トレセン学園主任会議にて、テイエムオペラオーの担当トレーナー変更に猶予が与えられた、その翌日。
どうにか担当外しを免れた鷹木は、全天候型練習場の中に立ち尽くしている自らの存在を見出していた。今の状況が本当に夢ではないのか、と幾度か足踏みして見れば、良い状態に保たれている芝がサクサクと足元で音を立てる。
ちょっとした市や区を優に飲み込むほど広大な敷地面積を誇るトレセン学園には、ごく限られた一握りのウマ娘とその担当トレーナーしか立ち入りの許されない区画が存在する。
この全天候型練習場があるのもそういった区画の一つであり、読んで字のごとく、いかなる天候であっても望むがままの環境で練習することが可能な芝とダートのトラックである。
多くある本番のコースに近い、一周約2000mのコース。それを完全に覆う可動式の屋根、さらに気温や芝状態を調整する機能までも備わっている。外がいかなる豪雨に見舞われていようとも晴天時を想定した練習を行え、逆に空が晴れていても練習場内部では雨降るレース場を再現して練習することまで出来る。
そして、このような豪華極まりない練習環境を、トップクラスにあると認めたウマ娘ひとりに一か所丸ごと与えるのがトレセン学園という場所なのだ。現時点で、10の全天候型練習場が敷地内には存在する。その1つが、テイエムオペラオーに与えられた。
……鷹木は、改めて自分の頬をつねった。自分が現実を目の当たりにしていることを確認する、そんな古典的かつコミカルな手法を実際に取ることになろうとは思いもよらなかった。
「本気なんだな……学園は、オペラオーに対して。」
もちろん、鷹木も今まで彼女のトレーニングを担当してきた人間として、オペラオーに本気で向き合っているつもりではある。が、かくも設備や環境の格が違う場所にいきなり放り込まれれば、トレセン学園勤務数年目の若手トレーナーは暫し呆然とせざるを得ない。
結城トレーナーのような伝説的人物も、ここで担当ウマ娘の指導を行ってきたのだろう。黄金世代を眩く彩るスペシャルウィーク、グラスワンダー、セイウンスカイらスーパースター級のウマ娘も、このような環境で練習に励んできたのだろう。
オペラオーがここまで理想的な練習環境を与えられたにも関わらず、勝てなければ……鷹木が担当を外されるばかりか、中央トレセン学園に居続けること自体困難になる未来も、いよいよ現実的に感じられた。
「わ、分かってる。俺は腹をくくったんだ、逃げ道なんて無い。」
自らに言い聞かせるため呟いたそんな言葉にも、震えをごまかすことなどできなかった。
昨日の主任会議が理事長の威勢良い声で締めくくられた後、実は鷹木は結城トレーナーと言葉を交わす機会があった。
人間用の保健室へ向かい……ウマ娘たちへの処置に滞りが決して起きないよう、人間向けの保健室は校舎の隅にこじんまりと設けられている……ドアで強打した鼻からの出血を止めるまで安静にしている鷹木の元に、訪れたのが結城トレーナーである。
URA界の発足当初から最前線で指導を続けてきたレジェンドトレーナーは、テイエムオペラオーから担当を外される前に猶予を与えられた若手を前に、表情ばかりは柔らかであったものの重々しい声で問いかけた。
「トレセン学園は、常にウマ娘自身の意向を尊重する。……あくまで尊重するだけだ。オペラオーくんの指名によって君の続投が決まったが……別のウマ娘の担当を希望するなら、その道が閉ざされているわけでは無いよ。」
その時点で、鷹木は自らの意思でテイエムオペラオーの担当を外れようとする選択の意味を十分に理解していた。
GⅠウマ娘、それも勝ちが手に届く領域のウマ娘は、常に観客から注目されている。ウマ娘レースが社会現象となっているこの世間においては、社会全体から視線を集めているも同然だ。
そんなウマ娘が期待されるような実績を挙げられなければ、担当トレーナーが槍玉にあげられることは避けがたい。
「トップを走るウマ娘を担当する道は、栄光ばかりに彩られてなどいない。僕も、観客席からの罵声を山ほど浴びせられてここまで来たようなものだからね。それでもなお、君がオペラオーを担当し続けたいというのなら、それは君の選択だが……。」
「やります。」
その一言を返した鷹木は、自身の瞳にどれほどの決意が宿っていたのか、甚だ疑わしく感じていた。が、こちらの顔を覗き込んでいた結城トレーナーが、じっくりと見定めた後に納得して頷いたことは、多少の心強さを与えてくれた。
とはいえ、一夜明ければ、オペラオーと共に氷雪吹きすさぶ高み、急峻なる稜線を歩まんとする決意は早くも揺るがされつつあったわけだが。
