自らの担当ウマ娘がこの上ない大舞台へと向かう時、トレーナーたる者は彼女らを勇気づけ、絶対に勝てると確信を抱かせ、送り出すべきなのであろう。
しかし、そのことを念頭に置いて、今度こそオペラオーを自分が力強く送り出すのだと前夜から自らに言い聞かせ続けていても、なお鷹木は顔色を失い、唇を小さく震わせた顔で本番当日を迎えていた。
まずもって出走メンバーに歴々たる優駿ばかりが集っているのだ。レース歴4年目ながら今なおGⅠ上位に食い込み続けている大ベテランのステイゴールドを始め、同じく4年目で金鯱賞をドトウと競ったサイレントハンター。言うまでも無く両名はサンデーサイレンス血統である。
黄金世代を代表するグラスワンダーも彼女自身が宣言した通り顔を見せており、その黄金世代と競い合ったマチカネフクキタルもまた名を連ねていた。
オペラオーと同世代からはクラシック級に幾度もぶつかったオースミブライトが出ているし、今年度に入って鷹木が強く警戒しているラスカルスズカも当然参戦している。金鯱賞でドトウには敗れたものの二着まで食い込んだジョービッグバンも無視できぬ存在である。
が、他のいずれのウマ娘よりもオペラオーの背を強く脅かすであろう存在が、メイショウドトウであった。
テイエムオペラオーがクラシック級を走っている頃、同じ路線には行かず地方レースで経験を重ね、同時にオペラオーと幾度も並走練習を行って力を蓄えていたドトウ。思えば、あの時からオペラオーに勝つための布石は敷かれていたのではないだろうか。
いつも同じ走りをするとは限らないオペラオーだが、そんな彼女の癖や脚質を最も身近で味わってきたのがメイショウドトウに他ならない。
対戦相手に手の内を明かすわけにはいかない以上当然のことであったが、この宝塚記念の数か月前からオペラオーの前に姿を現さずにい続けたドトウの振る舞いもまた鷹木には不気味に思えてならないのであった。
やはりと言うべきか、緊張と不安でガタガタ震えている小心者のトレーナーとは対照的に、当のテイエムオペラオーはそんな強敵たちと相まみえることが楽しみで仕方ないようであった。そして、しばらく会うことのなかったメイショウドトウにも。
「さあ、明るい輝きを煌めかせ、強く美しい脚の翔る速さを魅せるのだ!メイショウドトウ!誰もが羨む我が好敵手よ!キミの輝きを、このボクに見せてくれ!」
「か……勝ってこいよ、オペラオー……。」
「はーっはっはっは!言われるまでもない!かくも覇王に相応しき舞台へと連れてきてくれたんだ、キミの期待にも全力で応えよう!」
結局、やはり朗らかに歌い舞いながらレース場へと向かっていくオペラオーの背に、鷹木は前もって準備した言葉しか告げられなかった。
たしかに宝塚記念への出走登録を行うため種々の事務処理を担当したのは鷹木に他ならなかったが、それでも彼はトレーナー用ブースに向かう自分の脚が操り人形の如くぎこちない動きとなっている様を感じ取っていた。
あとはただ、見るだけ。それだけの行為しか許されぬからこそ、自分はここまで憔悴しているのではないかとまで思われた。
〈あいにくの雨となりました阪神レース場ですが、芝状態は良となっています、いよいよ発走目前となりました宝塚記念。3番人気はラスカルスズカ、今まで大舞台では幾度も先頭を脅かし好位につけているものの無冠、今回こそは王者への雪辱なるか。〉
続々とゲートに入っていくウマ娘たちの上を雨雲が覆い、垂れ込んだ曇り空の下で籠ったように実況のアナウンスが響いている。画面越しにとはいえ、鷹木はウマ娘たちの視線を直視できなかった。
彼女らの真剣さは、今は自分の担当したウマ娘を負かすための一念に他ならなかったのだ。
〈2番人気はグラスワンダー、今年に入ってもなお引退することなく走り続ける、言わずと知れた黄金世代の一角であります。そして1番人気はこの子、テイエムオペラオー。今年に入って負けなしのウマ娘、春の天皇賞に続いて更に連勝を伸ばすことが出来るか。間もなくスタートとなります。〉
ようやく、テイエムオペラオーの名がアナウンスされたことに促されるように視線を上げる鷹木。
大型ディスプレイに映し出されたオペラオーは、笑っていない。レース本番の時にのみ見せる、真剣そのものな眼差しに射止められてより後、鷹木は顔を下ろすことが出来なくなった。
これより彼女らは、その魂を削り合って大舞台を競い合うのだ。
