この年度の3月、高松宮記念にて劇的な勝利を挙げ、世間にもトレセン学園に通うウマ娘たちにも大きな希望を与えたウマ娘、キングヘイロー。GⅠでなかなか勝ちきれぬままに、それでも諦めることなく走り続ける彼女の姿は今なおレース場に現れるたび観客席を沸かせている。
とはいえ、勝負の世界が過酷であることに変わりなく、以降のキングヘイローは6月の安田記念にて三着を得た以外に目立った戦績を挙げていない。
10月末、アグネスデジタルが武蔵野ステークスにて惜しくも二着となった同日、キングヘイローは京都レース場で行われたスワンステークスにて十二着であった。
芝状態は良だったが雨の降る中でのレース。
3番人気だったキングヘイローは途中まで先行の位置で十分に前を狙えるコース取りを出来ていたものの、京都レース場特有のスピードが出るコーナーの出口、大きく広がった集団の中に埋もれるような形となったまま、先頭争いには加われなかった。
レース後も堂々として振る舞い、観客席に愛想よく品の良い笑顔を振りまいていた彼女であったが、その胸中に滾る闘争心を決して鈍らせるウマ娘ではない。
キングヘイローがレースで負けた後は、トレセン学園近くの商店街にて福引きの当たりが出るまでムキになって回し続け、あるいはゲームセンターにてクレーンゲームの景品を獲得できるまで挑戦し続ける彼女の姿がきっと見られた。
抑えきれない勝利への執着心を、自分の身体を追い込むトレーニング以外の手段にて発散するため、彼女なりに編み出した手段であったのだろう。
4年間、レースの場に身を置き続けたキングヘイローは、既に無茶な鍛錬を続けることが危ぶまれる状態になっていることを自覚していた。許容範囲を超えた負荷を脚に蓄積させてしまえば、いつ疲労骨折や靭帯断裂を引き起こすとも知れない。
同じ黄金世代を彩った面々の中に、身体の故障による引退を余儀なくされた者たちが少なからず居たことを、彼女は決して忘れていなかった。
そんなキングヘイローの思惑までくみ取れていたか否かはさておき、彼女を慕う他のウマ娘たちは、少なくともレースに負けた後のキングヘイローが現れる場所の候補に見当がついた。
アグネスデジタルが、10月の末あたりからソワソワと商店街に顔を出しがちになったのも、それに関連してのことであったろう。
キングヘイローが訪れていれば、きっとすぐさまに人だかりができるはずである。彼女の知名度のみならず、その付き合いの良さ、そして商店街の人々から親しまれる性格によって。
しかし、スワンステークスでの敗北以降、キングヘイローは商店街にも姿を現していないようであった。アグネスデジタルの訪問に気づいた店先から、まばらに声が掛けられるばかりである。
「デジタルちゃんじゃないか。今日もジョギングかい?」
「いえ、ちょっと尋ね人を……キングヘイロー先輩、お越しになってないですか?」
「いやぁ、見ていないね。あの子が来たら一気ににぎやかになるし、すぐに気づくけどねぇ。」
やはり求める相手はそこに居らず、デジタルは引き下がる他に無かった。
きっとトレセン学園の練習場にて待ち続ければキングヘイローと確実に会うことは出来ただろうが、先輩の練習時間を削るような真似は出来ない。そもそも、11月中旬に控えるマイルチャンピオンシップでの対戦相手の練習風景を、覗くこと自体がマナー違反となる。
それゆえにアグネスデジタルは学園外におけるキングヘイローとの遭遇を望んでいたのであり、キングヘイローと直接言葉を交わそうとする理由自体が、マイルチャンピオンシップへ出走することにあった。
(全力で、勝たせてもらいます。全力で、勝たせてもらいます……。)
キングヘイロー先輩のお目に掛かれれば、告げようと思っているアグネスデジタルの言葉が、それであった。
むろん、これに対する反応も、今まで幾度かキングヘイローに会っているデジタルには容易に想像できる。きっと、さぞ愉快そうにいつもの高笑いを披露した後、嬉々として後輩からの宣戦布告を受け入れるのだろう。
