エアシャカールもまた勝ちを目前にして藻掻いているのだと鷹木が知っていれば、GⅠ本番を眼前に控えたウマ娘の担当トレーナーとして抱くプレッシャーも多少は軽くなったろう。今の彼は、当然ながらオペラオーが秋の天皇賞を控えている現在を戦々恐々として過ごしていた。
菊花賞の発走は、10月22日。その一週間後に天皇賞が控えるという土壇場では、さすがに担当トレーナーとしてオペラオーにノンビリ観戦させる時間を与えるつもりはなかった。
一方、晴れの京都レース場。そろそろ京都の山奥では朝夕に霜も降り始める時期、その涼気を市内へと運んできた秋風が芝を軽く撫でている。
〈マチカネフクキタル、セイウンスカイ、そしてナリタトップロード。歴戦のウマ娘たちによって競われてきました、走る者たちの粘り強さを問う京都3000m。菊花賞は絶好のレース日和となりまして、これより出走ウマ娘たちがパドックに姿を現します。〉
人気投票においては、エアシャカールは2番人気であった。わざわざ結果を見ずとも、自分をおさえて1番人気となったウマ娘の名など分かっている……人気順など、とてもシャカールのレースパフォーマンスを左右する要因たり得なかった。
〈……続きましては2番人気、エアシャカールの登場です。今年の皐月賞ウマ娘、彼女の追い込みは多くのレース場で大いに沸かせてくれました。日本ダービー以降、惜しくも勝ちきれない競走が続いていますが、本日のエアシャカールはしばらくぶりの栄冠を手にするのでしょうか。〉
その点に関しては、1番人気のウマ娘も、また人気度下位のウマ娘も同様であったろう。前評判で勝負が決まるわけではない、その認識は出走ウマ娘たち全員に共通している。
パドックに居る間も、そしていよいよゲートへ向かう時も、彼女らからはるか遠くに実況のアナウンスは響いていた。
〈1番人気はこの子、アグネスフライト。今年に入ってから頭角を現しましたこのウマ娘、日本ダービーを制し、現世代最強格の座をエアシャカールと競う仲であります。先月の神戸新聞杯ではシャカール共々フサイチソニックに一着を譲ったものの、この菊花賞においてはシャカールとの一騎打ちとなるでしょうか。激走に期待が持たれます。〉
京都芝3000m、外回りのコースはスタート直後から坂を上る。
次々にゲートへと入っていくウマ娘たちの前には、秋の京都の日差しによく乾かされて、いかにも軽々と足を運べそうなターフが先へと広がっていた。
〈各バ、ゲートイン完了……さぁ気合が入って、スタートしました!18名が、揃ったスタートを切りました。まずは先行争いでありますが、中をついてゴーステディが出てまいりました。これを交わすようにマイネルビンテージが上がってまいります、2名の競り合いであります。そして2バ身から3バ身差……これは、なんとエアシャカールが早くも三番手グループ、エアシャカールが先行の位置につけています。〉
その走りに驚いたのは当然ながら実況アナウンサーのみならず、歓声で満たされた観客席からもどよめきの声が聞こえるほどであった。
今までずっと追い込みで走ってきたエアシャカールが、先頭から三番手で走っている。たしかに先行してコーナーへ入り、内側で回った方がスタミナのロスは少ないものの、これまで慣れてきた作戦を唐突に変更して勝てるのか。外から見る分には、不安しかない出だしである。
しかし、このシャカールの決断がいかに自身の走りを見つめ、考え抜いた結果であるか……そして、彼女が本番までの時間をどれだけ練習につぎ込んできたか知る者の眼からは、逃げウマ娘を追うその足取りに確信が宿っていることが読み取れただろう。
専用のトレーナー用ブースから、結城トレーナーは普段他人には見せない真剣な表情とともにシャカールを見つめていた。
〈そのウチからはトーホウシデンが行きました、クリノキングオーがやや引っかかって下りに掛かっています。3コーナーを回ってまいります、1バ身差でトップコマンダー、或いは外からはフェリシタルが行きました。その後にはエリモブライアン、五、六番手の位置。そして1番人気アグネスフライトは中団の外につけまして、まずは一周目、正面スタンドへ入ってまいりました。〉
直線に入るウマ娘たちを、大観衆たちの叫びが出迎える。
ウマ娘の聴覚は人間のそれよりも秀でている。もちろん走っていく彼女らを純粋に応援する声が大部分を占めてはいたものの、エアシャカールの耳にはしっかりと野次も届いていた。曰く、ちゃんと先行を練習したのか、慣れない走りで転ぶなよ……等々。
(勝たなけりゃぁ、何も言い返せねぇ。)
レースに出るまでのウマ娘たちがどれほど血の滲む思いで鍛錬を重ねて来たか、知りもしない外野からの身勝手な野次。しかし実際に結果を残せなければ、それらを跳ね返すことも不可能。
このシビアすぎる世界を駆け抜けるには脚力のみならず、相応の胆力も備えていなければならない。投げかけられる言葉に対する動揺など、ここまで上がって来たウマ娘たちには無かった。
〈先頭に立っておりますのはゴーステディであります、二番手の位置にはマイネルビンテージ、そしてトーホウシデンはウチで三番手、その後クリノキングオー、エアシャカールは五番手でウチに入っております。そしてマッキーローレルが差を詰めてまいりまして、これが後位グループ。アグネスフライトは七番手、外をついております。〉