〈ゲートインが完了……スタートしました!11名、これからスタンド前の直線を駆けていきます。まずは外目から前に出ていきましたジョービッグバン、先手を窺うようです。ウチからはサイレントハンターが上がってまいりました、その間にメイショウドトウは三番手につけています。そのすぐ後ろ、マチカネフクキタル、更に開きまして五番手にはグラスワンダー、マチカネキンノホシ、テイエムオペラオーは中団のインコースを走っています。〉
スタンド前の直線を二度通る宝塚記念のコースは、ゴール前に用意されている上り坂を二度通ることとなる。とはいえスタート直後から緩やかな下りとなっている長い直線でおおよその順位は決まり、コーナーに入るころには外を回る選手はいない。
ゆえに1コーナーに入る前にインコースを走れる位置を取っていなければ、相対的にスタミナ面で不利となってしまう。
先行争いを行うのは今までのレースから推測できる通りにジョービッグバンとサイレントハンター、そしてメイショウドトウ。この点は鷹木の予想した通りとなり、オペラオーも事前の作戦通りに彼女らに先行させた中団の位置につけていた。
〈さらにはオースミブライト、後方にメイショウオウドウ、あとはラスカルスズカ、最後方にステイゴールドといった形で、坂を上り切った一団は1コーナーへと入っていきます。先手を取ったのはサイレントハンター、リードが2バ身から3バ身、二番手にはメイショウドトウ、ジョービッグバンをかわして二番手につけています。〉
観客席の熱狂と共に駆けていくウマ娘たち。鷹木は自分の爪が手のひらに食い込んで傷をつけるほど、強く拳を握り締めながら一団を目で追っていた。
そうでもしなければ、結末を見届ける前に気圧されて失神してしまうとまで感じていたのである。かつて大舞台を目の当たりにするたび気絶していたメイショウドトウは、そのレースの舞台で堂々と走っているというのに。
最終コーナー前での焦りを誘発せぬよう、先頭により近い位置につき続ける先行策。それは、オペラオーの背を追うばかりの立場にはもはや甘んじないという彼女自身の意思表示であるようにも思われた。
〈第2コーナーへ差し掛かってまいります、三番手はジョービッグバン。間延びした展開になっております、四番手はテイエムオペラオー。半バ身後ろ外を回りますマチカネキンノホシ、マチカネフクキタルは六番手、その後グラスワンダーです、後ろから四番手の位置。あとはメイショウオウドウ、ラスカルスズカ、オースミブライトが後方から二番手、さらに4バ身ほど開いてステイゴールドが最後尾でじっくりと溜めています。〉
トレーナーの眼から見れば、緊張感に満たされた展開となっていた。いずれのウマ娘も、理想通りの走りを実現している。
すなわち、わずかにでも集中力を切らせば、その時点で負けは確定するということだ。これより向こう正面の直線から緩やかな下りとなる3,4コーナーまでスピードの出しやすい区間となる。その勢いがついた状態でこそ、コンマ秒でのペース配分の狂いが命取りとなる。
奇策を仕掛ける者のいない、実力者同士が本気でぶつかり合うレース。テイエムオペラオーの気分次第に任せて走らせていた頃の自分の考えが、決して通用することのない世界であることを鷹木は痛いほど感じ取っていた。
しかし、そう見えたのも向こう正面に入る前までのことである。
〈向こう正面へと入ってまいります、残り1000mをサイレントハンター先頭で通過、逃げを打ってリード5バ身から6バ身、二番手にはメイショウドトウ、三番手は1バ身差でジョービッグバン。そしてさらに3バ身差で……ラスカルスズカ!?ラスカルスズカ内ラチ沿いから四番手にまで上がりました!それからテイエムオペラオー、その隣にグラスワンダーが並んできた!800を通過、後ろから上がってきたグラスワンダーがテイエムオペラオーと並んでいる!〉
「おい……もう周りは仕掛けてるぞ、何をしてるんだ、オペラオー!」
後になって思い返してみれば、鷹木の焦りは凡人のそれ以外の何物でもなかったろう。
だが、3コーナーに入るのをまたず、一斉に上がり始めた集団の中へと埋もれていくテイエムオペラオーの姿は、彼を戦慄かせるに十分すぎる光景であった。現状最も警戒される追い込みウマ娘、ラスカルスズカがウチを突いて前へ前へと上がっていく。
既に全盛期は過ぎたと思われていたグラスワンダーも、ここに来て一気に仕掛けていた。黄金世代をスペシャルウィークと競い合ったあの脚が、オペラオーに難なく並んでいる。
