いよいよ12月に入り、年末の有馬記念に向けての調整が続くテイエムオペラオー。
乾いた寒風の吹き渡るトレセン学園練習場の上を駆け続け、休憩前の一周を残して戻って来た彼女は、鷹木トレーナーの隣に見慣れないウマ娘が立っているのに気が付いた。
遠目からでは、その厚手の外套を肩から羽織った姿が誰のものであるか判別できなかったものの、鷹木と何事かを話し合っていたその顔が振り返った時、彼女がグラスワンダーであることにオペラオーは気づいた。
「あぁ!玄冬と共に現れしは覇王へと差し向けられた刺客か!グラスワンダー先輩、まさに流離の剣豪のごときいで立ちだね!」
グラスワンダーの身に纏ったコートの裾からは、彼女が歩行の補助に用いている杖の先が突き出している。
引退の原因となった骨折からある程度回復したものの、出歩く際に片脚への負担を軽減する杖は欠かせないグラスワンダー。そんな彼女の姿を見て気遣うでもなく、覇王なりの世界観に当てはめて評するのはいかにもオペラオーらしかった。
言われたグラスワンダーも、杖の先でコツコツと床を軽く突いて見せながら微笑んで返す。
「ふふ、この杖は刀が仕込まれているわけではありませんよ。」
「覇王の宮殿にようこそ!遠国の剣士、その眼差しで早くも我が魂は斬られてしまいそうだ!はーっはっはっは!」
大和撫子然とした風貌のグラスワンダーは、現役時代中のプロモーションとして薙刀を手にした姿を披露したこともあった。それだけに、外套の裾に仕込み刀を隠し持った剣客というイメージもしっくり来たのだろう。
グラスワンダーは本来、アメリカ出身であったのだが。
このままオペラオーを好きに喋らせていてはまたしても練習時間が削られると判断した鷹木トレーナーは、グラスワンダーの存在感に晒されて噤んでいた口を気力振り絞って開いた。
「オペラオー、あと一セット残っている。本番ペースでコースを一周だ、その後休憩に入る。」
「分かっているさ!グラス先輩にも、ボクの走りを見てもらおうじゃないか!」
「えぇ、覇王の走り、有馬に先んじて拝見させてもらいましょう。」
今まで、大舞台を前にしたウマ娘の練習を見る機会など無かったグラスワンダー。当然ながら自身のトレーニングに精一杯であったし、競走相手の作戦を盗み見ることなど許されない。
引退した今だからこそ、為せる経験であった。スタート地点へと足早に向かったオペラオーが、トレーナーの出した合図とともに走り出した。
「あの子の走りは、もう完成の域に達していると見ますか?」
オペラオーの姿にじっと目を凝らしている鷹木トレーナーに、グラスワンダーは尋ねる。
担当ウマ娘の状態を見極めるのに集中していたためか、あるいは彼の中でその質問への返答を吟味していたためか、しばらく間が空いてから鷹木は答えた。
「……俺には、何とも。って、担当トレーナーが口にすべき言葉じゃないだろうけれど。」
「構いませんよ、あなたは嘘の吐けない人物であると、専らの評判ですし。」
黄金世代のウマ娘の間にも、自らの与り知らぬうちに噂が流れていることに小さな衝撃を受けつつ、鷹木は言葉を継いだ。
「オペラオーの走りの癖、得意とするペース配分は、もちろん掴めているつもりです。ただ……大舞台の本番で勝つオペラオーのことは……まだ、全然分かっていない。」
「他のトレーナーさんも、同じだと思いますよ。」
そう告げるグラスワンダーの横顔を、初めてオペラオーから目を逸らした鷹木は見つめる。
「私自身、スペちゃんに勝てたときのレースを幾度思い返しても、未だになぜ勝てたのか分からないままですから。」
「そういうものですか……」
「勝つための最善を十全に尽くして、なおその先へと駆け出せるウマ娘こそ栄冠を手にするんです。あたかも、超常的な何かに導かれるかのように。」
「走っているウマ娘自身にも分からない何か、ですか。」
