本番のレース場で大歓声に包まれて走るのとは異なり、トレセン学園の練習場にてひとり走りこむウマ娘を取り囲んでいるのは、自らが風切る音である。
時速70km近い速度で駆け抜ける彼女たちが、ごうごうと鳴る風音にその耳を劈かれていたことに気づくのは、一心不乱の走り込みを終えた直後。鼓動の高鳴りと、芝を踏む自らの蹄鉄の音が、拍子抜けするほどの静けさを取り戻したことを気づかせる。
しばし、その無音の中にたたずみ、間もなく放課後から1時間が経ったことを告げる校舎の鐘が響いてきたのを機に水分補給へと向かうはアグネスデジタルである。
「ふぅ……追いつかないと、ですね。先輩にも、級友にも。」
オフの日には羽目を外し、アイドルのライブ会場にも足繫く通い、ウマ娘ファンたちを同志と呼んで盛んに交流しているデジタル。
しかしトレセン学園にて鍛錬に励む彼女の姿は、ストイックに自らの能力を研鑽するアスリートそのものであった。殊に、自身がGⅠレースに出走するようになり、ウマ娘レースというものの真髄に触れ始めた頃からは、一秒たりと練習時間をおざなりにしない真剣さがその瞳に宿るようになっていった。
とはいえ、現実に戦績を残せるかどうかは、また別の話である。
練習時におけるタイムは着実に早くなっていっている。同じコース、理想的な条件、そしてコース取りを妨害される心配もない状況であれば、アグネスデジタルはGⅠで競り合えるだけの脚を既に有していた。
が、同期のエアシャカールが菊花賞で華々しい勝利を挙げる一方、アグネスデジタルは未だ勝ちあぐねていたのである。
おりしもテイエムオペラオーが6連勝目を勝ち誇った天皇賞の前日、同じ東京レース場で競われた武蔵野ステークス。徐々に勝ち筋を掴めるようになったと思われた、ダートコースの1600mだった。アグネスデジタルは4番人気。
東京レース場のダートコースは、スタート直後の150mは芝の上を走る変則的なコース。芝とダートでの活躍、両立を目標に掲げるアグネスデジタルとしては、自らの走りを試す意味合いも大きなレースであった。
スピードの乗りやすい芝部分で、一気に前へと上がったアグネスデジタル。先行の走りとしては理想的な形で、二番手、三番手の位置で直線のダートへと突入していく。
水を含んでおらず、良状態のダート。とはいえ大井レース場の時のように深い部分に突っ込んでしまうこともなく、スタミナを浪費する条件も無い。
一つの誤算があったとすれば、ウチ側のコースを走る選手を交わしきることができず、コーナーも外側を回る位置取りになってしまっていたことであった。無理に前へと出ようとすれば、最終直線に入る前にスパートのためのスタミナを残せない。
(ですが、芝での走りに慣れている私ですので!脚を溜めて、一気にスパートで引き離します!)
逃げのウマ娘たちからも引き離されすぎることもなく、外を回ってコーナーを通過していくアグネスデジタル。3コーナーから4コーナーへと入る時には、既にウチ側の選手も抜き去って最ウチに入ることが出来ていた。
その勢いのままに、直線へと入ると同時に前の二名を交わして直進出来る位置につく。勝利が遠のくようなヘマはしていなかった。
〈直線へと向きましてアグネスデジタル三番手、その外に1番人気ゴールドティアラ、現在中団の外から追い込みに掛かります!400を切って、さぁ粘っている先頭のミヨノショウリ、そしてレイズスズラン、しかし苦しいか!外からアグネスデジタル、タガノサイレンスと並んで上がって来た、更にマチカネランとゴールドティアラも来るが、アグネスデジタル抜け出した!〉
並んで走っていたウマ娘と比べても、アグネスデジタルはスタミナ面にも無理はなかった。今までの敗北を彼女なりに研究し、あるいは周囲からの助言も得て、走り方を見直した成果である。
しかし、他のウマ娘を越えられていたか否かは、レースの結果が出てからでなければ分からないものである。
〈さぁ単独トップだ、アグネスデジタル!200を切った、外からゴールドティアラとマチカネランも上がってくるが、いまだ先頭はアグネスデジタル……ウチからサンフォードシチー!ウチからサンフォードシチーが一気に交わした!速い、速いぞ、一気に抜き去った!差は1バ身!サンフォードシチー、一着でゴールイン!〉
