年明けの祝いもそこそこに、新年度の目標レースに向けてトレーニングの日々を再開するウマ娘たち。
そんな中、鷹木トレーナーは幾度目かとなる呼び出しを理事長から受けていた。すなわち、秋川理事長の前に引き出され、のみならずベテラントレーナー達に囲まれた状態で質疑応答を行わねばならないということだ。
担当ウマ娘であるテイエムオペラオーならば喜んで目立ちに行くであろう状況ではあったが、完全なる凡人であるところの鷹木は自分が置かれるであろう状態を想像しただけで冷や汗がじっとりと滲み出てくるのを実感していた。
今年は3月の日経賞まで本番出走予定のないメイショウドトウとの並走練習にオペラオーを向かわせ、鷹木は胸元の胃のあたりに焼けつくようなストレスを感じながらも、会議室の扉を開く。
「し、失礼します……。」
が、彼の予想に反し、その先で待ち構えていたのは秋川理事長ただ一人であった。
「賀正ッ!あけましておめでとうッ!そして改めて賞賛しよう、昨年度の働き、見事だった!」
「あ、あけまして、おめでとうございます……恐縮です。」
きっとベテラントレーナー達に囲まれ、昨年度のようにオペラオーの育成及び出走の方針についてあれやこれやと言われるのではないかと身構えていた鷹木。思いもよらずガランとした会議室に足を踏み入れ、面食らったような顔をキョロキョロさせながら扉を閉めようとする。
その扉の影になって彼が存在に気づいていなかった、理事長秘書こと駿川たづなの姿を目にした彼は跳びあがることとなったが。
「わっ!?」
「あら、驚かせてしまってすみません、あけましておめでとうございます、トレーナーさん。」
「ど、どうもです、おめでとうございます……。」
「傾注ッ!扉を閉めるのはたづなの役目だ、鷹木トレーナーはこちらへ!さっそく本題に入ろう!」
ドアノブをたづなに任せ、鷹木はやはり緊張しながら理事長の前に歩み出る。
彼女の背後には大きな一枚ガラスの窓があり、ここからは常に練習場を駆けていくウマ娘たちの姿が見えた。
練習コース上に注がれるのと同じ陽射しを取り込んでいる窓のおかげで、理事長室は常に明るい。が、部屋に入って来た者の目から見れば、常に逆光の中で理事長の姿を見ることとなる。
眩い後光を背負った理事長は、近づかない限りほとんど黒いシルエットのように見えてばかりであった。
彼女に招かれるがままに近づいて行った鷹木は、学園に勤めて以来初めて秋川理事長の素顔を目の当たりにしたような気がした。
「確認ッ!鷹木、君が提出した指導計画書および出走予定表によれば、テイエムオペラオーの次なるレースは4月の大阪杯だな!」
「はい、春の天皇賞への出走も見据えての決定です。現在は、4月1日の出走を目標にオペラオーの状態を調整中です。」
「提案、仮にで良いんだが、テイエムオペラオーの出走を、それよりも前……2月、いや3月ごろのレースに変更することは出来るか?」
「えっ……」
鷹木は、複数の意味で耳を疑った。
まず、ウマ娘レースの出走予定は、そう易々と変更可能なものではない。身体の故障や不調によって出走を諦めることこそあれど、出る予定の無かったレースへと唐突に出走を決めることはほぼ無い。
当然ながら、ウマ娘の脚は目標レースの条件、舞台となるレース場の状態に合わせて調整をするためだ。コンマ秒以下のタイムの違いで、栄光を我がものと出来るか否かが変わってくる以上、準備期間を十全に得られたウマ娘の方が有利になるのは必然である。
さらに、鷹木の決定は、オペラオーの身体に故障が起きるリスクを鑑みてのことでもある。
前年度は力走を続け、遂に偉業を達成したオペラオーであったが、さすがに一か月単位で大舞台のレースに出走していては身体に蓄積した負荷のほども無視できない。オペラオー自身は、レースに出ろと言われれば笑って肯ずるかもしれないが。
そこにもともと予定していなかった条件のレース出走となれば、脚に掛かる負担は想定内に収まらない。ウマ娘の脚を自らの命に代えてでも守らねばならぬ担当トレーナーとして、唐突な出走レース変更は天地が返ってもあり得ないことであった。
おまけに、そんな鷹木トレーナーでも分かるようなこと、秋川理事長が気づいていないはずもない。
誰よりもウマ娘のことを良く知り、ウマ娘を指導する現場のこともよく理解している理事長。そんな彼女が、今鷹木に告げた提案が承諾されることなど、殆どあり得ないことぐらい分かっているだろう。
