時はまだ二月であったが、三月以降のレースに出走する予定があるウマ娘たちは、いよいよ本格的に備えを始めなければならない頃である。
その日はメイショウドトウを担当している片桐トレーナーが居なかった。ドトウが三月の下旬に出走する中山レース場の日経賞のため、登録関連の事務処理に向かわねばならなかったためだ。
トレーナー不在時のウマ娘は単独で練習をしているか、あるいは他のチームやウマ娘との合同練習に加わっているのが常である。
昨年度のドトウもそれは同様であったが、今回はテイエムオペラオー担当の鷹木トレーナーのもと、練習しながら片桐トレーナーの帰りを待つ形となっていた。鷹木の目の前に現れたドトウが、心配そうな胸中を打ち明けたのは到着してすぐのことである。
「あのぉ、本当に良いんでしょうか……私とオペラオーさんは、春の天皇賞で競い合うことになっているのに、一緒に練習なんて……」
本番で競走する相手の作戦を盗み見ておくことは、マナー違反ではある。
が、ドトウをここに預けることを決めた片桐トレーナーの意図を、鷹木は理解していた。
「まぁ、天皇賞があるのは2か月後の、それも末のことだし。それにオペラオーは現状、大阪杯に向けた練習を続けているからな。」
天皇賞よりも先にテイエムオペラオーが出走するのは、例年三月末や四月の頭に行われる大阪杯である。
距離も全く違ううえに、コースにおける起伏のレイアウトも異なっている。このレースに向けた作戦を見たところで、天皇賞では全く違う作戦となる。
メイショウドトウが出る日経賞とも距離は違っていたが、片桐トレーナーが彼女をオペラオーに会えるようはからったことには、単なる練習効果を期待する以上の意味合いがあっただろう。
当然ながら今年度こそはテイエムオペラオーに勝つという意気込みで、メイショウドトウもトレーニングに励んでいる。
しかし、片桐の目はそんな彼女の内に燃えているべき執念の炎が、若干ながら弱まっているのではないかと睨んでいた。彼は一度、メイショウドトウに対し問うたことがある。
「今年度からは、更に一つ下の学年のウマ娘たちも、本格的に大舞台へと出走してきますね。」
「はいぃ……もしかしたら、その中から、オペラオーさんに勝っちゃう子も、出てくるかもですぅ……。」
「……?何を言っているんです?オペラオーに勝つのはドトウ、あなたでしょう?」
「はっ、あっ、はい、もちろん、私も、一着になるために頑張ります……!」
幾度もオペラオーと僅差のところにまで食らいつく力走を演じていた事実は、ドトウの実力が本物であることを示していた。
が、ことによっては、メイショウドトウは親友たるテイエムオペラオーと居並んでゴールを目指せている時点で、満足してしまっているのではなかろうか。
ドトウ自身の意識にそのような考えが無かったとしても、無意識のレベルで現状よりも先へと踏み出す意思が鈍っている可能性も、無くはない。
こんな時、『オペラオーこそ倒すべき敵だ』と焚きつけてしまっては、彼女と仲良く付き合って来たメイショウドトウがいよいよ自己否定の念を強くしてしまう性格であることぐらい、片桐はよく分かっていた。
それよりも、直接テイエムオペラオーに会ったメイショウドトウが、自らの立ち位置を顧みる機会を得ることに片桐は期待したのである。
「はーっはっはっは!来てくれたんだね、ドトウ!ようこそ、世紀末覇王の宮殿へ!一面に芝が広がるばかりで殺風景かもしれないが、存分に楽しんでいってくれたまえ!」
「は、はいぃ、オペラオーさん、久々の並走練習ですが、よろしくお願いしますぅ……。」
トレセン学園に入学してから長きにわたって鍛錬の日々を続け、多種多様なレースを経験し、それでもなお全く入学当初と振る舞いが変わることのないテイエムオペラオー。
その高笑いとともに迎え入れられると、メイショウドトウは大舞台に出ることをあまりにも遠く感じていた時期のことを思い出すようであった。