「えぇ、本当に……さしずめ有馬記念のゴール前は、勝利の女神が最も近くに居る場所、とでも言えましょうか。」
突飛も無い内容ではあったものの、有馬記念を二年連覇したグラスワンダーがそれを語るだけに説得力はあった。
再び練習用コースを走っていくオペラオーへと、黙ったままに視線を戻す鷹木。グラスワンダーも同様に、この異才を放つ後輩の方へと顔を向けていたが、その視線は少し違う一点を見つめていた。
全天候型練習場は晴れていることもあり、冬の気温の中で走る練習のために天井部分が全開状態となっている。
壁面には細長い採光用の窓が並んでおり、これも外気を取り込むために自動で開かれていた。人間やウマ娘の身長の数倍はあろうかという高さにその窓はあり、本来ならば外から中を覗きこまれる恐れはない。
が、その窓の一つ、隙間からレンズを光らせたスマートフォンのカメラが挿し込まれている様をグラスワンダーの目はしっかりととらえていた。
「練習風景を最後まで見ていたいのは山々でしたが、私も予定がありますので、この辺で失礼いたします。」
「あぁ、どうも……」
オペラオーはいよいよコーナーを回り切って最終直線へと入って来たところであり、彼女の脚運びに集中していた鷹木からは生返事ばかりが返ってくる。
杖をコツコツと突きながらも、若干足早に練習場を出たグラスワンダー。個別練習場の建物外、彼女が見当を付けて歩いて行った先には、果たして足早に去っていく一人のウマ娘の姿があった。
小柄な姿、体操服の色から見るに、今年1年目のウマ娘であろうか。グラスワンダーの杖の音はおそらく聞こえている。
そのうえで、彼女は明らかにグラスワンダーから逃げるかのように距離を取って歩き続けていた。グラスワンダーが歩調を速めれば、そのウマ娘も更に早歩きとなる。
やがて、背後から放たれる圧倒的な存在感に耐えかねたのか、もはや逃げようとする意図を隠しもせず小柄なウマ娘は走り始めた。トレセン学園の一員として日々鍛え続けていたであろうその走りを、後ろから見送るグラスワンダーは優し気な目で見つめている。
「可憐な走りです。久々に、私もうずいてきてしまいました。」
片脚を庇っていた杖を持ち替え、グラスワンダーは逃げるウマ娘を追って走り始めた。
骨折していた側の脚に、負荷をかけることは出来ない。片脚で全体重を支えて地面を蹴り出し、身体が空中にある間に庇っていた脚が軽く地面を突き、再び無事な足で身体を前に送り出す。すなわち、殆ど片脚飛びのような走り方である。
そして、グラスワンダーはその片脚だけで、逃げていたウマ娘にあっという間に追いついていた。
相手が逃げ切ることをあっさり諦めたのも無理はない。
「ハァ……ハァ……あ、ど、どうも、初めまして、グラスワンダー先輩、ですよね……お目に掛かれて、光栄です……」
「えぇ、初めまして。練習中でしたら邪魔をしてごめんなさいね、走っていく姿を見たらつい追ってしまいたくなりました。」
滝のように汗を流し、息を切らしている相手ウマ娘とは対照的に、グラスワンダーは全く息を乱れさせてもいない。片脚だけで、更に数千メートルは走り続けられそうな様子であった。
間髪を入れず、グラスワンダーは目の前のウマ娘が両手で握り締めているものを指さして問うた。
「ところで、そのスマートフォンですが、先ほどは何を撮影していたのですか?」
「こっ……これは……!」
握られていたのは、スマートフォン、そしてそれを接続して長く伸ばしていたのであろう自撮り棒。
おそらく、あの練習場の採光窓にこれを差し伸べ、オペラオーが練習する様子を盗み撮りしていたのだろう。本番の舞台を前にしたウマ娘がどのような走りを想定して練習しているかが分かってしまえば、対戦相手による対策は容易になる。
そして、それはマナー違反にあたる行為であった。誰しもが平等な条件で対決できるよう、本番前の練習風景を盗み見ることは褒められた行為ではない。
