あのウマ娘についての一報は、小さく載せられたばかりであった。
京都記念が行われた翌日、新聞記事やネットニュースにデカデカと報じられたのは当然ながらテイエムオペラオーによる久々の金星である。昨年末の有馬記念にて黄金世代の先輩たちと競り合った新星が、いよいよ快進撃を始めたとばかりに各誌、メディアは書き立てていた。
むろん鷹木としても喜ばしいことに違いは無い。わざわざトレーナーの名前を載せ、彼の功績としてこの勝利を認めた記事はどこにもなかったが、オペラオーの担当トレーナーを続けるうえで課せられた高いハードルの一つを越えられたのだ。
一度でもオペラオーが一着を獲れなければ、鷹木は担当を他のトレーナーに譲る。ほぼほぼ無謀とも思える条件の最初をクリアしたことは、このシニア級をオペラオーと共に歩まんとするうえで確かに大きな希望の光となっていた。
が、それでも、鷹木は思い起こさずにはいられなかった。大歓声に包まれた京都レース場、ゴールすることも叶わぬまま、倒れこんでいたあのウマ娘のことを。
ケイズドリーム。その名を各記事の隅々まで目を凝らして探した結果、見つけたのはたった一つの簡潔極まりない記載のみであった。
〈……ケイズドリームは競走中止、現在は治療中である。〉
なんの異状があったのか、怪我はどの程度のものなのか……何ら説明はない。
しかし、あのつんのめったような動き、あの急激な失速。二年前の秋の天皇賞、サイレンススズカが粉砕骨折を起こした時と、その光景は酷似していた。
これといって目立った症状の見られないアドマイヤベガでさえ、これほど長期にわたる治療期間を要しているのだ。目に見えて重症である様が明らかであったケイズドリームが、少なくとも今年度中に復帰できる可能性は限りなく低い。
今年度。ウマ娘としての身体能力が全盛期を迎える、この年にである。
去年まではオペラオーやトップロードの活躍の影に追いやられ、それでもシニア級では巻き返そうと意気込んでいるウマ娘は少なくないだろう。少なくないどころか、全てのウマ娘がそうであると断言しても間違いではない。
シニア級最初の大舞台、そこで脚を故障し、身体が本格化を迎えたままに夢を諦めざるを得ないウマ娘の無念が、如何許りのものか。
あの時見た、ケイズドリームが悔しさのあまりに食いしばった口元が、鷹木の視野の真ん中に刻まれたままであった。あの状況が彼女にではなく、オペラオーの身に降りかかっていたら……そう考えるたびに、慄然と襲い来る悪寒に身震いすることは止められなかった。
テイエムオペラオーは、そんな災難に見舞われてもなお、笑うだろうか?
少なくとも、京都記念のゴール後、一着になったにもかかわらず、彼女はいつもの高笑いを披露していなかった。その表情はあまりにも微妙すぎて読み取れなかったが、振り返って真っすぐに向けられた視線は、倒れたまま救護員によって運ばれていくケイズドリームを見据えていた。
鷹木にとっての心配事は、その件にも端を発していた。勝利しようと敗北しようと、レース後には笑っていたオペラオー。彼女が一切笑わぬままレース場を後にするのは、それだけ異常事態だったのである。
何があったとしても揺らぐことのないメンタルの持ち主。オペラオーのことをそう信じていられたため、鷹木は少なくとも精神面でのサポートにはいっさい感けることなくここまで来たのである。
もしも、彼女が沈んだ表情を練習場に現し、本番中に怪我をすることへの不安を相談されれば、鷹木はその不安を解消してやれる自信などなかった。
思いっきり、何の不安もない状態で全力をその脚に負担させることが出来るからこそ、ウマ娘は本気で走れるのだ。怪我の心配を胸中に残したがため、躊躇ない走りが出来ぬままズルズルと負けていくウマ娘は珍しくない。
そして、鷹木はそういったメンタル面でのサポートを何よりも苦手とする若手トレーナーであった。
「いや、まず、俺が不安がってるところを見せちゃダメだ。オペラオーの脚にかかっている負荷は、全てのトレーニングを通しても入念にチェックしているんだ。」
自分自身に言い聞かせることが何よりもの得意技となりつつある鷹木。現状、最も大きく不安にさいなまれているのは鷹木自身に他ならなかった。
というのも、当のオペラオーは、京都から帰って来た翌日の練習場にもさっそく、歌声を響かせながら姿を現したのである。彼女の傍らには、もはや珍しくも何でもないアグネスデジタルの訪問もあった。
「彼女の居場所は、岩山高く!」
「彼女の居場所はぁ!岩山高くぅ!」
「広間は炎に取り巻かれ!」
「広間は炎にぃ!取り巻かれぇ!」
「炎を越える者だけが!」
「炎を越える……者だけがぁ!」
「ブリュンヒルデの花婿となる!あぁ、ボクならば岩山も炎も従えて、覇王の軍勢とするだろう!」
「私も愚図愚図してなどいません!あなたに求婚しましょう!なぜなら私はあなたのとりこですからぁ……じゅるりら……!」
「はーっはっはっは!ボクの勇姿が欲しいなら、どれほど離れていようともキミに届くだろう!」
「ひょぉぉお!尊みの無償配布なんていけませんよぉもっとやれぇ!」
朗らかな、そして無駄に伸びやかな声の良く通るウマ娘たちの歌声がともに練習場へ転がり込んできたとき、鷹木は心底からホッとしたのであった。
とはいえ、その心境の変化は目聡いオペラオーによってあっさりと看破されてしまったようだが。
