とはいえ、互いに研鑽し、共に腕を磨いてきた仲間に不信の目を向けることが出来るのか。テイエムオペラオーのトレーナーが葛藤に苦しむ一方、トレセン学園の支援者を招待した特別観覧席において、後輩たちのレースを守ると固く決意したグラスワンダーの思惑は進行していた。
〈さぁ、今年もいよいよやってまいりました、有馬記念!今回のレースにも、注目を集めるウマ娘たちが集まりましたが、やはり特筆すべきは世紀末覇王、黄金世代が去った後を統べるあのウマ娘の存在でありましょう。今回も実況席にはお馴染み、スペシャルウィークさんをお招きして解説を担当していただきます。どうぞよろしくお願いします。〉
中山レース場に、歓声と同時に実況アナウンサーの声が響き渡る。
この年最大の、そして国内最大のウマ娘レースの場に集った十幾万人という観客の喧噪が、地響きとなってターフへと直に伝わっていく。それだけでも十分な迫力が籠り始めたレース場内に、スペシャルウィークの声が華やかさを添えた。
〈はい!スペシャルウィークです!よろしくお願いします!って、私、もう実況席でお馴染みになってるんですか?GⅠレースの解説に呼ばれるの、まだ3回目なんですが……。〉
〈いやいや、なんといってもスペシャルウィークさんはURAの顔ですからね。お聞きください、観客席も非常に盛り上がっています!〉
実況アナウンサーの声に呼応するように、一層大きな歓声がレース場内を包み込む。
屋外に設置された観客席は耳を聾さんばかりの喧噪であったが、対照的に指定席ブロックの最上階、VIP待遇の賓客が集う特別観覧席は分厚いガラスに隔てられて静かなものであった。
担当していたアドマイヤベガが出走するにもかかわらず、結城トレーナーはその特別観覧席から離れられずにいた。最年長のトレーナーであり、URAの歴史と共に歩んできた彼は、トレセン学園への経済的支援者たちとの付き合いを蔑ろに出来る立場ではなかったためだ。
その静けさのなか、結城トレーナーと向かい合い、ふかぶかとソファに腰掛けている壮年の男は鼻を鳴らして口角を歪めるように笑った。
「まったく、一般の観客というものは、あぁも騒いで疲れないもんですかな。そこに来ると私などは、ウマ娘レースの結果を冷静に推測しながら観戦していますからな。これが大人の楽しみ方というもんでしょう。」
「えぇ、結構な事でございます。」
結城トレーナーは、相変わらずの生返事だけを男に向けている。
この相手が、レースに出走するウマ娘や、彼女らを担当しているトレーナーの存在自体に、目を向ける意思など一切ないであろうことは既に確認できていた。自らも抱くトレーナーとしての矜持を空論の机に載せまいとすることが、現在の結城トレーナーに可能な最大限の抵抗であった。
場内アナウンスは続き、大型ディスプレイ上には続々と出走ウマ娘たちが姿を現しては紹介されていく。
〈……続きまして、今回は4番人気となりました、アドマイヤベガです。かのテイエムオペラオーから二度勝利を奪ったウマ娘、昨年の菊花賞以降の長期療養を経て、今年度は京都大賞典より復帰。クラシック級の時と同様、テイエムオペラオーと常に互角の勝負を見せつけてきました。覇王の連覇を食い止めるのは彼女となるのか!〉
〈オペラオーくんとは長いこと一緒に走ってきたウマ娘ですからね!今回も名勝負、期待できるんじゃないでしょうか!〉
画面越しにではあったがアドマイヤベガの様子を確認した結城トレーナーは、ひとまず胸を撫でおろした。彼女の顔色を一目見れば、最高の状態が保たれていることは分かる。自分の代わりにサポートに向かってもらったエアシャカールにも、感謝をせねばと思っていた。
「あれが、結城トレーナーの担当ウマ娘ですかな。」
「えぇ。」
「ふむ、確かに強そうなウマ娘だ、しかもオペラオーとの対戦経験も豊富と来ている。十分に勝ちを狙えるんではないですかな。」
解説のスペシャルウィークが口にしたコメントと、ほとんど同じことを結城トレーナーの前でソファにふんぞり返っている男は口にした。結城トレーナーは返事もしなかった。
