鷹木の生涯においても、1年前のことがこれほど遠い過去のように思われた年もあるまい。
梅雨明けとともに7月を迎え、トレセン学園が夏合宿の時期へと突入したのは例年通りである。学園の二年次生以上のウマ娘および担当トレーナー達が、一斉に巨大な合宿所へと居所を移すのも同様だ。
ただ、オペラオーの扱いは1年前と比して大きく変わっていた。
専用の宿泊施設、本番同様の長大な練習場、充実のトレーニング設備。GⅠレースにてトップクラスの成績を出しているウマ娘に学園が与える相応の練習環境は合宿所にも備えられている。よもや鷹木も、自分がこんな場所に来れようとは思いもよらぬ種々の厚遇が夏の日差しの下に広々と並んでいた。
「はーっはっはっは!まさに覇王に相応しきヴァカンスの舞台だね!」
「こんな凄まじい環境を、夏の間だけ、一名のウマ娘のために用意できるのか……トレセン学園ってのは。」
こういった扱いは彼女に比肩する実力を発揮したメイショウドトウについても、ナリタトップロードについても同様であった。
そして、今年秋からの復帰に向けて練習回数を重ねている、アドマイヤベガにも。
昨年秋の彼女を襲った脚の不具合というのが、靭帯炎であることを知ったのは鷹木もつい最近のことである。骨折ではないとはいえ、レース毎に過度の負担が足に掛かるウマ娘の靭帯炎は再発しやすく、治療にも時間を要する。
現役真っただ中のウマ娘にとっては、十分に致命的な症状であった。
アドマイヤベガの復帰が現実的となった今であればこそ明かされた実情ではあったが、症状を知ったばかりの去年の彼女にとっては復帰も絶望的だったことであろう。
それでもなお、レースの舞台に戻る一念でオペラオーの練習風景を目の前に置き、地道にリハビリを続けていたアドマイヤベガの胆力に、今さらになって鷹木は舌を巻く思いであった。ほとんど現役同様の走りを取り戻していながら、先月の宝塚記念への出走を見送った判断にも、よほどの忍耐を要しただろう。
また、今回の復帰には彼女自身の強さもさることながら、トレセン学園によるウマ娘のサポート体制の充実も大きく寄与していた。
昨年の菊花賞直後、アドマイヤベガが何らかの異状を抱えていることを即座に見抜き、靭帯炎が重度に悪化する前に休養、治療に専念させる方針を打ち出したのは学園専属の医療班の優秀さを物語っている。あるいは、彼女を担当していた結城トレーナーが、その長年培ってきた観察眼から判断したことであろうか。
どちらにせよ、この夏が終わるころにはテイエムオペラオーの連勝を脅かす存在が一名増えることは確実だった。それは闘争相手を求むオペラオー自身を喜ばせる報告でもあり、トレーナーたる鷹木の神経を締め上げる危機でもあった。
「いいか、次の目標は京都大賞典だ。今年こそ一着を獲るぞ、確実にナリタトップロードもアドマイヤベガも来るだろうが……」
「分かっているとも!きっとボクが勝つことになるけれどね!さぁ、練習を始めようか!」
「お、おう。」
彼の胸中などお構いなしに、夏の陽は連日晴れ渡り、オペラオーはいよいよ喧しさと眩さを増して、データ収集とトレーニングメニューの組み立てに忙しい鷹木の前を駆け続けた。
オペラオーが朗らかでない時を見出すことはそもそも難しかったが、この夏合宿が始まって彼女が最も大きく喜色を溢れさせたのは、久々に練習場にてメイショウドトウと相見えたことだったろう。
宝塚記念で競い合う方針を片桐トレーナーが決定した晩春ごろから、レース本番まで直接会うことのなかった二名。対戦相手に、自分の走りの癖を見せないためである。
そう言った理由で鷹木も久々に目にするドトウは、やはり生来の臆病さを前面に出して自信なさげなウマ娘に変わりないように思われた。宝塚記念ではハナ差までオペラオーに迫った、あの恐るべき末脚を発揮する強敵の顔には見えなかった。
「お邪魔、しますぅ……あ、あの、あのぉ……宝塚記念では、その、対決、ありがとうございましたぁ……。」
「こちらこそ礼を言うよ!あぁ、ボクの真隣りにまで迫り来たドトウの蹄音は、今思い出しても胸を高鳴らせてくれる!これからも競い合おう、はーっはっはっは!」
