9月に入り、来月初頭に控える京都大賞典に向け、オペラオーのトレーニングも日々ぎっちりと詰まったスケジュールの中で進められていく。
当然ながら同じレースに出走する相手と練習するわけにいかない時期、担当トレーナーとして鷹木がセッティングした他チームとの合同練習が主となっていった。
並走練習を希望する相手を募っても、その普段から突飛な性格ゆえに交友のあるウマ娘以外にはなかなか希望者の見つからなかったオペラオー。だが今年度、GⅠで連勝を続ける稀有なウマ娘となった今、むしろ彼女との合同練習を我先にと希望する相手の方が増えたのであった。
オペラオー自身はこの現状を、自らの美しさを讃えるウマ娘が増えたおかげだと自負して笑っていた。が、鷹木は当然ながら、彼女のもとへ集まってくるウマ娘たちの眼に、一様に強い闘争心が秘められているのを見逃せなかった。
連戦連勝を挙げる世紀末覇王。彼女を最初に玉座から引きずり下ろすのは自分だという一念を、オペラオーに挑むウマ娘たちは一様に抱いているのだ。テイエムオペラオーが得意とする走り、コース取りの癖、仕掛けるタイミングの傾向など、鵜の目鷹の目で誰もが見抜こうとしていた。
思えば、オペラオーが一度でも負ければ担当を降りるという決定を受け入れてから早くも9か月がほとんど過ぎ、残り3か月と少しで一年が終わるところまで来ていた。
「今日共に練習した皆も、速かったね!あるいは、勇者は彼女たちの中から現れるかもしれない!はーっはっはっは!」
「本当にそう思ってるのか?」
合同練習を終えたウマ娘たちと礼を交わし、彼女達が去っていった後の広々と静かな練習場でオペラオーは高笑いを響かせる。まだ残暑が夏同様に芝を照り付けはしたものの、多少日が傾けば秋を感じさせる涼風がどこからともなくそよぐ時期であった。
彼女なりに競争相手を称えての言葉であったろうが、先ほどの練習競走は鷹木の眼から見てもほとんどオペラオーの相手となるウマ娘はいなかった。本番でぶつかり合うほどの実力の持ち主が軒並み次の京都大賞典でのライバルとなるのだから、今練習相手となれるウマ娘たちの実力が限られてくるのは当然のことだったが。
しかしオペラオーは、鷹木から投げかけられた訝りの言葉にも間を置かずに返した。
「目の前の結果だけを見て勝敗を語るべきではないさ、鷹木!無論、ボクの背を今最も近くで脅かしているのはドトウだ……しかし、彼女とて昨年まではずっと後方に居たのだからね!」
「そこはハッキリ言うんだな……たしかにそうだが。」
昨年、テイエムオペラオーを始めとしてナリタトップロード、アドマイヤベガが皐月賞や東京優駿、菊花賞とクラシック路線での快進撃を続けていた頃、ドトウは地方のレース場をめぐってオープン戦などを繰り返すばかりであった。
しかし、そうやって積み重ねた経験が、宝塚記念にてオペラオーのハナ差にまで迫るほどの実力をドトウに身に着けさせたことは間違いない。
以前は遥か後方に居ると見えるウマ娘が、どんどん加速して背後に迫ってくる。一つのレースの中のみならず、ウマ娘の選手生涯全体を通しても、現状がゴールまで維持されることは決して無いというのは事実だった。
「さて、そのドトウの晴れ舞台もそろそろだね!発走は15時35分、うん、間に合いそうだ!」
「分かってる、覇王が観戦ご希望だろうってことで、椅子もここに用意して……。」
「今回は、ここでは観ないさ。ボクには、向かうべき所がある!」
「えっ。」
今日がメイショウドトウの出走する産経賞オールカマー当日であり、さらにはエアシャカールの出走する神戸新聞杯の日でもあることは鷹木も把握している。
ゆえに常に倣ってオペラオーの中継観戦に備えていたのだが、この気まぐれ独尊なウマ娘はそんな予測をアッサリとすり抜けて自身の練習場を後にしたのであった。
「おい、いったいどこに……」
慌ててオペラオーの後を追った鷹木であったが、覇王の歩みは存外に近場で止まった。
「おぉーい!居るかな、アヤベさん!練習中でなければ、入るよ!」
「アドマイヤベガの練習場じゃないか。分かっているだろうが、ライバルの練習風景を盗み見るのはマナー違反だぞ?」
「承知しているとも!だから、こうして大声で呼ばわっているんじゃないか!」
本番時の作戦を競争相手に見られれば、それだけで不利になる。さすがのオペラオーもその点を侵すつもりは無いらしく、傍らの鷹木が必死になって耳を抑え鼓膜を守ろうとしているのにもお構いなく、その喉から呼び鈴がわりの声を響かせ続けていた。
