10月8日、京都レース場は曇天であった。
いよいよ自分の担当ウマ娘、テイエムオペラオーのレース本番の日を迎えた鷹木であったが、今までと同じほどガチガチに緊張しているわけではない自分に気づいていた。
それがある程度の場数を踏んだおかげか、さらに大きな天皇賞がこの京都大賞典の後に控えているためか、或いはオペラオーから尋ねられるたびにレース状況を客観的に分析する癖がついていたおかげか、定かではなかったものの。
少なくとも今日の鷹木は、オペラオーの勝利宣言を多少は確信ある頷きとともに受け止めることが出来てはいた。
「見ていたまえ鷹木、ボクは今日も勝つ!はーっはっはっは!」
「あ、あぁ、こんだけトレーニングを重ねてきたんだ、いっ、今のお前は万全の状態だ、い、行ってこい。」
とはいえ、彼の指先と呼吸は小さく震えつづけていたことに変わりはなかったが。
今までことあるごとに走ってきた京都レース場、このコースの特徴をしっかりと踏まえていることはオペラオーも鷹木も同様であった。
そして昨年度、失策のために勝利を明け渡してしまったことも。
〈京都レース場、芝2400m。今年も秋の京都に優駿たちが集いました、京都大賞典。3番人気を紹介しましょう、ツルマルツヨシ。かの皇帝シンボリルドルフの後継者であり、昨年度の京都大賞典の覇者でもあります。昨年の有馬記念以降、治療のためレースから遠のいていたものの、この秋復帰。京都レース場へと戻ってきました、好走に期待が持たれます。〉
かつて皇帝の名を馳せたウマ娘に似て、生真面目そうな黒鹿毛のウマ娘がパドックに現れる。
アドマイヤベガ同様に長きにわたる治療期間を要したツルマルツヨシ。昨年の京都大賞典にて披露された、あのスペシャルウィークを前にしても自分のペースを崩さなかった胆力は今なお健在であろう。
療養明けとはいえ、油断ならぬ相手であることに違いは無かった。オペラオー同様に得意とする先行策で来るならば、彼女の走りから目を離すことも出来ない。
〈2番人気となりました、ナリタトップロード。昨年度から今年にかけて、テイエムオペラオーと幾度も競い合っています、ご存じ覇王の旧来の刺客。今年度に入ってからは、その座をメイショウドトウに譲りがちとなっていますが、彼女も実力では拮抗しています。このレースより復帰したアドマイヤベガも加え、再びあの三つ巴の戦いを拝めるでしょうか。〉
相変わらず美しい栗毛を爽やかになびかせて、画面内のトップロードは観客に向けて手を振っている。
アドマイヤベガを気に掛けるオペラオーには彼女のもとへ連れていかれたものの、ナリタトップロードの姿を鷹木が目にするのは夏合宿での合同練習以来のことであった。あれから確実に強くなっているのであろうトップロードであったが、その身振りや容姿には大きな変化が見られないようであった。
このウマ娘だけはデビュー当時から変わらず、また今後も同じ姿でパドックに顔を出し続けていそうな気がした。来年も、あるいは再来年も。
〈さぁ1番人気の紹介となります、今日もまた大舞台に顔を見せました、テイエムオペラオーです!言わずと知れた世紀末覇王、今年度は京都記念より始まり、阪神大賞典、春の天皇賞、宝塚記念と、無敗記録を打ち立てています。果たしてこの覇王の進撃を止め、世紀末伝説に終止符を打つウマ娘は現れるのか!〉
オペラオーの姿が現れた時に上がった歓声は確かに大きかったものの、彼女の連勝記録を止める存在に期待するようなアナウンスが為された後、より大きな歓声が沸き起こった様は鷹木の心の底を冷やりとさせた。
たしかに、興行としては正解の盛り上げ方である。同じウマ娘が勝つ展開が続けば、そこに変化をもたらしうる存在が大きな魅力を生むだろう。
が、オペラオーが日々続けるトレーニングを間近で見続けている鷹木としては、そして彼女をいかにして勝たせ続けようかと真剣に頭を悩ませ続けているトレーナーの身としては、憮然とした思いが沸き上がってくるのを止めようがなかった。
当のテイエムオペラオー自身の振る舞いが、妥協なき鍛錬の跡をすっかり覆い隠してしまっていたが。それに、オペラオーは自分が苦心している様など、見せようとはしないだろう。
あくまでも、世紀末覇王として……自らを打ち倒す勇者の到来を待つ者として、君臨し続けるつもりなのだ。
「少なくとも、俺は、お前に勝ち続けてもらいたいと思っているからな。」
またしてもマイクの用意されていないパドックで、何らかのセリフを喋り続けながら画面の端に姿を消すオペラオーに向かって、鷹木は呟く。