グラスワンダーに詰め寄られたウマ娘は、いよいよ返答に窮し、怯えたように体を縮こめている。
「ちが……違うんです……」
「落ち着いて、何もあなたを学園理事長の前に突き出すと言っているわけではありません。あなたはきっと、こんなことをするのは初めてだったのでしょう。」
震えているウマ娘が握り締めている中で、力尽くに折り曲げられた自撮り棒が軋んでいる。
おそらく、限界の長さまで伸ばして盗撮に成功したまでは良かったものの、それを見咎めたグラスワンダーが近づいてくるのに慌て、縮め方も分からぬままに慌てて隠し持てるサイズまで無理やり折りたたんだのであろう。
ウマ娘の怯えも、グラスワンダーから発される威圧感にばかり起因するものではなかった。学園に入って1年目、褒められない行為に手を染めていたと知られれば、この先の選手生命は断たれたも同然である。
グラスワンダーはしゃがみ、可能な限り柔らかな声で、改めて質問しなおした。
「やれと命令されて、断れなかったのでしょう?あなた自身の名前を聞き出したりはしません、こんなことを指示したのは誰ですか?」
「とっ……トレーナー、です……私の所属してる、チームの……」
バッと立ち上がったグラスワンダーの目の色があまりにも凄みを帯びていたのか、へたり込んでいたウマ娘の顔から一気に血の気が引く。
が、すぐさまに彼女はグラスワンダーに縋りつくようにしながら返答を続けた。
「まっ、待ってください、トレーナーも困っているんです……!」
「どういう意味ですか?話を続けてください。」
グラスワンダーの声は穏やかかつ静かであったが、一層のこと相手を怯えさせたのは間違いない。
地面にしりもちをつき、唇を震わせて、喉から声を振り絞ろうと懸命になっている小柄なウマ娘を見下ろすのをやめ、再びグラスワンダーは表情を和らげてしゃがみこんだ。
「落ち着いて。この場所には他に何の気配もありません、私以外に誰も聞いていませんから。」
「その……最近、どこかから頻繁に電話が掛かってくるんです、トレーナーあてに、練習時間中も……。」
練習時間中に掛かってくる電話に対し、専門に対応する職員も居ないということは、そこそこ若手のトレーナーであろうか。
テイエムオペラオーの練習風景の隠し撮りを指示したトレーナーは、更に外部の何者かから命令を受けた恐れがある。学園理事長には有馬記念での不正を行わせないよう確約を取り付けたが、個々のトレーナーに対し外部から圧力をかける動きが皆無となった保証はない。
不正が発覚すれば、切り捨てられるのは無名のウマ娘や、まだ若手のトレーナーたちばかり。ウマ娘レースへ間接的に介入しようとする、その卑劣な手管への憤りがグラスワンダーの内面に沸き上がりつつあった。
「詳しい話は分からないんですが、トレーナー、とても困った様子で……練習時間が終わったら、長いこと電話していることも多くって……」
「話してくれて、ありがとう。ところで、あなたのチームから今月の有馬記念に出走する先輩は居るのでしょうか?」
怯えたウマ娘は、グラスワンダーを見上げたままに黙り込んでしまう。
その見開いた目が、いよいよ口が裂けても喋れないことだと何よりも雄弁に告げていた。
「安心して、そのトレーナーさんの名前も、先輩ウマ娘さんの名前も出しませんから。」
「は、はい……。」
「ですので、あなたのチームのトレーナーさんのもとに、私を案内してもらえますか?」
またしてもグラスワンダーを怯えた眼差しで見つめるウマ娘に対し、彼女は優しく微笑んだ。
「あなたのことも、そのトレーナーさんのことも、私は守りたいんです。」
同じ頃、アドマイヤベガの個別練習場。
普段より多忙な結城トレーナーは担当ウマ娘につきっきりとなることは少なかったが、この日の彼は珍しくも丸一日をアドマイヤベガの練習に付き合っていた。
