春の気がいよいよ本格化していく、四月上旬。
中山レース場にて実施されたニュージーランドトロフィーの出走ウマ娘たちの中に、アグネスデジタルは居た。
NHKマイルカップの前哨戦としても競われるこのレースに向けた彼女の思いは、去年のデビュー当初と比べても格段に強くなっていた。
「私と同い年のウマ娘ちゃんたちを愛でるのも良いんですがぁ、ボヤボヤしてたらおいて行かれちゃいますからね!」
本番を前に、やはりオペラオーとの練習を申し込みに来た彼女はそう告げたのである。
「あぁ、レース場を走るウマ娘は皆等しく美しい!けれど、中でも特段の美しさに輝くこのボクを前にして、目が眩まずにいられるかい?」
「無理ゲーかもしれませんね!今でも既にグレイアウトしかけちゃってますから!」
「ふむ、常に鼻血と親しきデジタル君の場合は、レッドアウトと呼ぶべきではないかな?」
「覇王式マジレスまで頂きました!ここに居る時間を毎秒ブクマしたいんですが!」
いつも通りに賑やかなやり取りを楽しんでいたアグネスデジタルであったが、練習にて実際に走りだせば目の色は変わっていた。
つい先ほどまで称えていたオペラオーの姿を視野に収め続けるわけではなく、積極的にその前へと出て、ハナを進む。
彼女がダート戦で得意とする逃げ寄りの先行策を、芝コースでも実践しようとしているようであった。その様を見ながら、タイム計測を行う鷹木も心の中を安んじては居られなかった。
「速いな……専属トレーナー無しで、これか。」
入学当初のナリタトップロードやアドマイヤベガ同様に、トレーナー抜きで今なお走り続けているアグネスデジタル。トレーナーによる担当を望まぬのは、走るウマ娘たちの美しさを自分の思うがままに追い求め、堪能したいという、彼女らしい奔放な理由によるものであった。
とはいえ、同期のウマ娘が躍進しつつある状況を、アグネスデジタルとて何とも思わずにいられるわけではないらしい。
エアシャカールは、報知杯弥生賞にて二着に入り、今月中旬の皐月賞への出走も決定している。これまでの成績を鑑みれば、シャカールが勝利することも有力視されているとのことだ。
ただでさえ、芝とダートの両方で勝っていきたいという前代未聞の信念を掲げているアグネスデジタル。
彼女にとって、来月行われるGⅠレースへ出走するという目標は単なる腕試しにとどまらず、そして本格的な大舞台へ向かおうとする意志のほどを自らに問うための試練であったろう。
「ゴール。タイム計測を終了します。」
制御盤が機械音声を発し、コース上ではオペラオーに追いつかれる形でアグネスデジタルがゴール地点を駆け抜けていた。コースを走り終えたアグネスデジタルは、既にあの喧しく変態的なウマ娘へと戻っていた。
息を整え終えたデジタルはオペラオーとの掛け合いをひとしきり楽しんだ後、賑わしさのままに鷹木へ別れを告げて去っていく。その足音が廊下を遠ざかっていくのを聞きながら、オペラオーは呟いた。
「いやはや、やはりデジタル君の相手は疲れるね。」
「毎回それ言ってるな。お前の相手させられる側が疲れてないとでも思ってんのか。」
「おっと、おしゃべりは十分に楽しんでいるとも。ボクが言っているのは走っている時のことさ。彼女がボクに勝とうとする目つきは、本物なんだよ。」
その言わんとするところは、並走練習を傍で見ていた鷹木にもなんとなく伝わった。
4月8日が訪れ、ニュージーランドトロフィーの行われる中山レース場には満開の桜が咲いていた。
アグネスデジタルは、7番人気。同じレースに出ている同期のウマ娘たちの中でも、名の知れた存在でないことは無かったのだが、なにぶん芝コースでの戦績には乏しかった。
無論このレース場へ赴いているヒマなど無かったが、やはりオペラオーはそのレースの実況中継を見たがった。
今月の下旬に大舞台、春の天皇賞を控えている今となっては一秒一刻も無駄には出来ぬことを今さら口を酸っぱくして伝えることはしなかったが、鷹木はトレーニングの休憩時間をレース鑑賞に当てるうえでやはり口うるさくなる自分に気づいていた。
