4月も半ば。いよいよ近づいてくる春の天皇賞を前に、一刻も気の抜けないトレーニングの日々が続く。
そんなある日、メイショウドトウがおずおずと練習場へ顔を出した時から、彼女の背後に片桐トレーナーが控えていることを鷹木は予見して溜息を吐いた。
直後、ドトウの表情に浮かんだ臆病そうな色がさらに色濃くなったのを目の当たりにして、鷹木は言葉を足さざるを得なかったが。
「あぁ、いや、ちょっと疲れていただけ。こんにちは、ドトウさん。」
「すっ、すみませんすみません、お疲れのところをお邪魔してしまってすみません!あのぉ、オペラオーさんのトレーニングを、もちろん優先していただいて構いませんのでぇ……」
「いやいや、せっかく来てくれたんだから……」
ペコペコと頭を下げるドトウに対して強気に出られる鷹木ではなく、それを見越したかのようにドトウの担当トレーナーは旧来の知己特有の馴れ馴れしい笑みを浮かべながら姿を現したのであった。
「いやはや、本当に毎度毎度練習相手になっていただいて、すみませんね。さすがは器の広い鷹木トレーナーだ、担当ウマ娘に似たんでしょうかな。」
「……まぁね。そちらとは違ってね。」
肩身が狭そうになおも頭を下げ続けているドトウを傍らに、片桐は鷹木の言わんとするところにまるで気づいていないかのごとき笑みを返した。
「すみません、すみません、オペラオーさんとの練習をさせていただいたら、そそくさと帰りますから……」
「何を言うんだい、ドトウ!いつまでだって居てくれていいんだ!キミと共にいられる時間には、千金も千秋も費やそう!」
「はっ、はわわわわぁ、私にそんなたくさん使っちゃもったいないですぅ……!」
やがて親愛なる同期ウマ娘の姿を目の当たりにしたテイエムオペラオー流の歓待を受けながら、共に並走練習の準備を開始したドトウ。
練習用コースへ向かう両名の背を見送りながら、片桐は呟いた。
「しかし、そろそろ……ドトウをオペラオーの練習相手に当てさせてもらうのも、卒業したいものですな。」
「と、いうと?」
「いや、分かってるでしょう。オペラオーと本番でぶつかれる所にまで行ってもらいたい、ということですよ。」
タイム計測と映像録画の準備をする片手間だったため鷹木の頭は片桐の思考を掴めていなかったが、言い換えられれば至極明白なことであった。
今、こうしてメイショウドトウがテイエムオペラオーとそこそこの頻度で並走練習を行えているのは、実際に大舞台で競い合う機会が予定されていないためである。当然ながら、本番でぶつかる相手を前に、わざわざレース中の作戦など手の内を明かすことは普通しない。
「あぁ……。こういう練習も、大舞台での対決相手となれば、出来ませんね。」
ゆえに、例えばナリタトップロードとの練習は今年の初頭に行ったきり、直接競うトレーニングは一度も実施していない。ラスカルスズカやオースミブライトなど、同期の有力なウマ娘たちとも、当然ながら並走練習など行うはずもない。
思えば、アドマイヤベガも最近は姿を見せない。その沈黙が、いよいよ彼女が本格的に復帰へと近づきつつある証ではないかと鷹木は危ぶんでいた。
知り合いのよしみでオペラオーに対し気楽に競走練習を申し込んでくる片桐ではあったが、目標を既に次の段階へと置いているあたり、彼も確かにプロのトレーナーであった。
「鷹木トレーナー!こちらは準備できたよ!計測を始めてもらっていいかい!」
オペラオーの良く通る声が遠方から投げかけられ、視野の真ん中でごく小さく映るメイショウドトウもこちらに頭を下げているのを確認し、鷹木は準備完了を示すように腕を掲げた。
今回もまた、ドトウはオペラオーに先行する走りを見せた。常にレース結果では先を行くライバルの蹄音を背後に聞きながら、懸命にゴールを目指す彼女の瞳には飽くなき闘争心が確かに抱かれている。
結果は、ドトウの逃げ切り。クビ差にまで迫ったオペラオーに先頭を譲らぬままのゴールとなった。息を整える時間ももどかしそうに、オペラオーがいつも通り無駄に良い音の拍手をしながら好敵手を讃えている。