油断などしておらず、アグネスデジタルは最後の最後まで自身の出しうる全力で脚を動かしていた。が、無情なまでに差は開いていき、背後から差し切ったウマ娘が蹴立てた砂粒とともに、アグネスデジタルは二着でゴールしたのであった。
ボトルの中で、スポーツドリンクが涼やかな音を立てる。
世間では冷たい飲料など見向きされない季節となっていたが、武蔵野ステークスでの敗北を思い返すたび……そして、その翌日に覇王テイエムオペラオーが見せつけた圧倒的なレース運びを見るにつけても、アグネスデジタルは体の中心が火照るような感覚をよみがえらせた。
「諦めません、そのキラキラに追いつくのが、私の目標なんですからね。よしっ、もう一本走り込みです!」
「そこまでにしとけ。」
スポーツバッグのポケットにボトルを突っ込み、背を向けて再びグラウンドに向かおうとするアグネスデジタルの背に、聞きなれた声が掛けられる。
「おっとぉ、シャカールちゃんじゃないですか。こないだの菊花賞、お見事です!」
「んな話をしに来たんじゃねぇよ。練習はそこまでにしとけっつってんだ。」
自身の勝ったレースを褒められても表情が綻ぶことが無いのはシャカール元来の性格によるものであったが、彼女の眼差しを鋭くしているのは翌月に控えた大勝負の存在もあったろう。すなわち、かの覇王オペラオーとの直接対決である。
だが今は、勇んで練習場に向かおうとしているアグネスデジタルを案じる色が、シャカールの顔を斜めに照らしている夕映えの光の中に交じって見えた。
「いやいや、私も負けてられませんので。本気でウマ娘のキラキラを追いかけるって心に決めたんです、だから……」
「故障しちまうぞ。脚、かなりの負荷が蓄積してるはずだ。」
そんなことはない、と言いかけたアグネスデジタルであったが、シャカールの口調にも彼女には珍しい不安の響きがあったことを聞き取り、口を噤む。
ウマ娘の骨折や負傷は、なにも接触や転倒によって起きるものばかりではない。むしろ、繰り返される練習、そして身体能力の限界まで我が身に鞭打つレース本番の中で、蓄積した負荷が骨や靭帯の剥離・断裂を引き起こすケースの方が圧倒的に多い。
そして、彼女らが過度のトレーニングによって体に不調をきたすことの無いように管理するのもトレーナーの仕事であったのだが、アグネスデジタルには未だに専属のトレーナーが居ない。一年に数回設けられている、トレセン学園の全生徒向けに実施される健康診断頼りである。
エアシャカールは自身の次なる大舞台を念頭に置きながらも、その一方で勝ちきれず焦りに陥っているであろう友の無茶を案じてここに顔を出したのであった。
「……ですね、今日も十分に頑張りましたし。」
「そうしとけ。にしても、担当トレーナーの申請はしねぇのか?結城トレーナーも言ってたろ。」
「あー……ですね、そろそろ、とは思ってるんですが……。」
アグネスデジタルの歯切れが悪いのには、十分に理由があった。
ダート、芝の両方を走るという異例なウマ娘を目指しているだけではない。走り方も、時には先頭争いに加わるほどの先行、時には後方からの差し、と本番の都度コースへの感触次第で大幅に変更する癖が彼女にはあった。
いつも安定した成績が残せないのはそのせいもあろうとデジタルは考えていたが、だからと言って『最適な』走りへと矯正されるのは、いっそう彼女の望むところではなかったのだ。
そのレースでの輝きを最も味わえる、一番心惹かれる位置取りからゴールを目指す。レースの結果に直結しない、そんなアグネスデジタルのモチベーションを、果たしてくみ取ったうえでGⅠの舞台へ送り出してくれるトレーナーが居るものだろうか。
シャカールは、このいつも喧しい友の顔に浮かんだ複雑な表情を見つめ、その大方を理解したようであった。
「余計な心配じゃねぇか?あのオペラオー先輩を見てるトレーナーが居るくらいなんだからよ。」
「なるほど……たしかに、かの世紀末覇王に合わせるのは相当な負担でしょうし。」
