阪神大賞典での勝利の余韻を、やはり当のテイエムオペラオーは喜びながらもあっさりと日常の感覚の中へ戻って行っていた。
幾度本番の大舞台を経験しても、あのレース本番の大歓声に震わされた心臓の動悸がなかなか収まらないのは担当トレーナーの鷹木ばかりであった。それは、来月に来たる春の天皇賞を控えてのことだったのかもしれないが。
次の舞台こそ、しくじれば自分の精神はどん底にたたきつけられるだろう。
毎朝、変わらぬ調子で歌を口ずさみながら現れるオペラオーを、血色の悪い顔で出迎えるのが最近の鷹木であった。担当ウマ娘に余計な心配をかけることなど出来ず、何事もないような表情を作るのが精一杯だった。
「そんな調子じゃ、ウマ娘より先に寿命が来ますよ。」
だがその日、オペラオーに先んじて顔を出し、縁起でもない冗談を投げかけたのはやはり片桐であった。
どんな状況でも相手を慮ることなどないこの同僚の存在を、今の鷹木はむしろ好ましく感じていた。変に真面目に気遣われでもしたら、自分がそんなにも追い詰められた状況にあるのだと認識せざるを得ない。
少なくとも今後丸一年間は、GⅠウマ娘の担当トレーナーとしての責務を全うし続けねばならないのだ。こんな春先に、へばっていられない。
「ご心配なく。自分の体調管理ぐらいは見れますので。」
「栄養ドリンクは、体力を前借りするだけですから、管理には当たりませんよ?」
鷹木の呼気にそれを嗅ぎつけたのか、片桐は即座に返した。
「まぁ、ほどほどにしてますんで。毎晩、トレーニング数値のデータ化とメニューの修正をする時は、疲れからくる眠気を吹き飛ばす手段が必要なんですよ。」
「御覧なさい、ドトウ。こうやって栄養ドリンクに頼った人間が、どれだけ蒼ざめた顔色をしていることか。」
「はっ、はわわわわぁ、鷹木トレーナーさん、唇に色がないですぅ……。」
観察対象に差し出す許諾は与えていないつもりであったが、遅れて顔を出したメイショウドトウの前で片桐は鷹木の顔面を指さしていた。
失礼極まりない振る舞いではあったものの、ウマ娘のことを第一に考えるトレーナーとしては、無碍に振り払えない所作ではある。不本意さを顔面全体で表現しながらも、鷹木は声を抑えて尋ねた。
「……ドトウさんは、栄養ドリンクに頼ろうとした経験が?」
「えぇ、彼女なりに、練習の疲れから効率よく回復しようと考えたらしくて、ですね。ちょっと目を離した隙に、山のように買い込んでいたスポーツドリンクをガブ飲みしていましたよ。」
「う、うっかりですぅ、栄養ドリンクだと思って買ってきてたんですけど……。」
「そのうっかりに助けられた形でしたね、あれは。栄養ドリンクをあの量一気飲みしていたら、それこそ命に係わる事態でしたから。」
「ひぃぃ、今思い出しても、怖いですぅ……!」
鷹木からしてみれば、担当ウマ娘が怯えるような記憶を敢えて呼び起こさせる片桐の言動はほとんど暴挙と呼べるものであった。が、ドトウはもはや怯え慣れていたというべきか、その目の色に過剰な狼狽は浮かんでいなかった。
さておき、この片桐という男が現れた以上、何もせずに帰るはずはない。
「で、今度もまた、オペラオーとの並走練習ですか?」
「いやはや、やっぱり鷹木さんは話が早くて良いですな。どうにも、GⅠクラスのウマ娘相手に学園経由で練習申し込みをするには煩雑に過ぎる手続きが必要でして……」
「すみませんすみません、厚かましいかもですね……もしも、オペラオーさんの練習のお邪魔でしたら、引き下がりますのでぇ……」
片桐が一人で勝手な頼みを言い募って来たのであれば跳ね除けるに大した葛藤を要さなかったであろうが、そこにドトウが加わると話は別である。気弱そうな眼差しをこちらに向けられれば、やはり頼みを却下することはあまりに無残な所業だと思えた。
しかも、ここにテイエムオペラオーが現れるタイミングであることまで、片桐の計算の内であったろう。
「やぁ!ドトウじゃないか、最近は良く会えてうれしいよ!ふたたび、ボクと競走をしたいのかな?」
「あっ、あっ、あのぉ、ご都合が宜しくなければ、帰りますから……」
「何を言うんだい、キミだからこそ、ボクは共に走りたいんだ!さぁ鷹木、すぐにでも準備をしてくれたまえ!」
「はい。」