「ごきげんよう!やはりキミを不安がらせてしまっていたみたいだね、少々顔色が悪かったようじゃないか!」
「そっ、そんなことは、ない……さて、京都記念を勝ったからと気を抜いてもいられないぞ、来月の阪神大賞典に向けてのトレーニングをさっそく……」
「彼女に会ってきたよ。ケイズドリームに。」
「えっ……?」
鷹木は意表を突かれて素っ頓狂な声を上げたが、我が耳を疑うほどの驚きまではいかなかった。
昨日の京都記念中に起きた出来事を、思い返すのも憚られる悪夢のように思考の端へ押しやり続けていた鷹木。その一方で、行動力に満ち溢れているオペラオーがケイズドリームの見舞いに向かったことは、さして意外なことでもなかった。
「その、ケイズドリームは、どんな様子だった……?」
「そんなにおずおずと聞くようなことかい?彼女はトレセン学園四年目、ボクよりも先輩さ。覇王として見舞いに出向いたときも、にこやかに迎え入れてくれたさ!」
その胸中には尋常ならざる感情が渦巻いていたろうが、それでも先輩格のウマ娘として、オペラオーの前で取り乱して見せることは出来なかったのだろう。そう考えると、鷹木は心苦しさを覚えていた。
一方のオペラオーはその点に気づいていないのか、あるいは気づいたうえでなおいつも通りに振舞っているのか、声の明るさを落とすことなく語り続ける。
「ケイズドリームはボクに伝えてくれた、その脚ならば勝ち続けられる、今年は一番ボクに期待している、と!」
「……そうか。」
そう言う他になかったろう。自分自身が今後出走できず、そして目の前に京都記念を勝ったウマ娘が居るのなら。
鷹木はオペラオーからの言葉に頷いて見せながらも、今後似たようなことがあった時のことを考慮して切り出した。
「なぁ、オペラオー。お前にも考えがつかない話じゃないと思うが、シニア級に上がったばかりってところで怪我をして走れなくなったら、どういう気持ちを抱えると思う?」
「むろん、次に走れるようになる時を心待ちにするさ!」
普段と全く変わらぬ明るい声を鷹木に返すオペラオー。やはり考慮すべき相手の心境に気づいていないのだ、と鷹木は首を振りながら、静かに教え諭すような口ぶりで言葉を継いだ。
「お前の場合はそうだろうが、たいていは悔しさと無念さに苛まれ続けるものじゃないのか?そんな時に、今後も本番の大勝負に出走し続けられる相手がやってきたらどう感じるか、少し想像すれば……」
「あのー、鷹木トレーナーさん。」
徐々に説教臭くなってきた鷹木の言葉を遮ったのは、アグネスデジタルであった。
「オペラオー先輩が特別なんじゃなくって、ウマ娘ならみんな同じだと思いますよ?だって私たち、一生を走りに捧げるためにここに居るんですから。」
「そうとも!」
鷹木が返答する暇も与えず、オペラオーが無駄に朗々たる相槌を返す。
「君の言いたいことも分からないでもない、鷹木!むろんボクとて、走れなくなるとなれば多少の焦りは覚えるだろう。しかし、ウマ娘たる我々、走りを諦めるのは死ぬときだけだ。」
その声はいつも通りのオペラオーの声色に違いは無かったが、今の言葉の締めくくりには妙な重々しさが込められていた。気づけば、鷹木は覇王を名乗るウマ娘の声に圧されたまま、返す言葉なく黙り込んでいた。
鷹木の感じ方は、あくまで人間のものだ。ウマ娘は、人間たちとは異なる。
感性も、物事の考え方も。なにもかも。
「ケイズドリームは、失意の中で打ちひしがれてなどいないさ。生き続ける限り、レースで走る道を手放したりなどはしないだろう。そして、彼女から応援されたボクは、お返しに彼女を応援してきた!」
夢を諦めた後も続くのが、人間の人生である。ウマ娘に、そのような猶予はない。少なくとも他の職業を選ばず、トレセン学園に在籍してレースの道を志す、彼女らには。
走りを諦めるのは、死ぬときだけ。
その言葉に、何の誇張も感じられなかった。
「すべてのウマ娘には、ボクと競い、そしてボクを打ち負かす機会がある!そうさ、この覇王、テイエムオペラオーが走り続ける限りね!」
「ひょぉおお!ありがたやぁ、ありがたやぁ!オペラオー先輩、さっそく私と走っていただけますかぁ?」
「もちろんだとも!もとよりそのつもりで、今日はボクを待ち構えていたのだろう、デジタル!」
「はいぃ!私、来月には芝のコースに再度チャレンジするんです!覇王の走りを、ぜひぜひあらためて間近で感じさせていただきたく!」
黙ったまま立ち尽くす鷹木を置いて、テイエムオペラオーはアグネスデジタルと連れ立って、練習用トラックへ歩んでいく。
本番の舞台に立った彼女らの姿が輝かしく、こうして練習中に見せる瞳の輝きも生き生きとしているのは、彼女らがまさにその命を懸けて走り続けている証拠ではないだろうか。
今までレースでの勝ち方にこだわるあまり見えていなかったその側面を、鷹木は見せつけられた想いであった。
「おぉーい!鷹木トレーナー!以前のように、スタートの合図と計測開始を頼むよ!」
「……あっ、あ、あぁ、分かってる。」
とはいえ、先ほどのオペラオーもアグネスデジタルも、今さら鷹木がウマ娘たちの想いの深みに気づいたことを、何ら意外に思ってなどいないらしかった。
トレーナーはあくまで、速く走るためのトレーニングを管理する存在。その役割を全うしている限り、ウマ娘たちが寄せる信頼は厚いのだ。
オペラオーによるトレーナー呼びの頻度は、昨年度と比べて格段に増えていた。