見る間に暗くなっていく夕方の光が差し込む部屋、過去のレース映像をその眼に映しつつ、エアシャカールは晴れぬ表情をいよいよ鋭くしている。
一日のトレーニングが終了した後も、ノンビリとはしていられない。彼女自身が、そうそうリラックスしづらい性分でもあったが。
菊花賞本番まで、残すところ一週間。にも拘わらず、次の勝ちを得るだけの確信をエアシャカールは得られずにいた。
「勝ててねぇ走りを、何度も繰り返すのはロジカルじゃ無ぇ……。」
神戸新聞杯、あるいは東京優駿での展開を幾度思い返しても、仕掛けタイミングのミスやコース取りのマズさには未だに思い至らなかった。だとすれば、勝てずにいる要因は自身の能力不足か、ないしは作戦自体の不適合である。
前者の可能性は、シャカールが日々怠らぬ鍛錬を積むことでゼロへと近づけていた。
「オレの追い込みじゃ、確実に先頭を取れねぇんなら、変える他に無い。」
とはいえ、今まで幾度も採用している追い込みの作戦を、本番の一週間前にして唐突に変更するのは大いに勇気を要する判断である。さすがのシャカールも躊躇を胸に、参考にし得る先例を見出すべく、学園が保管しているレース映像アーカイブを閲覧していたのであった。
しかし、勝てる走りをしたウマ娘を、そのままに真似するだけで一着が取れれば苦労はない。
当然ながらウマ娘ごとに得意とするペース配分は異なり、またその日ごとのコース状態もバラバラである。競争相手の立ち回りにも影響されることを鑑みれば、やはり自分が最も慣れた走り方でこそ状況へ柔軟に対応できるという結論に至るものであった。
「……これじゃ変えらんねェ。」
妥当な結論に行き着けば、これからの一週間も、今までと同様に追い込みペースでの練習を続け、そして本番も今まで通りの走りで挑むことになるだろう。だが菊花賞は、3000mという長丁場。コースの起伏、コーナーの多さもあり、最後の最後でスパートを掛けねばならぬ追い込み策が不利であることは周知の事実であった。
やはり決断を割り切れぬまま、シャカールの操作は画面内にアグネスデジタルのレース映像を呼び出していた。つい先月の、ユニコーンステークスの模様である。
GⅢ、ダート、距離は1800。長距離の芝とは全く別の競技と称しても差し支えないそのコースを、走っていく友の姿が映った。最ウチのレーンを走り続け、前方および外側から塞がれてもなお同じ位置を維持しつづけたデジタルが、最終直線で一気に抜け出す。
「ある程度は、消耗も少ないだろうけどよ……。」
ゴール後の歓声を浴びているアグネスデジタルが映る画面を閉じ、シャカールは再び練習場へと戻っていった。何らかのヒントを掴もうにも、デジタルの出走するレースと自分の出走するレースとでは、あまりにも条件が違いすぎる。
現状打破のヒントを得るためには、もう少し説得力のある裏付けが必要であった。
向かった先は、シャカールの先輩にあたるアドマイヤベガの練習場。既にシャカール同様に練習時間を切り上げている可能性もあったが、実際に赴いてみれば中からは芝を打つ蹄音が響いてきた。
他チームとの合同練習を終えても、アドマイヤベガは独り、日が沈んで暗くなるまでトレーニングを続けているのだ。ようやっと夕焼けの色が褪せだした今の時分は、彼女にとってまだまだ練習真っ最中の時間帯であった。
今年度無敗の、かの覇王から勝利を奪い取るために汗を流す彼女にとっては、この程度ではまだ物足りないほどだろう。
「結城トレーナー。」
練習場の扉越しに、エアシャカールは中に居るのであろうトレーナーの名を呼ぶ。この老トレーナーはシャカール、アドマイヤベガの双方を担当していたが、同じトレーナーに担当されているからといって気軽に練習現場へ入っていくことは出来ない。
既に双方がGⅠに出走するウマ娘である以上、同じレースでぶつかる敵同士となる可能性があるためだ。いや、既に来月のジャパンカップにて、オペラオーをはじめとする一つ上の世代、すなわちアドマイヤベガとも競いあうことが決定されている。
ゆえにその本番の日を迎えるまで、アドマイヤベガの練習場へ入るどころか、面会自体が許可されないことは十分にあり得ることであった。
「シャカール。どうしたんだい?」
しかし、図らずも練習場の扉はすぐ開き、結城トレーナーは皺だらけの顔の上に更なる目尻の皺を加え、にこやかにシャカールを出迎えた。背後には、ちょうどトレーニングを終えたばかりなのか、息を整えながら汗を拭いているアドマイヤベガの姿がある。
「トレーナー。オレ……菊花賞、今までと違う走り方で行きたい。」
「そうか。」
年齢相応に、涸れた声が言葉少なに応える。
