鷹木がキングヘイローの訪問を受けたのは、大阪杯も過ぎて4月も半ば、いよいよ間近にまで春の天皇賞が迫らんとする頃であった。
昨年の有馬記念、テイエムオペラオーとの一戦をきりに引退したキングヘイローであったが、レースの舞台から遠ざかったからとてノンビリと隠居している彼女ではない。
かつて鷹木との会話の中でも出て来た提案のごとく、後進のウマ娘たちの指導にあたるトレーナーとなるための準備を進めている。
資格を得るための勉学に励むのみならず、精力的にトレーニングの現場を巡り、現役トレーナーたちから様々にアドバイスを得ようとするキングヘイローの姿がトレセン学園内でも頻繁に見られた。
「今まで、トレーナーになったウマ娘が居なかったわけじゃないのだけれど、やっぱり先例が少なくて。あちこちで指導の様子、見させてもらっているの。」
「好きなだけ見ていってくれ。キングヘイローがトレーナーになるのは、俺も楽しみだ。」
「まぁ、そんなに期待を寄せられてるだなんて……」
尋常のウマ娘ならば挫折していてもおかしくない時期を長く経験し、ついに一勝を得るまで数々の苦境に立ち続けてきたキングヘイローならば、きっとこれから夢の舞台を目指そうとするウマ娘の指導にも長けているだろうと鷹木は考えていた。
「あぁ!その声、その姿は!キングヘイロー先輩じゃないか!」
テイエムオペラオーの指導を続けている鷹木のもとに今のタイミングでキングヘイローが現れた理由は、むろん天皇賞という大舞台に向けた調整とはいかなるものか、取材することにあったろう。
しかしそれ以上の意味をもって、キングヘイローは鷹木の心づもりを見定めようとする意図があるようであった。
「大舞台の直前という時期だから、本当に練習の邪魔にならない範囲で見せてもらえればいいのだけれど。」
「キングヘイロー先輩なら、いつだって歓迎さ!どうだい、ボクとともに夜が更けるまで踊り、歌い明かさないか!」
思わぬ先輩の訪問を受けたテイエムオペラオーは喜色満面に駆け寄ってきて、跪きキングヘイローの手を恭しく取っている。
相変わらずの覇王の調子を微笑んで見つめているキングヘイローの瞳には、既にどこか現役時代とは違った落ち着きが満たされているようであった。鷹木が溜息と共に口を開く。
「今日のトレーニングを全部サボる気か。お前がそうなってしまうのをキングヘイローは心配してんだよ。」
「ふふ、自由気ままなウマ娘の指導をするトレーナーさんの、お手並み拝見ね。」
その後も何やかやと冗談を朗々と響く声で撒き散らすオペラオーを聞き流しながら、彼女にトレーニング指導を行う鷹木の様子をキングヘイローはメモ帳片手にじっと見つめていた。
やがてオペラオーが実戦を想定したコースを回り始め、彼女の走りにじっと目を凝らしている鷹木の背後へ、ようやく話しかけるタイミングが出来たキングヘイローはそっと近づいてくる。
「今、お話を伺ってもいいかしら。オペラオーの走りに集中してたいなら、後回しでいいのだけれど。」
「いや、どうぞ……」
承諾はあったとはいえ、コーナーを回っていくオペラオーに目が釘付けとなったままの鷹木が生返事のみを口にするさまは、それだけ彼の集中力が担当ウマ娘へと注がれていることを示していた。
キングヘイローは言葉を選び、なるべく簡潔に彼からの返答が得られる質問をぶつける。
「オペラオーは、天皇賞で勝てそう?」
「……本番にならないと、何とも。」
「そりゃ、そうよね。」
今回の春の天皇賞は、まさに複数世代にわたって活躍する優駿たちのオールスターが勢ぞろいしている。
幾度ものレースで、テイエムオペラオーのすぐ近くまで迫り続けて来たメイショウドトウを始めとして、昨年ケガから復帰して以来好調続きのアドマイヤベガ、その実力を阪神大賞典にて存分に見せつけたナリタトップロード。
