3月19日の阪神レース場は、雨であった。
先月の京都記念におけるオペラオーの勝利によって、先延ばしにされた猶予……一度でも担当ウマ娘が勝てなければ、トレーナーを降りるという取り決め……が再び眼前に迫った鷹木。
この阪神大賞典が、テイエムオペラオーの担当トレーナーでいられる最後の日となるかもしれないのだ。ほとんど悲愴な思いを抱える彼が溜息で曇らせるバスの窓に、雨粒は冷たく注がれた。
尤も、オペラオーの方は常と一切変わることなく、現状の天候とは全く裏腹に抜けるような快晴が心を占め続けていたようであったが。ウマ娘とトレーナー専用の入り口前に到着したバスから先んじて降りた彼女は、いつも通りに歌を口ずさみつつウキウキとした足取りで更衣室へ向かっていく。
(そりゃあ、お前は結果がどうあれ、今後もレースを走り続けることに変わりないものな。一着でなければ、この頼りないトレーナーの代わりにベテランが担当に就くだけだ……。)
そんな愚痴が胸の奥に上がって来た彼は、自分の表情がそれによって染められる前に慌てて飲み込んだ。
レースの大舞台にて、一番の重圧、計り知れぬプレッシャーを引き受けるのはウマ娘自身に他ならない。それを知っているにもかかわらず、自分本位な愚痴を思い描いてしまうような自分であることを、鷹木はよくよく分かり切っていた。
全くの凡人、小物。自分自身がそうであることを嫌と言うほど思い知らされたのは、オペラオーというウマ娘が最高の舞台へ上がっていったおかげであった。
「おや?何を物思いに耽っているんだい、鷹木トレーナー!そうか、キミも春を告げる雨の持ち来たる憂いを味わっているのか!ボクもだよ!」
バスから降りてこない鷹木を振り返り、そこそこ離れた位置からも十分に届く声量をもってオペラオーが呼んでいる。
表情の取り繕いにさして慌てず済んだ鷹木は、彼女のための荷物を担ぎ上げながらいつも通りの調子で返事した。
「憂いと無縁な奴が何を言ってんだ。悪い、すぐに行く。」
地下バ道にて見送った時も、オペラオーはいつもと変わらぬ様子のままであった。2年前、トレセン学園の屋上で、初めて鷹木と出会った時と何ら変わりのない様子で。
この2年間を、激動として捉えていたのは担当トレーナーただ一人であるかのようにも思われた。
跳ね上がる動悸を呼吸でどうにか押さえつけつつ、鷹木はパドックのウマ娘たちが大スクリーンに映し出されながらアナウンスに紹介されていく様を見つめていた。
〈3番人気は、ナリタトップロードです。昨年の菊花賞ウマ娘、当時はテイエムオペラオーを下しての勝利です。かの激戦となった有馬記念では七着と振るいませんでしたが、先月の京都記念においては二着と盛り返しています。雪辱を果たすはこのレースとなるか。〉
アナウンスによる紹介とは打って変わって、スクリーン上に現れたトップロードの表情は柔和そのものであった。
思えば二週間前、ドトウの中京記念とシャカールの弥生賞を共に観戦した時も、トップロードはオペラオーを前にして落ち着き払った様しか見せていない。
雪辱を果たすべき相手が目の前にいるのは確かなのに、闘争心をおくびにも出さないクールなウマ娘。彼女が涼しい顔したままオペラオーから逃げ切る日が、いつ再び訪れるとも知れなかった。
が、現在のトレセン学園からオペラオーと並び注目されているトップロードが3番人気に抑えられたわけには、次のウマ娘の存在があった。
〈ラスカルスズカ、2番人気であります。今回共に注目されるナリタトップロード、テイエムオペラオーとは昨年の菊花賞以来の顔合わせとなりました。この阪神レース場にて両名へのリベンジなるでしょうか。〉
彼女の姉、サイレンススズカによく似て透き通った瞳が、生真面目な視線を画面の向こう側から投げかけてくる。
サイレンススズカがあの天皇賞で復帰不能の怪我を負った、その翌年からレースの道を志してトレセン学園へ入学したラスカルスズカ。彼女がこの道を選んだわけは鷹木も知る由が無かったが、勝利へ向けたあくなき競争心の強さはその瞳の輝きが物語っていた。
彼女の前を阻み続けている、テイエムオペラオー、そしてナリタトップロードへ向けられるものであることも、いよいよ明白であった。
〈さぁ1番人気の紹介です、テイエムオペラオー!昨年末の有馬記念では黄金世代の先輩たちを相手に見事な走りを見せてくれました、今年に入ってからは京都記念にて栄冠をつかんでいます。いよいよ本格化を迎える今年度、並みいる強敵たちを抑えての連覇なるか。いよいよ出走の時が迫ります。〉
「アイツ……またなんか喋りまくってるな。パドックにマイクないのに。」
口だけがパクパクと動いて見えるオペラオーのアピールを眺めながら、鷹木はどうにかそれだけを口にすることが出来た。そうでもなければ、彼の精神は平静からいよいよ遠ざかる一方であった。
誰も話し相手のいない、担当トレーナー用の個人ブース内。早春の雨が冷えを染み込ませ、緊張と不安の中で鷹木は震えるしかなかったのだ。