18名、どのウマ娘も本気で走り、互いに侮れぬ存在だとの認識に違いは無かった。しかし、集団越しにアグネスフライトが隣まで並んできた気配に、シャカールは視線を向けることなく気づいていた。
直線を抜け、1コーナーへと差し掛かっていく。アグネスフライトは集団の外側、前へ出るにも邪魔されることなく動けるポジション。
かたや、エアシャカールは前後を他の選手で挟まれ、右手には内ラチ、左手には並ぶウマ娘と、殆ど身動きの取れない状況に陥っていた。
(焦らねぇぜ……オレは今まで、これを避けて前に出ようとしすぎてたんだ。)
本番一週間前に行った、アドマイヤベガ先輩との並走。そして、考え抜いた末に出した結論。
この菊花賞において、エアシャカールは先行してウチに入り、そのまま前に出ることなく徐々に下がり、改めて最終直線で差す、変則的な作戦を決断していたのである。
〈エアシャカールとアグネスフライト、ウチと外で並んでいます。第1コーナーに掛かってまいります、中からダイワバーミンガム、ヒシマジェスティがその後のグループにありまして、フェリシタルが続きます。2コーナーへ、後続集団はまずトップコマンダー、やや固まってまいりまして、ケージージェットもこのグループに入ってまいりました。〉
向こう正面に入れば、早いタイミングで仕掛けるつもりの選手は前へ出ようとし始めるだろう。前後に長く伸びていた集団の形も徐々に詰まりつつある。
すなわち、既にこの時点で自由に動くことの出来る位置に居なければ、上り坂を越えて3コーナーから一気に加速するスパート勝負には加われない。現に、後方で脚を溜めていた追い込み選手たちは、勝負所を前にして仕掛ける準備に入っている。
一方、そろそろスタミナ残量的にきつくなってきた前方の逃げウマ娘に進路を塞がれる形で、エアシャカールの順位はじりじりと下がり始めていた。
〈向こう正面へと入ります、後ろから上がってきましたマッキーローレルが一気に外をついて先頭に着きました。ゴーステディは二番手、ホワイトハピネスが続き、1バ身差マイネルビンテージ。半バ身差でクリノキングオーが行っています。ジョーテンブレーヴ、そのウチからはトーホウシデン、その中はダイワバーミンガムが行きました、遅れてウチからはトップコマンダー、序盤前方に着けていたエアシャカールはここに来て十番手。その外にアグネスフライトが並んでいます。〉
慣れぬ先行の走りから、ずるずると下がって来たエアシャカール。常通りに追い込みの位置から上がってきて並んだアグネスフライト。
彼女らが並んだ時、会場から上がったどよめきには、アグネスフライトの有利を殆ど確信した意味合いが強かったろう。しかし、シャカールは真隣りから聞こえてくる蹄鉄の音に、微塵の油断も聞き取れなかった。
(あぁ、そうだ、お前も気づいてるよな。十分にリードを稼いどけよ、コースの内側から俺は仕掛けるからな。)
当然ながらレースの真っ最中に返答などあろうはずも無かったが、シャカールの胸中の思いに呼応したかのように、アグネスフライトは力強く芝を踏んで前へと上がっていった。
〈アグネスフライト、エアシャカール、両者並んで3コーナーの上りへと向かいます。それを見るようにエリモブライアンです、フェリシタル、そしてヒシマジェスティ、更にそのウチからはヤマニンリスペクト、そしてケージージェット、1バ身差でスプリームコート。最後方にカリスマシルバーといった所で、3コーナー上り詰めて、さぁ下りに掛かって勝負所であります。〉
集団全体が、一気に加速していく。中団から、後方から、コーナーの外側を回っていくウマ娘たちが順位を上げていく。
シャカールは、完全に集団の中に埋もれた状態であった。順位を上げるどころの騒ぎではない、この猛スピードでコーナーを回っていく状況下、密集した状態で他選手との接触が無いように神経を使う方が優先である。
(ミスんなよ……!ここまで来て、全部台無しには出来無ぇ。)
かつてのシャカールが最も苦手とする神経の使い方であり、ゆえにこそ今回のレース運び・コース取りは、彼女自身が今まで不可能と断じてきたものであった。
〈下り坂で一気に速度が上がります、外をついて、さぁアグネスフライトが、アグネスフライトが差を詰めて来た!今、中団から先団へと接近をしております!さらにヒシマジェスティも、外をついて今、五、六番手の位置にまで上がってまいりました!エアシャカールは……まだ、中団の位置、中団にて動けず藻掻いているか!間もなく第4コーナーを抜けます!〉
速度の上がった集団が、直線へ向くと同時に、コーナーを回って来た慣性で外側に振られる。
今月の頭、行われた京都大賞典にて見られたのと、似た光景がそこにあった。あれは中距離レース、この菊花賞は長距離レースという違いはあったものの、コースの構成が同じである以上、条件は似通っている。
無論、他のウマ娘たちも見てはいただろう。覇王テイエムオペラオー、その好敵手ナリタトップロードが、外側に振られた集団を置き去りにして、ウチ側から一気に抜け出した、あの京都大賞典を。
彼女らの警戒を表すように、そこまで大きな隙間は集団の中に生まれなかった。
だが、意図的に間を詰める競技ではない。各選手が各々の走りを行っている以上、隙間は必ず生まれる。
(見逃すかよ!)