(私は、あの時から大きく変わりました……そんな風に、見えないかもしれませんけれど……)
とはいえ、メイショウドトウの姿は、既に世間からは世紀末覇王討伐に最も近いウマ娘として非常に頼もしく見られている。
その自覚が無いドトウは、たとえば昨年度の有馬記念、テイエムオペラオーに次ぐ2番人気として登場したウマ娘の凛々しい姿を目にしても、それがよもや自分自身であるとは思えなかったであろう。
「練習コースは既に大阪杯に向けてセッティングされているが、構わないか?距離も、日経賞より500m短いが……。」
「い、いえ、お気遣いなくぅ……そちらに、あわせますので。」
「あぁ!ボクのペースに合わせられるのは確かにドトウ!キミだけだ!」
「はわ、そん、そんなこと、ないですって……」
あまりに自分を卑下してしまう癖のせいで、相手を喋りにくくさせてしまっているのではないかという苦慮とは無縁であればこそ、メイショウドトウはテイエムオペラオーと共にいられる時間を居心地よく感じていたのかもしれない。
独特なやり取りでありながら、何故か淀みなく続く会話を繰り広げながらも、ストレッチを終えた両名はスタートラインに立った。
〈ゲートイン完了……スタートしてください。〉
練習用コースに本物のゲートが設置されているわけではないが、本番同様のゲートが開く音がスピーカーから流され、オペラオーとドトウは同時に走り出す。
天皇賞とは全く違う距離での競走とはいえ、やはり担当ウマ娘の好敵手の走りを目に焼き付けようと凝視している鷹木。
もちろん今までの想定を大幅に改めねばならない情報が読み取れたわけではなかったが、そこには一年前とは明らかに異なる走りを身に着けたメイショウドトウが居た。
「だよな……もう、ドトウは、先行に頼らなくても勝てるんだな……。」
昨年はオペラオーよりも前に出ていることで、レース終盤でのペース配分を落ち着いて行う作戦を取り続けていたメイショウドトウ。
しかし、有馬記念でも見せたように、幾度も本番を経験してきた彼女は追い込みで勝つ技術も手にしていた。今まさに、目の前ではオペラオーよりもさらに位置を後ろに下げて走っているメイショウドトウの姿があった。
やがて両者は最終コーナーを回り始め、ドトウはオペラオーを追い上げに掛かる。
テイエムオペラオーの担当トレーナーとして鷹木が見ても、やはりオペラオーの走りには何らの瑕疵も見られなかった。
そんな完璧な状態、最高の調子で走っているオペラオーに並ぶのも、確かにオペラオー自身が口にした通り、メイショウドトウに他ならない。
「追いついてくる……!これは、距離が違っていたら……」
結局、メイショウドトウはオペラオーと横並びのところにまでは行ったものの、差し切るより先にゴールラインを越えていた。
今回行った2000mの並走はテイエムオペラオーが逃げ切った形にはなったものの、メイショウドトウは2500mのレースに向けた調整中だったのである。あと500m、ゴールが遠ければ、間違いなくメイショウドトウが勝っていただろう。
今年度に入っても未だ衰えることのない世紀末覇王と拮抗する、数少ないウマ娘こそメイショウドトウであることの証明であった。
息を整えながらクールダウンの走りも終え、戻って来たドトウとオペラオーは別な話題で盛り上がっているようであった。
「会う機会がなくて聞けていなかったのだが、ドトウは片桐トレーナーにチョコレートを渡したのかい?ほら、二月だもの、バレンタインデーの習慣として!」
「は、はわわ、そういえば、すっかり忘れてましたぁ……」
「はーっはっはっは!うっかり屋のドトウらしいね!かく言うボクは……」
今の練習の記録をまとめる作業の途中であったが、鷹木は頭の片隅で記憶を掘り返していた。