分かり切った反応ではあるが、それでもアグネスデジタルはレース本番の日が来る前に、それを現実のものとして受け止めておきたかったのだ。
自分は、キングヘイローに連敗を重ねさせるウマ娘の一員になるのかもしれない。
自惚れではなく、自分が全力を出してマイルチャンピオンシップに臨むことを、わずかでも阻害するような心境は残したくなかった。とはいえキングヘイローの所在がそもそも不明では、その願いも叶わない。
滅多なことでは曇りもしなかったその表情に、多少の翳りを浮かばせつつも商店街からトレセン学園へと帰っていくアグネスデジタル。
そんな彼女がふと見上げたのは、神社の石段を上がっていく人物の姿であった。学園敷地の外れ、小高い裏山に位置する神社。その急峻な石段はトレセン学園の生徒たちのトレーニングにも用いられるものであったが、息を切らして上がっていく姿はウマ娘ではなく、一人の人間である。
どこか見覚えがあるような、と感じたアグネスデジタルは軽い足取りで石段を踏んでいき、やがて追いついてみれば相手は鷹木トレーナーであった。
「おや!鷹木さんじゃありませんか!」
「ハァ……ゼェ……あ、あぁ、デジタル……トレーニング、かい……」
「いえいえ、私はちょっとお出かけした帰りですし。それよりも鷹木トレーナー、一息ついたほうがいいんじゃないですか?」
「いや……また、オペラオーの奴がトレーニング途中でいきなり抜け出して……早いところ連れて帰らないと……ゲッホ」
おそらく、無理をして呼び戻そうとオペラオーの背を追っていたのだろう鷹木は、すでに息も絶え絶えの状態であった。ちょっとした山の頂上まで続く石段を全力で駆けあがって来たのだから、無理もない。
そして当然ながら、ウマ娘は脚の速さのみならず、スタミナ量も人間のそれを遥かに凌駕している。既に神社に到着しているのだろうオペラオーの歌声だけが、階段の先から響き渡っていた。
「さすがは、気ままな覇王さんらしいですねぇ。分かりました!それじゃあ私がひとっ走り行って、オペラオーさんを連れてきます!」
「た、頼む……。」
おそらくアグネスデジタルに任せても、下手をすればオペラオーとのお喋りに夢中になってトレーニングへと連れ戻す目的を忘れてしまいかねないといった懸念など、鷹木の中には既に浮かんでいただろう。
しかしそれ以上の言葉を口にする余裕もないほど息が切れていた鷹木は、足元の段に座り込んで汗を拭くのが精一杯の動作であった。対照的に、アグネスデジタルは疲れどころか体重さえも感じさせない軽やかな足取りで石段を駆け上がっていく。
石段を上がっていくにつれ、オペラオーの歌声はどんどん大きく聞こえて来た。が、アグネスデジタルにとっては意外、かつ思わぬ幸運として、オペラオーとは別のウマ娘の歌声もそこには交じっていたのである。
「あの声って、まさか……。」
その姿を見るまでも無く、彼女の声には存在感があった。
石段を登り切った先、和風な神社の境内にはまるで似つかわしからぬオペラ風の歌い方を響かせているウマ娘が二名。テイエムオペラオーと、キングヘイローである。
(やっと、会えた。)
気持ちよく歌っていた両名であったが、遅れてたどり着いたのが鷹木ではなく、いずれ宿敵として相まみえる後輩であることを見出した彼女らは、アグネスデジタルの方に手を差し伸べて更に歌い続けた。
「おぉ、角笛の音が聞こえてくる!あの勇者が近づいてきた!」
「さぁ、その声を聞こうじゃないの!」
彼女らが独特な言い回しで新たに姿を見せたウマ娘を呼び寄せる、その文言をアグネスデジタルは知っていた。『ニーベルングの指環』第三幕「神々の黄昏」第一場。
「妖精に惑わされて、王たちの足跡を見失ってしまいました……。私の求める輝きは、どこへ隠されたのでしょう?」
「やぁ、アグネスデジタル!どの妖精に怒っているんだい?」
「いたずら者にからかわれたのかしら?ねぇ、デジタル!私たちに教えて。」
