京都大賞典の時には多少マシになったかと思われた本番直前の緊張感であったが、今の鷹木は前回とは比べようも無く血色のない唇を震わせていた。
天皇賞。秋のシニア級ウマ娘三冠競走の一角。文句なしの大舞台、URAの頂点を決するこのレースに臨んで、自らに相応しい場だと笑っているテイエムオペラオーほどの胆力が、トレーナーにまで備わっているわけでは無かった。
「はーっはっはっは!鷹木!」
それゆえに、東京レース場へと入っていくバスの中でオペラオーから呼びかけられた時も、鷹木は努めて心配なさげな表情を見せようとして、結果蒼白い顔を担当ウマ娘へと向けたのである。
そんな彼に向かって、いまだ今年度無敗の覇王はいつも通りの調子で、しかし彼女にしては至極珍しい言葉を掛けたのだった。
「キミに感謝しているよ!このボクを、秋の天皇賞にも連れてきてくれて!」
「お……おう。」
担当トレーナーをいちいち細やかに気遣う性格のウマ娘でないことは分かり切っていたため、きっと自分の顔色の悪さを案じて選んだ言葉ではないのだろうと鷹木は考えた。
バスが到着し、覇王オペラオーは至極楽しげに弾むような足取りでウマ娘用の控室へと向かっていく。
たしかに鷹木は、担当ウマ娘を勝たせようと尽力している。オペラオーのトレーニングに張り付いて計測を行い、身体への負荷を記録し、トレーニングメニューを調整。過去のレースデータを集めて参照し、目指すレースに最適な走りを算出し、オペラオーに提案してきた。
自分の立てた作戦では勝てなくなる、と考えてウマ娘に走り方を一任していた頃から比べれば大きな進歩である。
とはいえ、今でもなおテイエムオペラオーというウマ娘が、自分と二人三脚で歩んでいるようには感じられなかったことに変わりはない。彼女は別格であった、鷹木が過去に見て来たウマ娘たちのいずれとも。
無論、相手からの進言を蔑ろにするオペラオーではない。気持ちよく歌っている最中でも、昂揚する思いを全身で表現している途中でも、鷹木が口を開けばすくなくともオペラオーは口を閉じた。
いつもあふれ出る自信を表すようにピンと立てている耳を鷹木の方に向け、うんうんと深く頷きながらトレーナーからの助言は聞き入れている。
それでもなお鷹木は、またもやオペラオーがあらかじめ伝えた作戦とは全く異なる、突拍子もない走り方を実戦にぶつけるのではないかとの懸念をぬぐい去れずにいたのだ。
(そんなことはない……京都大賞典でも、練習の時に繰り返したあの作戦を、オペラオーはきちんと実行したじゃないか。)
それだけに、先ほどオペラオーから感謝の言葉をサラリと掛けられた時、ウマ娘のことを信じ切れていない自分自身に鷹木は些かの嫌悪を覚えたのであった。
現に到達している天皇賞という晴れ舞台を、今なお鷹木の心の奥底では雲の上のように感じていることも一因だったかもしれない。徐々に実績を上げてここまで来たのではなく、テイエムオペラオーという特異なウマ娘によって、いきなり連れてこられたのだから。
URA最高の頂点を争う場も、その頂点を争うウマ娘も、鷹木にとっては未だ計り知れぬ超常的な存在であった。
〈天候は曇り、バ場状態は重となりました東京レース場。いよいよ迎えました秋の天皇賞でありますが、このレースで注目を集めるウマ娘は言わずもがなといったところでしょう。かの覇王、世紀末覇王の春秋連覇なるか、そして六連勝なるか。阻まんと挑むウマ娘たちの闘志も十分に、これよりパドックに姿を現します。〉
テイエムオペラオーの思惑通りに、そして担当トレーナーの精神を擦り減らすように、オペラオーが敗北を待ち受けているかのような煽り文句もおなじみとなっていた。鷹木は自分の喉を擦る呼吸音だけがうるさく響く個人用ブースに腰を下ろしながら、動悸を抑えていた。
が、実況アナウンサーの言葉には、今までにない続きがあった。
〈さて今回のレースからは、実況席にスペシャルなゲストをお招きして解説をお願いしたいと思います。黄金世代を牽引しました日本総大将、スペシャルウィークさんです!よろしくお願いします。〉
「えっ」
〈東京レース場にお越しの皆様……あれ?マイク入ってます?あっ。……皆様、ようこそウマ娘レースへ!スペシャルウィークです!〉
聞き覚えのある声が、見覚えのあるおっちょこちょいと共に、レース場に響き渡る。
予想外の大物ゲストの登場に、幾万人が詰めかけた観客席にもどよめきと歓声があふれた。鷹木の思考がしばらくの間、白紙のまま停止していたことは言うまでもない。