「いいか、あくまで休憩時間中なんだからな。レース観戦に夢中になって、余計に息を上げるような真似をするなよ。」
「分かっているとも!このボクが、不用意な振る舞いを演じるとでも思うかい?」
「先輩には悪いが、ロジカルに考えりゃ全然信じられねぇな。」
鷹木がこの場を多少窮屈に感じているとすれば、GⅠウマ娘の先輩から有用なコメントを得られるのではないかと顔を出したエアシャカールが、オペラオーの隣に座っていたことが一因であったろう。
おそらく、ナリタトップロードやアドマイヤベガから意見を聞けることをシャカールは期待していたであろう。
が、この場に居るテイエムオペラオーが、その期待に応えられる類のウマ娘でないことは明白であった。頼りないトレーナーとしてのレッテルを貼られている鷹木に関しては言及するまでもない。
それでも、鷹木はそこそこの経験を有するトレーナーとしての貫禄を示そうと努力の片鱗を見せはした。
「きっと、アグネスデジタルは先行策を採るだろう。」
「知ってるぜ。」
「……。」
シャカールの短い一言で、彼は瞬間的に黙らされてしまったものの。
〈ニュージーランドトロフィーステークス、1600m、芝状態は良。15名のウマ娘たちが集まりました。さぁ、中山のマイル戦、来月の東京レース場で行われるGⅠレースの前哨戦、果たして勝つのはどの子か。〉
「もちろん、デジタル君さ!ボクの覇気を間近で浴びたんだ、間違いなく一着だよ!」
「……ロジカルじゃねぇぜ。」
さすがに完全に1対1の状況では、先輩ウマ娘に向かって『うるせぇ』とは言えないのであろうシャカール。
代わりに彼女のつり上がった横目から向けられる視線が痛く突き刺さってくるのを感じながら、鷹木は画面を注視するフリを続けていた。
〈ゲートが開いてスタートが切られました、15名きれいに揃ったスタート!コンバットハーバーがスーッと前に上がっていく、これを見るようにトーヨーデヘアが単独の二番手、追うようにアグネスデジタル!更にファイターナカヤマが居て、外を通りましてサザンスズカ!ラブイズウィナーが追走して、ミスタートウキョウ、外を通りましてネオポリスが行っています!〉
ニュージーランドトロフィーに用いられる中山レース場の外回り1600mコースは、スタート直後から緩やかな下り坂とコーナーが続く。
レース序盤からスピードは出やすく、にもかかわらず直線部分はゴール手前の310mしかない。すなわち、走る距離が短くて済むコーナーの内側に入らぬ限り、延々と不利な状況が続いてしまう。
故に、アグネスデジタルは先んじて前に出る策を採ったのだ。追い込みにかかる際、わざわざ外に出ずとも良いように。
〈中団後方にエイシンダンズビル、そしてその後ろに、エイシンプレストン!1番人気、今世代の注目ウマ娘、ここに居ます!外からゲイリーファンキー、間を割ってグラヴィティタイム、それからエイシンプレストンのすぐ後ろ、イーグルカフェがピッタリとマークしている。1バ身ほど切れましてダイワカーソン、更に3バ身ほど切れました、マチカネホクシン、最後尾を行きます。1番人気エイシンプレストンは現在10番手!〉
「アイツだ。アイツの走り、オレは見たかったんだ。」
「エイシンプレストンか。」
アグネスデジタルに対して以上にシャカールが真剣なまなざしを向ける相手は、エイシンプレストンであった。
デビュー戦から2着、その次のレースでは5バ身差もの圧勝を見せつけ、更に入学1年目のウマ娘たちで競われる朝日杯においても見事に勝利。
1年目からGⅠレースで勝利する快挙は、デジタルやシャカールの在籍する学年においてもひときわ輝いていた。
〈さぁ満開の桜を左手に見つつ、3コーナーに差し掛かってまいりました。先頭を行きますはコンバットハーバー、リードが1バ身あります。ファイターナカヤマが2番手の位置、3番手にトーヨーデヘア、その外側をアグネスデジタル!15名、固まった集団で3,4コーナーの中間点を通過してまいります。〉
エアシャカールは中団後方のエイシンプレストンへ視線を注いでいる様子であったが、鷹木としてはオペラオーと練習競走を行ったアグネスデジタルの走りばかりが気になっていた。