当然ながらトレーニング漬けの多忙な日々、実際に走っているウマ娘でなくとも、次から次へと練習の準備にいそしまねばならないトレーナーも相当に体力を使っている。
それゆえに一日が終わるころには疲労困憊の状態であり、トレーニングやウマ娘レース以外の話題を持ち出されても殆ど聞き流しているのが実情である。
だから、鷹木はおぼろげな記憶の隅に、オペラオーからチョコレートを受け取ったという光景が残っているかどうか探し回っていたのだが……
「……渡していない!どうしても、トレーニングで体力を使い果たす日々が続いていたからね!」
「だよな。お前から贈られたのを、俺がすっかり忘れてしまったかと思って焦ったぞ。」
「ですよねぇ……私も、日が暮れてくるころには、くたくたで、寮に帰ったらもう眠くなって……」
「しかし、ドトウ!マメなキミのことだから、ちゃんとトレーナーにチョコレートを贈っていたことを、ウカツなキミのことだから、うっかり忘れていた、という線もある!」
オペラオー流の謎めいた推理が始まり、鷹木が呆れた表情を浮かべると同時に、ドトウは不必要に慌て始めた。
「は、はわわわぁ、そ、そうでしょうかぁ……?」
「真実は脚を使って確かめるに限る!そろそろ片桐トレーナーがトレセン学園に帰ってくる頃だ、ボクがひとっ走り行って確認してこよう!」
ドトウがありもしない記憶を自分の脳内から探り出そうと懸命に頭を抱えている前で、オペラオーはヒラリと身をひるがえして練習場から走り出て行ってしまう。
「おい、待て、オペラオー、今は身体を休める時間だから……」
鷹木が声を掛けたタイミングは既に遅く、昨年度最優秀ウマ娘に人間が走って追いつけるはずもなく、すぐに鷹木の表情は呆れから諦めへと移ったのであった。
「アイツめ……オペラオーのでまかせを真に受けなくていいぞ、ドトウ。」
「で、ですが、私がチョコレートを片桐トレーナーにお贈りしていたこと、すっかり忘れてしまっていたとしたら、とんでもなく失礼なことにぃ……」
「仮にそうだったとしても、相手から贈られたことを忘れてるわけじゃないんだしさ。」
「はっ……それも、そうですぅ……。」
苦悶の表情を浮かべ頭を抱えていた状態から一転、今までの悩みが全て無意味だったことに気づくと同時にポカンとした表情へと変わるメイショウドトウ。
図らずも、担当ウマ娘の好敵手とふたりきりになってしまった鷹木。
ドトウも鷹木も、お喋りが苦手な者同士、いたずらに沈黙を長引かせるばかりであることに気づくのは間もなくのことであった。
「そういえば」「あの」
何とか喋る内容が無いかと必死で話題を探り出し、口を開いたと同時に相手の発言を邪魔してしまうあたりも、また話し慣れていない者たちの特徴そのものである。
「あ……」
「す、すみません、すみません、私は別に、大したことを言おうとしてたわけではないので、どうぞ……」
「いや、俺も、そんな重要な事を伝えたかったわけじゃなくってさ……」
鷹木の場合、テイエムオペラオーの担当トレーナーである以上、ライバルウマ娘から詳細な話を聞き出すこと自体がタブーである。現在重点的に練習している走り方、作戦が何であるかを聞き出すなどしては、いよいよ黒である。
仮にそれを実行しても、メイショウドトウのように気が強くないウマ娘であれば他のトレーナーや学園に言いつけるような真似はすまいが、そもそも鷹木自身が隠し通せる胆力の持ち主ではない。
よって、このような状況下、鷹木の脳内に浮かぶ話題は「最近まだまだ寒いな」だの「昨日は雪が舞っていたな」だの、無難かつ退屈極まりないテーマに限られてしまっていたのである。
ドトウの場合も似たり寄ったりであったろう。
再び、長い沈黙が続く。
テイエムオペラオーは、まだ戻ってこない。片桐トレーナーの帰還が想定以上に長引いているのか、あるいは彼女のことだから、他の何か興味を引くものに寄り道しているのか。