一人きりで立つにはあまりにも広すぎる練習用トラックの上で、その全てを覆いつくす可動式の巨大な屋根を見上げ、鷹木は圧倒されっぱなしであった。これほどに巨大な構造物が、壁に備えられたボタン操作一つで壮大な動きと共に開いていくのだ。
当然ながら、試しにちょっと開けてみようなどという気にはなれなかった鷹木。とはいえいつまでも呆然としてはいられない、彼は今日予定しているオペラオーのトレーニングメニューをタブレット画面上にて確認しはじめた。
そんな彼の背後で、躊躇なく大屋根の開閉ボタンを押し込んだのは、当然ながらテイエムオペラオーであった。
突如、全身を包み込むごとく轟いた低く大きな駆動音が頭上から降り注ぎ、跳びあがる鷹木。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で立ち尽くす彼の隣を走り抜け、厳かに屋根が開いていく全天候型練習場の中央に立ったオペラオーは、降り注いでくる日の光を浴びながら声を響かせた。
「あぁ、素晴らしい!覇王の居城が、なんと麗しく壮大に聳えていることか!ボクが夢で見たままに、僕の意思通りに、強く、美しく!気高くも、壮麗に、威容を誇っている!」
マイクやスピーカーを通しているわけでもないのに、この巨大な空間の中で、オペラオーの声は朗々と響き渡る。
丸二年以上にわたって間近で見てきたはずの担当ウマ娘が、屋根を大きく裂いて光差す中で立つ姿に不本意ながらも畏敬に近いものを感じつつ、鷹木は自らとオペラオーとの間に隔たる感性の差を実感せずにはいられなかった。
「あの調子じゃ、またアイツは時間を無駄にするわ。何をボヤボヤしてるの、最高の練習環境を手に入れたのに。」
またしても予告なく背後から話しかけてくるアドマイヤベガの声に、鷹木は改めて跳びあがった。
オペラオーの練習場所が本格的に一線級ウマ娘に用意されるフィールドに移ってなお、アドマイヤベガは彼女を間近で見ていられる場所に陣取るつもりのようであった。
その脚の不調がいつまで続くのかは定かでなかったが、走りこそしないものの見学中も極力歩く距離を稼ごうとしているあたり、アドマイヤベガのレース復帰は着実に近づいているとも取れた。
そんなアドマイヤベガにせっつかれる形で、オペラオーに新たな環境でのトレーニングを開始させようとした鷹木。だが、今日のトレーニングメニューを伝えようとしかけた彼の言葉を遮って、オペラオーは思いもよらぬことを口走ったのであった。
「今日は、我が殿堂に愛おしき客人たちを招いたよ!もうじき来るはずさ、ボクに輝きを添える陽射しに導かれて!」
「『我が』って、アンタのものになったってワケじゃないでしょ。」
「オペラオー、何を勝手なこと言ってるんだ。学園側から本格的な練習場を与えられたってのに、遊んでる場合じゃないだろ。」
アドマイヤベガが指摘した通り、完全にこの全天候型練習場がオペラオーの専用練習場になったわけではない。戦績向上の見込みがなければ、他のウマ娘にとってかわられるだろう。利用したいという希望者は、それこそ数限りなく存在するのだから。
そも、一度でも勝てなかったら、鷹木は担当を外されるわけだが。
悲愴とも呼べるほどの決意を固めていた鷹木と比べるまでもなく、オペラオーは自然体のままであった。アドマイヤベガも呆れ顔を浮かべるその背後から、ドヤドヤとやってきた一団がある。
とはいえ、いつも通りの顔ぶれが揃っているのを目にした鷹木が心のどこかでホッとしたのは事実であった。オペラオーに負けず劣らず、この凄まじい規模の練習場に臆することなく真っ先に声を上げたのはやはりアグネスデジタルである。
「目覚めの太陽が、水底に眠る黄金に挨拶していような、暖かな光!ここが覇王の殿堂でしょうか!」
「そうとも!御覧!明るい光の中に微笑む黄金を!」
集団の後方で片桐トレーナーに付き添われ、目を真ん丸くしたままにおずおずと近づいてくるのはメイショウドトウ。一方、同行していたエアシャカールやナリタトップロードの表情に驚きの色はなかった。
シャカールは相変わらず攻撃的に逆立てた髪を振り、周囲を見回して口を開く。
「ここも、同じか。ったく、こんなバカでかい規模の練習場を10個も持ってるだなんて、トレセン学園はどんだけぶっ飛んでやがるんだ。」
「『同じ』……って、シャカールは他の全天候型練習場を見たことあるのか?」
鷹木の呟いた疑問は今なおうるさく掛け合いを続けているオペラオーとデジタルの声によって遮られたが、真隣りにいたアドマイヤベガが代わりに返答する。
「担当が、結城トレーナーなんだもの。黄金世代ウマ娘との練習か何かで、連れてこられたことはあるでしょ。」
