の量もバッチリと調整できていた。だからこそ、彼女は今まで目立った故障もなく出走し続けられたし、一着が取れずとも好走を続けてきた、少なくとも初勝利以降は3着より下になったことはないじゃないか。
「そうだ、そうだよ、結城トレーナーはたしかにアドマイヤベガを東京優駿や京都新聞杯で一着にしたが、今アドマイヤベガは脚を痛めて休養している。俺と比べれば、結城トレーナーでさえトレーニング内容に無理が……」
鷹木の脳裏に、結城トレーナーの顔面が浮かぶ。と同時に、彼の強気な思考は一気にへなへなと萎んでいった。
彼の中にある結城トレーナーのイメージは、常に柔和な表情を小皺とともに浮かべた、しかし強く厳しい眼光を湛えた老練の男であった。決して若手トレーナーを威圧するような真似をせず、じっくりと言葉を選んでの静かな語り口が特徴的な……
あの声、あの表情が記憶の中から立ち上がってくるにつれ、鷹木はベテラン相手に反駁を行う胆力が急速に削がれていくのを感じていた。
「……結局、俺じゃ力量不足……なんだな……」
おそらく、他のベテラントレーナー達を相手取ったとしても、同じ結果に終わるだろう。鷹木が拳を振り上げて抗議のため突撃しに行ったところで、相手の視線に射竦められてすごすごと撤退するのが関の山だ。
理解のない相手からの不条理な低評価ではなく、トレーナーの何たるかを理解した大先輩たちからの正当な評価。
そうであればこそ、鷹木は反論の余地なく、ただただ自らの不甲斐なさに浸って歯噛みする他なかったのである。
血の気の引いた顔の表面は冷え冷えとしていたが、彼の動悸は早鐘の如く打ち、血が上りっぱなしの首筋は熱かった。そのまま項垂れた格好で、どれほどの時間が経過したかは分からない。
「あぁ、居た居た。鷹木さん。」
聞きなれた声が唐突に背後から掛けられ、思わず鷹木は弾かれたように立ち上がる。
胸の真ん中に鉛の杭を打ち込まれたかのような感覚は頑として健在であったが、自分が何について落ち込んでいるかを他人に知られることをやはり避けたく感じるのが彼であった。
静まり返ったトレーニングルームの入り口から、顔を覗かせているのは片桐であった。
「おや、まだオペラオーは来てないんですね。」
「え、えぇ、まだ……ね……。」
相手が片桐であるとなればなおさら、自分がオペラオーの担当から外されたとは教えたくなかった。片桐の背後から、遅れてメイショウドトウがこちらをのぞき込む。
鷹木の顔を目の当たりにした彼女の表情がハッキリと変わったことからも、片桐も鷹木の様子が妙であることに気づいていないとは思えなかった。
「あ、あのぉ、鷹木トレーナー、随分と顔色が悪いですぅ……何か、あったんでしょうか……?」
「いや……別に……」
「トレーナーというのは、常に疲れてるもんですよ。オペラオーのような子を見ているなら、なおさらね。」
そう言いながら近づいてくる片桐の手には、学園内の自販機で購入したと思しき缶コーヒーが握られていた。先ほどからテーブル上に放り出されたままのタブレットの隣に、トンッ、と音を立ててそれが置かれる。
「休憩中でなければ、これだけお渡ししてそそくさと出発しようと思ってたんですが、多少は世間話している余裕もありそうですな。」
「出発……どちらへ?」
「京都レース場ですよ、明日の日経新春杯にドトウを出させるって、言いましたでしょ。」
「あぁ……。」
脳内が真っ白になり、ほとんど頭の回っていなかった鷹木はようやくそのことを思い出した。相変わらずメイショウドトウにはレース本番の経験をひたすら重ねさせる方針であるらしい片桐は、この一月中旬からさっそく出走の枠を取っていたのであった。
鷹木が担うことが次いつあるとも知れぬ、トレーナーとしての役目であった。変わらず心配そうにこちらの顔を注視しているドトウに対し、鷹木は無理に作った笑顔で返す。
「健闘を祈ってます、お気をつけて、ドトウも。」
「は、はいぃ、ありがとうございますぅ……!」
「この子を何事もなく京都に連れていくだけでも一苦労ですがね。さて……。」