「だが、仕上がりは完璧だ。尤も、アイツが不調だった様子を、俺も見たことは無いんだが。」
「常時、調子良いほうに振り切れ続けてるウマ娘だものね。」
新たな世代からは、オペラオーへのリベンジが懸かっているエアシャカール、大阪杯にてシャカールと共にオペラオーへと迫ったアドマイヤボスが出走する。
しかし何よりも注目を集めていたのは、いよいよ最後の黄金世代ウマ娘となった、セイウンスカイの存在であった。おそらく彼女にとっては引退試合となるのだろう天皇賞にて、世紀末覇王に対しいかなる勝負を見せるのか。
3年前の皐月賞や菊花賞における、彼女の巧みなレース制御を目の当たりにしていた鷹木の目から見ても、当然ながら警戒すべき相手である。
「……セイウンスカイには、最近会ったか?」
コーナーを回り切って向こう正面を駆けていくオペラオーに視線を注ぎながらも、鷹木がそう尋ねていたのは少しでも不安要素を解消したいとの思いあってのことだろう。
キングヘイローもそんな彼の胸中を察しつつ、今なお現世代からも脅威として見られている盟友の存在に笑みながら答える。
「競争相手の情報を事前に探るのは、マナー違反じゃないの?」
「そうだった。」
「気になるのは、分かるけれどね。レースに関係ない事なら……こないだ会った時は、トレセン学園の中庭。いつも通り草地に寝転がってたもんだから、もう少しで踏んづけるところだったわ。」
以前セイウンスカイに会った時も、あのひたむきに先頭を守り続ける走りとは対照的に、随分とノンビリした調子のウマ娘だという印象を鷹木は受けていた。
ガツガツと鍛錬に打ち込むイメージからかけ離れた彼女が、何故あれほどの戦績を挙げることが出来たのか。彼の中に浮かんだ疑問を察したように、キングヘイローは続ける。
「もう引退した私にまで隠すことないのに、自分は全然努力してません、って顔しちゃって。あの子が黄金世代の中で一番の努力家だってこと、私は知ってるのにね。」
「努力家……だよな。」
例えば昨年、しばらくレースからもトレセン学園からも姿を消していた彼女が、何の前触れも無くフラリと現れた時のこと。
オペラオーたちと共に行った並走練習では、逃げのペースで走りぬいた最終直線にて末脚を発揮していた。本来は差しや追い込みのウマ娘が披露するそれを、逃げウマ娘でありながら本番同様のスタミナ消費の上に行えるセイウンスカイ。
「そうよ、才能に恵まれたウマ娘、血統に恵まれたウマ娘。そんなのに囲まれて、地方から出て来たばかりの子が張り合わなきゃいけないんだもの。」
「血統に恵まれてるのは、キングヘイロー自身もだったろ。」
「あら、あくまで私は自分の実力でしたけれど?」
「すまん。」
良家の令嬢として扱われることを好ましくは思っていないキングヘイローのことを思い出し、鷹木は謝る。今のキングヘイローは、そんな粗相も微笑みながら受け止めていたが。
血の滲むような努力が、セイウンスカイの実力を支えている。それはキングヘイローから伝えられるまでもなく当然推測されるべきことではあった。
が、やはりセイウンスカイと同じ世代を走りぬいた彼女からの言葉だったからこそ、確たる裏付けとなったのかもしれない。
コーナーを回り切り、いよいよ直線を向かおうとするオペラオー。彼女の脚運びを一秒たりと見逃すまい、と目を凝らす鷹木の表情は一気に真剣さを帯びた。
頼りない雰囲気の男だという印象は以前からキングヘイローも鷹木に対し抱いていたものであったが、こうしてオペラオーの担当トレーナーとして指導に当たる姿は、確かにプロの姿であった。
ゴールに向かって練習コースの最終直線を駆けていくオペラオーもまた、平生には見せない真剣そのものの表情である。覇王と呼ぶべきか道化と呼ぶべきか迷う普段の姿から打って変わって、一年間を無敗で走り切るだけの覇気がそこには備わっていた。