鷹木は、手元のタブレット画面ですべき作業もほとんど終わってしまった。続きは、オペラオーが戻ってきてトレーニングを再開するまで始められない。
静寂の気まずさの極致の中、覇王の賑やかさに早く救われたいと鷹木が心の底から願い始めた時。
ポツリとメイショウドトウが呟いた。
「オペラオーさんに、勝たせてもらっていいですか?」
鷹木はつい横を向き、ドトウの顔をまじまじと見つめた。
その発言内容そのものはウマ娘として当然口にしてもおかしくないものではある。
が、鷹木の心の底を何よりもざわめかせたのは、その口ぶりがあまりにしっかりしたものであったこと。
いつもどもりがち、何か言おうとするたびに言葉に詰まり、言い直すのが常であるメイショウドトウ。
きっと彼女も、沈黙の長さの中で自分が喋るべき言葉を吟味した結果なのであろうが、それにしても、あまりによどみなく、あまりにはっきりとした口調で、メイショウドトウは先ほどの言葉を喋ったのであった。
ドトウなりに、鷹木トレーナーに対して語るべき言葉、それも相手に時間の無駄だと思わせないだけの価値ある言葉を探し求めた結果、行き着いたものだろう。
鷹木が即座に見つめたのは彼女の横顔であったが、沈黙している数分間の間に別のウマ娘へと変身してしまったかのごとく、その瞳は凛と澄んで目の前の芝を見据えていた。
現世代、最強格のウマ娘。
メイショウドトウ……世紀末覇王に比肩する存在。
……間もなく、自分が口にした言葉の響きに照れたのか、あまりに穴が開くほど鷹木が見つめてくるためか、ドトウの頬は全力疾走した直後のように赤らんできたのだったが。
「……す……すみません……すみません、すみません!私なんかが、強気なことを言っちゃって、すみません!」
「いっ……いやいや、そりゃあ、ウマ娘として競走しているんだから、当然だよ。もちろん、オペラオーだって受けて立つさ。」
「は、はいぃ……その、オペラオーさんにも、よろしくですぅ……」
ついさっきまでオペラオーがすぐ傍にいたにもかかわらず、何なら今まさにオペラオーが戻って来たことを示すように、その朗らかな声が響きながら近づいてきているにもかかわらず、メイショウドトウは極短距離の伝言を鷹木に託したのであった。
まもなく練習場の扉が開き、オペラオーが片桐トレーナーを伴って姿を現した時、そこにはドトウと鷹木が並んで休憩している、先ほどまでと同様の光景があった。
ドトウの頬が、あまりにも強く赤らんでいることを除いて。
「はーっはっはっは!覇王は帰還したぞ!すまない、片桐トレーナーと話が弾んでしまってね!彼もなかなかに博識じゃないか!」
「あぁ、ご心配なく、今度の天皇賞に関する話題ではありませんので。オペラにおける表現や演じ方について、互いに論議を繰り広げていただけですよ。」
「そうさ!演劇とは解釈ではなく、作品を観、それについて考えるための可能性を与えるべきだ……あぁ、だからこその芸術さ!ゆえに歌劇は永久に生き続けるんだ!」
鷹木ではとても相手できない論考の応酬を為した片桐トレーナーとの会話は、オペラオーを大いに満足させたようであった。
何につけても器用な同期トレーナーに、相変わらずの鷹木が引け目を感じる暇も無く、片桐は目聡くドトウの身に起きている異変に気付いていた。
「ところで、ドトウの顔が随分と火照っているようですが……」
「はっ、はわわわわわわぁ、そのぉ、これは、何でもないんですぅ!」
鷹木が弁明するよりも先に、メイショウドトウが最大級の狼狽を見せたため、彼女をまず落ち着かせるのに相当の時間を費やすこととなったのは言うまでもない。
二月が過ぎれば、テイエムオペラオーよりも先に、いよいよメイショウドトウが今年度最初のレースへと出走する。
既にナリタトップロードにアグネスフライトが勝ち、次なる世代のウマ娘たちの台頭を予感させる空気は流れつつある中、メイショウドトウの今年度における実力も世間の注目を集めるところであった。