結局、鷹木は一言も自分の意思決定を口にする暇もなく、片桐は頼む文言を口にすることなく、オペラオーとドトウの並走練習が開始されたのであった。
「しかし、なんでまた最近はこうも頻繁に。」
「阪神大賞典の勝ちウマ娘がこんな身近にいるわけですからな。それに、次にドトウが出るレース、ちょいと手ごわい相手がお出ましなんですよ。」
「日経賞、でしたっけ?確かに、大舞台ですね。」
中山レース場で争われる、春の日経賞。昨年度はセイウンスカイが、更に昔へさかのぼればライスシャワーやメジロライアンといった優駿たちが栄冠をつかんできたGⅡレースである。
今年に入ってから日経新春杯、中京記念と高いグレードのレースに出続けているドトウにとっては、三度目の大舞台となる。
「もちろん競争相手も気を抜いて挑める面々ではなく、かのステイゴールドも名を連ねています。が……彼女と遂に当たれるとはね。」
「彼女、って?」
鷹木もまた日経賞への出走が決まったウマ娘たちのリストに目を通す。直後、表情をこわばらせることとなった。
「ぐ、グラスワンダー……!?」
今年度に入ってからというもの、鷹木が最も警戒しているウマ娘の名がそこにあった。
無論、ナリタトップロードをはじめ、たった今オペラオーと練習を行っているメイショウドトウも脅威となりつつある。先日の阪神大賞典で、二着に食い込んできたラスカルスズカの存在も大きい。
が、今なお走り続けている黄金世代の一角、グラスワンダーの存在感は別格であった。
リストの中に名を連ねているそれが見間違いでないことをもう一度確認し、次に鷹木は片桐の顔色を窺った。
オペラオーが勝てるか勝てぬかで、日々血色を失いつつある自分とはまるで異なり、健康そのものな鉄面皮がそこにはあった。片桐は鷹木の驚きをしっかりと確認し終えて口を開く。
「本当に良い巡りあわせだと思いましてね。ドトウにも、いよいよ一線級に上がるための度胸をつけてもらういい機会だ。」
「しっ、しかし、相手はあのグラスワンダーですよ?」
「ですから、最高のタイミングなんですって。ウマ娘は、トレセン学園に入って三年目、すなわちシニア級で身体能力が最高潮を迎える。言ってしまえば、そこを過ぎれば伸びることはないってわけだ。」
この男はどこまで楽観的なのだろう、と鷹木はそれだけを思っていた。
昨年のグラスワンダーが見せつけた、あの宝塚記念での大勝を片桐も知らないはずはない。他のウマ娘に対し7バ身もの大差をつけたスペシャルウィークの、さらに3バ身先……すなわち、三着以降から10バ身先を行くゴールを披露したウマ娘なのである。
その年の有馬記念で競い合ったスペシャルウィークが昨年をもってURAを去って以降、今、間違いなく黄金世代最強の名を恣にするのはグラスワンダーに他ならなかった。
「あのグラスワンダーやスペシャルウィークに、クビ差まで迫ったオペラオーとの練習をこれだけ重ねているんです。この上で、ドトウが次の日経賞にてグラスワンダーに勝つ経験を得られれば、自信につながるでしょう。」
「……本当に勝てると……お思いですか?」
「そりゃ楽じゃないでしょうけれど、担当ウマ娘のことを信じてやれるのは、トレーナーだけなんでね。」
そんなセリフをサラリと言ってのける片桐を羨ましくも感じたが、鷹木には信じがたい精神の持ち主であることに違いなかった。
少なくとも春の天皇賞に、黄金世代のウマ娘の名が無いだけでホッとしている鷹木にはとても真似できる振る舞いではなかった。片桐の平然たる横顔を呆然と見つめている鷹木の耳に、オペラオーとドトウが共にスタートを切る音が響く。
3月26日、日経賞。
阪神大賞典から一週間後のテイエムオペラオーは、やはり練習時間中の観戦を鷹木に希望し、中山レース場からの中継がある時間を鷹木は休憩に当てることとなった。
メイショウドトウは、4番人気。言わずもがな1番人気のグラスワンダーや、トレセン学園5年目に突入しているステイゴールドが2番人気であることを鑑みても妥当な位置ではあった。
〈晴天に恵まれました中山レース場、本日のメインレース!11レースは日経賞芝2000m、GⅡ戦です。メイショウドトウ、アイシャルテイオー、次々とゲートインしてまいります。アメリカンボスが最後に入りまして、出走準備完了です。〉
「やっぱ、存在感が違いすぎるな……グラスワンダーは。」