さすがに扉越しにも十分聞こえていたのか、渋々といった感じで練習場の扉が解錠される。中から覗いたアドマイヤベガの顔は、当然ながら不機嫌そのものである。
とはいえ、そんないつも通りの反応を示すライバルの表情を確認したオペラオーは、どこか安心を得た様子であった。
「あぁ!僅かにも雲に翳った君の輝き、どこか恨みがまし気に上目を遣うその色も美しい!清らかな額に薄っすらと皺が寄っているよ、どこか具合でも悪いのかい、アヤベさん!」
「アンタの中に思い当たる所が無いのなら、永遠に原因が見つからないわね。」
「なんと、素晴らしく詩的な表現じゃないか!」
話の通じない相手との議論を早々に打ち切ったアドマイヤベガは、悉くを貫かんばかりに研ぎ上がった視線の矛先を鷹木へと転じた。
「担当トレーナーとして、コイツを止めなかったの?」
「いや、一応、制止はしたんだが……。」
「本番前の練習期間中に、競走相手の練習場に入ってくるだなんて。もしも練習風景を偵察しに来たんだと思われたら、どうなるか……」
「だから、練習中でないだろう頃合いを見計らったんじゃないか!アヤベさんも、ドトウの走りが気になっているんだろう?共に観戦しようじゃないか!」
「ちょっと、勝手に入らないで……!もう、なんでわざわざ私のところに……。」
最終直線で前に抜け出してスパートを掛ける時のごとく、その意識が鷹木へと逸れている隙をつき、アドマイヤベガ専用の練習場へと踏み込んでいくテイエムオペラオー。
苦言を呈したアドマイヤベガであったが、本気で止めるつもりは彼女にも無かった様子でオペラオーを見送る。彼女は鷹木に背を向けたまま、彼に聞こえよがしに溜息を吐いてその後を追った。
オペラオーに与えられた練習場同様に、本番のレース場と同等の広さを誇る練習コース。おそらくアドマイヤベガも産経賞の発走時刻に合わせて練習を一区切りつけたのだろう、ガランとしたターフの広い領域は、笑い声を立てながら歩いていくオペラオーをもってしても寂しげな広さであった。
既に彼女の練習相手もおらず、またシャカールのレースのために結城トレーナーもいないこの場所で、アドマイヤベガは独りでレース中継の開始を待ち続けていたのだろう。
この状況を鑑みれば、オペラオーが多少強引にこの場へ押しかけた理由が鷹木にも分かるようであった。
「そう懸念し給うな、麗しの一等星!ドトウと、そしてシャカールのレースを見終えれば、ボクは速やかに姿を消そう!明け方と共に消えるファントムのように!」
「姿を消しても、しばらくはアンタの声が頭の中で反響してそうなんだけれど。」
「はーっはっはっは!美しい者同士、共鳴してしまうんだろうね!」
「何を言ったら黙るのよ……。」
アドマイヤベガとの絡みも、どこか年季の入りつつあるオペラオーから目を逸らした鷹木。
ふと、広大な練習場の隅にある用具室の扉がきちんと閉められている所で彼の視線は止まった。日々鍛錬を続けるウマ娘たちの練習のためゴール板やスターティングゲートの搬出、ターフやダートの整備も毎日頻繁に行われ、たいていの場合は開きっぱなしになっている。
気の遠くなるような面積を整備するための用具を収めた倉庫は複数あったのだが、それらの扉が律儀に全て閉められているのは、常に見る光景ではなかった。
……独りで居るアドマイヤベガが、全て閉めたのかもしれない。
夏合宿で彼女が何を経験したのか、詳細は鷹木も知る所ではなかったが、あれ以降アドマイヤベガはどこからか彼女に注がれている視線に警戒するかのようなそぶりを時折見せることがあった。
単に大舞台の本番が近づいていることのみが原因ではないのだとしたら……。
今、彼女の隣で騒がしく話しかけているオペラオーから、さほど距離を取ることなく相手し続けているアドマイヤベガの身の振り方も、どこか頷けるものであった。
9月24日、産経賞オールカマーの行われる、中山レース場。空は晴れていたものの、レース直前まで降り続いていた雨のために重バ場となった。
3番人気となったステイゴールド、2番人気となったダイワオーシュウ、共にトレセン学園4年目のベテランである。しかしメイショウドトウが、彼女らをも抑えて1番人気を得ている状況は、もはや何ら意外なものではなかった。
トレセン学園内練習場にて、中継画面を並んで見つめているオペラオーとアドマイヤベガにとっても、それは同じであったろう。尤も、オペラオーに関しては意外であろうがなかろうが振る舞いに変わりはなかったが。