ウマ娘として走り、実際に有馬記念でもグラスワンダーとの名勝負を魅せたスペシャルウィークが言うのと、この男が完全なる外野から言うのとでは全くわけが違う。いちトレーナーとして、調子を合わせるだけの相槌としてでも肯定することには抵抗を覚えた。
幸い、早くも相手の興味は次に紹介されるウマ娘へとあっさり移っていったようであったが。
〈3番人気を紹介しましょう、ナリタトップロードです。アドマイヤベガに並び、競い合って来た彼女もまた、テイエムオペラオーから菊花賞のタイトルを勝ち得たウマ娘であります。今年の京都大賞典ではオペラオーにアタマ差まで迫り、その後も覇王と度々しのぎを削る注目の選手です。〉
〈すごく器用に走り方をコースに合わせてくる子ですから、有馬記念での走りは私も楽しみにしています!〉
「ふぅん、彼女が3番人気ねぇ。戦績から言えば、アドマイヤベガの方が上になっていてもいいのに。結城トレーナーは、どう思われます?」
「私はあくまでトレーナーでして、人気度が左右される要素については、これといって明るくはないものでして。」
「なるほどね。では私はこう考えてます、ナリタトップロードはアドマイヤベガと初めて競ったレースで彼女に勝ってます。たしか、去年の弥生賞だっけか。その時の第一印象を、今なお大衆は引っ張ってるんではないかと……」
いくら何でも、そんな以前のレース結果が影響してくるわけがないだろう……と、結城トレーナーは頭の隅で感じつつ、やはり無視し続けるわけにもいかないこの賓客のお喋りに付き合う形で相槌だけを打っていた。
〈いよいよ2番人気の発表となりました、もちろん彼女です、メイショウドトウ!今、最も覇王に近いウマ娘であります。金鯱賞を皮切りに頭角を現し、宝塚記念以来、秋の天皇賞、そしてジャパンカップと、常にテイエムオペラオーの背後には彼女の姿がありました。〉
〈本当に、何度も目の前で好敵手にゴールされていますからね!この子にも勝ってほしいし、もちろん連覇も見てみたい!先輩ウマ娘としては、応援する相手を選びきれません!〉
パドックに現れるメイショウドトウに、トレセン学園内で見せるようなオドオドと気弱な様子が見られないのはいつも通りではあった。
が、今回の彼女は、今まで感じた経験のない類の、レースへの昂りを胸中に抱いていた。というのも、今回の有馬記念に向けての調整中、担当の片桐トレーナーから示された作戦が、以前までと大きく違ったものであったためである。
12月に入ったばかりの頃、片桐トレーナーの前でドトウは頓狂な声を上げていた。
「えっ……えぇ~!?私が、追い込みですかぁ……!?」
「はい、今のドトウなら、可能だと思いましてね。」
片桐は、常通りに胡散臭い無精髭面を歪ませて笑みながら、淡々と告げる。
そもそもメイショウドトウにこれまで先行寄りの走りをさせて来た理由は、彼女の性格上、レース中の位置をあまり後ろに下げてしまうとラストスパートを慌ててしまい、余計なスタミナを浪費しかねないというものである。
しかし、ここに至るまで幾度も大舞台のレースを重ね、覇王テイエムオペラオーの背を常に脅かし続けるほどの実力を備えたメイショウドトウならば、この大胆な作戦変更も可能だと片桐は踏んだのだ。
そして、メイショウドトウ自身も、かつてはすぐに沸き上がって来た不安の存在を殆ど感じていないことを自覚していた。それでも、一応はトレーナーに聞き返してみたが。
「わ、私に、出来るでしょうかぁ……。」
「不安なんて、ないでしょ?顔色を見れば分かりますよ。」
ドジばかりしていた頃のデビュー当初から、ずっと付き添って来てくれたトレーナーからの指摘に、今度はドトウも迷うことなく頷く。
が、片桐トレーナーの言葉には続きがあった。
「あと、これは僕の勘なんですけれどね、オペラオーは有馬記念、追い込みの位置につきますよ。」
「お、オペラオーさんが……?」
たしかにテイエムオペラオーは、クラシック級の皐月賞にて見事な追い込みを披露し、勝利したこともある。菊花賞ではナリタトップロードに敗れたものの、そこでも追い込み寄りの走りであった。