「お前が言うな、っつっとくか?」
「私はそこまで変なウマ娘ではありませんよ、ちょっとはしゃいじゃう時があるぐらいで。よーし、じゃあ来月のレースに備えつつ、学園に打診してみるとしますか!」
身長差のある二名の影が、夕陽に染まるグラウンドに細長く伸びながら去っていった、その後。
広大なトレセン学園練習場の一角では、別なウマ娘が街明かりに薄く照らされた地平線を見つめていた。既に夕焼けは去り、群青の夜空色へと染まりつつある頃である。
「……ベガが、沈む……。」
アドマイヤベガ。彼女がその名に冠する一等星が、まだ薄明るい空の奥で弱々しい光を放ち、揺れていた。
ベガは夏の星座、こと座の一等星である。あまり知られてはいないが、脈動変光星に分類される恒星であり、人の眼には分からぬほど僅かの差で明るさが変わっていく星でもある。
外から見る分には常に表情の変化に乏しいものの、美しく冷たい瞳の奥で時折感情を揺らがせるアドマイヤベガの様にも似ていた。
「……。」
こと座を始めとする夏の星座たちは、11月も近づいた時期ともなれば十分に暗くなったころには既に傾いており、真夜中を待つことなく沈んでいく。
それは季節の移り変わりにおいて当然の現象であったが、そんな一等星を見つめているアドマイヤベガの眼差しにはどことなく暗がりが、不安を抱いた胸中が映し出されているようであった。
「まだ……走れるよね……。」
「もちろんさ!」
「!?」
唐突に背後で放たれた大声は聞き慣れたものであったが、それまでの静かな胸中に喇叭でも吹き鳴らされたかのような心持ちとなったアドマイヤベガは、軽く飛び上がったのち凄まじく不機嫌な表情を後ろに向けた。
いつの間にか背後に近寄ってきていたテイエムオペラオーは、悪びれもせず、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべている。
「何の用。」
「あぁ、キミと共に星を見上げたくってね!ここからでは手の届かないものにこそ、手を伸ばす意味がある!それはまさに、ボクたちウマ娘が栄冠を目指して駆ける様そのものじゃないか!」
「うるさい。帰って。」
「おぉ、ベガの澄んだ輝きは、まるで研ぎあげられた氷の刃のごとく美しい!その清冽な輝きをもっと近くで見せてくれないか!」
相変わらず、どれだけ邪険に扱ってもぐいぐい接近してくるオペラオーに溜息だけを残し、サッサとこの場を立ち去ろうとするアドマイヤベガ。
しかし、オペラオーはオペラオーなりに、アドマイヤベガの表情を晴らすつもりでここに赴いたらしかった。
「見たまえ!ベガが太陽に追いつこうとしている!」
「……何それ。」
「見ての通りさ!夏のベガは黄金が去ってからずいぶん経って、ようやく太陽の寝所へとたどり着いた!だが、今はどうだ!光が褪せ、門が閉じ切るより前に、太陽の去った先を見据えている!」
オペラオー流の独特な世界観の中では、単なる天体現象もずいぶんとドラマチックにとらえられているらしい。
アドマイヤベガは、その先を聞きたく感じた。
「それがどうしたの。」
「まるでボクたちのようじゃないか!アドマイヤベガは、ボクという太陽を追い込み、まもなく並ぼうとしているんだ!」
いずれ真冬になれば、夏に見えていた星々は昼間の空に上がることになる。それを、自らを太陽に擬えるオペラオーは、アドマイヤベガの追い込みに喩えているのだ。
オペラオーの誇らしげな表情は気に食わなかったものの、アドマイヤベガは立ち去ろうとしていた脚を彼女の方へと向けなおした。
「相応しくない喩え方ね。私は、あなたの明るさに埋もれてしまうほど弱くない。」
「はーっはっはっは!そうだろうとも!いずれ君が、天の極となるのだから!全力で張り合わせてもらうよ!」
数万年単位でずれる地球の自転軸の関係上、ベガは一定周期で北極星としての役割を担うこととなる。そのことをオペラオーは口にしていたのだが、既にウマ娘たちの意識は次なるレースへ向けての闘志へと置き換わっていた。
既に周囲は暗く、夜空の天頂には秋の天を翔るペガサス座が輝いていた。