〈1番人気を紹介しましょう、メイショウドトウです。今年度春のメトロポリタンステークス、そして金鯱賞と連勝し、宝塚記念においてはテイエムオペラオーにハナ差まで迫る健闘を見せました。彼女の勝負強さは、このレースでも披露されるのでしょうか。〉
「おぉ、メイショウドトウ!メイショウドトウ!輝く歓喜が、明るく気高く微笑みかける!こちらに振り向いて、君の美しさ強さをもっと見せておくれ!」
「コイツと一緒に居て、よく聴覚をやられないで済んでるわね。」
「あぁ、運よくな。」
極力オペラオーから椅子を離して座りつつ、アドマイヤベガは鷹木の方を振り返って声を掛ける。
実際のところ、鷹木は自らの担当ウマ娘の声量を既に意識しない状態になっていた。担当を開始して3年目ともなれば、既にオペラオーの声は彼の日常の一部と化していた。
もちろん、そのうるささが軽減されたわけではなかったものの。
「さぁ、いよいよ始まるよ!もちろんボクはドトウが勝つと見るが、アヤベさんはどうだい!」
「結果なんて、出てみなきゃ分からないでしょう。予想なんかいいから、レースに集中させてもらえる?」
「はーっはっはっは!仰る通りだ!ならば鷹木、キミならばこのレース、どう見る!」
「えっ……。」
今までレース観戦時には他のウマ娘とのお喋りに熱中するか、あるいは単独で中継に見入っていることの多かったオペラオー。ここに来て唐突にトレーナーである自分へと話題を振られたことで、鷹木は動揺を隠せなかった。
が、思い返せばオペラオーは徐々にトレーナーとしての意見を鷹木に求める頻度が増えつつある。夏季の合宿中にも、アグネスデジタルの走りについてのコメントを鷹木から引き出そうとしていた。
彼女の意図がどこにあるかは相変わらず謎のままであったが、鷹木は即興ながらも自分なりの見解をひねり出そうと頭を絞った。
自分の担当ウマ娘が出るレースではないとはいえ、少なくとも、ダートと異なり芝の中距離であれば彼の専門である。
「本来なら、9月開催の中山は野芝。軽く、高速の展開になりがちだ。それを見越した調整をほとんどのウマ娘は行ってきているはずだが、今回は晴れているものの重バ場、つまり想定よりもパワーが求められる状態になっているんじゃないだろうか。」
「……中山の上り坂を、二度通過することもあるからね。」
鷹木の考察につられたように、アドマイヤベガの瞳に真剣な光が仄かに灯り、彼女もまた口を開く。
しかし、オペラオーは更にトレーナーからの言葉を求めるように、黙ったまま鷹木へと視線を投げ続けていた。担当トレーナーとしての信頼を寄せるかのようなその目に、応えるだけの含蓄が自分の中に備わっているか否か不安なままに、鷹木も発言を続ける。
「それから……そう、2200mは外回りコース、長く緩やかなカーブが続くだけに、内回りで走り続けられる方が有利になる。つまり、先行や逃げが勝ちやすい。下り坂となるレース後半で差しウマ娘が上がってくる可能性もあるが、芝状態が重ければ想定通りのスピードも出づらいだろう。」
ゆえに、地方のレース場を巡って様々なコースへ適応しており、そのうえ常々より先行策を練習し続けていたメイショウドトウの勝率は高い、と続けようとした鷹木であったが、それをオペラオーの声が遮った。
「だろうね!すなわち、やはりドトウが勝つということだよ!はーっはっはっは!」
「コメント泥棒された気分なんだが。」
「覇王の付き人は苦労するわね。」
鷹木の苦言にアドマイヤベガが他人事そのものなフォローを入れる。
担当トレーナーの眉間のしわを他所に、オペラオーは上機嫌に笑っていた。画面から、アナウンサーの声がレース発走の時を告げる。
〈ゲートイン完了……スタートしました!スタンドからの大歓声を浴びてウマ娘たちが走っていきますホームストレッチ、まず先頭に立ちましたのはサクラナミキオー、続きまして1番人気メイショウドトウがウチ、その外スエヒロコマンダーが並んでいる。まずは一周目、坂を駆け上がってこれより1コーナーへ入っていこうとするところ、3番人気ステイゴールドがウチを突く、その外2番人気ダイワオーシュウ、ともにメイショウドトウを追っている。〉
直線での先行争いは、やはり予想から外れたものにはならなかった。最初のコーナーまでの距離が長いコース、ここでひとまず決まった順番でウマ娘たちはコーナーへ入っていく。