とはいえシニア級に入ってから、すなわち年間無敗の記録が始まってからというもの、オペラオーが先行以外の走りを見せたことは無い。比較的脚を溜めた展開となった先月のジャパンカップでも、中団より後ろにはつけていなかった。
トレーナーの意図を飲み込めずにポカンとしているドトウに対し、片桐は更に口を開いた。
「覇王に並んでみたいなら、取るべき一手ではありますよ。」
「それは……オペラオーさんを、マークするという作戦ですか……?」
「もちろん、それもありますけれどね。」
片桐はしばらく言葉を選んでいた。当然ながら1番人気、そして8連勝の掛かっているオペラオーには他ウマ娘からのマークが集中するだろう。その包囲網に加われば、ドトウが悲願の勝利を挙げることも視野には入る。
しかし、彼が計算に入れ忘れなかったのは、ドトウの性格であった。
あからさまにオペラオーが妨害される布陣が出来上がっており、そこに自分が加わっているとレースの真っただ中で気づいたとき、メイショウドトウが動揺せずにいられるとは思えない。ついオペラオーに道を譲ろうとしてしまった彼女の立ち回りが、八百長だなどと批判を浴びる恐れもある。
ゆえに、片桐は彼女にも吞み込みやすい形での説明に苦心したのであった。
「共に覇道を、オペラオーと駆けようじゃありませんか。」
「オペラオーさんと、共に……」
その時点でもメイショウドトウは片桐トレーナーから伝えられた言葉の真意を理解できてはいなかったが、彼女なりに解釈しようと懸命に頭を捻った。
(とにかく、オペラオーさんに勝つためにも、オペラオーさんから目を離すなということですね……!)
ライバルと共に駆けようとする意志。彼女の決意が、有馬記念の舞台を前にして不思議なほどに熱く燃え滾っていた。
〈さぁ、いよいよ1番人気の紹介です!年間無敗、前代未聞の8戦8勝という大記録が掛かっております、世紀末覇王、テイエムオペラオー!〉
〈スゴい大歓声です……!実況席、揺れてるんじゃないですか!?〉
実際、スペシャルウィークの目の前、透明な飲料ボトルの中で、水面には円形の波紋が震えていた。それほどの大音響が、中山レース場を満たしていたのだ。
画面越しではあったものの、手を振りながら歓声に応えているテイエムオペラオーの姿。余りにも重すぎる期待をその一身に背負って、なお堂々とした振る舞いはまさに覇王然としたものであった。
〈言わずもがな、今年度最強のウマ娘です!GⅡ三勝にGⅠ四勝、この有馬記念を勝てば八連勝という……スペシャルウィークさん、私も実況人生の中でこんなウマ娘が出てこようとは思いもしませんでした!〉
〈はい!それに有名チームからじゃなくって、単独でトレーナーさんと二人三脚でここまで来るだなんて……ここまで来たら、存分に勝ち抜いてもらいたいです!〉
いい加減、鷹木トレーナーは、自分の担当ウマ娘に相応しい度胸を身に着けねばと考えながら、やはり唇の血色を失くして震えていた。
応援されること、期待されること。それは喜ばしいことには違いなかったが、その規模が大きくなればなるほどに双肩と心にのしかかるプレッシャーは重くなっていく。
鷹木は直接的に顔を大観衆の前に晒すわけでは無かったのに、もしも勝ち抜けなかったらという悲観的な可能性を抱いて蒼ざめているのである。
全く、毎度のように、テイエムオペラオーはトレーナーのもとを離れれば、覇王となっていた。トレーナーの不意打ちの言葉に思わず赤面したり、鼻血を出して照れたりする姿など、そこから連想できようはずもなかった。
観客席の興奮度は収まる気配を見せなかったが、ウマ娘たちのゲートインが完了するころには静まり返っていた。十幾万人もの熱狂を、それでも鎮めるほどの緊張感がターフからは伝わって来たのである。
〈今年最後のビッグレース、有馬記念。全ウマ娘がゲートに収まりまして……16名、態勢完了しました!ゲートが、今、開きます……スタートを切りました!ダイワテキサス好スタートであります、ホットシークレットは少し出遅れたか、しかしすぐに先頭へと詰めていきます。ウチからはジョービッグバンが抜け出しまして、先頭に立ちました。テイエムオペラオーはやや中団といったところでしょうか、現在は六番手であります。〉