片桐の言動はどこまでも常通りであった。あるいは彼であれば、自分が今置かれている立場においても、冷静なままを保てるのだろうかと鷹木は考えていた。肩のバッグをゆすって担ぎ直し、こちらに背を向けようとする片桐はそのままトレーニングルームを立ち去るものと思われた。
が、去り際、片桐は一言ぼそりと呟いたのである。
「主任会議は役員棟の三階、301号会議室で行われてますよ。」
鷹木は目の色を変えた。
とはいえ、決然たる意志の色がそこに浮かんだわけではない。生来からの臆病がそう簡単に治るものではない。
後になってから思い返しても、同期のトレーナーであるはずの片桐に対し、あまりにも自分がすがるような目つきを向けていたことを恥ずかしく感じるばかりであった。
いかにも頼りがいのある抜け目のない同僚によって用意された抜け道が、その時の鷹木に一条の光として見えたとしても仕方のない事であったが。
「じゃあ行きましょうかドトウ、鷹木さんも頑張ってくださいね。」
その後の彼を衝き動かしたものは、鷹木自身の気概ではなく、片桐への見栄がほとんどであった。
わざわざ重大な情報を与えられてなお、しょげ返って震えているだけの男だとは思われたくない。去っていく片桐とドトウがトレーニングルームから完全に離れてしまう前に、大きな音を立てて扉を開け、駆けだしていった鷹木の本心を余さず示せばそれ以外に無かった。
トレセン学園の役員棟は、数多い敷地内の建物の中でも特に歴史の古い棟である。
かつて学園創立間もない頃は教室棟としても使われていたらしいが、今は会議室や事務室、そして図書室にも並ばぬような貴重な資料の保管庫としての役割を担う建物であった。
鷹木のような若いトレーナーが足を踏み入れる機会はほとんど無く、各種届出や許可申請のために偶に訪れる程度である。若いトレーナーやウマ娘たちがトレーニングに励むエリアからも離れ、静けさに包まれた役員棟には学園内においても別世界じみた趣があった。
一階にて来館者の身分証をチェックする受付の事務員は、血の気の引いた顔色ながら全力で駆けてきて息を切らしている鷹木に怪訝そうな視線を向けた。が、そんなことを気にしている余裕は当の鷹木にはない。
古い建物には、エレベーターもない。長きにわたって使われ続け、良く踏まれる場所だけがすり減って多少へこんでいる石造りの階段を駆け上がり、彼は遂に三階の会議室前にたどり着いたのである。
しかし、「301」と金の文字が刻まれたその扉の前で、鷹木は自分が何の行動を取るべきかを見出せずにいることに気づいた。
まさか、「その会議、待った」とばかりに扉を蹴破って立ち入るわけにはいかない。会議中のベテラントレーナー達から一斉に向けられる視線を前に、弁を振るうだけの話術も持ち合わせていない。
そもそもうまく立ち回って見せたとて、若きトレーナーの気概溢れる行動に感銘を受けた役員たちが、一度決定した事項を覆すような真似など現実では起き得ないだろう。
「ハァ、ハァ……。」
ここまで一気に駆けてきたために収まらない呼吸の荒さの中、胸中でやはり健在であった怯えが再びハッキリと顔を出し始めた。
鷹木は主任会議からの指示を待て、と伝えられているのだ。ウマ娘の新たなるトレーナーを決定するための会議、鷹木を外すことを決定したのち、おそらく次に適任であるのが誰かを話し合っているところだろう。
その場に、前任のトレーナーが居る必要はない。居ては邪魔である。
扉を一枚隔てて、主任会議は今も続いている。ボソボソと、交わされる声が小さく漏れてくる。
「来たところで、何になるってんだ。バカか、俺は……」
「はぁーっはっはっは!その通りだね!!」
「!?」
余りにも聞きなれた高笑い。しかし、幾度も幾度も耳にしたそれは、耳元で聞こえるにしては音量が足りない。
オペラオーの笑い声は、扉を隔てて聞こえてくるのであった。今まさに、次なるトレーナーを決める会議に、オペラオーは呼び出されているのだ。
彼女が何を喋るのか、ベテラントレーナー達が何を伝えているのか。気になって仕方なくなった鷹木は、矢も楯もたまらず会議室の扉に飛びつき、ピタリと顔を押し当てて聞き耳を立てた。