いつも通り、ウマ娘の走りに口出しはしなかったものの。幾本も皺の刻まれた頬を緩め、その眼差しばかりは怖いほどに真剣に、練習コースの向こう正面を走っていくアドマイヤベガ、そして並走練習を申し込んでいたエアシャカールを見つめている。
ジャパンカップでオペラオーやドトウ、アドマイヤベガによって圧倒的な実力差を見せつけられたエアシャカール。
さすがの彼女もその日のうちは多少なりと落ち込んだ姿を見せていたが、翌日には気力を奮い立たせ、先輩アドマイヤベガとの積極的な合同練習へと臨んでいた。
最終コーナー、先行寄りで走っていたエアシャカールにアドマイヤベガが並ぶ。
ジャパンカップの時のようにあっという間に引き離されることさえなかったものの、アドマイヤベガは本番ペースではなく、脚に重りを付けてのトレーニングであった。せめて半バ身以上は離されまいと食らいついてくるエアシャカールと共に、アドマイヤベガはゴールラインを越える。
「ッハァ、ハァ……これじゃ、まだまだ……」
「いったん休憩挟んだら?立て続けに走ってるわ、脚の故障起こしてからじゃ遅いから。」
「あぁ……。」
エアシャカールに対して淡々とアドマイヤベガは言い残し、結城トレーナーのもとへと向かう。
老トレーナーに何を聞いても直接的なアドバイスは得られなかったろうが、今の走りを見た彼の目が、どんな感触であったかを物語ることを既にアドマイヤベガは知っていた。
そのためにアドマイヤベガは来たのだが、折悪しく何者かから掛かって来た電話に応対していた結城トレーナーは、その電話を切るなり彼女に向かって告げた。
「済まないね、今日はずっと練習を見ていられる予定だったんだけれど、急用が入って。」
「急用……有馬記念に関すること?」
鋭いアドマイヤベガの洞察に、結城トレーナーは少し間を置いてから頷く。
去年の有馬記念、スペシャルウィークやグラスワンダー、そしてオペラオーが出走している一方、休養期間中だったアドマイヤベガは中山レース場の特別観覧席に居た。
VIP待遇の来客しか入れないその場所に来れていたのも2年前と同様、結城トレーナーのツテのおかげである。
URAの発足・発展とともに生きて来た結城トレーナーは、数多くの政財界の著名人と知り合いであった。これまた前年度と同じく、その名を誰とも知らぬお偉方に囲まれて、結城トレーナーに連れてこられたアドマイヤベガはレースを観戦している間も窮屈な時間を過ごしていた。
「あぁ、毎年恒例になっているからね。トレセン学園の運営上お世話になっている方も居る、僕が顔を出さないわけにはいかないから。」
「そうね……。」
それはすなわち、出走するアドマイヤベガを直接サポートできる場所に結城トレーナーが来ないということでもあった。
一抹の不安と寂しさこそ感じたものの、トレセン学園が多額の出資者によって運営されていることを考えれば、その付き合いを無碍にするわけにもいかない結城トレーナーの立場も想像できないアドマイヤベガではなかった。
「分かったわ。私のサポートは、シャカールにお願いしようかしら。」
「オレが……?」
「私のこと、一番近くで観察しているんだから。」
遅れて汗を拭きながらついてきていたシャカールを振り返り、アドマイヤベガは告げる。
先輩からの突然の指名に驚きながらも、シャカールは首を縦に振った。
「分かった。本番の有馬記念、最前列で見れるチャンスだしな。」
「済まないね、本来はトレーナーである僕が居なければならないのに。」
頭を下げる結城トレーナーに、小さく笑みを返して仕方ないと首を振るアドマイヤベガ。
収まりかけたその場に、唐突に姿を現したのはグラスワンダーであった。エアシャカールの髪がいつも以上に逆立ったのは、彼女が放っていた凄絶なる覇気のためであったろう。
アドマイヤベガも思わず後ずさりし、さすがの結城トレーナーも一瞬息を呑んで、ワンテンポ遅れてからグラスワンダーに挨拶した。
「やあ、久しぶりじゃないか。グラスワンダー、ウチの見学に来たのかい?」