出来得る限り内側に入らなければ、全コースのほとんどを占めるカーブを延々と外回りしなければならないことは前述の通りであったが、デジタルは未だにコーナー内側を走っていない。
序盤から前方につければ、そのまま速やかにコーナー内側へと入る予定だったのだろうが……後ろから上がって来た選手によって内側を塞がれてしまったのだろう。
かといって、最初から逃げのペースで脚を運んでいるウマ娘を追い越すことは悪手である。集団に飲み込まれやすい先行型の走りは、やはりリスクの塊であった。同じく先行型で走ることの多いオペラオーの表情を、鷹木はそっと横目で盗み見る。
普段通りに輝きに満ちた、そして真っすぐな眼差しのまま食い入るように見つめているその瞳は、いつになく押し黙ったオペラオーの口の代わりに存在感を放ち続けていた。
〈エイシンプレストンはまだ中団の位置、コンバットハーバー先頭で、4コーナーに差し掛かってまいりました!さぁ勝負所、前方に14名がギッシリと固まった!混戦であります、今直線に向きました!先頭はコンバットハーバー粘っている、コンバットハーバー粘っているが、外からトーヨーデヘア、更に外から、アグネスデジタル上がって来た!〉
「行け、行け!素晴らしい末脚だ、一気に先頭を奪うんだデジタル!」
画面越しには届くはずのない声援であったが、オペラオーの響き渡る声は確かに頼もしく聞こえた。
中継画面の中で懸命に駆け上がっていくデジタルの加速を、エアシャカールも息を飲んで見つめている。
「あのコース取りじゃ、スタミナをだいぶ無駄遣いしたはずだぜ……ロジカルに見りゃあ、限界が来てるはずだってのに。」
逃げウマ娘たちを一息に追い越し、更に二着以降との差を開いていくアグネスデジタル。オペラオーと同様にピンク色をあしらった勝負服が、軽やかに、かつ力強くスパートしていった。
〈アグネスデジタルが来た!アグネスデジタル先頭に立つ!先頭はアグネスデジタル!そして赤の勝負服、エイシンプレストン上がって来た!そして外からは、マチカネホクシンが迫る!先頭は、アグネスデジタル!粘っている、アグネスデジタル!!〉
大歓声を浴びながら先頭を駆けるアグネスデジタルであったが、昨年度見せつけられたエイシンプレストンの実力を超えるのは容易い事ではなかった。
「……やっぱキツいか。」
シャカールがボソッと呟くのと同時に、画面内のアグネスデジタルの真横に二名のウマ娘が並んだ。
〈先頭はアグネスデジタル!マチカネホクシン並んだ、間を割って、エイシンプレストォーン!!勝ったのはエイシンプレストン!!昨年度のトップウマ娘、今年度になってもやはり強し!一着はエイシンプレストン!二着、マチカネホクシン、健闘しましたアグネスデジタルは三着となっております。〉
歯を食いしばったままにゴール前を駆け抜けたアグネスデジタルが、俯いている時間は短かった。
足元の芝を踏みしめるように減速を済ませた後、共に競った同期ウマ娘たちのもとへ寄って行く彼女の表情は既に明るさを取り戻し、いつも通りの饒舌さも披露しているようであった。
口早に何事かを話しかけられ、エイシンプレストンやマチカネホクシンは曖昧に笑顔を返しながらも多少距離を取っている。
「あぁ!デジタル、輝いているよ!キミは先ゆくウマ娘たちの姿を堪能しただろうが、キミ自身もやはり美しい!」
いつものように立ち上がり、賞賛を高らかに叫んだオペラオーの拍手は、本気で走った後もなお顔を上げ続けるアグネスデジタルの強さにも向けられていただろう。
エアシャカールは元よりそう易々と笑みを浮かべる性質ではなかったが、真顔のままにスクリーン前から立ち上がる目つきはいよいよ研ぎ澄まされたようであった。無言のままに去ろうとする彼女の背に、オペラオーが声を投げかける。
「シャカール!キミの皐月賞も、楽しみにしているよ!」
「そっちの天皇賞の方がデカいだろ、オレのことを気にしてる余裕あんのか。」
ぶっきらぼうに返された言葉にも、テイエムオペラオーは胸を張って応えた。
「もちろん!ボクは負けないからね!」