〈ここからオペラオー得意の先行の位置を狙っていますね、ですが先頭争いも過熱してますよ!〉
スペシャルウィークの目には、それ以上のものが読み取れていたのだが、彼女は言葉を選んで発していた。
逃げウマ娘たちが先頭のポジションを競い合っているようにも見える、この状況。しかし、先行のペースで走りだしたオペラオーよりも前に出たウマ娘の中には、普段から逃げの作戦を取っているわけでは無い選手も少なからずいた。
すなわち、これはオペラオーに先んじて前方を塞ごうとする動きではないだろうか。その可能性は、実際に幾度も大舞台を経験したスペシャルウィークの念頭に真っ先に上がって来たが、それを実況席で口にするわけにはいかない。
あくまでも、彼女は全ての選手に対し中立を保った状態で、レースを盛り上げるのが使命であった。
〈先頭はジョービッグバン、二番手にゴーイングスズカ、ウチからマチカネキンノホシが三番手といった順で最初のコーナーに入ってまいります。ダイワテキサス、ナリタトップロードが続きまして、アメリカンボスが外から。っと、テイエムオペラオー少し接触あったか?順位を下げましたが、転倒はありません、レースは続行されます。〉
〈白熱した競り合いですね!後ろに下がったのは、最後に追い込んでくる作戦でしょうか!〉
とはいえ、ここまで来ればスペシャルウィークが無難な解説を添えていようとも、ほとんどの観客には状況が理解できていた。
テイエムオペラオーの前方は、完全に塞がれている。どうにか先行の位置につこうとしていたオペラオーが僅かに触れてしまうほど、密集して後ろから追い上げて来た選手たちが、彼女を完全に囲っていた。
実況アナウンサーは忙しく口を動かし続けながらも、一瞬だけチラとスペシャルウィークの横顔に視線を投げる。
黄金世代を牽引し続けていたウマ娘は、怖いほどに真剣な目をターフ上に向けていた。
〈ホットシークレットは後方から三番手、ここから逃げの位置を狙うのは厳しいか。ユーセイトップラン、そしてキングヘイローといった順で、4コーナーから一周目のスタンド前に入ってまいります。わずかに先頭となりましたのはゴーイングスズカ、アメリカンボスが外から上がってきましてジョービッグバンと三頭が並んだ態勢。ホットシークレットが懸命に先頭を目指して……注目のテイエム、テイエムオペラオーは後方から三番手!……じっくりと脚を溜めているようです!〉
もちろん、実況のアナウンサーも分かっていないわけではない。
が、出走しているウマ娘たちがテイエムオペラオーを妨害し続けているなどとマイクに吹き込むことは出来ない。特定のウマ娘の走りを貶めることは出来ないし、1番人気のウマ娘にマークが集中することはごく自然な現象である。
ただ、実況のための言葉を選ぶために、少し間が空いたことは事実であった。
〈さぁスタンド前の坂を上っていきます、後ろの集団からもウチを突いてマチカネキンノホシ、続くはダイワテキサス、ナリタトップロードはそのウチに控えました。そしてトーホウシデン、メイショウドトウ、アドマイヤベガが後ろに続き、テイエムオペラオーが後方三番手、ユーセイトップランがその後に、キングヘイロー最後方といった形で1コーナー回っていきました。〉
〈メイショウドトウが珍しく後ろに下げた位置についていますね!今回の人気度上位ウマ娘たちは、脚を溜める展開を選んだんでしょうか!〉
スペシャルウィークの解説ではそう告げられたものの、メイショウドトウ自身は既に面食らう思いを味わっていた。
オペラオーが前に出ることかなわず、後方へと追いやられるまであっという間だったのである。打ち合わせなどしたわけではなく、出走ウマ娘たちによるオペラオーへのマークが重なった結果であったかもしれないが、あまりにも手際よく、速やかに、1番人気のウマ娘は前方も外側も固められていたのだ。
が、メイショウドトウに、それ以降引きずる動揺は無かった。片桐トレーナーがこの状況までも含んで予想していたかどうかはさておき、彼女の内側には未だに揺るがぬ、このレースへの信条が柱となって立っていたのだから。
(共に覇道を……オペラオーさんと駆けるんです……!)