オペラオーが休憩している間は少しでも走行データをまとめる作業を進めるべき鷹木であったが、スクリーンにグラスワンダーの姿が映し出されている間はそちらに視線が釘付けとなるのも無理はなかった。
「あぁ!さすがは今なお走り続ける黄金世代だよ!しかし、我らがドトウも負けてはいない!行けっ!ドトウ!キミなら勝てるさ!」
耳元でビンビンと響くオペラオーの声量に、無意味に話しかけるべきではなかったと鷹木が後悔しているのを他所に、いよいよ中継画面上ではレースが開始された。
〈スタートしました!まずは好スタート、ステイゴールド、レオリュウホウ……レオリュウホウが果敢に前へと出ていきます。ノボエイコーオーも二番手にまで上がってきました、続きましてダイワテキサス、その後にメイショウドトウ。既に3,4コーナー中間に入ってまいります。〉
やはり幾度も練習した通り、ドトウは先頭近くにつける先行策であった。
3000mほどの距離ではないが、やはりコーナーを6回、そして中山レース場名物の坂を2回上らなければならない、持久力を求められるコース。他のウマ娘の挙動に左右されづらく、ドトウにも焦りの生じづらい位置取りとしては最適であった。
が、このレースには、何よりも大きく展開を左右する因子がある。どのウマ娘も等しく、強く警戒する存在……すなわち、グラスワンダーであった。
〈外側をアメリカンボス、ウチにグラスワンダー。現在6番手と言ったところ、彼女をマークする形でミスズシャルダン、アイシャルテイオー、最後方にシグナステイオーという順となっております。4コーナーを抜けてスタンド前に出てまいります、やはりグラスワンダーをマークするウマ娘が多いか。〉
間違いなく、このレースの中央にグラスワンダーは置かれていた。
逃げ、先行のウマ娘たちは、後方に響く蹄音を常に背中に聞き続けている。追い込みのウマ娘たちは、皆一様にグラスワンダーの背を追い続けている。
彼女が仕掛けるのに遅れれば……10バ身もの後方に追いやられる、その他大勢のウマ娘の一員になり果てるばかりなのだ。
〈スタンド前で先頭に立っているのはレオリュウホウ、3バ身から4バ身へとリードを開いております。さすがにややペースを落として坂を上りにかかります、二番手はノボエイコーオー、ステイゴールドが追いついてきました。外からアメリカンボスが抑えきれない勢いで二番手へと食らいついている、先頭集団が横に広がっています。〉
ホームストレッチに響き渡る大歓声に逸らされたのか、先行するウマ娘たちが一気に上へと上がり始めた。
「怖いだろうね。ボクも、あの時、背後からスペ先輩とグラス先輩が駆けあがってくる音に、戦慄いたものだよ!」
「あぁ。」
オペラオーの言葉に、鷹木も首肯する。
無論、あと一周しなければゴールが来ないことは皆分かっている。あるいは、ここで加速しておくことがもとより定めていた作戦の一環だったのかもしれない。
が、グラスワンダーがこの場に居なければ、もっとレース展開は落ち着いたものになっただろうと思われた。逃げウマ娘はますます逃げ、先行ウマ娘はそんな逃げウマ娘に食らいつく勢いで前へ前へと向かっていく。
そんな中、メイショウドトウはと言えば、グラスワンダーと並んで走っていた。彼女はあくまでも忠実に、先行策の中に収まっていたのである。
〈1コーナーにかかってまいります、メイショウドトウをウチへ、その外側にグラスワンダー、これを見るようにミスズシャルダン。その後ろには変わらずアイシャルテイオー、最後方にシグナスヒーロー。レオリュウホウ、またややピッチを上げてリードを開きました。〉
「レオリュウホウは……まだ中盤にあんなペースじゃ、最後の追い込みに持たないぞ。」
「分からないよ!彼女も焦っているように見せて、策があるのかもしれない!セイウンスカイ先輩のようにね!」
オペラオーが言及したのは、2年前の菊花賞にて大逃げと見せながら出走ウマ娘全員を策に嵌めたセイウンスカイの伝説的なレースであろう。
たしかに、このスタミナを要求されるレースでの逃げはそれを彷彿とさせたが、やはりグラスワンダーの存在感が大きすぎることに変わりはない。
〈ステイゴールドが単独の二番手に上がっています。三番手にノボエイコーオー、四番手にはアメリカンボス、その外側に出しましてメイショウドトウは前に出る準備をしているか。向こう正面へと入ってまいります、ウチを回るダイワテキサスの外にグラスワンダー、こちらも次のコーナーに備えているようです。〉