彼女に歓声を向ける観客たちの中に、テイエムオペラオーの負けを期待せぬ者が可能な限り多く居ることを彼は願った。
その願いを幾度も繰り返しているだけで、京都大賞典の発走までの時間は飛ぶように去っていった。
〈各ウマ娘、ゲートイン完了、いよいよ発走です……スタートしました!綺麗に揃ったスタートを見せました、さぁ京都レース場の外回りコースは最初の直線が長い。まず先行争いですが、先頭へと飛び出してきたのはスエヒロコマンダー、そのすぐ後に続きましてナリタトップロード。1番人気テイエムオペラオーはその後三番手の位置、外に並んでタイカラムーン、ツルマルツヨシはそれを追う形です。続きましてロードプラチナム、そしてブゼンキャンドルといった順で先頭から中団までを形成、最初のコーナーへと入ってまいります。〉
スタートからコーナーに入っていくまで長い直線の続く京都レース場、今回もやはりホームストレッチを駆け抜けていく中でウマ娘たちの順位は自然と固まっていた。
スエヒロコマンダーはメイショウドトウと競った産経賞オールカマーから半月ほどしか経っていないが、このレースに出走していた。中山の時と同じく先行で決めるつもりらしく、率先して先頭に出て逃げていく。
同じく先行するナリタトップロードも今まで通り、逃げウマ娘のすぐ後ろにピタリとつけている。そしてオペラオーはと言えば、事前に鷹木が指示した通り、三番手にてトップロードの背を追っていた。
〈1コーナーを回っていきます、先頭は変わらずスエヒロコマンダー。中団からはブリリアントロードが早くも前へと詰めていきました、現在六番手。外側にインターフラッグが続き、その後ろ、数バ身離れてアドマイヤベガ。後方から三番手の位置で、昨年度健在であったころと同様に、じっくりと脚を溜めて追っています。少し遅れてテナシャスバイオ、そしてメジロブライトが最後方といった順であります。〉
アドマイヤベガの名が本番のレース場に響くのも、鷹木にとっては久々すぎて、そしてどこか現実味の無い現象であった。
しかし、そこに彼女が走っているのは間違いなく現実だ。以前までと同様、追い込みの位置で、そして最後方まで下がることなく、ゴール前の最終直線に入るよりも先に仕掛け始めるのだろう。
殊に3コーナーからの下り坂区間はレースが高速化しがちなこの京都レース場において、アドマイヤベガの末脚は脅威であった。既に直線へ向いている先行集団の中、ナリタトップロードの背を追いつ受けるテイエムオペラオーに向け、拳を握りながらも鷹木は喉の奥から呼びかける。
「上手く行っているぞ、焦るなよ。その位置からであれば、お前の勝利圏内だ。」
悠々と駆けていく覇王は、きっと彼からの言葉が届いたところで笑い声しか返さなかったであろうが。
〈向こう正面へと向きまして、これはタイカラムーンが上がっていきます、ナリタトップロードに並んで、三番手から二番手へ。ツルマルツヨシも同様に前へと詰めていく、テイエムオペラオーに並びました。2番人気ナリタトップロード、1番人気テイエムオペラオー、共に動きは見られない。これは作戦でしょうか、最後方から徐々にメジロブライトも上がっていきます、アドマイヤベガに並んだ、さぁ各ウマ娘、3コーナー前の坂を上っていく。〉
京都レース場の名物である、3コーナーにある大きな坂。ここから一気に下る際に着く勢いを利用して、最終直線でのスパートに持ち込むのがこのコースのセオリーである。
ゆえに、同じタイミングで仕掛け始めていては、ライバルたちに勝てはしない。そのため、定石とされているタイミングよりも早く仕掛けるウマ娘たちが居るのも道理にかなったことである。
が、テイエムオペラオーはまだ動かなかった。宝塚記念においても、彼女は周囲が上がり始めた時からラストスパートを遅らせていた。
今回のレースにおいて従来通りのタイミングで加速するよう指示した鷹木も、その宝塚記念における勝利を目にしていなければそれを躊躇ったかもしれない。
〈3コーナーを回っていきます、先頭ではウチをスエヒロコマンダーが行く、二番手は変わらずタイカラムーン。ツルマルツヨシも前へと詰めていきますが……ここで動いた、テイエムオペラオーが動いた!ナリタトップロードも同時に仕掛けました、下り坂で両名が勝負を掛けました!後方アドマイヤベガ、これも既に外に出てじわじわと前を目指している!〉