とはいえ、オペラオーの声だけはわざわざ扉に耳を押し当てるまでもなく明瞭に響いていたが。
「その通り、ボクのトレーナーは誰でも良い!なぜって、この世紀末覇王には勝利が約束されているからね!誰がトレーナーであろうと、関係ないさ!」
真っ先に聞かされたショッキングな言葉に鷹木は目の前がブラックアウトしかけるも、どうにか意識をつなぎとめて耳を澄ませた。
オペラオーの言に応えているのは、聞き知らぬ壮年男性の声である。
「たしかにトレーニング内容がいかに拙くても、君が好成績を残しているのは事実だ。しかし、トレーナーの役目はトレーニングばかりではない、ウマ娘が出走するレースを選択することも含まれている。」
「ふむ、ごもっともだね!去年は皐月賞に東京優駿、菊花賞、それに有馬記念と、ボクに相応しい大舞台を次々と経験できて、素晴らしく充実した一年だったよ!」
「今挙げてくれたレースに出走したのは、何ら迷うことではありません。どのトレーナーであっても、あなたの能力を目の当たりにすればそのように選択したでしょう。」
また別の声が答える。今度は、先ほどのベテラントレーナーと同じほどの齢と思われる女性の声だ。
「うんうん!あぁ、覇王の美しさを披露する舞台は、おのずから定まるものだ!よく分かっているじゃないか!」
「問題となっているのは、誰にでも判断できる部分ではありません。オペラオー、あなたには競うに相応しいライバルと対決する舞台が必要なのです。」
「にもかかわらず、去年は綺麗にアドマイヤベガやナリタトップロードとの対決を避けるようなレース選びが為されていた。これは良くない、鷹木トレーナーは経験不足ゆえ致し方ないかもしれんが。今年度はマトモに出走レースを選べるトレーナーをつけなければ、な。」
扉に耳を押し当てつつも、鷹木の顔には大きな皺が寄って、歪んだ。数え切れぬほど思い返しては悔いてきた、オペラオーに出走させるレース選択。やはり鷹木は重大なミスを犯していたのだ、ベテランから見ても……。
ただ走るだけではない、人気を競い、ウイニングライブで観客たちを魅了するウマ娘は、世間からの注目度も無視できない。同じ世代において能力の拮抗するウマ娘がいるのなら、その相手とぶつかる回数が極力多いほどに、観客席は湧くものである。
それこそ、オペラオーの一つ上の先輩たち、黄金世代と呼ばれるウマ娘たちの人気も、そうやって築き上げられてきた。彼女たちの人気のおかげでウマ娘レースに足を運ぶ人数も爆発的に増え、URAは未曽有の盛況を見せていたのであった。
トレセン学園主任会議において重視されていたのも、その盛況を曇らせぬことであった。そのためには黄金世代のウマ娘がいずれ身体能力のピークを過ぎた時、次にURAの人気を担う顔ぶれが出そろっていなければならない。
期待の星であったアドマイヤベガが療養中である今、テイエムオペラオーにその役目が期待されるのは自然な成り行きであった。会議は尚も続く。
「やはり今年度を思えば、ナリタトップロードとぶつかる回数が多い方が良いだろうね。あとはツルマルツヨシに、オースミブライト、と言ったところか?」
「ペインテドブラックに、ラスカルスズカも忘れないで。ステイゴールドは四年目だけれど、今年も期待できます。レーススケジュールを組むなら、このあたりも考慮すべきでしょう。」
「グラスワンダーもまだ走ってくれるようだが、既に本格化のピークは過ぎているだろう。メジロブライトは……あの子も、そろそろ身を引く頃合いか?」
あんまり扉に強く横顔を押し当て続けていたため、鷹木の片耳は鬱血しかけていた。
淡々と進んでいく会議の内容を、彼はウマ娘トレーナーとは全く関係ない何かを聞いているかのような心持で頭の中に流し込んでいた。いかにして自分の担当ウマ娘の脚を速くするか、いかにしてレースに勝つか、その一点のみを考えていた彼には、思いもよらぬ内容の連続であった。
(ウマ娘の出走レースを決定するうえで、同世代のライバルウマ娘とスケジュールを合わせることが……そんな重要だったのか?)