「……噛み合わないコンビかも、と思っていたけれど、こうして見てると似た者同士ね。」
「え?」
オペラオーがゴールラインを通過した後、タイムやペース配分を細かにノートへ書き込んでいる鷹木を少し待ってから、キングヘイローは告げる。トレーニングの休憩を前にして早くも集中力が抜けつつあった鷹木からは、間の抜けた返事ばかりが返って来たものの。
ついでに、息を整え終えたオペラオーは、すぐにトレーナーのところに寄ってこず、気持ちよく走り切った快さを歌いながらゆらゆらと舞っていた。
「ところで、オペラオーの身体は問題ないのね?」
「身体?」
「ほら、去年の大晦日に言ったでしょう。連続して本番レースを走るウマ娘の身体には、相応の負担がかかるんだから。」
あの時は鷹木の意思確認も曖昧なままに流されてしまったものの、キングヘイローが今なお気にかけているのはオペラオーの身体が限界に近づいていないかということである。
超一流のウマ娘を目指してひたむきに走り続けていたキングヘイロー自身も、戦績を挙げることと同時に、脚の不調を免れることは常に意識し続けていた。
大舞台で優勝し、栄冠を手にすること。それは、ウマ娘としての選手生命を伸ばすこととは全く別である。
レースで勝利したからと言って、脚に蓄積した負担が無かったことになるわけではない。むしろ、熾烈な競争に打ち勝つため、己の限界に挑めば挑むほどに、脚の故障は近づいてくるだろう。
キングヘイローは、自分の同世代のウマ娘たちが、引退を余儀なくされる怪我を負う姿を少なからず見てきた。怪我というのは他のウマ娘にぶつかることによってではなく、自分自身が脚に掛け続けた負担に骨格や筋肉が耐え切れなくなって起きるものである。
今年度は四月に入るまでの期間を休養および調整にあてていたオペラオーとはいえ、大阪杯から1か月と待たずの天皇賞である。さらにその後、宝塚記念も控えている。
トレーニング中に掛かる負担も考えれば、普通のウマ娘ならば無理が来てもおかしくないペース。
とはいえ、今回は鷹木から明確な返事があった。
「あぁ、きちんと医療スタッフの方たちに見てもらったからな。出走に問題ないそうだ。」
「そうなのね。大晦日のときに念押ししておいて良かった。」
実際のところは、鷹木が大阪杯の直後に見た夢を不吉に感じ、オペラオーを検査に連れて行った形であったが。
学園の専属医によれば、テイエムオペラオーの脚には何らの異状も見られないとのことであった。それでも鷹木は、それは確かなことかと聞き返さずにはいられなかった。
今、問題なく走れたとしても、これから数か月、あるいは来年も、テイエムオペラオーが走り続けようとするのであれば……故障のリスクは、時とともに増していくに違いない。
できれば、オペラオーが望む通り、華々しい大舞台にて、覇王を打ち破る勇者に相見えてからの引退にしてやりたい。
骨折や、靭帯損傷のような、引退を決定づける怪我によって玉座を自ら降りるような終わり方だけは避けたかった。
この不安を抱え続けたことが原因となって、あの不吉な夢に繋がったのではないかと鷹木は考え続けていた。
とはいえ自分が寝ているときに見た夢が怖かったのだ、などとキングヘイローに告げるのはいかにも間抜けなことに思え、鷹木は調子を合わせていた。
「やっぱり、黄金世代を走っていたウマ娘からのアドバイスは有難い。出来れば、毎回来てもらって助言してほしいくらいだ。」
「おだててもらっても、あなたのアシスタントになるつもりはないわよ。私は、私の手で新たな世代の優駿たちを育てたいんだから。」
鷹木とキングヘイローが並んで見つめる先で、当のオペラオーはようやく昂る感情の表出にひと区切りついたのか、即興オペラをやめて駆け寄ってくる。
いよいよ麗らかに春の陽気も濃くなっていく4月の末、今年の天皇賞が間近に迫っていた。