3コーナーからの下り坂で加速するのはセオリー通りとはいえ、直線に向くところで勝敗を決するのがオペラオーに与えた作戦である。
コーナーを回りながら一気に速度のついたウマ娘たちは直線へと突入するが、その勢いが殺し切れていなければ走るコースは一気に外側へと膨らんでしまう。
むろん、大外から差す場合は集団を回避するのに好都合であるし、またいくら勢いがついていようとも無駄な距離を走らぬよう、必要以上に外へ出ぬようにウマ娘たちは制動を掛ける。
勢いがついていればいるほど、そしてスタミナ残量に余裕が無ければ無いほどに、その際の踏ん張りが効かないのだ。
ほんの僅かの差とは言え、トップスピードでの走りにおいては誤差も大きくなる。
〈4コーナーを回りましていよいよ直線へ向かいます!集団大きく横に広がりましたが、真っ先に抜け出したのは最ウチのスエヒロコマンダーか!ロードプラチナムも背後に迫るが、ナリタトップロード、中を割って上がって来た!そのすぐ外を並んでテイエムオペラオーが来る!〉
見立ての通りであった。既に加速しきっていたウマ娘たちは、コーナーでの慣性がついたまま、ストレートを外側へと振られる。観客の眼から見る分にはそこまで大きくアウトコースになっておらずとも、僅かの差、コンマ秒の差が勝敗を決するのがレースである。
まだスタミナと、そしてスピードの上限に余裕を持つオペラオーは、他のウマ娘たちよりも内側で回り切り、温存していたスタミナをつぎ込んでラストスパートに掛かった。
同様の作戦であったらしいトップロードもまた、オペラオーに先を譲ることなく直線を駆け続ける。やはり冷静かつ周到なウマ娘は、覇王オペラオーの喉元に食らいつき得る存在であった。
「大丈夫だ……行ける!オペラオー、お前の脚なら競り勝てる!」
〈残り200!先頭を進みますナリタトップロード!テイエムオペラオー、テイエムオペラオーが並んだ!ウチではスエヒロコマンダーが粘っている……アドマイヤベガ突っ込んでくる!〉
文字通りに鷹木の死角、盲点から飛び込んできたのがアドマイヤベガ。
大外に振られ、トップロードとオペラオーがとっくに置き去りにしたと思われた集団の中から、異次元の加速力を発揮して迫りくる影があった。
久方ぶりに感じる寒気、オペラオーの背を差しにくる脅威。
アドマイヤベガが、凄まじい末脚を発揮して上がってくる。
〈アドマイヤベガが大外から飛んできた!先頭はテイエムオペラオー!テイエムオペラオーか!ナリタトップロードか!アドマイヤベガぐんぐん上がってくる!テイエムか!ナリタか!アドマイヤか!〉
競走相手のことは十分に警戒しているつもりの鷹木であったが、メイショウドトウが出走しない時点でどこか油断していたところはあったかもしれない。
オペラオーにハナを譲ったトップロードは、まるで引き離される気配も無くピタリと並んでついてくる。
アドマイヤベガのスパートは、京都レース場の起伏のない直線で容赦なく加速し続け、ついに先頭を奪い去る圏内に到達していた。
3名は後方集団を引き離し、並んで一気にゴールへと向かっていた……昨年度、幾度か見た光景のごとく。
〈ゴール!これは、ほぼ同時に見えましたが……!結果が表示されました、オペラオー!今日もやっぱりテイエムオペラオー!宝塚記念に続き、またしても今年度の連勝記録を伸ばしました!どこまで勝ち進むんだ、世紀末覇王!二着はナリタトップロード、三着アドマイヤベガ!〉
大歓声が沸き起こるのはいつも通りのことであったが、まだ以前よりは失神から遠のいている鷹木は、この大音声がレースを見終えた直後の自分を圧倒している一要因であるのだと気づいた。
自分がオペラオーと向かい合い、懸命にトレーニングメニューを考え、本番のレース場における作戦を練った結果を、何万人もの観客が評しているのだ。
むろん、彼らはたった今走ったウマ娘にその歓声を向けているのであって、背後に居るトレーナーに意識を働かせている観客などごく少数であろう。だが、今の鷹木には「また勝たせたのか」とばかりに鼓膜を震わせる、この轟きが全身を打つように感じられた。
テイエムオペラオー自身はと言えば、昨年のクラシック級と同じように、ナリタトップロード、そしてアドマイヤベガと共に大舞台に立てたことが嬉しくてならない様子であった。
顔を背けているアドマイヤベガに満面の笑みと共に声を掛け、爽やかに笑っているトップロードと居並んで、カメラのフラッシュが焚かれる中を歌いながら、地下バ道へと去っていったのだった。