自分の考えの中から全く抜け落ちていた思慮があまりに大きなものであったことを自覚すると同時に、しかし鷹木の中にはまるで納得など浮かんでこなかった。
たしかに、ライバルとかち合い、激闘を繰り広げれば世間からの注目度も得られるだろう。しかしそれは個々のウマ娘が純粋な鍛錬の末に行き着いたレース場で行うものであり、最初からそれを目的としてトレーニングや調整を行うのは、順序がひっくり返っているのではないか……。
そも、レースの目的は勝つことである。
オペラオーを勝たせられなかったことに関して自分の落ち度が見いだされたのだと信じていた鷹木は、まるで不本意な点が指摘されてオペラオーの担当を外される運びとなったことを知り、今度は明確に憤然たる心持ちが沸き上がってくるのを感じた。
とはいえ、アドマイヤベガとナリタトップロードが競い合ったレースにオペラオーも出してやれれば、より人気を得られただろうに……と彼自身が悔いていたことには違いなかったが。
しかし、鷹木が会議室に乗り込むより先に、オペラオーの高笑いが再びこの場を支配したのであった。
「はーっはっはっは!そうか、ボクを強敵と競わせることについて、キミたちは留意してくれるのだね!」
「あぁ、URAで観客が求めているものを、根本的に分かっているトレーナーでなければこの点は務まらないから……」
「では、ボクは帰って、今聞いたことを鷹木に伝えるよ!そうすれば、ボクに相応しいレースを、彼も選んでくれるだろう!」
ベテラントレーナー達が息を吞んで無言になった空気は、扉越しにであっても明瞭に鷹木へ伝わってきた。
不意打ちを食らったのは、聞き耳を立てている鷹木も同然であった。
「確かに彼は経験不足だ!優柔不断で、心狭く臆病で、何かにつけデータや過去のレース模様を持ち出さなければ、自信をもってトレーニングメニューひとつ決めることも出来ない!」
尤も、直後のオペラオーの言によって彼は再びのショックを与えられた。ドア越しの声に顔面右ストレートを食らったかのような顔になりつつも、彼は顔をドアに押し当て続けていた。
「分かっているじゃないか。鷹木トレーナーが真面目であることは我々も買っているが、いかんせんここから先はベテランでなければ勝手の分からない領域だ。」
「いかにベテランとて、ボクにとっては勝手の分からないトレーナーだよ。それに引き換え、鷹木トレーナーのことはボクが一番よく把握しているさ!」
「息が合うということを言いたいのかもしれませんが、二年以上も一緒に居たのなら当然のことです。いいですか、これからあなたが過ごす一年は、出走レースの選択ひとつでURA界の歴史を大きく書き換えかねないのですよ。」
「望むところさ!ボクが覇道を歩むこと、ずっと前から分かっていたからね!そして旅の相棒は、使い勝手のいいバッグに限る!」
ついに『バッグ』とまで言い切られた鷹木は、自らの心境を整理できないままであった。
扉の向こうのベテラン連中もそれは同じだったようで、オペラオーに言い返す言葉を探している最中なのか沈黙を続けている。その中から、静かに放たれた言葉があった。
「テイエムオペラオーくん。これだけは確かめさせてください。」
空間にその言葉を一つ一つ刻むかのような、重々しくも優しげな声色。結城トレーナーの声であった。
「ウマ娘は、自らの望むがままに走ることが許されている……仮に、君が今から二度と走らないと言っても、だれも止める権利を持ちません。」
「むろん、ボクは完全に世紀末覇王として戴冠するまで走ることをやめないけれどね!」
「えぇ、でしょうね。ですが、もしも目覚ましい活躍を見せられなかったとき……あるいは、大舞台に挑戦してなおも好成績を残せなかったとき。それでも君は歯牙にもかけないでしょうが、この社会じゅうから非難を浴びるのは鷹木トレーナーです。」
ドクン、と鷹木の心臓に大きな一撃が加わる。