「……。」
鷹木の返答を黙って待ち続けている秋川理事長の顔に、どこか苦々しい色が浮かんでいるのに気づき、ようやく鷹木は安心した。
「いえ、オペラオーの出走予定は変わらず、大阪杯です。」
「承諾ッ!君ならば、そう答えてくれると分かっていたがな。」
「では、なぜわざわざ今のようなことを……。」
秋川理事長の、常に自信満々に見開かれた目を、瞼が僅かに隠す。
彼女の中では、この件を一介のトレーナーに告げるべきか否か、逡巡があるようだった。学園理事長の立場で抱えている問題を告げられたところで、鷹木トレーナーがどうこう出来るものではない。
しかし、オペラオーを今後担当していくうえで必要なことだと考えたのか、きゅっと結んだ唇の中で言葉を整理し終え、理事長は口を開く。
「一考、君にも知っておいてもらいたい。テイエムオペラオーは、昨年度の最優秀ウマ娘だ。彼女の出走は、常に心待ちにされている。」
「オペラオーに聞かせれば、きっと大喜びします。」
「懸案、だが問題は、それを望んでいるのが観客の枠に収まる者ばかりではないということだ。」
「えっ……?」
鷹木に聞かされた秋川理事長の言葉は、この部屋で他に聞いている者がたづな以外に居なかったとしても、慎重に言葉を選び抜いたものであった。
それもそのはず、このトレセン学園の運営を経済的に支えている出資者の意向こそ、オペラオーに無茶を要求していたのだから。
昨年末の有馬記念、各トレーナーに圧力をかけてレース順位を操作しようとしていた、あの男。
グラスワンダーおよびスペシャルウィークの機転によって、どうにかあの場は収まったものの、明確に不正行為が発覚したわけでもない以上、彼がトレセン学園の経済的支援者としての立場を失ったわけではない。
むしろ、秋川理事長の意向通り、彼が新たな練習場の建設に出資したことで、更にトレセン学園は恩を着せられる形となってしまっている。
そしてその男の言い分というのが、テイエムオペラオーの頻繁なレース出走であった。
「しかし、今年はオペラオーの一つ下の世代がいよいよ本格化を迎える年です。エアシャカールや、アグネスフライト、アグネスデジタルだってウマ娘レースを盛り上げてくれるはずですが。」
「無論!私も出資者にはそう告げた。が、彼も頭の固い男でな。オペラオーが現状最高の収入源だとか、十分な興行収入が得られない、だとか……」
「はぁ……。」
当然ながら鷹木とて、トレセン学園の運営、そしてウマ娘レースの開催に、額を聞けば目玉が飛び出るような資金が必要であろうことは分かっている。
それゆえ、秋川理事長の頭を悩ませている出資者の言い分も理解できないでもない。ウマ娘レースは、レース場に押しかける幾万人ものファンによって支えられているのだから。
しかし、自分と二人三脚で邁進を続けるウマ娘の顔と、『収入源』という言葉は、彼の中でどうにも重なり合わないものであった。
(オペラオーが、収入源……収入……?)
あの、いつでも自分の好きなように歌い、心が湧きたてば所かまわず踊っているウマ娘が、経済のシステムの中に組み込まれている姿など、まるで想像がつかない。
腑に落ちない表情を浮かべたまま、固まってしまった鷹木の前で秋川理事長は苦笑いをする。
「換題!妙な話をして済まなかった、今のはただの愚痴だ、忘れてくれていい。となれば、オペラオーのライバルたちが先んじて今年は始動することになるのだな!」
「そう、ですね。アドマイヤベガとナリタトップロードが、まず2月の京都記念に出ますし、メイショウドトウは3月の日経賞に出るんだとか。」
「承知!あの者には、2月と3月を覇王のライバル出走で持たせると伝えるか……」
ウマ娘たちが輝く場所を守り続ける理事長は幼げな姿をしていたが、鷹木には自分よりずっと大人びて見えた。
この年度、最初にレース本番を迎えたのはアグネスデジタルである。
1月5日、京都レース場にて行われる、京都金杯。
去年、マイルチャンピオンシップにて見事に一着を勝ち得たデジタルは、ダート以外でも活躍できる能力を十分に証明できていた。
(今年こそ、シャカールちゃんと一緒のレースで走り……そして、オペラオー先輩にも挑ませてもらいます!まずは、このレースで勝つことから!)