「さすがだよ、ドトウ!いずれ、ボクの玉座を脅かすのはキミじゃないだろうか!あぁ、恐るべき友に巡り合ってしまったものだ!はーっはっはっは!」
「はぁ、ひぃ……そんな、今日はたまたま脚が良く動いただけで……ふぅ……」
ドトウのその口ぶりは、文字面だけをなぞれば謙遜に過ぎぬようにも聞こえたが、彼女自身が走りにまだ満足していないのは本心であるとオペラオーにも伝わっていただろう。
彼女の担当トレーナーである片桐もまた、さっそく今の走りを録画した映像を見返している真剣な目元に、笑みなど一切浮かべていなかった。
クールダウンの運動を済ませたウマ娘たちがトレーナー達のもとへ寄ってくる頃には、いつも通りに胡散臭く仄かに不遜な笑みが片桐の顔面には復活していたが。
「お疲れ様です、ドトウ。そして毎度練習に付き合っていただきありがとうございます、オペラオーさん。」
「いつだって歓迎さ!何なら明日も、明後日も、毎日来てくれたっていい!友と研鑽し合う日々は、かくも充実し、意義深いものだからね!」
目の前の片桐という男に社交辞令など通じないことを良く知っている鷹木は目をむいてオペラオーに視線を投げたが、さすがに片桐は心得たように微笑して頷いていた。いくら何でも、毎日押しかけては並走練習を要求するような真似はしないつもりだろう。
彼に心得られること自体が、不穏以外の何物でもなかったものの。
「さて、ちょうど、練習を終えれば昼下がり!片桐トレーナーは、この時刻を見越して訪れたんじゃないかい?さぁ、こちらにおいで、ドトウ!」
「はわわわぁ、いっ、いいんでしょうか、こちらに腰掛けて……」
「いやはや、オペラオーさんにはかないませんな。ということで鷹木トレーナー、ウチのドトウも一緒に今年の皐月賞を観戦させてやってもよろしいですか?」
「……どうぞ。」
既にオペラオーによって大型スクリーン前にまでエスコートされ、並んで仲良く座っているウマ娘たちの背を見せられた鷹木が断れるはずもなかった。
本日が皐月賞の行われる日であることを、さしもの鷹木も忘れてはいない。皐月は五月の意ではあるが、レースは四月に行われる。
今年に入ってからよく顔を合わせるようになったエアシャカールが、出走するレースである。オペラオーの背を脅かす存在として、警戒すべき後輩ウマ娘の実力が露わとなる大舞台を見過ごすことは出来ない。
中継の画面が映った時には、既にパドック上のウマ娘たちの紹介が流れていた。エアシャカールは2番人気であったが、そこに顔を見せていたのは3番人気のウマ娘である。
〈ラガーレグルス、3番人気です。デビュー当初からエイシンプレストンやフサイチゼノン、そしてエアシャカールらに先を越されてまいりましたがその実力は彼女らにも引けを取りません。報知杯弥生賞では三着、皐月賞への優先出走権を得ての登場です。〉
その生真面目そうなウマ娘の表情に目を走らせた時、心のどこかに引っ掛かるものを覚えたのは鷹木のみではないらしかった。
アナウンスにあった通り、ラガーレグルスにとっては雪辱を果たすべき相手の居る大舞台である。ゆえに緊張と気の張り様が痛いほど表情から伝わってくるのは他の選手も同様であったが、このウマ娘に関してはその度合いが異様なまでに強かったのだ。
「ちょっと、気持ち的に自分を追い込みすぎかもしれませんな。」
片桐も同様に感じていたのか呟き、鷹木は画面に映し出されているラガーレグルスの緊迫に引っ張られるかのように声を出せずして頷いた。
〈続きましては2番人気、エアシャカール。昨年のデビュー以来、好成績を残し続け、先月の報知杯では二着となりました。デビュー当初からは大きく作戦を変更したことも知られております、この皐月賞ではどう出るか。〉
いつもはトレセン学園内にて必要以上に尖って見えるシャカールの外見も、あらゆる出走選手が気を張り詰めている本番の舞台においては、相対的に穏やかであるようにも見えた。むしろ、その緊張の度合いは程よいものに収まっているようでもあった。