彼は胸中に驚愕が沸き起こっても、リアクションが取れないタイプの一般人であった。
〈よろしくお願いします、スペシャルウィークさん。さぁ、今回初めて解説に入っていただくことになりましたが、いかがでしょう、この実況席から見える東京レース場は。〉
〈いやー、初めてですからね、こんな高い場所からターフを見下ろすのって。緊張してドキドキですけど、精一杯、解説を頑張りたいと思います!〉
〈今回のレースで注目しておられるのは、やはりあのウマ娘、あの世紀末覇王でしょうか?〉
〈はい!オペラオーくんですね、今回勝てば六連勝だなんて、凄いって思いますし……同時に、やっぱり、って感じもしますね!〉
〈なるほどぉ……スペシャルウィークさんと言えば、昨年の有馬記念においてもテイエムオペラオーと走っておられましたね。〉
〈あの時はグラスちゃんのが目立っていましたけど、オペラオーくんも強かったので、すごく印象に残ってます!来年からはこの子が活躍するだろうな、とも感じました。〉
〈やはりスペシャルウィークさんの眼から見ても、昨年から際立っていたということですね。そしてテイエムオペラオーと言えばレースでの活躍のみならず、その独特な振る舞いにも注目が集まりますが。〉
〈そうですね、いつもとっても明るくて、居るだけで賑やかなんです!なんて、私が言うのもなんですけど!〉
引退後はあちこちのメディアに顔を出していたこともあり、生来の付き合いの良さもあって、よどみないトークを披露しているスペシャルウィーク。
パドックに現れるウマ娘たちを待つレース場内の雰囲気は熱気もそのままに、スペシャルウィークの声色が一気に華やいだ空気を作り出したように思われた。出走ウマ娘の紹介が始まった後も、スペシャルウィークによって挟まれる解説……や小話が、レース前の会場を明るく彩っている。
〈……さていよいよ3番人気の紹介です、ナリタトップロード。今月頭に行われました京都大賞典では、テイエムオペラオーと僅差にまで迫る実力を見せつけました。また、春の天皇賞、阪神大賞典に京都記念と、幾度もかの覇王と競り合って来た経験の持ち主です。〉
〈クラシック級の時からずっと、競い合って来た仲の二名ですね!学園では優しくて爽やかな性格で、真面目で……なんというか、いかにも主人公、って感じの子なんです!〉
スペシャルウィークの添えた小ネタは、確かに的を射た内容であった。秋空も似合うトップロードは涼やかに笑みを振りまいている。
レース対策を立てるトレーナーたる鷹木としてみれば、最も厄介極まりない相手との印象が強かったが。基本的には先行を得意とするウマ娘であったが、ときおり思いもよらぬところで追い込みの走りへと切り替わることがある。
そして、その作戦変更は綿密に練り上げられたプランの通りに遂行され、常に上位を脅かす存在となる。それもこれも、スタミナ配分を冷静に行えるトップロードの堅実さが為せる業であった。
〈続きましては2番人気、メイショウドトウであります。今年に入ってからめきめきと力を伸ばしてきておりますこのウマ娘、先月の産経賞オールカマーでは悠々と一着を獲ってみせています。宝塚記念ではオペラオーにクビ差で敗れていますが、この天皇賞にて雪辱なるでしょうか。〉
〈レース場ではライバル同士ですけど、学園だとオペラオーくんと一番仲の良いウマ娘ですね!練習の時でなければ、いつも一緒にいるんですよ!〉
観客たちにとっては多少意外な情報だったのか、小さなどよめきが客席の間を走る。
とはいえ、レース場以外でドトウが見せる気弱そうな姿を彼らは知らない。パドックに姿を現すメイショウドトウは、既に本番への闘志を漲らせた堂々たるウマ娘なのだから。今や、オペラオーに勝ち得るウマ娘の最有力候補なのだ。
かの覇王と肩を並べる、いわば猛将として一般的な観客からは見られている、とドトウ自身に伝えればさぞ驚嘆することだろう。
〈さぁ……さぁやってまいりました、1番人気の紹介です。お聞きください、この歓声を。未だ止まらぬ連勝記録、春秋連覇のかかった今年度最強のウマ娘。世紀末覇王、テイエムオペラオーです!〉
〈おぉ、凄い盛り上がりですね!〉
〈スペシャルウィークさんが1番人気として紹介される時も、これに負けない盛り上がりだったんですよ。さて、皆さまご存じ世紀末覇王、昨年は皐月賞の一勝のみでしたが他のレースでも好位をマーク、その並みならぬ存在感を見せつけていました。そして今年に入ってからは無敗、まさに王者、彼女を破るウマ娘がいつ現れるのか。〉