次の3,4コーナーで前に出ることが出来なければ、確実にグラスワンダーにはついて行けない。メイショウドトウがこのタイミングで外側に出たのはその点を意識しての作戦だったろうが、グラスワンダーもまた外へと出ていた。
既にラストスパートへの布石は為った。あとは、最終直線でスタミナがどれだけ残されているかの勝負である。
〈3コーナーへ入ってまいります、レオリュウホウいよいよ差を開いて、6バ身、いや7バ身へとリードしております!ステイゴールドじっくりと溜めての二番手、さあ三番手、メイショウドトウが早めに上がって来た!ノボエイコーオー、それに続き……グラスワンダーが仕掛けました、遂にグラスワンダーが!残り600を切りました!〉
グラスワンダーが、動いた。
警戒の糸が張り詰めていたかのようなウマ娘集団の中に、一瞬で電撃が走ったように空気が変わる。グラスワンダーをマークし続けていたウマ娘たちは離されまいと加速し始め、先を行く面々はいよいよ追いつかれまいと懸命に脚を動かす。
この動揺に巻き込まれていなかったのは、終始先行策を守り続けたメイショウドトウ、堅実に二番手を守り続けたステイゴールド、そして大逃げを打っているレオリュウホウばかりである。
「行けるか、ドトウ……?」
「気を抜いちゃダメだ、一番手の表情にはまだ余裕がある。」
その冷静な声色がオペラオーの口から出ていることに驚いている暇もなく、鷹木は中継画面を食い入るように見つめていた。
グラスワンダーが仕掛けたにしては、遅い、上がってこない。
〈グラスワンダーどうだ、動きが重いか、現在六番手!彼女をマークしているミスズシャルダンも、ダイワテキサスも、グラスの作った流れに乗り切れていない!4コーナーを回って残り400を切りました!先頭は変わらずレオリュウホウ、二番手ステイゴールド上がって来た!メイショウドトウ三番手、いよいよ直線に入りました!〉
まるで、昨年の京都大賞典にて、調整ミスをしでかしたスペシャルウィークを目の当たりにしているようであった。
グラスワンダーは、ハッキリと遅くなっていた。トレーナーや、トレセン学園所属のウマ娘たちならば、その原因に思い至ることは出来ただろう。しかし、誰しもがそれを信じることなど出来なかったのだ。
グラスワンダーは、既に全盛期を過ぎている。
たった一年の差で、もう身体能力が衰えつつあるのだ。
〈ミスズシャルダン、グラスワンダーを躱して四番手に上がってくる!さぁ先頭はレオリュウホウ、ステイゴールド上がってくる!ステイゴールドが来る!メイショウドトウも並んできた!さぁ先頭はステイゴールドに変わるか……レオリュウホウ、粘った、レオリュウホウ粘った!〉
が、メイショウドトウは後ろを振り返りなどしていない。
上がっていけないグラスワンダーに動揺することなく、それでも彼女が先頭を捉えられずにいるのは、あの大逃げを打ったレオリュウホウが想定外の伸びを見せつけたことであった。
そして、グラス以上のキャリアを有するステイゴールドが、虎視眈々と一着を脅かし続けていたことも。
〈レオリュウホウ逃げる逃げる!その差は詰まらない!ステイゴールドを突き放した、逃げ切ってゴールイン!レオリュウホウが逃げ切りました!ステイゴールドは二着!グラスワンダーは……グラスワンダーは六着!誰が予想できたでしょうか、まさかの六着、グラスワンダー……!〉
メイショウドトウは、三着。そのアナウンスは流れず、代わりに画面上に表示されるのみである。
ほとんどの出走ウマ娘たちがグラスワンダーの存在感に視線を奪われているのを後目に、見事セイウンスカイのごとき逃げ切りを達成したレオリュウホウの勝ちであった。
突如響いた拍手の音に振り向けば、オペラオーは無言のままに画面の向こう側のウマ娘たちへと拍手を送っていた。いつも通りであればまた、鷹木の鼓膜を脅かす大声ではしゃいでいただろうに。
彼女の興奮が多少冷めていたとすれば、メイショウドトウの名が読み上げられなかったことに対する不満か……あるいは、グラスワンダーの衰えが想定よりもずっと早く訪れていたことにあったろう。
どのウマ娘も、そしてその担当トレーナーも、いずれは直面する現実であった。