とはいえ、模索の日々は続いている。
いよいよ自らの身体能力が本格化するという年度を迎えたにもかかわらず、アグネスデジタルは担当トレーナー無しでの活動を続けていた。それだけに、自分の練習方法が的確であるとの裏付けが得られないことは一つの不安要素であった。
結城トレーナーに言わせれば、走っているウマ娘自身が求めるトレーニング法こそ正解だ、となるのだろうけれど。
(ですよね、きっと、大丈夫です。最終直線で差す走りは、マイルチャンピオンシップでも有効でしたから。)
その日の天候は曇りであったが、冬の寒気に当てられた芝はよく乾いて軽いバ場状態であった。すなわち、スピードが出やすいレースとなる。
更にマイルに分類される距離である以上、勝敗はいよいよもって高速の展開の中で決着することが想定される。芝コースにおける瞬発力が最も試される舞台ということだ。
〈京都レース場、芝、1600m。京都金杯、出走の時間が近づいてまいりました。3番人気アグネスデジタルは昨年のマイルチャンピオンシップを制した注目のウマ娘、彼女に対するはやはり昨年度、幾度も鎬を削りあったエイシンプレストン、あるいはダイタクリーヴァといったところでありましょうか。〉
1600mを走るレースは、時間にして1分半かそこらでゴールを迎える。
自分たちの努力の結果をそのわずかの時間に凝縮させるレースに集った16名がずらりと並ぶスタートライン。GⅠであろうがGⅢであろうが、この場に張り詰める緊張感は冬の寒さを完全に遮断してしまうかのようであった。
〈ゲートイン完了して……スタートしました!真っ先に飛び出したのはエイシンルーデンス、ウチからはサーストンフライト、この二名が先頭争いといった形。1番人気ダイタクリーヴァは三番手、並んでオースミブライト、テイエムオオアラシが中団の先頭を形成しています。〉
アグネスデジタルは当初の予定通り、中団後方につけていた。ダートレースで培ったスタミナ量を最終直線で一気に爆発させ、差し切る作戦だ。
昨年度も京都レース場で演じられたように、このコースは第3コーナーからの下り坂で一気にスピードが上がる。その勢いのまま直線へと入れば、集団は大きく慣性で外側に振られ、ウチ側から抜け出す隙がきっと生まれる。
さらに、最終直線に入ってからゴールまでは404m。差しが十分に決まる距離であった。
〈早くも先頭は第3コーナーを回っていきます、中団オースミブライトの後ろにはビッグサンデー、そのウチにシンコウスプレンダ。外側を2番人気エイシンプレストンが行き、間に挟まれる形でアグネスデジタル。すぐ背後にはスエヒロコマンダーがぴたりと着いて、固まったまま第4コーナーへと入っていきます、さぁ間もなく最終直線だ。〉
完全にウチ側に閉じ込められるわけではなく、スタミナを十分に残した状態で、順位は中央よりも前寄り。
順調であった、ここまでは。
間もなく直線に出て、集団が横にバラければアグネスデジタルは前へと上がっていくつもりであった。しかし、開くはずの隙間がどこにもない。
(去年の京都記念でのレースを見ていたのは、皆同じ……ってことですか!)
直線へと向かう際に勢いのままに外へ振られれば、ウチ側から差し・追い込みのウマ娘が上がってきてしまう。そのことを全員が警戒しているかのごとく、目立った隙間もないままに最終直線へとレースは突入していった。
〈いよいよ直線に向きました、エイシンルーデンス先頭で粘っているが苦しいか!上がって来たのは三番手のダイタクリーヴァ!ドラゴンライト追い込んできた、最後方からマチカネホクシンも前を目指すが、ここで大外から上がって来たのはエリモセントラル!グリーンプラネットもウチを突いて前に出る!〉
(今から前を交わしていては、遅いです!どうにか、抜け出せる隙間を……!)
共に並んでいたエイシンプレストンは、完全に身動きの取れない状態で集団の中に捕まっている。
人気度の高いウマ娘にマークが集中することを警戒していたのか、ダイタクリーヴァはそそくさと逃げウマ娘たちを追い抜いて先頭に立っていた。結果的に、2番人気のエイシンプレストン、3番人気のアグネスデジタルが他からのブロックをモロに受けることとなったのである。
それでも、アグネスデジタルの目に諦めの色はない。
(私だって……!オペラオー先輩は、この状態から勝ったんです!)
ここで他選手にぶつかって転倒でも起こそうものならば大事故につながりかねないリスクの中、僅かな隙間を見つけて細身の身体を強引にねじ込んだ。
〈残り200を切った!先頭はダイタクリーヴァ、これは圧勝か、二番手はエリモセントラル……アグネスデジタルが抜け出した!アグネスデジタルが来た!猛烈な追い上げだ、エリモセントラルに並んだ!しかしここで先頭ダイタクリーヴァ、一着でゴールしました!勝ったのはダイタクリーヴァ!ほとんど並んで二着はエリモセントラル、三着アグネスデジタルです!〉
ほとんど強引な抜け出しが無ければ、アグネスデジタルはエイシンプレストン共々、集団の中に埋もれたままゴールすることとなっただろう。
(試練は、まだ終わりじゃありませんか……。)
ゴールラインを目前にしてようやく集団から抜け出したにもかかわらず、二着のウマ娘に並んだことは、確かにアグネスデジタルの実力を示す走りではあった。
しかし、あの圧倒的な強さを誇る覇王テイエムオペラオーに挑まんとするアグネスデジタル。
彼女にとってGⅢレースで三着という結果は、目標から自らがまた遠ざかってしまった証のようにも思われたのだった。