どこか真っ当ではないところを有するウマ娘こそ、こういった大舞台で力を発揮しやすい条件を整えるのかもしれない……鷹木は今まで共に歩んできたオペラオーの後頭部を見下ろしながら、そう考えていた。
ウマ娘たちの紹介は終わり、いよいよ出走準備も整った。
〈18名がゲートに揃いました……スタートしました!横に広がりましてきれいに揃った好スタート……いや、ラガーレグルス、ラガーレグルスがゲートから出ていません!いったいどうしたというのか!レースは続行しています、パープルエビスが先頭で最初の直線を駆けていく!〉
「あ……あの子……。」
「怖がっちゃいけない。」
ドトウとオペラオーが、共に口を開く。
ゲート内に取り残されているラガーレグルスへとカメラが寄ったのは数秒にも満たない短時間であったが、その顔に刻まれた苦悶の表情は鷹木の網膜にもしっかりと焼き付いた。
ゲート難。もとより閉所が苦手だというウマ娘に限った話ではない。
殊に、この皐月賞はホームストレッチを二度通過するコース構成上、スタート地点は大観衆が一斉に雄叫びを上げる熱気に叩きつけられる位置である。その雰囲気にのまれ、あるいは自分自身が勝たねばという思いによって押しつぶされ……身体的な異変を生じさせてしまうことはあり得ない話ではないのだ。
毎度毎度、自分が走るわけでもないのに、担当ウマ娘を連れて行ったレースの結果を前に失神しかけている鷹木にもよく分かる話であった。
走り出せなかったウマ娘にそう長時間カメラが注目しているはずもなく、既に画面上では中山名物の坂を上っていくウマ娘たちの姿が映っていた。
「やっぱり、初めてGⅠレースに出る子がほとんどなんですね……」
「けれど、その初めてで一着を獲る者が、栄冠を手にするんだ。ドトウ、キミにも分かっていることだろう?」
昨年度は皐月賞に出られなかったドトウも、オペラオーからの言葉を受けて迷いなく頷く。
常にオドオド、自信なさげなウマ娘であるメイショウドトウであるが、これだけにレース本番の経験を重ねた今、メンタル面での成長を遂げている。昨年、無理を押さず皐月賞への出走を諦めさせた片桐トレーナーの選択は、今にして思えばこの上なく適切なものであった。
自分とは違って、有能なトレーナーが隣に居る。またしても一人抱えるコンプレックスを強化しつつある鷹木を他所に、皐月賞の観戦は続く。
〈さて先行争いです、外からマイネルコンドルが出てまいりました、パープルエビス、そして次の集団ですがアタラクシア外から上がってまいりました。トップコマンダー、そのウチからタイムリートピック、そして1番人気ダイタクリーヴァと続いております、第1コーナーへと入ってまいります。〉
コーナーへと入っていくウマ娘たちを正面からとらえたカメラに映像は切り替わる。奥に片付けられていくゲートと、倒れているラガーレグルスを運んでいく担架が映り込んでいる。
観客席から聞こえてくるのが声援やラガーレグルスを心配する声のみならず、罵声や野次も含まれていることなど今さらであったが、鷹木は眉間にしわを寄せることなくしてその画面を見ていられなかった。
レースは中断されない。走り出したウマ娘たちは、既に命を削る思いで脚を運んでいるのだ。
エアシャカールは最後方、後ろから2,3番手ほどのところにつけて前方を睨んだまま走っている。
〈パープルエビス先頭で回っていきます、単独二番手マイネルコンドル、三番手にはタイムリートピックという順であります。第2コーナーへ、アタラクシアが五番手につけました、中団にジョウテンブレーヴ、外を回りますトップコマンダー、ピサノガルボ。あとはニシノアラウンド、カネツフルーヴです。ウチを通りましてリワードフォコン、マイネルチャージが上がってきました、ヤマニンリスペクト、内からはエアシャカール、その後にエアシャカールです。〉