老練のトレーナーは、その表情にあまり動きを見せなかった。ただ一瞬、彼の中に巡った様々な推測や予想の残響が震わせたように瞳のなかの色が仄かに揺れる。
シャカールの方はと言えば、自分の考えを実際に口に出したことで、改めて自身の中での結論および決断が凝結していたことに気づいていた。妥当な結論にしがみつくつもりなど、自分にはもはや無いのだ。
ウマ娘、エアシャカールは、菊花賞で新たな作戦を持ち出さない限り、勝てない。
「何回もレース展開は見返したし、追い込み策での練習は数え切れねぇほど繰り返してきた。それでも、今のままじゃ勝てねぇって、考えてんだ……トレーナー、どう思う。」
「走っている君自身がそう感じるんだから、信じればいい。僕は、それにふさわしい練習環境を用意するのが仕事だよ。」
「……だよな。」
歴代のURAで勝ってきたウマ娘を何人も見続けてきた、このレジェンドトレーナーからのお墨付きがどれほど欲しかったことか。仮に「僕もそう思っていた」「そうすべきだ」等と言ってもらえれば、どれほど心強いか。
しかし、相変わらず結城トレーナーは、ウマ娘自身の判断に託す方針を変えはしないつもりのようであった。
自分の走りに本気で向き合っているウマ娘でなければ、いくらトレーナーの側から練習や走りのコツを与えたところで、付け焼刃だ。勝てない理由を、他者からの指摘に丸投げするのではなく、出来る限り自分の眼で見出そうとしなければ成長はない。
そしてその通りにしているシャカールは、確かに結城トレーナーの願う通りに成長していた。
「アドマイヤベガ。」
結城トレーナーは、つい先ほどまで練習を見ていたウマ娘の名を呼ぶ。まだこれから何度かの走り込みを残しているのだろう先輩ウマ娘は、返答する時間も惜しそうに手短に返答した。
「なに。」
「シャカールとの並走に付き合ってやれるか?」
「競争相手と合同練習なんて、いいの?この子、私と同じジャパンカップに出るんでしょう。」
「一か月以上先のことだ、大丈夫さ。」
アドマイヤベガは軽くため息を吐き、足首に巻いていたトレーニング用の重りを外した。
後輩であるエアシャカールの実力を軽く見ているわけでは無かったろうが、やはりそれ以上に彼女の同輩、覇王テイエムオペラオーへ対抗するための鍛錬はストイックそのものであった。
「本気は出してあげられないわよ、脚への負荷の蓄積も考えると。」
「構わない。シャカールが確かめたいのは、タイムよりもペース配分の方だろう?」
詳細は語られずとも、唐突にこの練習場を尋ねて来たシャカールの意図は既に結城トレーナーにくみ取られていた。
「……あぁ。お願いするぜ、アドマイヤベガ先輩。」
シャカール自身、思い返せば自然とアドマイヤベガを模倣するような形で今まで自分の走り方を定めて来たようであった。
最後方でじっくりと脚を溜め、最終コーナーに入ったあたりから徐々に加速を始め、最終直線で大外から一気に抜き去る追い込み。エアシャカールも、初のGⅠを制した皐月賞でも、その前の報知杯弥生賞を見るにつけても、同じく追い込みの走り方に倣っている。
デビュー当初のウマ娘が良く採用する逃げ・先行から脱却したことで、大舞台での勝ちを得始めたのがシャカールであった。あの時は、単に「自分は追い込みに向いている」のだと雑な所見でしかなかったが。
共にサンデーサイレンス血統のウマ娘。鋭い目つき、黒鹿毛の毛並み……そんな外見までシャカールが意識していたかどうかはさておき、彼女がアドマイヤベガとの並走を希望したのは、先輩と自分との間にある違いを今さらながらに明確にするためであったろう。
老いたトレーナーがゆっくりと椅子に腰掛け、スタート合図の準備が整ったことを手を振って示す。
「本気は出さない」と言った相手ながら、やはり真隣りにいればピリピリと伝わってくる先輩の存在感を浴びつつ、シャカールは集中力を研ぎ澄ました。
この並走を、雑に駆けることは許されない。自分自身の走るペース、癖を細心の注意で読み取らねばならない。
「ガシャン!」
練習場のスピーカーから、録音されたゲート音が放たれるとともにアドマイヤベガとエアシャカールは前へ駆け出した。
努めて、普段の自分のペースで走る。
似ていると思われるアドマイヤベガと自分との差異を、少しでも見出さねば……シャカールはそう考えていたのだが、その差は思った以上に歴然と現れていた。
最初のコーナーに入る前に、数バ身先を走っていたのはシャカールである。アドマイヤベガは、彼女よりもぐっと後ろに下がっていた。
(オレが速すぎるってことは無ぇ、これがいつもやってる追い込みのペースだ……先輩はあんなに後ろまで行って、差し切れんのか?)