〈本当に強いウマ娘ですから、それに今年に入ってからは走り方がいっそう丁寧になったようにも思えますし。〉
〈なるほど、丁寧に、ですか。〉
〈はい!オペラオーくんを担当しているトレーナーさんが真面目な方で、いつも最適な走り方を研究しておられるんだって、学園の理事長さんからも聞いてます!〉
本番がいよいよ近づく中で緊張の極限状態にある鷹木は、発走を見る前にひっくり返って気絶するところであった。
自分が普段何をしているか、学園の理事長に筒抜けだとは。
……とはいえ、トレーナー主任会議にて自分がオペラオーの担当に相応しいのか否かを議論されたことからも、それぐらいのことは当然予測されて然るべしであった。トレセン学園としてみれば、稀代の優駿を凡庸なトレーナーの腕で鈍らせてもらっては困るのだ。
そのうえで、未だオペラオーの担当を認められているということは、自分の取り組みは及第点ではあるのだろう。しかし、学園に戻ればより窮屈な思いを味わうことになるのだろうなと鷹木は考えていた。
実況アナウンサーとスペシャルウィークのトークで場が繋がれながらもウマ娘たちのゲートインは進み、いよいよ発走の時を迎える。
〈16名の態勢整いまして……スタートしました!好スタートを切りまして、外から果敢にナリタトップロードが行きましたが、それを交わしてロードブレーブが先頭に立ちました。2バ身ほど離れてナリタトップロード二番手、そしてメイショウドトウも早めに行きました、並んで三番手争い。その直後にテイエムオペラオー4番手の位置で2コーナーを回っていきます。〉
〈上手いコース取りですね、この東京レース場の2000mはスタートからの短い直線で、コーナーを回っていく順位が決まってしまいますから。〉
指摘された通り、鷹木がまず最も警戒していたポイントはスタート直後にあった。
内枠を取れればよかったものの、今回のオペラオーは外枠。先行の位置に着こうにも、内側がぎっしりと他の選手で埋まった状態ではコーナーを大回りで通過する羽目になる。無理に前に出ようとすれば、余計にスタミナを浪費する。
それだけに勝負所であったのだが、オペラオーは先頭まで駆け上がろうかというスタートダッシュを見せつつ、ドトウに先を譲る形で先行の位置に無事落ち着いていた。逃げを選ぶウマ娘はこの時点で一名しかおらず、先頭争いに加わる者が少なかったのも追い風であった。
とはいえ激戦区となる位置には違いなく、早くもオペラオーには4名ほどのウマ娘が横並びとなっていた。
〈さぁ向こう正面に出る前ですが、一気に外からミヤギロドリゴ上がってきまして、単独二番手へと抜け出しました。後位グループ混戦であります、ミッキーダンス、テイエムオペラオー、さらにはイーグルカフェ、後にトーワラノビアと固まっています。ウチを突いてダイワテキサス、外を回ってステイゴールド、その間からはアドマイヤベガ十番手の位置であります。〉
〈皆、脚を溜めてる感じですね。けれど、この直線の坂を越えたら一気にスピード勝負になると思いますよ!〉
いつも最後方に着けているアドマイヤベガが、今回は16名中の10位の位置から狙っている。
スペシャルウィークの解説は、彼女自身がこのレースで戦績を挙げたこともあって説得力があった。たしかに、向こう正面の途中にある坂を越えれば、そこからはウマ娘たちが減速する要素などほとんどない。
追い込みを狙うならば、早くも位置取りを見定めておくべき局面であった。
〈サクラナミキオー、おくれまして内々を通るユーセイトップラン、更にその後方ポツンと遅れているのがジョーヤマト。さぁ坂を下ります、徐々に速度が上がって来たか、これより第3コーナーのカーブに入ります。1000mを通過、さあ前二名が後続に9バ身、いや10バ身ものリードを開いている。ロードブレーブ、そしてミヤギロドリゴ並んで大逃げだ。〉
〈ここから追い込みの子達も上がってきますから、今の間に一気にリードを稼いでおきたい所ですね!〉
とはいえ、逃げウマ娘たちが開いたリードは早くも徐々に縮まりつつあった。
無敗のテイエムオペラオー、並びに彼女と比肩する実力の持ち主たち。常に自身のスタミナを管理しつつ走っているナリタトップロードが、メイショウドトウと並んでいよいよ加速を始めた頃には後続集団からの距離も詰まってきていた。
オペラオーはと見れば、並んでいたウマ娘たちを置き去るように単独でトップロードとドトウの後を追っている。彼女が悠々とコーナーの一番内側を走っていくのを見送りながら、早くもついていけなくなった選手たちがずるずると下がっていく。