〈雨の阪神レース場3000m、芝状態は稍重となりました。各ウマ娘、ゲートイン……スタートしました!揃っての綺麗なスタート、まず先頭に立ちましたのはホットシークレット、続きましてタマモイナズマ、並んでメジロロンザンであります。その次テイエムオペラオー、ナリタトップロードは彼女の背にぴったりつけています。〉
同じだ。鷹木は声もなくつぶやく。
先月の、京都記念と同じ走りをトップロードは選んだ。オペラオーを徹底マークして、ゴール前で抜き去ろうという作戦。
それを用いて負けた翌月だというのに、同じ走り方を取るとは。桂崎トレーナー、あるいはトップロード自身に、どんな勝算があるのか、まるで見当はつかなかった。
〈コースを一周半する3000mのコース、まずは向こう正面から3コーナーへ入ってまいります。順位は直線部分でおおよそ固まったか、変わらず先頭はホットシークレット。ナリタトップロードも変わらずテイエムオペラオーの背を追い続けている、その後ろにラスカルスズカ。彼女にとっても因縁のライバルたち、逃すまいと食いつき続けています。〉
先行で走るオペラオーの背をトップロードが、そんなトップロードをラスカルスズカがマークして走る形。
勝たねばならぬ相手がいるウマ娘は、その壁を乗り越えるために心血を注ぎ鍛錬を行うであろう。表向きの顔ではにこやかな笑みを浮かべていたとしても、胸中に燃える闘争心はライバルを前にしてなおのこと強く燃え上がるであろう。
ならば、そんな彼女らに、越えるべき相手として見続けられるオペラオー自身は、一体何を考え、どう感じているのか。
いつも通り固唾を飲み、手に汗を握って、阪神レース場のターフ上を駆けていく彼女を見つめている鷹木には、全く想像のできない領域であった。
〈4コーナーを回ってホームストレッチへと入ってまいりました、阪神レース場の大観衆が立てる歓声の中、ウマ娘たちが駆けてゆきます。並びはここまでとほぼ同じ、おっと、サクセスエナジーが後ろからぐんぐんと上がってまいりました、テイエムオペラオーに並んで現在四番手、これはどういう作戦なのか。レースは坂を上ってあと一周残っております。〉
残り、一周。次に通るときはゴール前となっている芝を踏みしめて、ウマ娘たちが雨に濡れた坂を駆け上がっていく。
コーナーを6回、坂を2回通過する、言わずと知れたタフなレース。昨年度のオペラオーの傾向から鷹木はスタミナ面を不安視し、今日にいたるまで徹底的に鍛え続けてきた。
だから、大丈夫。トレーナーならばそう言い聞かせるべき所であったが、今、たった一人の状態となった鷹木の中では、別の思いがせり上がりつつあった。
テイエムオペラオーは、このレースも勝ってしまうのだろうか?……と。
〈サクセスエナジーの消耗が気になるところですが、他の出走選手たちはおおむね無理のないペースで回っていきます、第2コーナーへ。先頭からの順は変わらず、ホットシークレット、タマモイナズマ、メジロロンザン。テイエムオペラオーをマークしているナリタトップロード、負けじと食いつき続けるラスカルスズカ。向こう正面へと入ってまいります、勝負はこの直線を抜けたあたりから、といったところでしょうか。〉
実況に指摘された通り、トップロードも、ラスカルスズカも、オペラオーも、スタミナ面での無理は今のところまるで見られない。
すなわち、ゴール前での競り合いにおいては、それが3000mを走りぬいた挙句の上り坂であったとしても、彼女らの全力が発揮される条件が整っているということだ。
そして、誰よりも先行での走り方で苦汁を嘗め、本番での場数を重ねてきたオペラオーにこそ、分がある。
「アイツがまた勝ったら……俺は、次のレースでも、同じ思いを抱えなきゃならないのか?」
次のレース、すなわち春の天皇賞。日本全国から注目されるその大舞台へ、今ですら心臓が破裂しそうになっている鷹木は連れていかれるのだ。
〈さぁいよいよ3コーナーへ差し掛かってまいりました、このコーナーを回り切れば残すところは直線のみ!テイエムオペラオーが仕掛け始めたか、メジロロンザンに並んで現在三番手、ナリタトップロードも前を窺っている、ラスカルスズカもやはり外に出て最後に備えている!〉
鷹木は、誰に対しても「苦しい」などと言える立場に無かった。
担当ウマ娘に対しては無論のこと、本来ならば相談相手となるはずの先輩トレーナーたちも同様である。「お前には苦しい道だ」と言われたのをはねのけて、オペラオーの担当を続ける決意を告げたのはほかならぬ鷹木自身なのだから。
故にこそ、彼は並みならぬ苦しみを孤独に抱え続けねばならなかった。ふと視界に入った自分の指先で、爪に透いた血の色は蒼白に見えた。
一度でもオペラオーが負ければ、担当を外れる。その重圧の中、今後もやっていけるのかどうか、早くも甚だ疑わしい精神状態であった。
「まだ、3月だってのに……」
少なくともオペラオーの身体能力の本格化が続く今年度いっぱいは、彼女が勝ち続ける可能性は十分すぎるほどにある。いや、万が一、来年になってもその勢いが衰えなかったら?
