二月に入り、必然的に鷹木は京都記念出走ウマ娘のリストと睨み合う時間が増していった。
このレースでテイエムオペラオーに一着を獲らせてやれなければ、彼女のトレーニング担当から外されることが決まっている鷹木。言わずもがな、オペラオー自身の鍛錬のみならず、競走相手の分析にも血眼となっていた。
当のオペラオーはと言えば、新年度での活躍を期待されるGⅠウマ娘の一員として全天候型練習場……理想的な練習環境を与えられたおかげで、順調にその脚を大舞台に向け仕上げていっている。
その揺らぐことのないメンタルも合わさり、常に絶好調であると称しても過言ではなかった。
とはいえ、昨年度はそんな絶好調の状態で挑んだ結果、東京優駿以降のレースに敗れ続けているのだ。経験の浅い鷹木が彼なりに見出した敗因は、今さら言うまでもないことでもあったろうが、ライバルウマ娘への警戒不足であった。
オペラオーのデビュー当初、自分が余計な口出しをしたがために担当ウマ娘から勝利を遠ざけていたと考え続けていた鷹木であったが、ろくろくマトモな分析も出来ていないトレーナーの口出しが良い結果を生まぬのも当然のことである。
今ならば……たかだか一年ほど経ったに過ぎないが……クラシック級の主たるレース本番をオペラオーとともに挑みぬいた今となれば、昨年の自分には見えていなかったものが見えてきているのではないか。
そう自分に言い聞かせでもしなければ、総身が慄き立つほどの焦燥を抑えきる自信が鷹木には無かった。
「ステイゴールドは……もう5年目に突入するのか。有馬記念では目立たなかったが、アメリカジョッキークラブカップで二着……逃げ寄りの先行策。有馬記念の時とは作戦を変えているな。」
オペラオーを寮に帰した後、薄闇に包まれたトレーナー室へ戻り、パソコンの画面に顔を照らされながら鷹木はボソボソと呟いていた。
黄金世代が躍進する年度、数々の華々しい大舞台にて、ことあるごとにその名を二着三着の表示に記していたのがステイゴールドである。
サイレンススズカ、メジロブライト、グラスワンダー、セイウンスカイ、そしてスペシャルウィーク……名だたる強豪ウマ娘に阻まれつつも、彼女は常に一着の座を脅かし続けてきた。
そんな彼女がここにきて走りを変えたことについては、当然ながら鷹木も警戒せざるを得ない。
既に身体能力の本格化ピークを過ぎていると言われる時期に差し掛かっているウマ娘にも、それまで走り続けてきただけの経験が備わっている。すなわち、自分の今までの走りとは質を異にするレースにも柔軟に応じやすくなっているということだ。
例えば、ステイゴールド同様になかなか勝ちきれない状況が続くキングヘイロー。マイル路線へと切り替えて以降の彼女は、二着、三着と好順位に着け始めている。
有馬記念ではオペラオーの後方、十着に終わったステイゴールドに、今度は逃げ切られる展開が無いとは言えなかった。
「だが、やはり一番警戒すべき相手は……ナリタトップロードに決まってるよな。」
トレセン学園入学当初からオペラオーの良き学友であり、昨年度よりオペラオーと一着争いを続けてきた宿敵でもある、ナリタトップロード。
アドマイヤベガが未だ復帰できていない今、ベテラントレーナーたちが今年度からURAの看板として打ち出そうとしているのが、トップロードとオペラオーの激突であることも至極当然である。
オペラオーから一着の座を奪う相手となれば、間違いなく彼女である。が、これまで幾度も共に練習し、本番でぶつかり合ってきた相手であるからこそ、鷹木にもその走りを予測できるようになってきていた。
基本的には逃げ寄りの作戦を得意とするトップロードだが、昨年の皐月賞や東京優駿のように、アドマイヤベガに似た追い込み策へと作戦を転じる可能性もある。
何をもって作戦変更の判断を彼女が、あるいは桂崎トレーナーが下すのか、未だに鷹木には推し量れぬ所であったものの。
「トップロードが逃げを打てば、彼女をマークするに越したことはない。だが、その裏をかくようにトップロードが追い込みを取る場合は、お前まで下がる必要はない。ステイゴールドをマークしろ。」
翌朝、練習前のストレッチを行っているオペラオーの前で、鷹木はそのように京都記念へ向けての作戦を告げていた。
早朝であろうとも寝ぐせ一つ残っていない栗毛の上に、耳を立てながらストレッチに集中していたオペラオー。相変わらず何事かに集中する際は常とは対照的に黙り込む彼女が、再び口を開いたときに転がり出てきた声は心なしかいつも以上の明るさを含んでいた。
「ボクに作戦を指示することにしたんだね、トレーナー!」
以前からもそうであったが、彼女が鷹木のことを「トレーナー」と呼ぶのはごく稀なことである。大抵はどこぞのオペラから引っ張ってきたよく分からない呼称をあてがわれるのが鷹木の常だった。