〈先頭は再びジョービッグバン、ゴーイングスズカから再び先頭を奪い返しました、それを追いまして三番手は内々にマチカネキンノホシ、それを交わして外からアメリカンボス、ホットシークレットは先ほどの直線で猛烈に追い上げてここで三番手に並ぼうというところ。これから向こう正面へと向かいます、ナリタトップロードも上がってきました、四番手に並んでいます。〉
〈いよいよ向こう正面を抜ければ勝負所です、皆、得意とする位置につきたいところですね!〉
あまりにも殺到し、密集している先行集団を避ける形となり、最後方につけざるを得なかったキングヘイロー。
頭上から降り注ぐスペシャルウィークの声を聞き流しながらも、彼女はすぐ目の前にいるテイエムオペラオー、そしてメイショウドトウの走りを目に焼き付けていた。
もちろん、レース中に競争相手の表情を覗き込んでいる余裕はない。が、同じウマ娘として、その脚の運び、ターフを蹴る力強さから、彼女らの内面を伺い知ることは出来る。
メイショウドトウに何らの動揺も見られなかったことに、キングヘイローはまず小さく驚いた。
(本当に強くなったのね。全然揺らいでいない……目に見えて分かりやすい妨害が、自分の走るレースの中で行われたとしても。)
テイエムオペラオーの走りは、また別種の意外さをもって彼女の目に映った。
焦って前に出ようとせずに、得意とする先行の位置につけずとも悠々と自信満々に走り続ける様は、やはりオペラオー流の絶対的な自信を自らの実力に得ているがためかとも思われた。
が、向こう正面に入ってもなお、前に出られるコースを取らない……出ようとすれば、大幅に外側のコースを走ることとなるが……オペラオーの胸中にあるのは、自信というよりも信頼に近しいものであるようにも感じられた。
(4コーナーを回り切っても同じく妨害され続けたら、もう前に出る機会は無いわ。だというのに、何を信じて、堂々と走っているの……?)
その問いかけは、キングヘイロー自身への自問となり、キングヘイローの胸中からは打てば響くようにその答えが返って来た。
(競争相手を、信じている。私も同じ。ウマ娘レースに出走する選手が、本気の勝負を汚すはずがないものね。)
〈向こう正面の中間地点を過ぎました、外にダイワテキサス、その外にメイショウドトウが徐々に上がろうとしているか。間を突いてトーホウシデン、ステイゴールドがその後ろ。続くアドマイヤベガがウチを突いて、並ぶテイエムオペラオーは依然として後方から三番手の位置!さぁテイエムがアドマイヤベガと並んで行っている!〉
〈いよいよ第3コーナーです!後方のウマ娘たち、そろそろ仕掛けどころですよ!〉
仕掛けどころと言われても、テイエムオペラオーが外に抜け出せる道はない。
追い込みの加速を始めたアドマイヤベガに置いて行かれてもなお、集団の中に埋もれっぱなしのテイエムオペラオー。鷹木はほぼ呼吸も止まった状態で凝視し続けていた。
ウマ娘の担当トレーナーとして、競走相手であったとしてもウマ娘に邪推、疑念を向けることはあってはならない。が、鷹木の視線はオペラオーへのブロックを積極的に行っている「犯人」探しに必死となり、血走ったままにレース模様を凝視し続けていた。
(今、外を塞いでいたアドマイヤベガか?ナリタトップロード、ついさっきまでオペラオーの前を塞いでいたよな、いや、しかし、メイショウドトウだってずっとオペラオーの斜め前に陣取り続けているし……)
今までテイエムオペラオーと共に駆け、共に研鑽と鍛錬の日々を続けて来た好敵手たちばかりが、鷹木の視野の中に映る。
悪い推測ばかりが続々と脳内に浮かび、感情の奥底からどす黒いものが上がってきそうになった鷹木は、十分に理性が働かぬ頭をトレーナー用ブースの壁に打ち付けた。ゴツン、と鈍い音が響いたが、痛みを感じている場合ではなかった。
「……何考えてる、俺は!」
どのライバルウマ娘も、テイエムオペラオーの進路を塞ぎ、ブロックしているように見える。が、それは今までのレースでも同じ、ジャパンカップでもオペラオーはマークされるウマ娘に囲まれていた。