なおも後方で不気味に様子を窺い続けるステイゴールドも、この様子を見て少しずつ加速し始めていた。いよいよ勝負所に差し掛かった中で、オペラオーはなおも事前に決められた通りのペースを守って仕掛けなかったのである。
〈バ群がぎゅっと固まって600を切りました!3コーナーに入りまして……ウチから、ラスカルスズカ!ラスカルスズカ一気に上がってきて先頭だ!二番手にはサイレントハンター粘っているが苦しいか!メイショウドトウに並ばれています!外からはジョービッグバンが上がって来た!そしてテイエムオペラオーは今五番手、グラスワンダーがピッタリと横につけている!さぁ最終直線へと入ります!〉
鷹木は半ば絶望的な面持ちでスタンド前に入って来た集団を見つめていた。追い込みに長けたラスカルスズカが、コーナーを回り切った所で既に先頭に居る。それも、最も短い距離でコーナーを回れる最ウチだ。
しかしテイエムオペラオーはこの時に考えていたことをレース後に問われ、「ボクにはドトウしか見えていなかった」と答えた。
「あの時、最も強い確信をもって足を運んでいたのは、ドトウだけだったからね!それにすぐ隣のグラス先輩は……様子が変だった。」
宝塚記念の最終直線は、356.5m。この長さの最後に、高低差約2mの上り坂が待ち構える。阪神レース場のコースを丸ごと一周した後のスタミナ残量のなか、決して勢いで乗り切れる区間ではない。
愚直に、かつ執念深く、勝利への布石を踏み進むことの出来る者だけが先頭を取れるコースであった。
〈ラスカルスズカ先頭か!ラスカルスズカ先頭か!外からテイエムオペラオー!ジョービッグバンを連れてテイエムオペラオーが上がって来た!残り200!ゴール前には上りが待ち受ける!グラスワンダーが伸びない!現在六番手!テイエムオペラオーが先頭です!〉
「行ける……行けるぞ!」
相も変わらず涸れかけた声しか出ない鷹木であったが、確実に先頭を奪うためのスパートを残していたオペラオーの猛進を前に、折られかけた心を持ち直す。
早いタイミングで仕掛け、コーナーを回り切るまで好位置を取っていた選手たちが次々と上り坂で失速していく中、ゴール前に相応しい末脚を発揮できたのはテイエムオペラオー、そして同じく堅実な走りを見せていたジョービッグバン。
ジョービッグバンも疲弊の色を見せぬ脚でオペラオーに追いすがるも、差が縮まる気配はない。
が、オペラオーが先頭を奪うのと同時に、猛然と加速し始めたのがメイショウドトウであった。
〈テイエムオペラオー先頭!後方からステイゴールドも上がってくるが……ウチからメイショウドトウ!メイショウドトウがウチから二番手!テイエムオペラオーに迫る!接戦だ!テイエムオペラオーか!メイショウドトウか!今、ゴールイン!〉
ゴール直前、内側の集団に埋もれていたと見えたメイショウドトウが迫り来た様は、鷹木の総身に鳥肌を立てた。
最後の最後まで、勝利に確信は持てない。そのことを示すように、ドトウの加速はオペラオーを差し切るに十分すぎるものだったのだ。
宝塚記念が2200mでなければ、ここでテイエムオペラオーの連勝に早くも終止符を打っていたのは、メイショウドトウであったかもしれない。オペラオーとドトウは、全く横並びの状態でゴール板を越えた。
〈結果が表示されました!勝ちましたのはテイエムオペラオー!わずかにハナ差!メイショウドトウ、健闘しましたが惜しくも二着であります!オペラオーを差すウマ娘の予想は数あれど、まさかの刺客、6番人気のメイショウドトウがあと僅かというところまで迫りました!〉
例によってトレーナー用ブース内で見ているだけの鷹木は息も絶え絶えの状態であったが、テイエムオペラオーはメイショウドトウに笑みを投げかけた後、背後を振り返る。
ゴールした後の減速を行っているウマ娘集団の中、グラスワンダーの動きに違和感があったのだ。隣へと寄って行くオペラオーが珍しく真剣な表情で何かを話しかけているのに対し、グラスワンダーはいつも通りに穏やかな笑みだけを返している。
が、間もなくグラスワンダーはレース場の壁面に手をついて立ち止まり、ただ歩くこともままならない様子となった。救急車が呼ばれ、彼女の身はいち早くレース場から運び出されていく。
彼女が宝塚記念のレース中に過度の負荷によって脚を骨折しており、そのまま引退となることが報じられたのは間もなくのことであった。