鷹木には、この輝かしく賑わしいウマ娘によって引きずられていく自分の精神が、襤褸切れになってなお自我を保てるのか、全く分からなかった。
「オペラオー、お前は……勝つのか?……勝ち続けるのか?」
〈4コーナーを回って、最後の直線にウマ娘たちが入ってくる!比較的まとまった集団、真っ先に駆け出してきたのはやはりテイエムオペラオー!ナリタトップロードもその背を追う!ラスカルスズカ、上がってきた、ホットシークレット先頭で粘っているが苦しいか!テイエムオペラオーが一気に迫ってくる!〉
ひときわ熱の入った実況、そして観客席からの大歓声が耳に飛び込んできた鷹木は、自分の指先から視線を外して顔を上げる。
途端に、濡れて輝くターフ上を駆けっていくウマ娘の姿が視野に飛び込んでくる。先ほどまで雨を注ぎ続けていた雲に切れ間が入り、注ぐ日差しがスポットライトのように阪神レース場を照らしていた。
全く、劇の一幕のように、作り物のごとき輝かしい光景であった。
だからこそ、普段から芝居がかったテイエムオペラオーの晴れ姿は、実に似つかわしく鷹木の目に映ったのかもしれない。
〈ゴール前には坂があるぞ、テイエムオペラオー脚色は衰えない!ナリタトップロードもますます加速していくが……ラスカルスズカ、ラスカルスズカが猛烈に追い上げてきた!物凄い執念の追い込みだ、ナリタトップロードを抜いた!先頭へと迫っていく!〉
鷹木は椅子に足をぶつけながら立ち上がった。先ほどまで、自分が何に悩んでいたのかなど吹き飛んでいた。
「行け、行け!そのまま全力で走り抜けろ、勝てる!このペースなら、もっと突き放せる!突き放せ!オペラオー!」
大群衆の中で蚊の鳴いている程度にしか鷹木の声は存在していなかったろうが、声量はさしたる問題ではなかった。
テイエムオペラオーの担当トレーナーは、ひとりしかいないのだ。
〈ラスカルスズカが迫る、しかしテイエムオペラオー、リードを広げていく!これは速い、テイエム速い、二バ身以上のリード!そのままゴールイン!またしても勝ちました、テイエムオペラオー!悠々とリードしての勝利となりました、黄金世代の次はこのウマ娘か!〉
鷹木は文字通りに足が棒になったかのごとく立ち尽くしていた。レースの間はブースの中から一歩も動いていなかったはずであったが、テイエムオペラオーと共に駆けていたかの如く、全身に凄まじい疲労がのしかかっていた。
座ることも、その場から歩を動かすこともままならぬ状態の鷹木を他所に、ターフ上ではオペラオーが息を整えた後、いつも通りに高笑いを披露している。
遅れてゴール後の減速を行っているラスカルスズカは顔に影を作って俯いていたが、背後の穏やかな表情のナリタトップロードから何事かを告げられ、満面の笑みのオペラオーにも挟まれる形で顔を上げ、そのまま歓談しながらウイニングライブの準備へと向かっていく。
前回の京都記念では、ケイズドリームの競走中止によって自粛されたライブ。数か月ごしに見る大舞台でのウイニングライブを前に、観客たちの熱狂もいよいよ高まっていた。
むろん、鷹木とてこの喜ばしい状況に気持ちが昂っていたのは言うまでもない。
だが、喜ばしさと共に、胸の中心に打ち込まれた石の杭のごとき重圧は、確かに彼の心臓めがけてさらに食い込んでいたのであった。