「そうか……。」
「トップロードは、たぶんオペラオーと同じよね。」
当のナリタトップロードが近づいてくるにつれ、アドマイヤベガの冷たく澄んだ声に温かみと色味が増していく。彼女の心境が変化していくグラデーションは見事なものに滑らかであった。
「やぁ、アヤベ。オペラオーくんから合同練習に呼ばれたんだけれど、やっぱり君も居たんだね。」
「この脚が治れば、一緒に走れたんだけれど。もどかしい。」
「賑やか好きなオペラオーくんのことだもの、また何度でも私たちを呼ぶだろうね。何なら、私にあてがわれたほうの練習場に来てくれてもいい。」
「その時は、本気で走らせてもらうわ。」
彼女らの話から聞き取るまでもない事ではあったが、やはりナリタトップロードにも全天候型練習場が与えられているのだ。
黄金世代のウマ娘たちに続き、一年後の世代も身体能力の本格化が最高潮に達した今年。オペラオーとトップロードの両名を、URAを盛り立てる大看板としてトレセン学園が仕立て上げようとしているのは間違いなかった。
新年会以来、二度目の集まりとなったウマ娘たちが口々に話を交わしている場を通り抜け、片桐トレーナーと桂崎トレーナーが鷹木に近づいてくる。片桐はいつも通りに企み顔で口角の片端を上げ、わざと仰々しくお辞儀をして見せた。
「本日は、このような素晴らしい練習場にお招きいただき、誠に恐悦至極であります。」
「いやいや、やめて下さいよ片桐さん。ホントにすみません、ウチのオペラオーが勝手な思い付きで……。」
「とはいえ、これほどの練習場を思い付きひとつで合同練習に用いることが出来るのも、ウマ娘たちの関係あってのことですから。」
桂崎もまた、常通りに温厚な表情を浮かべて鷹木の前に立っている。先ほどまで一人きりで、この凄まじい練習環境を担わされたことへの重圧を背負っていた鷹木であったが、ここにきて大いに精神面が救われている自分に気づいていた。
「さ、我々もウマ娘たちも、時間をそう無駄にしてはいられません。早いところ、お宅の王様に音頭を取ってもらわないと。」
「ですね……おーい、オペラオー。そろそろ始めてくれ、こちらも準備する。」
「おっと!招いた客人の前で茶を冷まさせるわけにはいかないね!ではお集まりの諸姉、ウォーミングアップを行ってスタート地点へ!」
個性的な面々の集まった場ではあったが、オペラオーのよく響き渡る声は全体に号令をかけるのに大いに役立った。
彼女と出会ったばかりの頃は、いかにしてオペラオーを御すべきかばかりに悩まされていた鷹木であったが、今や、彼女の思い付きや振る舞いを信頼できるほどにはなっていたのである。
一方、トレーナー達はウマ娘たちとは別方向、練習場の隅にある制御室へと向かっていた。
鷹木も桂崎も全天候型練習場の仕様書に目を通し切れていなかったため詳細な操作は知らなかったのだが、なぜか二人をリードしていた片桐がこの練習場特有の機能については詳しかった。
「こちらのパソコンを起動して、制御盤も電源を入れましてね。ほら、練習場の大型ディスプレイが映りました。スタートとゴールはハイスピードカメラで確認できますし、タイム計測もやってくれます。隅々まで本番同様の仕様で走ってもらうことが可能なんですよ、スタート枠は設営スタッフを呼ばなきゃ設置できませんが。」
「片桐さん、どうして我々よりも詳しいんです……ここに来るの初めてですよね?」
「まぁ、あちこち鼻を突っ込んで嗅ぎまわるのが性分ですので。ほら、ウマ娘たちが準備完了したようですよ。」
片桐が指さす先、ディスプレイの向こう側でオペラオーが手を振りながらスタート地点へ向かっていく。彼女の目には超満員の観客席が映っているのか、詰めかけたファンへ向けてのサービスも練習に入れているらしかった。
「スタートの合図はどうしようか、トレーナー!やはりこのボクが、声を掛けるべきかな!?」
相も変わらず、どれだけ離れていてもハッキリと届くオペラオーの声に半ば呆れながら、鷹木は制御盤のマイクのスイッチを入れて返答した。
「いや、こちらでスタートの合図を出す。準備はいいか。」
練習場全体に、ゲートが開く音が響き渡る。
一斉に駆け出したウマ娘たちの蹄音が続き、先ほどまで緊張の中で静まり返っていた練習場の空気はレースの熱に溶かされ、流動し始めた。
(気圧されてる場合じゃない……存分に、この環境を使って勝ちにいかなきゃならないんだ。オペラオーと、共に。)
鷹木は自らの決意を確かめなおす間もなく、目の前で繰り広げられるウマ娘たちの練習競走へと食い入っていた。
彼とオペラオーの行く末を決定づける最初の舞台、二月の京都記念まで一か月を切っていた。