弥生賞の時に追い込み策へ切り替えたエアシャカールは、そのまま作戦を変える気は無いようであった。常々よりロジカルさを求める彼女らしく、一度自分の見出した作戦を完璧へと近づけることを自らに対し求めたのだろう。
前のレースの時のように、コーナーで不用意に大外を回ってはいない。堅実に脚を溜めながら内側を回り、それでいて外から進路を塞がれないように気を配り続けている。
〈2番人気エアシャカールは後方三番手といった位置、そこからクリノキングオー、最後方はチタニックオーです。残り1000m、先頭は変わらずパープルエビス、続いてマイネルコンドル、前へと詰めていきました。三番手タイムリートピックは外目をつきまして、ダイタクリーヴァは内の四番手。アタラクシア外にマークしています、3コーナーへ差し掛かってまいりました。〉
「アヤベさんみたいだ、彼女の恐ろしさがよみがえってくるようだよ、シャカール!」
「ほ、本当に、アヤベさんのような走りですぅ……」
3コーナーに入り、徐々に勝負所へと差し掛かりつつあるレース。
口々にオペラオーとドトウが言った通り、エアシャカールの仕掛けるタイミングは、アドマイヤベガのスパートによく似ていた。ナリタトップロードのペース管理、そしてアドマイヤベガの末脚を、彼女は良く観察して学んだのだろう。
〈外を回りましてトップコマンダー、ピサノガルボがウチ、そしてカネツフルーヴ、ニシノアラウンドも並んでいる、残り600通過、さぁ一気に来た、エアシャカール一気に動いた、エアシャカール仕掛けました!ヤマニンリスペクトも連れて上がってきました!最後方からチタニックオーも上がってきます!4コーナー回っていきます、エアシャカール一気に先頭を捉えた!〉
勝敗を決するその時を、心逸らせることなくじっと狙い続けていた捕食者が、遂に牙を剥いた。
脚を溜めながらじっくり追い続けてきた集団を、大外から一気に抜いて駆け上がってくる。内側を回っていくウマ娘たちが直線へ入る方が先であったが、シャカールの勢いはとどまらない。
「これは十分な末脚だ。前回の弥生賞、スタミナの浪費を痛く悔いたんでしょうな。」
もちろんレースの熱狂に飲まれていた鷹木は、そんな片桐の冷静なコメントに黙って頷くことしかできなかった。
〈エアシャカール先頭まで5バ身のところまで上がってまいりました!直線に入りましてパープルエビス先頭、しかしウチからダイタクリーヴァ!ダイタクリーヴァがウチから!真ん中にジョーテンブレーヴ!外から一気にエアシャカール!エアシャカールがやって来た!エアシャカール坂を駆け上がってくる!〉
「凄いね!あぁ、芸術的だ!キミは星をも掴もうというのか、シャカール!」
「はわわ!……ぁわわ!」
中継画面から流れ込んでくる大歓声の洪水の中、画面の前で応援する面々は自分が何を口走っているとも意識していなかった。
今は1番人気をかっさらったダイタクリーヴァの喉元へと、エアシャカールが食らいつこうとする一場面のみが見る者の視野を等しく占拠していた。
〈エアシャカール先頭か!いやダイタクリーヴァ粘る!エアシャカール!大外からチタニックオーが上がって来たが、しかし先頭はダイタクリーヴァ!エアシャカール迫る!ダイタクリーヴァ!エアシャカール!……エアシャカール、ゴールイン!ダイタクリーヴァは二番手!勝ちましたエアシャカール!〉
大歓声の中、エアシャカールは今まで通りに鋭く冷めた目つきを続けていたが、その頬は確かに上気していた。
遂にクラシック級の最初の栄冠、昨年はオペラオーが手にした皐月賞の栄光を受け継いだエアシャカール。その事実は、またしてもオペラオーの背を脅かすウマ娘が一歩近づいてきたことを示してはいたが、鷹木の胸の奥にはレース開始時点の光景もまた深く刻み込まれていた。
華やかな勝負服に身を包み、翔っていくウマ娘たちの向かう先に待ち受けるは、栄光ばかりではない。
皐月という爽やかな看板の裏に、覗き見たのは並みの精神など瞬く間に擦り切れさせてしまうほどの苛烈な競走の世界であった。