この有馬記念ほどに、露骨ではなかった……いや、違う。
オペラオーへの妨害を行うためだけに出走したウマ娘など、居るはずがあろうか。そもそも有馬記念という大舞台に出るために、どれだけの努力を続け、苦境を凌いで来なければならなかったか。ウマ娘を担当するトレーナーならば、分からぬはずがない。
そうまでして得た晴れ舞台を、他選手への妨害行為のためだけにむざむざ費やすウマ娘など、居るはずがあろうか。
レースから目を逸らしてしまった数秒を惜しむかのように、鷹木は歯を食いしばりながら、すぐ顔を場内へと向けた。
〈先頭はジョービッグバンに、ようやくホットシークレットが並んで600を切りました!3番手、早めに動いたのはナリタトップロード!ナリタトップロード一気に加速してここで先頭に立ちました!アメリカンボス、外からダイワテキサスが一気に二番手まで上がってきました!テイエムオペラオーはバ群の中だ!テイエムはどうする!テイエムはどうするんだ!残り310mしかありません!〉
〈もう直線に入ります!ここで決めないと!〉
観客席を埋め尽くしていたのは、歓声のみならず、怒号、悲鳴。
前方を10名以上の選手に塞がれたテイエムオペラオーは、大外から差し切るコースにもつくことが出来ていない。
完全に周囲を固められ、身動きの取れない状態で最終直線に入って来たオペラオーの姿を目の当たりにして、観衆から憤懣の声が上がったのを出走ウマ娘たちも確かに聞き届けていた。
だが、それに動揺するウマ娘が一名たりとて居なかったのは、全ての選手が本気で勝つためだけに走っていたことの何よりもの証拠であっただろう。
後ろめたい思いなど、あろうはずがない。
むしろ、いよいよ覇王のラストスパートと競い合えるという、慄然たる興奮によって燃え上がる闘志が、余計な野次など跳ね返していた。
〈直線に先頭で入って来たのはナリタトップロード!その外並んでダイワテキサス!アメリカンボスも内々に来ている!大外を進むアドマイヤベガに並んで……メイショウドトウが上がって来た!テイエムの前にいたメイショウドトウ上がって来た!〉
〈来た!来た!だよね、そうだよね……!〉
スペシャルウィークの言葉は、またしても解説を放棄していたものの、彼女の胸中を埋め尽くしている安堵をこの上なく端的に表していた。ウマ娘レースに、やはり全てのウマ娘は本気で臨んでいた。
テイエムオペラオーの前方を塞いでいる一団の一部を占めていた、メイショウドトウ。
(行きます!勝負です、オペラオーさん!)
彼女が抜け出したということは、オペラオーの前方に隙間が開いたということだ。
そして、敢えてコース取りを変更してまで、その隙間を埋めようとするウマ娘など居なかった。全員、まっすぐに、ゴールラインを目指して全力疾走していたのだから。
〈大外からグイグイと、キングヘイローが追い込んできた!アドマイヤベガが同じく大外!200を切った!抜け出してきたメイショウドトウ!テイエムは来ないのか!テイエムは来ないのか!?……テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!!テイエム来た!!テイエム来た!!!抜け出すか!メイショウドトウと!〉
〈勝って!勝てるよ!!〉
メイショウドトウと並んで、ゴールラインを目指している時。
オペラオーは、自分がウマ娘の魂そのものになったかのような錯覚を覚えていた。
身体の重さなどもちろん感じない、スタミナを消費した疲労など微塵も無い。自分が走りたい、先に進みたいという意思によってのみ、ゴール板が近づいてくるような感覚。
ただ存在感があったのは、自分自身の脈動する闘志、すぐ隣を駆けるメイショウドトウの存在。
一歩進むごとに差を縮めてくるアドマイヤベガ。その後ろにはナリタトップロードの蹄音も聞こえる。
テイエムオペラオーにとっては、この場に自分の魂を置くことが出来たこと自体が、大いなる喜びであった。
(あぁ、本当にありがとう!このまま、皆と並んだまま、永遠に走り続けられそうだよ!)