二番手争いを行っているのは、メイショウドトウと並んだスエヒロコマンダー。逃げを得意とするスエヒロコマンダーとしては、序盤にドトウを追い越しておきたいところであったろうが、内側の枠で発走したドトウは二番手を譲ろうとしない。
気弱な姿は、少なくともレース中のメイショウドトウとは無縁のものとなっていた。
〈中団先頭ステイゴールド、ダイワオーシュウに続きましてはブライアンズロマン、数バ身離れてニッポーアトラスが後方三番手、遅れてマーベラスタイマー、マキバスナイパーが最後方という展開です。2コーナーを抜けまして向こう正面、先頭は変わらずサクラナミキオー、そしてメイショウドトウとスエヒロコマンダー並んで続いている。〉
「……本当に、強くなったわね、あの子。」
「あぁ、速い!そして早い!強気に仕掛けているね、ドトウ!」
仕掛けている、と言ってもスパートを掛けているわけではない。しかし、鷹木にもオペラオーが言わんとするところは理解できていた。
レースタイムは中継画面越しに大まかにしか計測できないが、向こう正面に入っていったウマ娘たちの脚の運びは、良バ場時とほぼ同じ、いや、むしろ多少速すぎるほどである。
バ場状態は重であると分かっているにもかかわらず、レースが高速化している元凶は他でもない、1番人気のメイショウドトウが作っていたのであった。彼女をマークするウマ娘、そして彼女の蹄音を背後で聞いている逃げウマ娘、そのいずれもが彼女の作り出すペースに合わせて脚を速めている。
結果的に、本来よりも疲れやすくなる重バ場で、スタミナを過剰に費やす走りとなってしまっているのである。
〈ステイゴールド、ダイワオーシュウ、共に四番手の位置を守っている……後方からニッポーアトラス上がって来た、ブライアンズロマンを引き離して上がって来た。マーベラスタイマー、マキバスナイパーと並んで先を目指しています。集団が徐々に縮まりつつあるところ、先頭は残り800を切りまして3コーナーへ入ってまいります。〉
さすがにベテランであるところのステイゴールドとダイワオーシュウは、ドトウが仕掛けた作戦に気づいている様子である。バ場状態に合わせた走りを守っている彼女らを追い越すように、そして緩やかな下り坂区間での加速を活かすように、他のウマ娘たちが上がってくる。
が、もはや大勢は決した。想定通りに相手を自分のペースへ持ち込んだウマ娘と、想定していた以上の消耗を課されてラストスパートに入るウマ娘では、優劣は明らかである。
「行けぇぇぇっ!我が美しきドトウ!」
「少しは静かにしていられないの?」
オペラオーの叫びは、静まりかえって広々とした練習場に響き渡った。中山レース場の熱狂を一瞬だけ切り取ったかのように。
〈さぁ4コーナーを回っていきまして間もなく直線へと向きます残り400、先頭にメイショウドトウが早くも抜け出した!ウチを突いてサクラナミキオー懸命に粘っている、その外にスエヒロコマンダー、後方からはダイワオーシュウ、ステイゴールドも上がってくる!〉
メイショウドトウに追い立てられ、あるいは追いすがるような形で彼女のペースについてきたウマ娘たちが、あっという間にドトウに抜かれる。
とはいえアッサリと引き離されはしないあたり、やはりURAのGⅡレースのグレードの高さを物語っていた。無茶なペースに引っ張られるようにして速度を速めていた後方のウマ娘たちは、どんどん引き離されていってしまっているが。
最終直線に入り、既に先頭のドトウはなおも二着との差を開いていくばかり。
〈200を切りまして、上り坂も一気に駆け上がってくるメイショウドトウ!スエヒロコマンダー、ダイワオーシュウ、追いすがるが距離は縮まらない!先頭はメイショウドトウ、圧倒的だ、メイショウドトウ!今一着でゴールイン!勝ちましたメイショウドトウ!見事一着に輝き、秋の天皇賞への切符を手にしました!〉
「ほら!言っただろう、ドトウが勝つと!」
「いや、誰が見ても、一番勝ちに近かったから。なんでアンタが誇らしげなのよ。」
「はーっはっはっは!何故って、覇王は勇者の到来をこそ待ち望むものだからね!」
「黙ってて。アンタは私が引き下ろすんだから。」
中継画面の中では大歓声を浴びながらメイショウドトウが控えめに観客席に向けて手を振っている。
オペラオーからも画面からも顔を背けたアドマイヤベガであったが、彼女がいつも通りの調子をかなり取り戻していることに鷹木も気づいていた。