「あなた方が誘惑したので、追いかけて来たキラキラも、全て吸い寄せられたのでしょうか?あぁ、美しい先輩方、あなた方の笑顔のためならば、私は何ものをも差し上げます!」
「あら、アグネスデジタル、この私に何をくれるというの?」
「……一つの、言葉を。」
そこで初めて、デジタルは表情を改めると同時に、参照元のオペラの台詞から外れた。
オペラオーもキングヘイローも察したように口を閉じ、たった今石段の下から駆け上がって来た後輩ウマ娘の方をじっと見つめている。
「……。」
口を開きかけては、他に発すべき言葉が無いかと目を泳がせるデジタル。おそらくキングヘイローの中では、じきに訪れるマイルチャンピオンシップの競争相手として、彼女が何を告げようとしているのかの予測はついていただろう。
しかし、横槍を入れるのは無粋と心得ているオペラオーが彼女には珍しく沈黙を保っているのと同様、ヘイローも無理に促したりはせず、じっとアグネスデジタルの顔を微笑みながら見つめるばかりであった。
「全力で……勝たせてもらいます。キングヘイロー先輩。」
幾度も考え直した結果、アグネスデジタルが口にしたのは最もシンプルな言葉だけであった。
待ち構えていたかのように、不屈の王者は高笑いを響かせる。
「当然よ!本気で掛かってらっしゃい、そうでなければ私が再び栄冠を獲ってしまうから!おーっほっほっほ!」
「あぁ、その闘志を湛えたデジタルの瞳!王者に挑む勇者の目だ!実に美しいよ、このボクにそれが向けられる日が待ち遠しい!はーっはっはっは!」
オペラオーもまた共鳴するように笑い声をあげ、再び王を冠する者同士の即興劇は開始された。
「残念だけれど、私の玉座の前で勇者の剣を折ってしまうかもしれないわ!」
「ならば、勇者は新たな剣を調達してくるだろう!曇りも毀れもない、磨き上げられた剣をね!」
「まぁ大変、そんな刃に映るあなたの姿に、あなた自身は見惚れてしまうわね!おーっほっほっほ!」
「いやいや、勇者は王たちの晴れ姿を目にするなり、尊死してしまいます!今だって、既に……じゅるりら……」
やがて鷹木が石段をようやく一番上まで登って来た時、彼はウマ娘たちが和気あいあいと語り合い、歌い合っている光景を目にすることとなった。
とはいえ、彼も、そんなウマ娘たちの笑顔の裏に、隠しようも無く熱い競争心が燃え盛っているのを見逃すほど、鈍いトレーナーではなかった。しばらくの間、自分の息を整えるために座り来んでいた彼は……結局、テイエムオペラオーが自身の意思でトレセン学園に戻るまでを無為に過ごしたのであった。
キングヘイローとアグネスデジタルが、再度互いの闘志を確かめあって、二週間後。
11月19日は晴れ、芝状態、良。マイルチャンピオンシップを迎えた初冬の京都レース場は、絶好のレース日和を迎えていた。
誰もが走りやすい条件が整っているということは、レースが高速化しやすいということでもある。ゆえにダート出身のアグネスデジタルが、18名中13番人気であったとて、何も意外な順位ではなかった。
(芝で走ることの難しさ、既に幾度も経験してきました。私なりの研究と、鍛錬の成果が出ていること、信じるだけです。)
キングヘイローは5番人気。すでに人気の上位陣は、現世代のトップに立つウマ娘たちによって占められていた。
デジタルにとってさらに向かい風だったのは、出走枠が13番と外側に追いやられていたことだ。ダートレースにてコーナーの内側を突いて走ることに慣れていた彼女が、芝コースに戻ってきていきなり外を回らされるコース取りをこなせるのか。
勝機があるとすれば、コーナーを回り切った先、ゴール前の直線。404mほども距離があれば、差しが決まる可能性は高い。
ゆえに、芝での高速化する先行争いに加わる選択肢をアグネスデジタルはあっさり手放して、ゲートインしたのであった。