耳を劈く大歓声は、ゴールした後に襲ってくるものだった。
〈上がって来た、アドマイヤベガだ!テイエムか!ドトウか!テイエムか!!わずかにテイエムかッッ!!テイエムだ!テイエムだ……!あぁ……!〉
〈やりましたね……!やりましたよ!あの子!本当に世紀末覇王になっちゃってます!〉
興奮の針が振り切れたのか、しばらく言葉を失っているアナウンサーの代わりに、スペシャルウィークが声を弾ませている。
昨年度のグラスワンダーによる有馬記念連覇に引き続き、またしても別種の偉業を達成したテイエムオペラオーに向け、賞賛と興奮の歓声は惜しむことなく降り注がれた。
一方、大熱狂のレース場から隔離されたように静かな特別観覧席であったが、ここでもまたちょっとした騒動が巻き起こっていた。
結城トレーナーの目の前に座っていた男が、身を乗り出してレース模様を睨みつけ、眉間にしわを寄せて騒いでいたのだ。
「どうなっておるんだ、なぜ誰もオペラオーをブロックしていない!」
「そりゃあ、最終直線では、ウマ娘は自分がゴールすることを第一に走りますから……」
「そっちの話は聞いてない、全く、私の指示が通っていなかったのか?」
不機嫌を一杯に抱えた男は、自分がつい口走ってしまった内容の重大さに気づいてはいなかった。
が、結城トレーナーとしては、それを聞き咎めて追及することは出来ない。何しろ、相手はトレセン学園への影響も大きい御仁なのである。機嫌を損ねること自体が、ウマ娘レース開催への危機に繋がりかねない。
「おい、電話を。トレセン学園の理事長に掛けろ。」
「はっ、はい、ご用意いたします。」
ソファにふんぞり返った男に指示され、秘書が卓上の電話機に連絡先を入力している。
気を悪くしていることを隠しもしない貧乏ゆすりを続けながら、秘書が電話番号を打ち込んでいる様を男はイライラと待ち始めた。
その時のことだった。扉の向こう側から、結城トレーナーが待ちわびていた相手の声が聞こえたのは。
「失礼します。」
「おぉ、来てくれたのか。どうぞ。」
現れたのは、グラスワンダーであった。
コツコツと杖を突きながら、まっすぐに結城トレーナーのもとに向かい、同席している男にも丁寧にお辞儀をする。
当の相手は、あのグラスワンダーと直に会えたことには多少の驚きを感じはしたものの、それよりも彼の不服を解消することの方が優先だったらしい。不躾におざなりな会釈を返しただけであった。
「本日は、お越しくださってありがとうございます。素晴らしいレース展開でしたね、私もあの子達の先輩として、誇らしく感じます。」
「あぁ、まぁな。」
「ところで、結城トレーナーもおられることですし、もう一名、私の友を招きたいのですが……」
ちょうどトレセン学園へ電話を繋げることの出来た秘書が、受話器を構えたまま目くばせを送る。
男は呼び出し音の鳴り始めた受話器を乱暴にひったくりながら、グラスワンダーに対しては生返事をした。
「あぁ、どうぞ。私は少し、話す用があるから。」
「えぇ、その間、結城トレーナーとお喋りさせていただきます。では……入ってきて良いそうですよ、スペちゃん。」
ここから先の流れは、結城トレーナー、グラスワンダー、そして学園側の秋川理事長が、綿密に打ち合わせた通りに行われる。
時間にして数分のウマ娘レースに、何日も、何か月も、何年もかけて下準備をするのと同じように、ウマ娘とトレーナーたちは入念な布石というものを得意としていた。
「じゃあ、失礼しまーす!放送席!放送席!こちらは特別観覧席の模様です!」
「えっ」
カメラマンを伴い、インタビュー用のマイクを携えて観覧席へと踏み込んできたスペシャルウィークの存在に面食らい、男は一瞬表情が固まる。
が、この場を離れようにも、既に卓上の固定電話ではトレセン学園理事長に向けた通話の呼び出し音が鳴り続けていた。