その時のオペラオーは、表情にも常より多くの嬉しさを浮かべていたかもしれない……朗らかであることがデフォルトの彼女にそれを見出すのは、昼間に星を探し出すことと同様に困難であったが。
しかし鷹木が小心者であることには変わりなかった。
「いや、お前が走りたいやり方があるんなら、そっちを優先してもらっていい。俺はあくまで、過去のレースのデータから判断してるだけだから……。」
オペラオーからの返答を受けた途端に目線を逸らし、自分の提案を下げようとする鷹木。
そんな彼の軟弱さを目の前にしてもオペラオーの表情には大した変化が無かったあたり、やはり彼女は平常運転だったのかもしれない。
「ボクはあらかじめ走り方を決めてなどいない、以前もそう伝えただろう?何も言われなければ、ボクは己が心の赴くままに足を運ぶだけさ!」
「だったら……ステイゴールドの後ろにつけるんだ。サンデーサイレンス血統のサンデーセイラもノーザンテースト血統のトキオアクセルも、確実に逃げで走る。お前の得意とする先行の位置からであれば、前を走る連中を差し切ることは難しくない。」
「当然さ、ボクの覇道を容易く阻む者などいない!我が宿敵、トップロードくんを除けばね!」
自分の担当ウマ娘と、ここまで来てようやくトレーナーらしいやり取りがこなせたような気分を味わっている鷹木を背後において、オペラオーは練習用トラックへと駆け出して行った。
やがて日は過ぎ、二月も下旬へと差し掛かろうとする、早春の京都。
「きっと、今日のレースはあなたとトップロードの先頭争いで決着がつくでしょうね。当然、私はトップロードに勝ってもらいたいけれど。」
「あぁ、我が愛しの一等星!キミの光をボクへと振り向かせるため、覇王の走りを存分に披露してくれよう!はーっはっはっは!」
京都レース場の前で待ち構えていたアドマイヤベガからは斜に構えた激励が贈られ、テイエムオペラオーは悠々とレース場に入る。当然ながら、このレースにオペラオーが勝てなければ担当を外される鷹木に対しては、何の言葉もなかった。
むしろアドマイヤベガは、オペラオーにより能力を発揮させられる有能なトレーナーを求める側であった。
自らが孤立無援の戦場へ赴くかのような、レース場の大歓声も自分の願いとは全く異なる方に向けられてでもいるかのような妄想まで抱きながら、鷹木はトレーナー用のブースに入る。
とはいえ、昨年末の有馬記念でグラスワンダー、スペシャルウィークを相手取って善戦したという評判の知れ渡っているオペラオーは、一番人気であった。
〈1番人気を紹介いたします、テイエムオペラオー!大歓声が京都レース場を包み込んでいます、皆さん待ってましたといわんばかりの盛り上がり。昨年はアドマイヤベガやナリタトップロード相手になかなか勝ちきれなかったレースもありましたが、有馬記念では黄金世代の錚々たる顔ぶれに食いつく健闘を見せてくれました。今年からはこのウマ娘がURAの顔となるか、テイエムオペラオーです!〉
アナウンサーによる実況も、すっかりオペラオーを主役として引き立てるものとなっていた。
あとは、担当トレーナーである鷹木が、オペラオーに相応しい存在であるとの証が見いだされるか、否か。
オペラオーにとってはシニア級の緒戦、鷹木にとっては自らの命運を決する大一番が始まる。
〈スタートしました!まずまず揃ったスタートを見せました、ハナに立ったのはトキオアクセル、続きましてサンデーセイラ。三番手にケイズドリームといった順であります。続きましてミスズシャルダン、ステイゴールド。1番人気テイエムオペラオーはその後ろ、彼女の背後にナリタトップロードがつけている!〉
鷹木の予想通りの滑り出しであった。ノーザンテースト血統のトキオアクセル、サンデーサイレンス血統のサンデーセイラが先頭で逃げていく。追うようにつけたステイゴールドは、やはり最終コーナーあたりから先頭を奪い去る作戦のようであった。
オペラオーは、鷹木が指示した通りにステイゴールドの後ろに位置している。実際に本番の始まった今となれば、その姿を見つめる鷹木の胸中にさしたる不安は浮かんでこなかった。
〈さぁ大きく順位が変わることもなく、各バ1コーナーを回っていきます!テイエムオペラオーのウチを突いてデピュティーアイス、その後ろブリリアントロード。ナリタトップロードは後方から三番手、その後ろにはロングシコウテイ、テナシャスバイオと続いております。〉
京都記念のコースは1コーナーまでの直線が長い。この時点での順位を最後のスパートまで保つことを考えれば、オペラオーは良い位置を取っていると言えた。