URA、ウマ娘レースは現代日本の社会現象だ。一過性のブームなどではなく、もはやこの社会に浸透した一文化である。そこに華々しい経歴を刻むことは他に代えがたい栄誉であったが、逆に汚名を刻んだが最後……取り返しはつかない。
既に、華々しいレースとウイニングライブの影で、敗れ、誹謗中傷の海に沈んでいった選手、トレーナーの数は歴史と共に増していった。
自分をオペラオーの担当から外すという判断は、たしかに正当だったのだ、と鷹木は思い知らされた。万が一にでもトレーナー業を続けられなくなれば、再び社会に放り出され、職を探さねばならない。
その際、勝手なことを言い募る世間一般の素人を、無視してきたツケを支払わされるのは鷹木自身に他ならない。
「そのうえで、あらためて問いたい。君は、鷹木トレーナーをそれでも連れていきますか?」
「もちろんさ!ボクは負けないからね!」
オペラオーの返答に、一切の淀みは無かった。
呼吸の止まったまま盗み聞きを続ける鷹木に追い打ちをかけたのは、やはり彼女の言葉であった。
「そんなにも不安なら、ボクからも一つ約束しよう!今後、ボクが一度でも負ければ、鷹木をボクの担当から外すといい!むろんボクとて、君たちのいうところのベテラントレーナーなる者の手腕もまた気になるからね。」
会議室の中に、どよめきが起こる。それは驚きを含んでいながらも、一種の安心がいきわたっていく響きが主であった。
今の自分の顔を鏡で確認することが出来れば、鷹木は自らに死相までも見出したかもしれない。覇王、テイエムオペラオーについていくということは、もはや魂を削ってすり減らすことに他ならなかった。
互いに低い声で意見を言い合うベテラントレーナー達を取りまとめるように、結城トレーナーの声が全体のどよめきを止めた。
「いいでしょう。その通りにしてよろしいですか?秋川理事長。」
「承諾ッ!我が学園は、ウマ娘の意向を優先するッ!」
今の今まで一言も発さず場の様子を見守っていたのか、鷹木もまさか同席しているとは思わなかった理事長の特徴的すぎる声が扉の外にまで響き渡ってくる。
彼女に負けじとばかりに、オペラオーも朗々と返答した。
「感謝するよ!理事長!さぁ、そうと決まれば早速ボクは鷹木のもとに戻らせてもらう!来月の京都記念まで、一秒も無駄には出来ないからね!」
盗み聞きの体勢のまま、呆然としていた鷹木は慌てて耳を扉から離し、足音を忍ばせてその場から離れようとする。まもなく、オペラオーや会議を終えたベテラントレーナーがぞろぞろと出てくるのだろう。
しかし、彼は足音を忍ばせている場合ではなかった。
「ぐあっ!?」
勢いよく開かれた扉が彼の顔面に激突し、鼻血が噴き出す顔を抑えながら仰向けに倒れた姿を、鷹木は会議室の面々が注視する中に横たえる羽目となったのだ。
「おっと!これは鷹木トレーナー!ちょうど良かった、たった今からキミに会いに行こうとしていたところさ!」
「……ほ……ほう……が……」
口の中まで鼻血があふれてきた鷹木は、実に間抜けな声しか出せなかった。
「どうやってこの部屋で主任会議を行っていると知ったんですか?君は随分と良い友人に恵まれているようですが。」
呆れたような目の結城トレーナーが、口元だけは微笑みながら呼びかける。きっと、嗅ぎまわって告げ口をしたのは片桐であると知られているのだろう。
他のベテラントレーナーたちも苦笑している真ん中で、会議室の窓から後光を浴びた秋川理事長の声が迸った。
「感心ッ!正式に担当を外されるまで、自らの担当ウマ娘を気遣う意気や良しッ!いざ挑めッ!栄光の未来へッ!」
「はん……はんぎ……」
「言われるまでもない!ボクの担当から外そうと一度は決定しかけたことを、貴様ら全員に後悔させてやろう!せいぜい震え戦慄いて待っているがいい!と、鷹木は言っているよ!」
「おっ、おん……!?」
相変わらず鼻血の止まらないままマトモに喋れぬ鷹木は、あまりにも強気に過ぎる覇王式同時翻訳を前にいよいよ青ざめていくばかりであった。