「今日は私の大切な友達、そして去年、有馬記念の連覇を成し遂げたウマ娘、グラスワンダーちゃんが来てくれたんです!」
「ふふ、この場所に来るのも久しぶりです。ここからは中山レース場の興奮が、一望できますね。」
先ほどのレースの余韻に浸っていた会場からは、思わぬビッグゲストの登場によって再び大歓声が上がる。
よもや、とレース場の方を見た男は、たった今入り込んできたカメラの映像が、全てレース場の巨大スクリーンに映し出されていることに気づいて肝をつぶした。
「そして、こちらは結城トレーナー。私たちウマ娘のトレーニングを、URA発足当初から見続けてくださった伝説的なトレーナーさんです。」
「どうも皆さん、こういうレースがあるたびに出てくる私の顔は見飽きたかもしれませんが。」
結城トレーナーの茶目っ気ある挨拶に、会場からは拍手と笑い声が巻き起こる。
男は焦っていた。電話の呼び出し音は鳴り続けているが、なかなか相手が出てこない。
「そして、こちらは……あ、お名前はお伏せしたほうが宜しいでしょうか、私たちウマ娘にとって大切な、トレセン学園を大きく支援してくださっているお方です!」
会場から沸き起こる拍手に応えるように、受話器を耳に当てたままの恰好で男はぎこちなく微笑み、カメラのレンズに向けて手を上げて白い歯を見せた。
悪くしたことに、トレセン学園にて秋川理事長が電話に出たのはちょうどそのタイミングであった。
さらに男にとって都合の悪い事があったとすれば、秋川やよいの声量がありすぎ、受話器からは彼女の声が周囲に十分聞こえる大きさで漏れ出たことであったろう。
その声はスペシャルウィークの構えたマイクを通じ、会場内のスピーカーにも響き渡った。
〈応答ッ!!私がトレセン学園理事長、秋川やよいであるッ!!〉
「あら、秋川理事長にお電話中のようです。きっと、今回のレースのことでしょうね。」
グラスワンダーがすかさず挿し込んだ補足によって、いよいよ通話内容をはぐらかすことは難しくなった。
「あー、その、今回の、有馬記念のレースについてのこと、なんだがね……」
トレセン学園の理事長に電話をかけている自分の姿が、中山レース場の大スクリーンに映っている。自分が話している内容が、中山レース場の大観衆全員に聞かれている。
彼はようやく、自分の意図が通らなかったことに憤る一個人ではなく、トレセン学園を公然と支援する人物に戻ったようであった。
「実に……その、素晴らしい!まったく、これほどまでに興奮したレースは今までにもなかった!」
〈感激ッ!私ももちろん見ていた!今回のような最高の舞台を実現できたのも、全てあなたのような支援者のおかげであるッ!〉
先ほどよりも大きな拍手と喝采が、会場全体から画面に映る男に向かって送られる。
ここまでお膳立てをされてしまうと、もはや引き返すことは不可能であった。
「えー、それで、だね……今後とも、この素晴らしいウマ娘レースを、実行し続けるために、だな!私もトレセン学園への出資を弾もうと思う!」
〈感謝ッ!いよいよ増えるであろう入学希望ウマ娘のため、新たな練習場の建設を検討していたところだッ!〉
「ということは、あなたのおかげで、トレセン学園はもっともっと大きくなるんですね!ありがとうございます!!」
感激した様子のスペシャルウィークに手を握られ、いよいよ苦虫を噛み潰したような顔を懸命にゆがめて笑顔を作っている男は冷や汗まみれになっていた。
レース場内の歓声と拍手は更に大きくなり、大団円の様相を呈していく。
ただ静かに、少し離れて見つめていたグラスワンダー。
結城トレーナーと視線を合わせて静かに笑みを浮かべ会釈した彼女は、そのまま杖を突きながら観覧席の賑わいにも背を向け、再び誰も居ない外の廊下へと歩み出ていった。