メイクデビュー当初と今は違う、幾度もの大舞台、数え切れないほどの練習を経て、彼女は集団に脚を取られずゴールを目指すだけの技も身に着けているのだ。
ただ……一つの想定外があるとすれば、ナリタトップロードのことであった。トップロードが、オペラオーをマークするかのようにピッタリ背後についてくる。この形は、昨年のレースを思い返しても、もちろん練習中であっても、一度も見たことなどなかった。
「また、桂崎さんが隠し手を使ったか……。」
今年度に入っていよいよオペラオーを脅かす存在、トップロードのトレーニングを担当するあの男はたしかに有能なトレーナーであった。
〈向こう正面に入りまして先頭変わらずトキオアクセル、サンデーセイラ。その後ろケイズドリーム……ステイゴールド少し前に出て現在四番手。テイエムオペラオーも順位を上げています、ナリタトップロードもピッタリ後ろに着けている。やはり黄金世代の優駿をマークしているといったところでしょうか。〉
ステイゴールドの不穏な動きに、鷹木は僅かながらの不安を覚えた。なかなか勝てていないウマ娘とは言え、相手は本番出走回数で上回る先輩である。
向こう正面にて加速したステイゴールドに続き、彼女をマークしているオペラオーが離されまいと足を速めた。が、このコースは3コーナーまで上り坂が続いている。
これが、最終スパート前にスタミナを浪費させようとするステイゴールドの策であれば、まんまと乗せられたことになってしまうが……。
「みすみす逃がせば、もう追いつくチャンスはないだろう。信じるんだ……オペラオーは負けないと言った。」
鷹木が自らに言い聞かせる声は震えていた。
〈3コーナーを回ってまいります、間もなく最終コーナー!さぁ下り坂だ、ステイゴールドが上がってくる!それをにらんでテイエムオペラオーも外に出た、ナリタトップロードも後を追っている!先頭トキオアクセル、サンデーセイラ逃げている!間もなく最終ストレートです!〉
最終コーナーの時点で、オペラオーは前から五番手。既に先頭の逃げウマ娘を捉えられる位置にあり、ステイゴールドに関しても徹底マークしていたおかげで引き離されていない。
「行け……行け、最後まで全力で行け!」
鷹木の声量を駆り立てていたものがあったとすれば、それは不気味に背後を取り続けるナリタトップロードの存在であった。
〈直線に入ってまいりました、ステイゴールド既に仕掛けている!大外からテイエムオペラオーが来た、ナリタトップロードも上がってくる!先頭集団逃げている……おっと!?ケイズドリームが失速!〉
勝利目前にまで迫ったレースのゴール直前、一つの予想外が起きた。三番手で逃げていたケイズドリームが突然つんのめり、そのまま急速に速度を落としていったのだ。
まるでサイレンススズカが粉砕骨折を起こした時と同じような光景を目の端に、それでも鷹木はオペラオーから目を離すことが出来なかった。
〈先頭に立ったのはステイゴールド、だがテイエムオペラオーが来た!テイエムが先頭だ、ナリタトップロードがピッタリとついてきている、並んだ、並んだ!二名並んでゴール!〉
ほとんど同時のゴール。有馬記念にて、グラスワンダーとスペシャルウィークが先頭を争った時をなぞるような瞬間であった。しばらく沈黙した実況であったが、間もなく結果を告げた。
〈勝ちましたのはテイエムオペラオー!ハナ差、ハナ差での勝利です!二着、ナリタトップロード!強さを見せつけました、やはりこの二人!1バ身差、ステイゴールドは三着であります。〉
「あ、あぁ、ぁ……」
情けなくも安堵の喘ぎと共に、ヘタヘタと床に崩れ落ちる鷹木。自分がオペラオーの担当を外されるかもしれないという懸念を、ようやく今になってレース中の緊張が引いていくと同時に思い出したのだ。
やはり、ウマ娘が走る姿を前にすれば、それ以外の些事が頭から抜け落ちるのがトレーナーという存在なのだろう。ずり落ちた自らの体を再び椅子に引きずり上げながらも、彼の視線は会場の大型スクリーンに映し出されたオペラオーの顔から外されなかった。
しかし、今年初の勝利を手にしたオペラオーの顔に、笑みは浮かんでいない。彼女が何かを案じるような視線は、まだゴールしていない……いや、出来ていないウマ娘の方に向けられていた。
ほどなくして鷹木も、実況アナウンサーが告げた言葉で何が起きたのかを知ることとなった。
〈ケイズドリーム、競走中止となりました。どうやら、脚に異状があった模様です。歩けないようですが……救護の係員が搬送を行います。〉
スクリーンの画面が切り替わり、大写しにはしなかったもののターフ上に倒れこんだままのケイズドリームの姿が見える。
深く前髪がかぶさった彼女の表情は鮮明には見えなかったが、痛みか、悔しさか、強く強く食いしばったその口元だけはチラリと覗いたのであった。