〈さぁ徐々に徐々にメイショウドトウが先頭集団を捉えていく、ナリタトップロードも負けじと並んでおります、テイエムオペラオーがその後を追う。このペース、かなりの速い展開となっているのではないでしょうか。〉
〈やっぱり強いですね、あんなペースで走れる子はなかなか居ないですよ。〉
たしかに覇王は別格であり、そして走りには安定感が備わりつつあった。
コース取り、ペース配分、そして仕掛けどころ。全て、鷹木が懸命に研究した結果を、オペラオーは律儀に反映して走っている。
それは、言葉や態度では直接心境を表出せず、その芝居じみた所作で隠してしまうオペラオーが、唯一分かりやすくトレーナーへの信頼として表す手段であったのかもしれない。
〈600mの標識を切りました、さぁメイショウドトウを先頭にして早くも逃げウマ娘たちを後続集団が差しに来る、ナリタトップロード、テイエムオペラオー、速い、速いぞ、後方からはステイゴールドも追ってくる、ウチを突いてサクラナミキオーも上がってくるが、さぁ直線に向きました!完全に集団は固まってまいりまして、先頭はメイショウドトウ!〉
〈いい位置につけてましたからね!末脚勝負は有利なんじゃないでしょうか!〉
ぐいぐいと追い上げてくるオペラオーに追いつかれず、いよいよ最終直線にてトップに躍り出たのはメイショウドトウ。
ここで先頭が他のウマ娘であれば、さしもの鷹木も勝ちを確信していたであろう。だが、メイショウドトウは十分すぎるほどの強敵であり、なおかつ彼女の隣にはナリタトップロードが並んでいるのだ。
しかし、最ウチから直線に入るコースで、既にオペラオーは自分の前に誰も居ない位置につけていた。
だがテイエムオペラオーが警戒すべき存在は前方のみにあらず。
先頭争いに加わることもままならず下がっていく後方集団の中、誰よりも真っ先に輝く明星の光が飛び出した。すなわち、アドマイヤベガである。
〈先頭はメイショウドトウだ!メイショウドトウ先頭、テイエムオペラオー外から上がってくる!ウチをついてナリタトップロード必死に頑張っている、追い込み勢はどうだ、前三頭の争いか……大外からアドマイヤベガ!またしてもここで来るのかアドマイヤベガ!〉
〈うわ凄い!凄い追い込みです!これはどうでしょ!?〉
殆ど解説を放棄したスペシャルウィークのコメントだったが、会場の熱狂を端的に代弁する言葉には違いなかった。
ジリジリと先頭のドトウへ迫っていくテイエムオペラオー、既に先頭は譲ったものの、なお脚色の衰える様子も無く食らいつき続けるナリタトップロード、そして後方から恐ろしい速度で追い上げてくるアドマイヤベガ。
京都大賞典のあのゴール前に似た状況に加わって、オペラオーの最も近くに居るメイショウドトウが大きな存在感を放っていた。
鷹木も十分に予見した、このゴール前の攻防。
〈ナリタトップロード四番手争いか、最ウチを突きましてダイワテキサス、イーグルカフェ……さぁ抜けた、抜けた!強い、強いテイエムオペラオー!〉
しかし、テイエムオペラオーの底力は、鷹木の予想の範疇になかった。
練習時には見せないその末脚は、大舞台でのみ解放される切り札のようであった。自らの担当トレーナーから献策された作戦を踏み越えた先、なおも並び続ける好敵手を突き離す、テイエムオペラオーの切り札。
その瞬間、彼女は鷹木の担当ウマ娘ではない。
凡人の遥か彼方へ仰ぎ見る玉座に鎮座する、世紀末覇王であった。彼女の強さは鷹木に安堵を与えると同時に、凡庸なるトレーナーが否応なしに隔たりを感じる異才だった。
〈2バ身、3バ身リード!メイショウドトウ二番手の位置!ぐんぐん差が開いていく……!テイエムオペラオー、6連勝でゴールイン!勝ちましたテイエムオペラオー、二着にはまたしてもメイショウドトウ!春、秋の連覇を達成しました、どこまで行くんだテイエムオペラオー!〉
〈お見事です!ホントに強い……無敗記録、終わりそうにないですよ!〉
スペシャルウィークのコメントが東京レース場を轟かせる観客たちの歓声を更に燃え立たせ、テイエムオペラオーの高らかに響き渡らせる笑いが共鳴し合う。
輝かしい舞台で、6つ目の栄冠を戴くオペラオー。その背後に、友であり強敵でもあるウマ娘たちの眼差しをいくつも突き刺したまま、彼女はターフの上でウイニングランを行っている。
己が背に、或いは頭上から刃を突き付けられた状態で、笑いながら自らの威光を誇る。
この特異な存在が、留まることを知らずただただ前進制圧していく様を、担当トレーナーたる鷹木は呆然たる思いで見つめるばかりであった。