〈ゲートイン完了……スタートしました!揃いましてきれいなスタートを切っています、いいスタートを切ったブラックホークが外を行きますが、最ウチからはヤマカツスズランが出てまいりました。グングン飛ばしてリードは約2バ身、向こう正面の中間地点を通過します、二番手にはダイワカーリアン、半バ身差がついてアンブラスモア三番手、四番手以降はウチにダイタクヤマト、その外キングヘイローが行きます。〉
キングヘイローは、得意とする先行の位置。内側と外側を他のウマ娘に挟まれて動きづらそうではあるが、このレースにおいて最も重要なのは最終直線に出た直後のコース取りである。そこで前に抜け出すルートを取ることが出来れば、一気に先頭を奪うことが出来る。
一方、アグネスデジタルは中団の選手たちの背を追うように、その小柄な体を後方集団のなかに埋もれさせていた。
〈中団後方、シンボリインディ、ウチを回ってダイタクリーヴァ、その後ろ一バ身差でアグネスデジタル、そして半バ身差がついて最ウチをマイネルマックスといった順であります。3,4コーナーの中間地点へと早くも入ってまいりました。600の標識を通過、ウチを回るヤマカツスズランわずかに先頭だが、外を突いたダイワカーリアン並んでくる、三番手以降の集団も徐々に徐々に前へと詰めて来た、さぁ間もなく直線コースへと向きます!〉
マイルという距離は、二つのコーナーを回れば早くも最終直線。その距離の中に、スタミナ配分を過たず管理せねばならぬ難しさが凝縮されている。
間もなく直線へ向かうというタイミングで、アグネスデジタルの前には十名以上のウマ娘の背中が見えていた。前方は集団で塞がれている。この中に突っ込んでいっても、すり抜けるための脚運びで余計にスタミナを消耗してしまう。
キングヘイローは中団の外側、前を塞がれない位置を巧みに取っていた。熟練のウマ娘らしい、安定したコース取りである。
(ダートで培ったスタミナ量の使いどころ、間違えるわけにはいきません……!)
ここでしくじれば、自分の全力を見せる間もなく終わってしまう。
〈アンブラスモア三番手!エイシンプレストンが真ん中に、その外を回ってキングヘイロー!さぁウチを回ったダイタクヤマト、ダイタクヤマトが突っ込んできた!先頭だ!更に中を突いて、ダイタクリーヴァ懸命に突っ込んできた!ダイタクの二名!ダイタクの二名が先頭争いだ!〉
この時点で、アグネスデジタルは先頭集団に影も形も無い。
彼女は、ゴールまで残り200mの時点で、ようやく後方集団を交わして前に出られる位置についた所であった。
観客たちの目からは、もはや勝つウマ娘が殆ど絞られたようにも見えていた。しかし実際に走っているウマ娘たち、特にキングヘイローは、後方から全霊を賭して追い込んでくる小柄なウマ娘の存在を痛いほどに感じ取っていた。
(勝たせてもらいます!)
キングヘイローのすぐ隣を駆け抜け、あっという間に抜き去る瞬間。
アグネスデジタルはヘイローが笑んでいるようにも感じた。
〈ダイタクリーヴァ!ダイタクヤマト!どっちだ、どっちだ先頭は……大外からアグネスデジタル!?アグネスデジタルだ!一気に来た!外から!差し切った!先頭だ!アグネスデジタル!ゴールイン!まさかの大外からアグネスデジタル!!一着はアグネスデジタルです!〉
後から思い返しても、アグネスデジタルはあの時に初めて、自分の全力が発揮される条件を整えられたかのように感じていた。
躊躇いも、油断もない、自分が勝つためだけに走るための条件。
13番人気のウマ娘、それもゴール直前まで観衆の視野に入っていなかったウマ娘が、唐突に先頭を奪い取った大番狂わせ。
たった今見せつけられたレースの興奮冷めやらぬ観客席から注がれる大歓声を浴びながら振り返った時、遅れてゴールしてきたキングヘイローとアグネスデジタルは目が合った。
汗にまみれた彼女の笑顔に包まれた時、アグネスデジタルは初めて、自分が誰かを追いかけるのではなく、後押しされるように走っていたことに気づいたのであった。