「いえ……それよりも、お伝えしたいことがございまして。」
コツ、コツ、と杖を突きながら結城トレーナーの目の前まで来るグラスワンダー。
彼女の背後には、1年次生と思しき小柄なウマ娘と、彼女の属するチームを担当しているのであろう若手トレーナーの姿があった。どちらも、血色の引いた白い顔をしている。
これからグラスワンダーが重大な話を持ち出そうとしていることに気づかぬほど、結城トレーナーも鈍くはなかった。
「話なら、早いところ頼むよ。次の有馬記念に向けて、打ち合わせに行かなくちゃいけないからね。」
「このところ、トレセン学園所属のトレーナーに対し殊に懇意に接される、とあるお方のお話です。そのお方は、トレセン学園を経済的に大きく支援していらっしゃる、まさに我々の恩人とも呼べる方なのですが……。」
「続けて。」
外出用の外套を羽織りながらも、結城トレーナーの耳はグラスワンダーの話に傾けられていた。
彼の中ではグラスワンダーが言う「とあるお方」についても、次の有馬記念の特別観覧席にて接待することとなる、政財界の重鎮たちの中の一人であろうと見当はついていたが。
「あらぬ噂が立っておりまして。そのお方は学園のトレーナーたちに干渉し、今月末の有馬記念の順位に、多少なりと意図的な変動を起こしたいとお考えのようだと……あくまでも、単なる噂に過ぎないのですが。」
「そういう噂は、今までも時折立つものではあったけれどね。それで、僕に何の用かな?」
結城トレーナーは慎重であった。中央ウマ娘レースの、それも一大舞台である有馬記念の着順を操作しようとする行いは禁忌以外の何物でもない。
そんな大それた判断を下す者が、直接指摘されたところでおいそれと自らの不正行為を認めようはずもない。下手に刺激すればむしろトレセン学園に対する難癖をつけられ、こちらの立場が危うくなりかねない。
グラスワンダーが次に話す内容次第では、結城トレーナーは彼女に静観のみを促すつもりであった。
が、グラスワンダーは、その嫋やかな印象には思いもかけぬほど強かなウマ娘であった。
「結城トレーナーは、有馬記念の行われる中山レース場、特別観覧席にて毎年、政財界を代表する方々とお会いになるのが恒例なのでしょう?僭越ながら、この私も連れて行っていただけないかと。」
「たしかに、君ほどのウマ娘とじかに会えるとなれば、彼らも喜ぶだろう。しかし、付き合い方には慎重にならざるを得ない面々ばかりで……」
「もちろん、心得ております。とはいえ私はスペシャルウィークのように華やかに喋り続けられる性格ではありませんので、少し遅れての参加とさせていただきたく。……そう、例えば、レースが終わった時などに。」
グラスワンダーがどんな策を用意しているのか、その時点では結城トレーナーにも想像がついていなかった。
が、老トレーナーは目の前のウマ娘の表情をしばらく覗き込み、その瞳に十分な思慮の色が宿っている様を確認する。彼はウマ娘たちに背を向けて、練習場から出ていきながら答えた。
「その話、詳しく聞かせてもらおうかな。明日にまた会おう、空いている時間が決まれば連絡するよ。」
「はい、お願いします。」
杖を突きながら、深々とお辞儀するグラスワンダー。
そんな先輩の背中を、アドマイヤベガとエアシャカールは半ば不思議そうに、半ば呆気にとられたような表情で見つめている。彼女らの方を振り返ったグラスワンダーの顔には、いつも通りに柔和な笑みが戻ってきていた。
「いえ、何も心配することはありませんよ。有馬記念のレースは、きっと何事も無く行われますから。」
連れてこられてから無言のままに青ざめている若手トレーナーとそのウマ娘を引き連れ、グラスワンダーも練習場を去っていく。
その背後、水面下に不穏な影を宿しながらも、ウマ娘の一年を締めくくる最後の大舞台、有馬記念の日は着々と近づいてきていた。