ドトウと共にその髭面を覗かせた片桐も、やはり以前と変わりなく、不敵かつ思慮の大部分を包み隠した笑みを鷹木とオペラオーに向けていた。
「どうも、ご無沙汰しています。いやはや、宝塚では惜しいところまで行ったんですけどな。」
「どーも……その、オペラオー自身の強さ、でしょうかね。見ている自分もヒヤリとしまして。」
「じゃあ、次の秋天ではゾクゾクするでしょうな。暖かい恰好で行ってもらわなきゃ、ですね。」
冗談とも本気ともつかぬ笑みを浮かべて、吃りがちな鷹木とは対照的に片桐はスラスラと返した。
秋天、すなわち秋の天皇賞にも、メイショウドトウは出走するのだ。金鯱賞以来、これまで積み重ねてきた努力の成果が開花するように追い上げてくるメイショウドトウ。宝塚記念で僅差だった彼女が、天皇賞でオペラオーに勝つ未来は十分に現実的であった。
「ちなみに、京都大賞典には?」
「いえ、ドトウは産経賞オールカマーの方に。実力者が顔をそろえるレースですし、何よりも天皇賞への優先出走権もいただけますから。」
たしかにドトウの実力を測る上では相応しいレースであった。
ただでさえ、二度の上り坂と4のコーナーを有し、テクニカルな攻略が求められる中山レース場の2200m。それも、9月となればコースも野芝、最もスピードを出しやすい状態である。単純な速さのみならず、持久力、駆け引きの上手さに至るまで、総合的な実力が問われる本番となるだろう。
が、出走権の方は一着になったウマ娘にのみ与えられるものである。サラリとそれを得るつもりで語った片桐の口調を、鷹木は危うく聞き逃すところであった。
「……メイショウドトウには、産経賞で一着になる勝算が?」
「えぇ、今の彼女であれば、可能でしょう。」
やはり何ほどのことでもないように語る片桐の表情には、油断も驕りも無く、ただ確信の色ばかりが浮かんでいた。そして、鷹木の中にもそんな予測を覆しうる材料など無かった。
現世代の最強ウマ娘はテイエムオペラオーだ……彼女の担当トレーナーの立場としては、そう断言すべきところである。その宣言を遮り得る、最も近くに居るウマ娘がメイショウドトウであった。
当のオペラオーがメイショウドトウを出迎えて騒いでいる声を聞きつけたわけではあるまいが、やがてアドマイヤベガとナリタトップロードもこの場に加わっていた。
例によって多忙であろう結城トレーナーは現れなかったが、顔を出した桂崎トレーナーからは彼女らも来ることになった事の顛末を聞き出せた。
「秋も近づけば、あの子達もライバル同士です。この7月中でもない限り、顔を合わせて練習する機会は得られないでしょうから。」
「下手すれば、現役時代を終えるまで、ですね。最後の並走練習になっちまうかもしれませんな。」
片桐が付け加えたその憶測に鷹木も頷きながら、相も変わらず学園入学当初と同じように友の訪問にはしゃいでいるオペラオーを眺めていた。
「それで、練習のコースは2400mでいいの?ドトウの次の目標は産経賞でしょ。」
オペラオーの喉から垂れ流される声量から目を背けつつ、アドマイヤベガが尋ねている。
「はわわわわぁ、わ、私なんかに合わせていただかなくてもぉ……」
「ドトウだけ、200m短い距離でスタートするかい?きっと、私たちの誰もドトウには勝てなくなってしまうだろうね。」
冗談めかして笑うナリタトップロードに対し、オペラオーが彼女なりには大真面目に言い放つ。
「それは聞き捨てならないね!ドトウ、キミも共にスタートするんだ、我ら四名、肩を並べ、駆け抜けようじゃないか!」
「並んだままって、どんなレースよ。お互いに脚質も全然違うのに。」
アドマイヤベガからの冷静なツッコミを受けながらも、オペラオー達は練習コースのスタート地点へ向かっていった。
空に立ち昇る巨大な入道雲が、鮮烈なまでに青々と茂る芝の上に聳えている。ウマ娘レースの苛烈さをごっそりと忘れ去らせてしまいそうなほど爽やかな光景の中、世紀末覇王を名乗る者と、その座に最も近くまで迫るウマ娘たちはスタートを切った。
やはり先行するナリタトップロードの、その背にピタリとドトウは付けている。その後ろにオペラオー、最後尾にアドマイヤベガ……と、今まで幾度も繰り返してきた光景が繰り広げられる。