本当にギリギリの隙間であった。トレーニング中の集団練習を経て得た、他選手と接触しない走り方が無ければ、そこに体をねじ込むことを躊躇してしまいそうなほどに。
数多の有力チームから合同練習の誘いを受ける結城トレーナーによって、提供される練習環境あっての成長であった。
〈直線コースへ向きました!マッキーローレル先頭か!しかし外をつきまして懸命に各ウマ娘が差を詰めてくる!トーホウシデン、ジョーテンブレーヴあたりも突っ込んできた!……ウチからエアシャカール!?完全に囲まれていたエアシャカールが、抜け出している!エアシャカールが伸びているぞ!〉
道は開けた。
他の選手が前へと上がっていく中でもスタミナを温存し続け、最初から6つのコーナーを全て内側で回ったエアシャカール。
埋もれていた状態から抜け出しさえすれば、爆発力は言うまでも無かった。
〈エアシャカール!エアシャカール!エアシャカール……!圧倒的だ、ぐんぐんと後方との差が開いていくが、ここで外から食らいついたトーホウシデン!トーホウシデンが追い上げていく!エアシャカール!トーホウシデン!この二名の一騎打ちだ!〉
しかし、そう易々と独壇場とは行かないのがウマ娘レース。
エアシャカールと同様に、先行、最ウチを走り続けていたトーホウシデン。先ほど僅かな隙間をぬって飛び出したエアシャカールから引き離されかけたものの、同じく温存されていたスタミナを放出して一気に追い上げてくる。
三番手以降との差はあっという間に広がっていく。完全に集団に埋もれていたと見えたエアシャカール、そして置き去りにされることなく食らいついて行くトーホウシデン。
予想を幾度もひっくり返される展開に、京都レース場は熱狂の歓声で満たされていた。
〈トーホウシデン、先頭へと迫っていく!アグネスフライトは伸びない!先頭はエアシャカール!トーホウシデン差し切るか!?三番手までは4バ身差!エアシャカール、いまだ先頭!トーホウシデン二番手……ゴールイン!エアシャカール勝ちました!わずかにハナ差、惜しくもトーホウシデンは二着!〉
すぐ真隣りまで蹄音が迫りくる時、エアシャカールの脳裏には幾度も東京優駿での惜敗がよぎった。あの時と異なり、並んでいたのはアグネスフライトではなくトーホウシデンであったが。
何度も思い返しては歯噛みした、あの敗北を振り切るがごとく、晴れて菊花賞の栄冠を手にしたエアシャカール。
いくら冷静に、ロジカルに次のレースへの対策へと頭脳を働かせようと努めても、自分に向けて注がれる賞賛と歓喜の叫びを前に、彼女は自然と頬が赤らんでいくのを止められなかった。
所は変わり、トレセン学園の練習場。
エアシャカールが映っている画面の前で、高笑いを響かせるウマ娘、その隣に顔色の悪いトレーナーが居た。
「はーっはっはっは!見たまえ、鷹木!来月のジャパンカップ、このボクの玉座に届かんとするウマ娘がまた増えた!」
「……みたいだな。さっさとトレーニングに戻ってくれ、もう来週だぞ天皇賞は。」
ノンビリと観戦している場合ではないといくら言い聞かせても、結局、なんとしてでも菊花賞を堪能したいというオペラオーの意思を覆すことが叶わなかった鷹木。
とはいえ彼自身、エアシャカールの勝負の行方が気になって仕方なかったのは事実であった。結果的に、見出したのは現王者に匹敵する勝負強さ、それに見合った速さ、持久力。
メイショウドトウばかりがテイエムオペラオーを脅かす相手ではない。京都大賞典でギリギリまで競り合ったナリタトップロード、復帰を遂げたアドマイヤベガ、そして菊花賞を制したエアシャカール……。
好敵手が増えるほどに喜びを増すオペラオーとは裏腹に、今度こそ連勝を止められるのではとプレッシャーに晒され続けるトレーナーの顔は蒼白かった。