追い込みのペースでありながら、前には誰も走っていない。本番とは異なったそんな状況にも惑わされまいと、シャカールは本番を想定したペースを保って走り続ける。
しかしアドマイヤベガとの差はいよいよ開いていき、第3コーナーを前にして5バ身ほどにまで広がっていた。
(こっから仕掛けどころだ……先輩がペース配分をミスるとは思えねぇ、ってことは……やっぱ、オレのペースが、速すぎんのか。)
コーナーを回りながら、シャカールは加速し始める。同時に、背後から迫りくるアドマイヤベガの蹄音が徐々に大きくなってくる。
これは競走ではなく、あくまでペース配分を見極めるための並走。そうだと分かっていても、自然とシャカールの脚には本気の熱が入り始めた。ゴール前の正面に入り、ついにアドマイヤベガがシャカールに並ぶ。
(速ェ……!)
もはや検証など冷静に行っている場合ではなく、シャカールは歯を食いしばって先輩の走りにくらいついて行く。
ゴールラインを越えた時、両名の身体はほぼ横並びだったものの、わずかにアドマイヤベガがシャカールを差し切っていた。偶然か否か、それは今年の東京優駿でエアシャカールがアグネスフライトに敗れた際の光景に酷似していたのであった。
「何か、掴めたかな?」
ゴール後の減速を行い、息を整えながら戻ってくるウマ娘たちに、結城トレーナーが穏やかな声を掛ける。
そこに模範的解答など用意されてはいない、シャカール自身がどれほど走りを見極められたかのみが問われているのであった。
「……オレは、先行で走ってた時の癖が抜けてねェんだ。」
「私も見てて、そう思った。」
シャカールに数歩遅れて、アドマイヤベガも口を開く。
「たぶん、本番だと他の選手もいるから、追い込み位置に落ち着いているんでしょうけどね。」
「目安がなけりゃあ、オレはどんどん前に行っちまうってことか。その点で、スタミナを無駄遣いしちまってるのかもしれねぇ……」
俯いて、真剣な光を目に宿らせ、まだ荒い息を吐きながらも分析を続けるエアシャカール。アドマイヤベガは既にクールダウンのストレッチに入っていたが、結城トレーナーは黙考し続けるシャカールの表情を静かに見守っているだけであった。
「……手がかりがつかめた気がする。付き合ってくれて助かったぜ、アドマイヤベガ先輩。結城トレーナー。」
「あぁ、また何かあれば、いつでも声を掛けてくれ。」
「どういたしまして。私の方はもう、来月のジャパンカップまで会えないと思うけれどね。」
「期待しててくれ、そん時までにオレはもっと速くなってる。」
レース本番での走り方を変えるという、重大な決断に至った割にはサラリと謝辞だけを残して去っていくエアシャカール。
ロジカルさを好む彼女らしい、ドライなやり取りであった。
とはいえ果たしてたった残り一週間というタイミングで、作戦を変えて菊花賞に勝てるのか。大舞台を前にして、シャカールの賭けが始まっていた。