彼女らが初めて出会った頃との違いと言えば、そのタイムであろう。もはやこの集団と同じペースで走れるウマ娘は、ほとんど居ない。
今世代のトップクラスを占めるウマ娘はほとんど決まったようなものであり、覇王の座を突き崩す者がこの中から現れないとなれば、後進のウマ娘たちの中にそれを求める他にない。
エアシャカールは現在イギリスへ渡り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの出走へと調整を進めている。今月中旬のジャパンダートダービーへと出走予定のアグネスデジタルもまた、この合宿場には姿を見せていなかった。
あるいは、今なおその実力をもって黄金世代から引き続き君臨し続ける先輩ウマ娘であろうか。
泥濘の中から這い上がり、悲願の栄冠を手にした不屈の王、キングヘイロー。安田記念にて三着であった彼女はなおも戦意に翳りを見せず、今秋のスプリンターズステークス出走を目指してトレーニングを続けている。
昨年フッと姿を消したかと思えば、再び予告なく現れた風来の雲、セイウンスカイ。結局、彼女に関しては何の情報も得られなかったが、オペラオーに宣戦布告とも取れる言葉を投げつけた時の、あの眼差しには本気が宿っていた。
他には……かつてGⅠを沸かせた華々しい面々は、もうほとんど居ない。残るはいまだGⅠ無冠ながら走り続ける大ベテランのステイゴールド、そしてメジロブライトあたりであろうか。
ウマ娘レースという過酷な舞台ゆえ致し方のない流れではあるが、黄金世代の面々が現役を去っていく様は、どこか寂しくもあった。
そこまで考えを巡らせた鷹木は、走っていくウマ娘たちを注視する視野の隅で、練習場へ入って来た何者かの存在を捉える。
その正体の方へ顔を向け、昨年同様に絶句した彼の前に立っていたのは、昨年の夏合宿同様にひょっこり顔を出したスペシャルウィークであった。
「あっ、どーも、どーも。お邪魔でなければ、ちょっと覗かせてもらっても宜しいですかね?」
「い、いえ、邪魔だなんてそんな……。」
一気に押し寄せてきた緊張のまま固まった鷹木は、離れた位置で今なお気づかず担当ウマ娘の走りを凝視し続けている片桐や桂崎にも、この唐突な訪問について教えようかと迷っていた。
彼女の背後から遅れて現れた、さらなる意外な存在を目にしたことで、その葛藤も吹き飛ばされたが。
「こっそり覗くだけだと言っていたのに、スペちゃんはまた堂々と……失礼いたします、差支えなければ私も見学に加わらせていただけますか?トレーナーさん。」
「グラスワンダーさん!?……ど、どうぞ、どうぞ……。」
グラスワンダーは車椅子に腰掛けていた。その脚に填められたギプスの白が眩しく、痛々しい。
しかし、彼女自身の顔つきは引退前と変わらず凛々しいままで、その瞳は今もなお収まらぬ闘志を秘めて輝いていた。彼女のすぐ傍で、車椅子の取っ手に手を掛け、これまたいつもと変わらず快活な様子のスペシャルウィークからも告げられた通りであった。
「グラスちゃんったら、お医者さんからじっとしてなさいって言われたのに、どうしても練習場を見に行きたいって言うもんですから。」
「ふふっ、抜け出してきちゃいました。丁度練習しているところを見れてよかったです、本当に……ベッドで横になっていても、頭の中ではずっとターフの上を走り続けているんです、私。」
穏やかな眼差し、柔らかな口調。その全ての奥底には、火勢の収まらぬ炉のごとき熱が籠っているかのようであった。決して、じっとしては居られぬ心境だったろう。
蹄音を立てて、トップロードを先頭にした一団が目の前を駆け抜けていく。
スペシャルウィークとグラスワンダー、二名の先輩がこの場に居ることをオペラオー達も気づいただろうが、誰も、ドトウですら表情に動揺の色を見せず、自分たちの走りに没頭しているようであった。
それがウマ娘という存在なのだろう。走り続けることが、彼女らの存在そのものの規定となる。走りから唐突に切り離されては、やはり不完全な己に耐えがたいのだ。
そう思い返すに、スペシャルウィークというウマ娘も特異な存在であった。
「今は、スペシャルウィークさんって、お忙しいのでは?」
沈黙したまま後輩ウマ娘たちの走りにじっと視線を向けている彼女らの邪魔にならぬか、気を遣いながらも鷹木は話しかける。
「えぇ、まぁ、今日は偶に取れるオフの日ですので。」
スペシャルウィークの人当たりの良い声はきっちり彼にも返答したが、やはりその目はターフ上を駆けていく一団に向けられたままだった。
現役引退後、その戦績、および生来の人懐っこさもあって、メディアに引っ張りだこの彼女。今やスポーツ番組は当然のことながら、バラエティの世界にも顔を出し始めたスペシャルウィークは、文字通りにURAの顔となっていた。レース場に居るよりも、撮影スタジオやインタビュー室に居る時間の方が圧倒的に長い日々を送っている。
だからこそ、全力で走りに向き合える現役ウマ娘の練習風景からは、一秒たりと目を逸らしたくないのだろう。
「本当に良かったです、あの子の走りを確かめられて。」
ポツリとグラスワンダーが口にした言葉に、スペシャルウィークが応じている。
「オペラオーくんのこと?」
練習用コースの向こう正面もほぼ通過し、コーナーに入っていくオペラオー達が今は遠くに見えている。仕掛け始めたオペラオーがドトウへと迫り、最後方のアドマイヤベガも加速を始めた頃合いである。
「私たちのこと、黄金世代だと紹介されるたび……来年には、URAの黄金世代も終わってしまうのではないかと、時にはそう考えることもありました。」
「そう?私は、オペラオーくんが引っ張っていってくれるって、分かってたけどなー。」
「今になったから言ってませんか?スペちゃん。」
「いや、ホント、ホントだって。」
ここに来て初めてグラスワンダーが練習風景から視線を外し、スペシャルウィークと目を合わせている。現役を走りぬいたウマ娘同士の掛け合いを邪魔すまい、と鷹木はそっと後ずさって距離を取っていた。
昨年までは肩を並べ、ゴール前の攻防を披露し、大舞台へ詰めかけた大観衆を沸かせていたグラスワンダーと、スペシャルウィーク。互いに引退の身となった今もなお、こうして仲良く寄り添っていたが、両者は実のところ全く対照的なウマ娘であった。
デビュー当初はURA史上稀に見る秀才として名を馳せたグラスワンダーは、その翌年早々に骨折が判明し長期の休養を余儀なくされる。1年ぶりに勝利を得た有馬記念の後も、脚の状態を鑑みての出走見送りが重なり、当時を華やぐスペシャルウィークとの対決と相成った宝塚記念への出走が叶ったのは、すでにトレセン学園3年目の夏であった。
決して順調ではない道のりを、飽くなき闘争心と文字通りに血のにじむ努力によって駆け抜けてきた、執念のウマ娘だった。
一方のスペシャルウィークは、時に黄金世代の同輩たちに栄冠を奪われることこそあれど、その戦績は日本総大将の異名にまるで劣らぬ堂々たるものである。食べすぎによる体重増加を除けばこれといって不調に見舞われたこともなく、グラスとの一騎打ちとなった有馬記念を最後に華々しく引退を遂げている。
彼女が引退した後も駆け続けたグラスワンダーが車椅子に掛けている姿と、今も現役と変わらぬ佇まいで堂々と立って後輩たちの練習風景を眺めているスペシャルウィークの姿は、ほとんど対照的なものであった。
黄金世代の首魁は、やはり次元の違う強さを誇っていたのだ……この光景を見るにつけても鷹木はそう確信させられた。
並走練習の面々はコーナーを回り切り、最ウチを走るナリタトップロードにドトウ、オペラオーが並んだ状態で直線へと入ってくる。ぐんぐんと加速して前に出るオペラオーに、ドトウは負けじと食らいついてくる。
「……ともあれ、今は安心できています。世紀末覇王とかいうのが、単なるあの子の自称ではないと確認できましたから。」
「だから、じっとしていられないんだね、グラスちゃん。私も、皆が走るところ見てたら今だってウズウズしちゃうし。」
「本当に楽しみです、覇王が見せるレースの行く末と、彼女を打ち破る勇者がいずこから現れるのか。」
先頭に立ったままゴールラインを越えるかと思われたオペラオー。彼女を、大外から飛んできたアドマイヤベガが差し切った。
覇王を取り囲むウマ娘たちの一員、再び昇り始めた一等星の脚は既に完成されていた。